九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

谷氏の居城 友定城 高島一族の中に名前があるということは?

2018-09-21 | 佐野氏

近江国の谷氏のことを調べ始めているのだが、情報が非常に少ない。

六角家臣団には
高島一族 高島氏(佐々木越中家)、朽木氏(佐々木出羽家)、平井氏、横山氏、田中氏、永田氏、谷氏、とあり、しかし、住んでいる場所は武左であったそうだ。

永田氏のように湖西にも湖東にも分かれていた「谷氏」なのではないだろうか?
そう思って高島一族と谷氏というキーワードで調べてみた。

http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/maibun-katuyo/files/maibun-book08.pdf

『佐々木氏が連れてきたとされる谷氏一族が居住していたとされています。
保福寺の本尊釈迦如来坐像は、織田信長の焼き討ちに遭った際に谷氏が持ち出し、保福寺に安置したと言われています。仏像には焼けた痕跡が残り、「焼け残りの釈迦」の異称があります。』とあり、居住していたようである。

佐々木哲氏のHPの中のコメントに以下のようにあった。これも何らかのヒントになるだろうか。)
「佐々木系図から谷衛好に下ることはできません。谷系図では谷氏の祖重尚は高島高信の子とされていますが、佐々木系図では確認できません。寛政重修諸家譜などで谷氏の系図を探し、谷衛好から上がっていくといいでしょう。
ただし織豊系大名の多くは、本人以前の系譜は不明であることが多く、作為や錯誤が多いのが現実です。」

小脇から金剛寺城が出来た時に小脇から移って来たそうであるが、武左に「友定城」があり、谷氏の城なのである。
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4c9798a96bf9a0cd70659697fb0e460d

http://www.geocities.jp/buntoyou/f7/sh-f-ohmi021.html

https://masakishibata.wordpress.com/2016/03/05/tomosada-tani/

1487年に造った城ということだ。

以下にも谷氏が出ていた。
谷氏は山城、近江、磐城などに分布し、このうち山城の谷氏は渡来系東漢氏の後裔[1]。

近江の谷氏は坂上氏で、美濃国席田郡伊地良村が本貫[1]。…とあった。系図もあり。
坂上氏となると、九里の中原氏と近い!

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%B0%B7%E6%B0%8F_%E8%B0%B7%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

もしもその他の情報をご存知でしたら、教えてください‼ お願いいたします。

追記:武家家伝 谷氏もありました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tani_kz.html

そこにあるキーワードで、どんどん見つかってきました!

コメント (3)

佐野氏と近江国

2018-09-21 | 佐野氏

前の記事で「佐野信吉は富田一白(本貫地は近江国浅井郡富田荘)の五男でしたが、佐野房綱(天徳寺宝衍)の婿養子となります。」と書きました。

では、なぜ佐野氏と出雲佐々木流富田氏が繋がったのかを考えようと思います。
まず、佐々木哲先生のメルマガより、佐野氏に関係する所からヒント書き出します。

出雲守護佐々木信濃判官泰清の五男佐々木五郎左衛門茂清(法名覚清)の長男萩原三郎左衛門茂頼(法名覚阿)の項に「母佐野氏女」とあるそうです。つまり、佐々木五郎左衛門茂清の妻であったことになります。
其の佐々木五郎左衛門茂清の兄に「富田四郎左衛門義泰」が見えます。そのあたりの時代(1200年中紀~後期)からの付き合いだったのかもしれません。





上記の系図の中に知信とあるのが富田一白のことで、その五男が佐野氏となった「佐野信吉」です。

佐々木五郎左衛門茂清の妻が佐野氏の娘であった他にもご縁はあるのかもしれませんが、私が気が付いたのはその部分でした。

さて、佐々木哲先生のメルマガをご紹介します。

~~~*~~~

~長門守護代三井氏と隠岐佐々木氏
鎌倉時代に確認できる三井氏には、長門守護代三井新左衛門季成がいる。その三井氏と隠岐佐々木氏は縁戚関係にある。『続群書類従』所収佐々木系図(巻百三十二)によれば、隠岐・出雲守護佐々木信濃判官泰清の五男佐々木五郎左衛門茂清(法名覚清)の妻は、三井資忠女であり、次男重栖四郎左衛門の項に「母三井藤内左衛門藤原資忠女」と記され、四男六郎宗経の項にも「母同上」と記されている。重栖は隠岐諸島の島後にある港であり、ここが隠岐佐々木氏族重栖氏の名字の地であり、隠岐の有力国人となった。隠岐重栖氏と長門守護代の縁戚関係は、海運で結ばれていたと考えられる。



しかし沙沙貴神社所蔵佐々木系図では次男四郎左衛門尉宗茂(重栖信濃守)の母は記されず、長男萩原三郎左衛門茂頼(法名覚阿)の項に「母佐野氏女」とあり、さらに四男六郎宗経の項に「平山氏女」とある。佐野氏は藤原秀郷流足利氏の庶流で、下野国安蘇郡佐野荘を名字の地とする。足利氏嫡流の足利俊綱・忠綱が平家方だったのに対して、佐野基綱は早くから源頼朝に参じた。佐野氏は承久の乱では幕府方だったため淡路にも所領を得たが(淡路国太田文)、宝治合戦で三浦泰村に与して没落した。また平山氏は武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)で、武蔵国多西郡舟木田荘平山郷を名字の地として多摩牧を支配した。平山武者所季重は寿永・治承の内乱で源氏方として活躍し、建久三年(一一九二)の源実朝誕生では鳴弦の大役を務めた有力御家人であった。茂清が鎌倉御家人と縁戚関係を結んだことがわかる。



佐野・平山両氏に対して、長門守護代三井氏は事務官僚の能力で政所執事二階堂氏に仕えたと考えられる。三井氏は長門守護二階堂行忠(信濃判官入道行一)の長門守護代であり、蒙古襲来当時の長門守護代三井新左衛門季成は、『蒙古襲来絵詞』の主人公竹崎季長(五郎兵衛尉)の烏帽子親であり、その一族三井三郎資長は竹崎季長の姉婿である。旗指の三郎二郎資安は、「三郎二郎」の名乗りから三郎資長の次男と考えられる。佐々木茂清の舅三井藤内左衛門資忠もこの長門三井氏の一族であろう。長門三井氏は、守護が二階堂氏から北条宗頼に交替したのちも長門にとどまったものである(『萩藩閥閲録』三井善兵衛家)。この三井氏がのちの佐々木六角流三井氏にあたるかどうかは不明である。『萩藩閥閲録』によれば、この三井氏は藤原道綱流の樋口大納言定能の五男資平が鎌倉御家人となり宮内左衛門と名乗ったことに始まるという。



ところで宇多源氏時中流は音曲の家であり、芸能に秀でた源資賢は後白河院の近臣として祖時中以来の権大納言にまで昇進していた。その嫡子佐々木野少将通家の女婿であった定能は、自らも琵琶で名高く後白河院の近臣となり、藤原道綱流では初めて権大納言まで昇進した。定能の孫資季も権大納言まで昇進したが、また『徒然草』第百三十五段に登場する。しかし『尊卑分脈』に定能の五男資平の記載はない。



近江三井氏と長門三井氏との関係は不明であり、近江三井氏はむしろ目賀田氏との関係が深い。目賀田氏は系譜伝承によれば藤原道長流御子左家の右馬助藤原信忠(実は三条源氏右中将信宗の子)の子孫と伝えるが、天龍寺供養で六角満高に供奉した目賀田次郎左衛門尉源兼遠が源氏を名乗ったように、嫡流は源氏を名乗った。これは藤原流を名乗る旧家に源氏が養子入りしたことを意味している。一つの氏族で、嫡子は源氏を名乗り、庶子は藤原氏を名乗るという形である。公家藤原信忠の子孫と名乗る素地として、もともと藤原氏を名乗っていた目賀田氏に源氏が養子入りしたという史実があったと推測できる。公家の子孫と名乗るのをただちに偽系図とするのではなく、むしろその素地にどのような史実があったのかと考えることが系譜伝承を研究する上では重要である。

~~~*~~~

以上が佐野氏と佐々木氏の鎌倉時代から戦国時代の関りでした。

そして、江戸時代の水戸藩のことに飛びます。
ここにも「佐野氏」に仕えていた「谷氏」が出てきます。初めは近江国で、後に常陸国水戸藩の話になります。

こちらも佐々木哲先生のメルマガからです。

佐野信吉の家臣に「谷重則」がおり、その娘が水戸藩主水戸光圀の母であった!ということです。
其の谷氏は、佐野信吉に9歳の時から仕えていたそうで、しかもその父は六角氏家臣谷氏だそうです。

この辺りが「坂橋氏」の元である「坂本氏」とどのように関係してくるのかは皆目わからないのですが、
私の勘では繋がってきそう…ということなので、メモ的に書いておきます。(どんどん新しい情報を入れるとどんどん忘れるので…)

まず佐々木哲先生のメルマガを複雑なのでそのままご紹介します。

~~~*~~~

水戸徳川頼房と佐々木氏
佐々義勝と同様、織田信雄の女婿に佐々木政勝(主水)がいる。水戸徳川頼房の外戚佐々木政勝と同一人物である。義勝と政勝は諱字の「勝」が通字の関係にあり、一族と考えられる。また義勝の受領名が加賀守であることから、京極氏の有力庶子家の京極加賀家の出身か、京極加賀家を相続した人物と推定できる。政勝の名乗りも京極加賀政数・政宗と通字の関係にあるとも考えられる。



佐々木政勝の娘勝(円理院)は水戸藩主初代徳川頼房の正式の側室であり、正妻のいない頼房の寵愛を受けていた。それに対して光圀の母谷氏は、側室に上がる前に長男頼重(竹丸)を産んだことから、頼房によって堕胎を命じられた。同母弟の光圀(長丸)も当初は堕胎を命じられており、谷氏がなんらかの事情で寵愛を失っていたことがわかる。そのため頼重・光圀兄弟は、重臣三木之次(仁兵衞)・武佐夫妻に匿われた。



三木之次は播磨国三木浄土真宗光善寺(播磨六坊のひとつ)の住職寂然の次男であり、武佐は近江の浄土真宗寺院広済寺(近江蒲生郡武佐)の住職安休(浅井久政庶子)の娘で、中和門院(後陽成天皇女御近衛前子)に仕えて侍従と称していた。水戸徳川頼房の乳母であった妹の岡崎(勝安寺樹珍未亡人、岡崎平兵衛綱住母)が没すると、悲しむ頼房のために面影の似た武佐が仕えることになった。岡崎平兵衛綱住は武佐・岡崎姉妹と同様、浅井久政の孫であり、久政―綱政―綱住と続き、子の昌純(平右衛門)は水戸頼房に仕えた。



三木夫妻に匿われた頼重は病弱で、三木夫妻の女婿滋野井大納言季吉(宇多源氏の公家五辻之仲息)に預けられ、出家させるため天龍寺慈済院に入り学問を学んでいた。また光圀も三木夫妻の水戸邸で育てられた。しかし円理院の産んだ次男亀丸が早世したため、三男光圀が水戸家を継いだ。円理院には四男頼元(刑部)がいたが、当時はまず正室の産んだ子が優先され、正室に子がいなければ、庶子の中から長幼の順で継承された。長男の頼重が継承できなかったのは、病弱だったからだろう。



円理院には松殿道昭室、亀丸、家老太田資政室、家老松平康兼室、頼元(守山藩祖)、頼雄(宍戸藩祖)、准家老真木景信室があり、男子はいずれも大名に取り立てられている。頼房の寵愛と幕府による取り立てがあったことがわかる。また弟藤川正盈も水戸家に出仕した。



一方、松平頼重(高松藩祖)・水戸光圀の母久昌院(谷久子)も、六角氏家臣谷氏の子孫である。谷氏は藤原姓で、家紋は藤丸であった。祖父は谷太郎左衛門重春といい、六角義賢に属していた。谷館は近江守護の佐々木氏に仕えた谷氏の居館であり、佐々木氏が長享元年(一四八七)に金剛寺城を築いて拠点を小脇から移したときに谷氏もそれに従って館を築いて移り住んだ。戦国時代に佐々木六角氏が滅ぶと谷氏も没落した。中山道に面した交通の便に優れた場所であり、江戸時代には谷館跡の一部が武佐宿の脇本陣として使用されている。さらに明治二十二年(一八八五)には武佐村役場となり、現在では武佐町会館が建てられている。谷屋敷が武佐にあり、また頼重・光圀兄弟を匿った三木氏妻の女房名が武佐であることは偶然ではないだろう。旧知の関係と考えられる。



また父重則は九歳のときに富田一白の五男佐野信吉(母黒田久綱女)に仕え、信吉が佐野氏の養子になると、それに従い関東に下った。富田氏は隠岐佐々木泰清(信濃判官)の三男富田義清の子孫で、京極氏が出雲の支配権を失うと、富田氏も京極氏にともない近江に移った。富田一白は豊臣政権の奉行となり、伊勢安濃津藩祖となった。谷氏が富田氏に仕えたのも近江での縁によろう。慶長十九年(一六一四)に佐野信吉が改易されると、鳥居忠政に仕えて奥州岩城に移り、寛永七年(一六三〇)に没した。久昌院は『義公遺事』によると、母伊藤氏が水戸藩の奥向きの老女となり、奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、まず頼重を懐妊した。後に徳川頼房の側室となり高瀬局と呼ばれ、光圀を生んだ。



重則には四男二女があって、その長女が久(久昌院)である。長男の重祐は初め保科正之に仕え、正保元年(一六四四)水戸頼房に、同三年(一六四六)高松松平頼重に仕え、禄高は千石(子孫は二千五百石)。二男の重代は初め戸沢政盛に仕え、寛永年中に頼房に仕えた。後に水戸藩家老となり、禄高は千石。三男の公明は、長兄重祐と同じく正保元年(一六四四)頼房に、同三年(一六四六)頼重に仕え、子孫は高松藩に仕えた。四男の重政は初め黒田忠之に仕えた。妹は保科正之の家臣森伝之允の妻となっている。

~~~*~~~

上記の「父重則」は「谷久子の父」の意味です。
この谷氏の住んでいた武佐は地理的に「九里城=本郷城」のそばです。G=九里城 青〇=武左 谷屋敷跡となります。



そこで、和歌山の九里系図を見直すと「住六角家」とあり、その後に「母坂本氏」との記載を見つけたのです。



どうも、九里氏と坂本氏が繋がっているようです。

いつの時代からなのでしょう。

この水戸光圀の家臣「助さん」は実在の人物で「佐々宗淳」と言いますが、その宗淳の兄の曾孫が九里八郎右衛門修政となります。





佐々宗淳は歴史には欠かせない人物で、今歴史を探ろうとした際に必ずと言っていいほど参考にする「大日本史」を編纂していた人物です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E8%80%83%E9%A4%A8
「彰考館(しょうこうかん)は、江戸時代に常陸国にある水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)である。」

コメント (1)