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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

羽衣伝説

2025-02-05 | 佐々氏 バラバラ情報
養老七年(723年) 羽衣伝説の記載あり 餘語(余呉)氏を調べてみる。

餘語氏のことから菅原氏(土師氏)を調べることとなったが、そのミナモトには秦氏が移り住んできた事に起因するのではないか?と思い至った。

【絹織物関係の秦氏】

以前も繭を育てる秦氏、織物の秦氏あたりを調べていたが、伊香郡との接点はどうだったのだろう。

繭と糸無くしては織物ができないので、やはり羽衣を創れる素材と人材がそこにはあった、居たのだと思う。

秦氏は、かなり広範囲に分布している。
直ぐ近くにも依知秦氏がいたので、そのあたりとのつながりがあったと思う。

そのような眼で探すと【琴の糸】というページを見つけたので、ご紹介しておこうと思います。




(浜ちりめんの歴史)

【北近江(湖北地方)における絹織物の歴史は大変古く、記録によると、すでに和銅(わどう)年間(708~)に「綾錦(あやにしき)」という絹生地(きぬきじ)が織られていました。】とあり、上記の723年の羽衣伝説の記載よりも前に、すでにあったという事になる。

秦氏が居住していたか、指導にやって来ていたか、で、接点はあったはずである。


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第十六次遣唐使 延暦二十三年 筑紫発 

2025-01-29 | 佐々氏 バラバラ情報






この第十六次遣唐使には、最澄も、空海も、橘逸勢も参加していた。
この表を見ると、菅原清公善主梶成良峯長松(医師)など、聞いたことのある人物が多い。




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菅原氏を調べていると、余語氏との関係が見えてきた。

2025-01-27 | 佐々氏 バラバラ情報

菅原姓 佐々系譜
餘語右衛門大夫菅原入道梅哲 先祖は江州 餘語庄人








佐々加賀守一義 京極高次の家臣とある。
京極高次の分限帳に【九里】の名前が載っている。

さて【久利・久里・九里一族】の本のなかの
菅原氏との関連部分によると、久利民部真利 が出てくる。















上記のページには
『北岡城は,秦久利の居城でした。秦久利は,菅原道真公によく仕え,菅公も文学の才のありました秦久利を愛し,親交があってしばしば城を訪れました。
 秦久利は,老いて1女のみであったので,菅公がこれを憐れみ,族子をおくって家を継がせ,その名を久利長門守といいました。・・・』

とある。

龍燈院と菅原道真にも秦久利が登場する。


佐々氏の系譜の中に江州の餘語庄人であったと記載があるが、その【餘語庄】は、中原が住んでいた所なのではないだろうか?

以前書いた自分のブログからだが、此の中原俊興(余呉大夫)は、実は、秦久利の関係者?なのだろうか?
秦氏は機織りの技術を日本に伝えたではないか。
餘語の『ご』は、余【呉】とも書くように呉国と関係がありそうだと思う。
羽衣伝説も絹の織物が登場する物語であるように。





此の俊興の父是俊の役職に『織部少允』と見える。
織部司の許で働いていたのではないだろうか?
頭・助・大允・少允・大属・少属…

織部司 ↓

この父の名前に『』という文字が含まれているのも、菅原氏の【是善】から来ているのではないかと思われる。

菅原道真903年没で、俊興『住近江国伊香郡』の記載が天慶二年(939年)。
さらに遡り、長城の註を見ると『太宰少監』とある。

菅原道真の左遷の様子は、wikipediaによると『昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、1月25日に大宰員外帥に左遷された』とある。

それに追随していった者に中原長城がいたのではないだろうか?
そう思って、中原長城を調べてみると、それ(左遷)以前に太宰に赴いていた人物であったことが分かった。

筑後国司が殺されたという事件があり、事件を収めるために中原長城が兵を連れて筑後へ行くという事のようである。元から大宰府に居たのだろうと思う。

同じ文書内に菅原宗岳(菅原善主の息)が登場し、判官巡察弾正菅原宗岳が事件の糾明のために大宰府へ派遣されたそうだ。

菅原道真が845年生まれで、此の事件が元慶七年(883年)なので、38歳の時の事件となる。

さて、中原の系図を見ると讃岐に関係する人物が二人いたことがわかる。
弘宗王と中原長谷(長城の父)である。
弘宗王は讃岐権守、中原長谷は讃岐権介である。
長谷の息の【月雄】にも讃岐権掾とある。

それら註と秦久利は、何かしら関係があるのだろうか?

近江国の中原氏も依知秦氏と婚姻関係や養子縁組はあったのではないかと想像もできる。

つまり、近江国の湖北の中原氏は、秦氏の血も入っているのではないかと思うのだ。


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前野氏系佐々氏 九里修政に続く。

2022-06-09 | 佐々氏 バラバラ情報

ちょっと新しい展開があった。

昨晩のこと、里塚霊園 有名人と wikipediaに有り、何気なく見ていると【前野五郎】と前野氏が目についた。

この前野五郎自身は新選組の伍長を務めた人物のようであるが・・・

九里に養子として入って下さった「修政」の系と、この五郎の系は兄弟の分れである。

 

前野勝長=坪内勝長

 

五郎は忠康の裔で、修政は吉康(又五郎)の裔となると思う。

母は何れも佐々政元の娘である。佐々政元とは、聞きなれない名前…。

しかし、ありがたいことにwikipediaに出ていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%94%BF%E6%AC%A1

 

前野(坪内)吉康

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E5%86%85%E5%90%89%E5%BA%B7

吉康(=宗直)ー 宗能(=又五郎)・直勝(=傳右衛門)

九里となった修政は、この直勝の息の裔となる。

 

忠康・吉康のどちらも遡っていくと【良岑(原)高成】となる。

が、養子に入っている坪内の方も遡ると、頼朝の時代の冨樫氏となる。(富樫泰家)

さらに遡ると藤原利仁。

藤原秀郷流と利仁流は、利仁の娘が藤原文脩室となっている。

両方ともに魚名の息がはじまりで、魚名長男?の鷹取が利仁へ繋がり、魚名五男の藤成が秀郷につながる。

 

 

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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(5)前野氏と山内氏の関係 ・ 余語氏佐々氏と改める事

2020-11-08 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話、続く。
忠勝:前野坪内元祖 長義三男、又五郎というの濃州松倉居住
忠勝永禄十二年(1569年)卒、寿六十八歳、室は美濃国大桑郷前野山内掃部介の女

この山内掃部介女の部分にこだわりたい。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yamanouchi.html

この時氏はいまだ探せていないが、初名がそうであり、後に名前が変わったのかもしれない。他の本には五味主備前守前野時氏ともある。
また、前野勘八という人物が山内掃部豊成であったことも書かれている。

武功夜話ではp.177の系図に勘八郎:忠勝四男 実は美濃国大桑郷前野、山内掃部介の子猶子となる。
前野勘八郎という、前野但馬守出挙の折御伴仕る者なり、後年山内伊右衛門(一豊)様に奉仕、土佐高知に御伴仕り候、土佐前野氏元祖。
とある。

また、p.306には、山内家史料、第一代一豊公紀
前野勘八あり、山内掃部豊成という、山内家重臣一族なり。
また前野長康、前野又次郎時氏あり、是歳、公尾張刈安須賀城主浅井政高に憑り、後美濃に赴き松倉城主前野長康に憑るとあり。また家譜に山内但馬守盛豊妹、前野又次郎時氏室時氏殿尾州松倉也。織田信安に属するとあり、五藤言計、五藤清右衛門あり、何れも尾州刈安須賀村と記せり。

評 前野勘八は山内一豊の縁に連なる者。前野又五郎忠勝の室は山内氏なり。其の縁あるにより前野勘八、前野又五郎忠勝の猶子となる。勘八、前野長康の家中と成るも、長康断絶の後は、山内一豊の家老職となる。土佐前野氏。

初 勘八郞泰成 勝長の弟に勘八郎
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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(4)九里氏の嗣子となった前野佐々氏 改訂

2020-11-05 | 佐々氏 バラバラ情報


前野氏の「十助」は九里氏の嗣子となる。
しかし、その十助の情報は今のところ見つかっていない。

柏原織田家臣系譜(国立国会図書館デジタル)・肥後国前野佐々氏系図に名前は載っているのだが、どこにいて、どのような働きをした人物かは残念ながら武功夜話にも載っていないようである。

ちょっと遡って復習を兼ねてみると、
前野長義には正義・宗康・忠勝・義高の四人の息がいた。

宗康からは小坂雄吉・前野長康・前野勝長の三人、その勝長は忠勝の養子となっている。
忠勝には実の息はいなかったので、前野坪内宗兵衛為定を婿養子とし、更に勝長を養子としたようである。
忠勝・為定は「又五郎」を称し、さらに勝長の息吉康も「又五郎」を称したことがわかっている。

九里十助は「又五郎」の息である。

前回の記事は間違っていたようである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393
コマ19 が良峯姓佐々氏

柏原織田家臣系譜の「良峯姓佐々氏」の系図には「前野勝長」は載っていなかった。
時基の跡ー宗直の直前までが不明であり、書かれていなかったのだが、その書かれていない部分の最後が「勝長」or「忠勝」なのだ。

前野吉康は「宗直」である。慶長十六年卒 加賀守 佐々蔵介成政に仕えている。佐々氏と肥後国へ赴き、その後淡州へ渡っている。
「宗能」も淡州と書かれているので勘違いしたのだ。宗能の母は佐々成政姉とある。

勝長の妻は佐々平左衛門の娘で、吉康の妻は佐々成政の姉であったのだ。


武功夜話には吉康の弟には三左衛門(勝長二男)・嘉兵衛(勝長三男)の二人の記載があり、柏原織田家臣系図には記載がない。

武功夜話には吉康の息 長子又五郎 この人九州肥後熊本に住居仕る伝承不詳・二男伝左衛門 の二人の記載がある。柏原織田家臣系譜では長子 宗能 藤蔵改与左衛門 母佐々陸奥守成政姉 とあり肥後から淡州へ移っている。二男は直勝 久三郎改備前 佐々成政に仕えた後に加藤清正に仕え、禄千百十石を賜り代官となっている。

この直勝の息直尚の時に讃州へ赴いたが、(内紛があったようで…但野先生の本)大和宇陀松山藩の織田高長を頼ってきている。その息が七人。その中の宗明の曾孫が九里修政となる。また宗明の弟宗淳が水戸黄門の介さんとなる。

===*===

肝心の「九里十助」とその系だが、吉康の息が九里十助となったのだろう。
吉康の弟の嘉兵衛が「九里加兵衛」ではないだろうか?と、気になるが、
今のところは、吉康の息と思って系図を見ていこうと思う。(はっきりとわからず残念である)

そして「宗能」の息に「道伯」という医師がいる。道伯には岡田甚助に嫁いだ娘がいる。

さらに、大和宇陀松山藩の九里氏は一度は岡田氏を名乗り、一度は養子に入ってもらっている。岡田氏とはちかしい。
柏原織田家臣系譜のコマ16・17には岡田氏の系図があり、
大和宇陀松山藩の中の岡田氏に岡田五郎右衛門重綱五男の織田高長に仕えている側医師がいて「道可」という。関係があるかもしれないと思う。

前野長康の娘が匿われたのも「洛北 岡田氏」であった。

===*===

武功夜話の中に各人に対する註があるのだが、そこに勝長が忠勝の猶子となった事、後年佐々平左衛門の妹(下記の系図では娘)を室とし、仍って佐々内と成る…とある。
この佐々平左衛門とは丹羽氏であり、尾州丹羽郡丹羽村の住人、丹羽勘助(氏次)の子といわれている。







 

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九里十助の居場所は「又五郎の息」。其の「又五郎」は三人 

2020-11-04 | 佐々氏 バラバラ情報

===*===
「又五郎の子」という部分 にこだわってみたい。以下想像で、まだ試行錯誤中。

前回の肥後国前野佐々氏系図・武功夜話の系図・柏原織田家臣系譜、どれもがバラバラのようで、どうもしっくりとこない。

又五郎は、忠勝の系についている呼び名で武功夜話の系図の中にも三人は見えている。

又五郎の息が九里嗣子となる。

又五郎は①「忠勝」、そして②忠勝養子で実勝長の息である「吉康」、更に名前はわからないが③吉康の息の又五郎が存在している。

①忠勝の息(男子)は無く、女子一人で其の婿が前野坪内宗兵衛尉為定である。武功夜話の詳細によるこの為定も又五郎である。

②一番怪しいと思われるのが吉康の弟の喜兵衛からなる系と成るのではないかと思う。武功夜話の系図である。
助七というのも七郎右衛門となったにふさわしい名と思えるのだ。
だが勝長が又五郎と名乗った事は書かれていない。吉康の弟の喜兵衛は忠勝の息なのだろうか?
武功夜話では勝長の息になっているのだが…

③吉康の息に九里十助(嗣子)がいたとするのが 肥後国前野佐々氏系図である。
とすると、
吉康長子 又五郎ー某 この人九州肥後熊本に住居仕る伝跡不詳
吉康二男 伝左衛門ー兵太夫・清兵衛 
前野伝左衛門、蜂須賀家政様似召し出され高麗陣に御供仕酢、伝左衛門末流は阿州にあり世臣なり。
この二人しか書かれていない。

柏原織田家臣系図の方は、名前が違っているのだが吉康の兄弟に九里十助がいることになろうと思われる。②と同じ位置である。
宗能の「能」は「やす」とも読める。
勝長の長子時代の名前が、宗直だったと思われる。
勝長自身が宗康の三男なので、勝長=宗直、そして息の吉康=宗能…と養子に入る以前は宗が付いていた可能性大である。(追記:吉康=宗直、又五郎=宗能であろうと11月5日に再度考え直した。)

===*===

吉康の弟に(吉康は忠勝の養子だが、勝長の息である。)、=勝長の息に九里十助がいた事になるのではないだろうか。

しかし、勝長は又五郎は名乗っていないように見える。

忠勝と吉康の間にいる坪内為定が又五郎を名乗っていたとの情報もある。(武功夜話第4巻 236頁)

===*===



更に、佐々氏と前野氏の関係だが、
丹羽氏からの養子 佐々平左衛門の娘が前野小兵衛勝長の妻となっている。

そのことで、柏原織田家臣系譜の佐々宗能 母佐々陸奥守成政姉とあるのだ。??

===*===

九里嘉兵衛がわかった。長崎夜話にでてくる郡代の九里六左衛門かどうかは不明だが、九里加兵衛という名前がでてきておりその人物と思う。
さらに吉右衛門も登場していた。

又時代はわからないものの「九里加右衛門と九里加左衛門」が芸州の資料にも登場していた。



九里加兵衛は加賀藩の寛永4年(1627年)にその名があった。



===*===

今自分の記事を見直して気が付いたことがある。
富樫の流れという坪内も又五郎ならば、その息として養子に入ったという事かもしれない。それならば吉康の兄弟という事になる。


何処かでボタンの掛け違いを起こしているかもしれない。明日にまたTRYしたい。
一代間違えているのかも。。。宗直が吉康になる?(肥後国の系図)

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前野長重の妻 於蝶(細川忠興・ガラシャの娘)・藤堂高朗の妻 前野氏 

2020-11-04 | 佐々氏 バラバラ情報

調べていて、気になった前野氏と細川氏・藤堂氏との関係
系図的にも少々つながりがあった。

細川忠興

生没年:1563-1645
父:細川藤孝(幽斎)
義父:細川輝経

正室:秀林院 明智玉子 細川ガラシャ(父:丹波亀山城主 明智光秀)
1579- 於蝶(出雲守 前野長重室)忠興とガラシャの娘

藤堂高朗(高豊)

生没年:1717-1785
父:藤堂高武
義父:伊勢津藩六代藩主 藤堂高治
側室:前野氏
1746-1801 高朶(伊勢久居藩へ)
1751-1770 高悠

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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(4)良峯姓 前野宗康 周辺 改訂

2020-11-04 | 佐々氏 バラバラ情報

九里氏に関する部分のみ、略しながら書いている。
柏原織田家臣系譜(国立国会図書館蔵 デジタル)の良峯姓佐々氏(前野氏)の時基の跡、宗直までの空白を埋めるためもあり、ココに書き出している。

宗康:長義二男、小次郎尉、右京という。
宗康永禄三年(1560年)卒、寿七十二歳、室は小坂氏の女、永禄十二年(1569年)卒
前野小二郎尉宗康と称す、尾州岩倉城主織田七兵衛信安の旗下なり、宗康は岩倉三奉行の一人なり、岩倉落去候いてより在所前野村南窓庵に蟄居す、弘治改め系図に宗康は長義長男とす、されど永正改め系図には長安次男とこれあるに依る。

宗康は織田信長に所領安堵をもらい、また、本居の神天満宮を再建している。室は小坂氏、生国は但州出石郡小坂郷小坂次郎左衛門其の子孫三代の末小坂源九郎吉俊の女久藏尉の妹なり、また山神を勧請す。

忠勝:前野坪内元祖 長義三男、又五郎というの濃州松倉居住

忠勝永禄十二年(1569年)卒、寿六十八歳、室は美濃国大桑郷前野山内掃部介の女
前野又五郎忠勝という、尾張国犬山城主織田伯厳(信康)に奉仕す、織田弾正様(信秀)上郡の御人数集められ美濃国に隙入り稲葉山を取り抱えんと欲し、大軍にて大河を押し渡り攻め入られ候の時、伯厳様に御随い申し御供仕る、城山下‥‥御嫡子十郎左衛門様(信清)、松倉野府の城主坪内将監殿に殿(しんがり)陣仰せ付けなされ犬山へ退きなされ候、この殿陣将監殿遮二無二支え候、無勢にて候由、美濃長森において討死仕る、又五郎尉将監殿と共に踏み留まり退口を開き候、後年将監世子相無く訃厳様名跡絶ゆるを惜しみ松倉河内は節所ゆえ、又五郎尉に坪内の名跡を襲わしむ、すなわち又五郎坪内を称号、松倉の城へ入れ置かれこの城を守る。
右前野坪内の由緒にて候。
===*===

忠勝は宗康の弟である。
「その忠勝の息に勝長がいる。そして宗康の息にも勝長がいる。」というのが今までの謎であったのだが、ココでわかった事は忠勝の息と思われていた勝長は実は前野宗康の三男であり、加賀守となっていた人物であった。
つまりは同一人物であったのだ。

この周辺を書き出すと以下のようになる。

===*===

忠勝の娘 於弥:加州富樫流れの事
忠勝の女子於弥という、この女子加州牢人富樫宗兵衛の室と成る、宗兵衛為定は子相無し、又永正系図に曰く於弥女は長義女とあり。

為定:富樫流れ宗兵衛為定加州より尾張国郡村生駒八右衛門尉の屋敷に寓居仕るところ、武辺者にて御座候、犬山訃厳殿に召し出され旗下と相成り度々高名あり、又五郎尉の猶子と相成り坪内宗兵衛尉を称号玄斎のことなり、岩倉落去候後織田上総介信長様に随い申し高名無限なり、後年坪内の名跡を舎弟舎弟玄蕃(勝定)に相譲り申し候いて、爾今は前野宗兵衛尉為定濃州松倉に居住仕る者なり。
一、惣兵衛尉の親藤左衛門は、長享の江州陣に小田氏に随い入国、越中より前野村に来住。

勝長:忠勝長子小兵衛尉という実は前野宗康の三男なり、加賀守と成る。
勝長天正十三年没。(1585年)室尾州比良佐々平左衛門の女。
前野小兵衛尉勝長という、尾州春日部郡平の城主佐々蔵人助成政に奉仕、元亀元年越前金ヶ崎御陣、江州浅井備前守(長政)御退治の時、鉄砲隊二百をもって比類無き高名あり、天正元年織田信長様は蔵人助成政様に随い申さざる者御打果すべく越中国に遣わされ候の時、蔵人助様小兵衛尉に仰せつけらる。すなわち小兵衛尉、佐々平左衛門尉共に併二千を率い魚津松倉の両城を取り囲み両城を責め取る、天正申歳成政様加賀の前田俣左衛門利家殿と加賀坂井において争う時、加賀境朝日山にて取り合う、末盛責め等軍功無限なり、成政様家老職に御取り立て蒙り井波の城主となるも、病のため越中国新川郡において相果て候者なり。
一、小兵衛尉勝長、又五郎忠勝の猶子成るも、後年佐々内と相成る


吉康:勝長長子又五郎という、左馬助と成り加賀守となる、吉康没年不詳。
前野小兵衛尉の嫡子又五郎吉康という。加賀守となる、佐々蔵介成政に奉仕、小兵衛尉と共に加賀国越中国に出勢い御陣に随い申し候、天正九州島津御退治なされ候の時千校を顕し、成政様肥後熊本を拝領、又五郎吉康肥後に住するの時、国中一揆の輩随い申さずすなわち成政様、佐々与左衛門前野又五郎尉に命令なされ人数凡そ三千を以って打ち果たし候、なお国中盛んにて各所に蜂起治まらず、遂に太閤の御勘気の御科を蒙りなされ、摂州尼ヶ崎に進まれ候ところ法華寺において切腹仰せ付けられ候、又五郎尉肥後熊本に留り候、後年淡州稲田大炊様に身を寄す。

勝長二男:三左衛門 この人は阿州蜂須賀蓬庵様(家政)に召し出され御奉公仕る子孫阿州にあり。

勝長三男:嘉兵衛ー助七ー喜左衛門ー助七ー幸八
この人は前野村に居住。幸八は今人なり。

===*===
ここで、柏原織田家臣系譜と名前は違うが符合する人物を書き出そうと思う。

まず、勝長は柏原織田家臣系譜では「宗直」になっている。1611年まで生きていたことになる。
吉康は「宗能」で、柏原の系図でも淡州に住んでいることになっている。
三左衛門は「直勝」久三郎で、熊本から阿州(柏原の系譜では讃州となっている)へ渡り、ここでは時代的にまだ未来になってしまうので書かれていないが、その後大和宇陀松山藩に入ってくる。つまり、この人物こそが佐々宗明と宗淳(水戸黄門の助さん)の系となる。


嘉兵衛ー助七ー喜左衛門ー助七ー幸八
この人は前野村に居住。幸八は今人なり。…と書かれたこの系図にある人物たちは、ひょっとすると九里十助の関係者?だろうか?

もしもそうだとすると、このあと、どうなったのであろうか。九州の原城の闘いでは敗戦している。
九里十助は又五郎の子(吉康=宗能)の息で、九里に入っていて、佐々成政と共に行動していたと思う。

下記の肥後国前野佐々氏系図によると
六左衛門ー六蔵―七右衛門となっている。

九里六左衛門の系を調べていこうと思う。



佐々宗明の曾孫も九里に入り「九里修政」となっている。






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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(3)良峯姓 前野時綱 周辺

2020-11-02 | 佐々氏 バラバラ情報
九里氏に関する部分のみ、略しながら書いている。なお、柏原織田家臣系譜(国立国会図書館蔵 デジタル)の良峯姓佐々氏(前野氏)の時基の跡、宗直までの空白を埋めるためもあり、ココに書き出している。

時綱:宗安長子、前野右馬三郎兵衛尉時綱、母は越後国頸城郡吉田荘吉田氏の女、文永十一年(1274年)卒、68歳。
入道宗安と共に生駒山中に隠れる、尾張川の合戦に宮方へ合力、敗退の後は親宗安ともども中嶋左衛門尉に御預けに相成るところ、六波羅許容なされ前野村本貫の地九十五貫文下し置かれ候事、時綱公稲木庄前野村の中興開発の元祖なり。

時基:時綱男子一人あり、三郎兵衛後佐兵衛と成る。弘安八年(1285年)卒
左兵衛尉時基前野村の墓所を相定む。

宗氏:時基長子小兵衛という。後次郎三郎尉となる。建武三年(1336年)卒

宗義:宗氏長子、五郎三郎尉という、宗義応安六年(1373年)卒

高康:宗義長子、小二郎兵衛尉、右京という、応永二十五年(1418年)卒
前野小次郎尉高康という、尾張国守斯波武衛公の守護代尾州下津城織田伊勢守(常松)入道に召し出でなされ被官の始の人なり、伊勢守入道御召し出で尾州十家の内なり。

綱宗:高康長子、四郎兵衛尉という。綱宗嘉吉三年(1443年)卒
前野四郎兵衛尉綱宗と称号、初め下津城織田伊勢守の被官と成る、後尾州岩倉の城主織田与九郎尉兵庫助様(寛広)の旗下なり、伊勢守敏広公岩倉城にて上四郡を領知す、織田敏広公稲木荘前野村を父祖代々の領地安堵、知行地を充る者なり、美濃国斎藤氏と隙これある時御出陣し仰せ出でられ御伴仕る。

時正:綱宗長子、右馬三郎という。時正文明十六年(1484年)卒。
前野右馬三郎兵衛尉時正と称す、尾張国丹羽郡岩倉城主織田左馬助敏信公に御奉公申し上げ候、丹羽郡稲木庄前野村内九十五貫文充行る、延徳江州人並びに美濃国斎藤妙椿と取り合いこれある時まっしぐらに先頭を心掛け敵首一個を取る比類無き高名御座候、岩倉殿の奉行役なり。
時正の室は、羽黒村の住人梶原佐衛門尉の女なり。

(時正の妹二人)尾州丹羽郡郡村 佐久間与左衛門の室、佐久間与左衛門の伜岩倉殿の家人なり。 もう一人 尾州丹羽郡於久地村の中嶋七左衛門の室と成る、岩倉伊勢守殿の家人なり。

長義:時正長子、初名太郎後小二郎尉という。長安永正九年(1512年)卒
小二郎尉室、尾州丹羽郡宮後村安井氏の女、室文亀元年(1501年)卒
前野小二郎尉長義と称す、上郡小守護代織田左馬助敏信公旗下、軍奉行役仰せつけられる、延徳三年(1491年)江州六角氏御退治の御陣の時、親右馬三郎時正と共に高名比類なし、左馬敏信殿美濃鏡野において相果てなされ候、御嫡子七兵衛尉(信安)に奉仕・・・






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