九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

坂上兼俊は中原兼俊なのだろうヵ?

2024-04-02 | 中原氏バラバラ情報
坂上兼俊に関して。
布施弥平治著「明法博士中原章貞と明法博士中原範貞 」より

【坂上兼俊は既に明法博士であつたが離任しこの仁安二年に復任し、その後引き續いて明法博士の任にあり、承安三年(一一 七三)頃、辭任したか卒去したかは明らかでないが何れにせよ 離任したようである。されば兼俊は復任後、七年に亘って明法博士であつたものと考えられる。】

 望城の玄孫範政は中原俊光のあとを嗣ぎ法家坂上一流の祖










兼俊に関しては、坂上、中原、同時代に生きていたと思われる。
坂上と中原を使い分けていたようにも思える。
ここは、はっきりとはわからなかった。

【中世公家と地下官人】(中原俊章著)によると、

中原範政は坂上範政と同一人物で、坂上氏から中原氏に養子に入った。(利光三津夫説)

また、坂上氏が中原氏を称した例は他にもあり、坂上清重が中原定清に養子に入っている。(続群書類従 坂上氏系図)

…そこから、坂上兼俊も中原氏を称していた可能性はあるのではないか?と思った。

もう一つ、坂上氏は【大蔵朝臣原田家歴伝】の系図の中にも顔をだす。



【原田氏】と言えば、姓氏家系大辞典の中の九里氏の條に出てくるのである。



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筑後権守俊兼の鎌倉登場は1182年ヵ。

2024-03-30 | 中原氏バラバラ情報

中原かどうかは判明できていない【筑後権守俊兼】
俊兼は、鎌倉にやってきて藤原邦通の代わりに頼朝の右筆となって活躍する。
吾妻鑑にその活躍が書かれているが、活躍は1184年あたりからが始まりと思う。
しかし、鎌倉にやってきたのは養和二年1182年かもしれない。
馬の毛の色などを記載する役目を負っている。

吾妻鑑入門さんのページから
【次で神馬十疋庭上に引立る。俊兼簀子に候ひ毛付を勒す。 】養和二年(1182)正月大  伊勢神宮への神馬

もしかすると、これが俊兼の鎌倉での初仕事となっていたかもしれない、と思う。

そして、中原久経もまた、鎌倉にやってきて頼朝の御使となり、近藤国平とともに「頼朝となった事での各地の騒動」を収めるために派遣される。(1185年)
その御使の中間報告、問題の処理をしているのが【筑後権守俊兼】でもある。

大江久兼も1185年七月に京から舞・管楽・歌の為に鎌倉にやってきた。

筑後権守の俊兼は、鎌倉での記録が建久5年あたりまでなのだそうだ。

太政官牒の「中原俊兼」は建久7年なので、鎌倉を去り京に戻っていたのかもしれない。

東寺百合文書に、




これで建久7年に、中原俊兼が実在していたことは確認できた。


以下は年代的に見ても、中原俊兼が60-70歳代ではないかと思われる。



上記、俊兼の署名がみえる。…と思う。
一枚目中原大外記?俊兼
二枚目 権大□俊兼

そして、以下は、大きな情報でもあるが、参考の系図は混乱もしているようである。

波多野朝定の祖父が【筑前権守俊兼】であったのだ。
つまり、義定の妻が俊兼の娘であったことになる。

遠義ー波多野義通ー義職(祖父遠義為子)ー義定ー朝定・義典・嘉陽門院越前

義職は、唐澤実方と同じく実は遠義の子となっている。(系図上は義通の息)

義定は「秀郷流系図」によると、鎌倉に出仕したころ(1185年)に「竹泉筑後守俊通」の養子になったとする。
ところが、義定の別名として「俊職」「蔵人俊通」「宇治蔵人三郎」とあるので、この辺り混乱しているのではないだろうか。
以下の系図には宇治次郎…とある。

ともかく、此の義定の妻に筑前権守俊兼の娘がいたのである。







ところが別の系図では朝定の母は荒木田盛長女とある。

伊勢神宮との関係、神馬の担当、も考えるに、もしかすると俊兼自身が荒木田氏とつながっていたかもしれないとも思う。
妻が荒木田氏であったなど。

すぐ上の系図では義定と朝定が兄弟になっていて、義職の息となっている。
義職は義元とも書かれる。










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中原景安(景康)有安と出会ったのは厳島神社か吉備津神社か

2024-03-05 | 中原氏バラバラ情報
こちらの本には厳島神社とある。



文机談には、なんと、あきのいつくしまの吉備津宮とある。
安芸 厳島 吉備津宮 である。

備中の吉備津神社とは別らしい。

一宮吉備津神社の社伝によると「社伝では平安時代の初めの大同元年(806年)、備中吉備津神社より御分霊を賜り、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建されたとされ、備後国の一宮として国中より尊崇を集めました。 」とあるのでこちらかもしれないが…

他にもたくさんの吉備津神社が存在する。

厳島神社に一番近い『吉備津神社』のmapを貼っておく。


管絃祭(厳島神社)
管絃祭(かんげんさい)は、旧暦6月17日に行われる例祭。大阪の天神祭(大阪天満宮)、島根のホーランエンヤ(城山稲荷神社)とともに「日本三大船神事」に数えられる。

平清盛が始めたとされる都で行われていた管絃遊びを元にした神事で、管絃船(御座船)が対岸の地御前神社へ渡御したのち還御する。厳島が禁足地とされていた時代は、対岸の地御前神社から厳島神社に行き管絃を合奏する神事であった(詳しくは「管絃祭」を参照)。

中原有安、此の管弦祭に赴いていた際に 景安と知り合ったのかもしれないと思う。

中原師業が安芸国に所領を持っていたように、この辺りにも中原氏が住んでいた可能性もある。(例えば、師業に仕えていた中原氏など)

現代の広島県内の「吉備津神社」のmap ↓

安芸国は石見国にも近い。
清原定隆は石見守、久利氏も久利郷を持っていたので、気になるエリアでもある。


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水茎岡山城の麓に【子安神社】…子安神社を調べてみる。

2023-08-14 | 中原氏バラバラ情報
全国にある子安神社のうち、とても気になる社がいくつかある。

宇美八幡宮の子安石
唐津の子安神社
水茎岡山城麓の子安神社
多賀大社内の子安神社
愛知の大府市の子安神社遺跡
千葉市花見川区
多摩の八王子市にも大きめの子安神社がある。

さらに先日の記事にも書いた余呉にある子安地蔵。

googlemapでは、山口県には無いようだ。

山口の長門豊浦宮と関係のある神功皇后。
唐津では「子安石」が大切にされていたようだが、その神功皇后の「子安石」?とは関係がないのだろうか?
もしも関係があるのならば、長門にも「子安神社」があっても良いのではないかと思われるのだが…












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新羅神社と古代の日本 出羽弘明 著 同成社 第5章 近江国の新羅神社

2023-08-12 | 中原氏バラバラ情報
新羅神社に関することは以前から気にかかっていたのだが、それ以外のことについてもとても学びになった本であった。

ココからは私が読んでいて、学びになった部分をかいつまんで書いていく。

古代の近江は

若狭などの日本海地方を経由して入る文化
     +
瀬戸内海から大阪湾、淀川を経由して入る文化
     
その交差点であった。

天日槍や都怒我阿羅斯等、素戔嗚命やその一族などが秦氏と共に混在していた地域
渡来文化が息づいていた。


湖北の「余呉」の「余」は「おのれ」を意味し、「呉」は「胡」で、「異民族、または外国から渡ってきたもの」を示すという。

余呉町には天日槍塚がある。
「天日槍」を中心とする新羅系の人々が住んでいたことは確かであろう。

余呉町の川並の新羅崎神社(しらぎ・じんじゃ)
天日槍を祭神としている。(鉛錬比古えれひこ神社も同じであろうと思われる。)新羅埼の明神は白木の明神とも言った。

「白木は新羅にいでしもの、上古日本海を往来していた三韓との交流有りし跡である。」

もと新羅崎にあった白木山聖観音菩薩は柔和なお顔、…「子安の地蔵」と言っていたそうだ。

この「子安」については、つい最近のことだが、同じgooblogの【新古今和歌集の部屋】さんの記事に地図があり、九里の居た「水茎岡山城」の麓に「子安神社奥の宮」があった事がわかり、記事にしようと思っている。


天日槍に関しても記載があるので書き留めておこうと思う。

「天日槍は垂仁天皇の時代に新羅から九州の伊都国に着き、次いで播磨に行きさらに宇治川を遡って近江の吾名邑にしばらく住み、若狭を経て、丹後から西に進み但馬国出石に居を構えたといわれている。天日槍は湖東地方に勢力を持つ物部氏と知り合い、物部氏の前津耳の女、麻多鳥(またぶ)を娶って縁戚関係となる。息長宿禰が天日槍五世の孫葛城之高額比売を娶って生まれた子が息長帯比売(神功皇后)である。‥‥(略)天日槍を祭る神社は天日槍が通過した北九州、近江、若狭、丹後、但馬、播磨などにみられる。」





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高向で育った【継体天皇】 

2023-08-09 | 中原氏バラバラ情報
継体天皇の母【振媛】の里である【高向】




越前国 坂井郡 高向 振媛

『高向王』は、その系の中にいるという証なのだろうと思う。

高向王ー(漢皇子=天武天皇)のちいさな証となりそうなことがある。
継体天皇と天武天皇のつながりが見えてくるのが、

牟義都(むげつ)国造伊自牟良君の女 ・久留比売命(くるひめのみこと)を妻とし、汙斯王(うしのおおきみ、彦主人王)を生んだ。 (継体天皇の父が彦主人王)





と、天武天皇の家臣のなかに 身毛広(むげつのひろ)
がいる事である。

継体天皇の祖母の系が、家臣となっていたと思われる。


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天武天皇の周辺:忍壁皇子・磯城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女 の母親は宍人臣大麻呂の娘‥‥そして「高向」

2023-08-09 | 中原氏バラバラ情報
忍壁皇子:
明日香皇女(天智天皇の皇女)を妻とした。山前王・小長谷女王の二子が知られる。名は刑部・忍坂部にも作る。

磯城皇子:
天武天皇の皇子。母は宍人臣大麻呂の女。忍壁皇子の同母弟五代孫坂井王は清原真人を賜姓されたと『日本三代実録』にある。また『新撰姓氏録』によれば三園真人・笠原真人の祖。なお『続日本紀』天平19年10月3日条に見える「微過に縁て遂に廃退され」皇子の列から除かれたという御方大野の父を磯城皇子と見る説がある(ハーラ・イシュトヴァン)。

*****

福井県坂井郡丸岡町高田 に【越前・高向神社】がある。
和名抄には【越前國坂井郡高向鄕多加無古】と あるそうである。

この坂井と高向がセットになっている地名であるところが気にかかる。

因幡国には多加牟久神社 
河内国長野にも高向(たこう)神社がある。

蛇足なのだが、最近の北海道新聞を開いたとたんに目に入ったのが「高向さん」であり、(たかむき)さんと発音するそうである。

つまり【高向】を調べなさい‥‥という神の啓示のようにも思えてしまうのである。

*****




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豊浦宮と【田目皇子】、そして敏達天皇と額田部王(推古天皇)の 娘【田眼皇女】

2023-08-05 | 中原氏バラバラ情報
崇峻天皇より始まる系図と天武天皇から始まる系図は、何処かに接点があり、何かヒントをくれているものと思う。

今回は、漢皇子が「高向王の息」=「天武天皇」との説を信じてみる。
この仮説を信じるならば、天武天皇は用明天皇の曾孫、田目皇子の孫、となる。
用明天皇と崇峻天皇はともに欽明天皇の息である。

田目皇子は穴穂部間人皇女を娶ることになり、彼女は高向王を産む。
この穴穂部間人皇女もまた欽明天皇の娘で、崇峻天皇のすぐ上の姉にあたる。

穴穂部間人皇女と崇峻天皇は同じ母親(蘇我小姉君=蘇我稲目の娘)


なぜ田目皇子は豊浦皇子ともよばれていたのか…
推古天皇が過ごしていたともいわれる【豊浦宮】が関係しているのではないだろうか?

此の推古天皇となった女性もまた、欽明天皇の娘であり、崇峻天皇から見ると少し離れた上の姉であったかもしれない。

崇峻天皇が暗殺(592年)されてから603年迄、推古天皇(額田部王)に使われていた宮である。

その豊浦(宮)で田目皇子は育ったのではないかと思う。
田目皇子は、実は崇峻天皇の息で、推古天皇はこの皇子を匿うことにしたのではないだろうか?

なぜならば、推古天皇の二人の息のうち
「竹田皇子」は丁未の乱で亡くなった可能性、
「尾張皇子」は丁未の乱にも記載がなく、それ以前に病気か何かで活動できない状態、もしくは亡くなっていたと思われるのだ。

新たに皇子を育てる事の必要性があったのではないだろうか?

さらに聖徳太子が蜂子皇子を匿ったとの伝承があるように、崇峻天皇のこどもたちは、系図上では追えないように作為的にバラバラと別な場所にはめ込まれたような気がしているのである。

そこで「豊浦皇子」「長谷王」「蜂子(波知古)皇子」「錦代王」の系図上の場所ではなく、「存在していた」ということが重要なのではないかと思っている。

用明天皇の第一子として系図に残された「田目皇子=豊浦皇子」

聖徳太子の第二子とも言われている「長谷王」
そして、長谷王のこどもとなっている「波知乃古」「錦代王」である。

長谷王は佐富皇女を娶る。
その佐富女王は高向王の姉か妹という事であるが、ココは系図上のゆがみを解消するためのつながりのようにも思えるのである。

私の勝手な想像では、田目皇子と長谷王は同一人物で、崇峻天皇の第一子「定世親王」である、となる。

佐富王女の兄が高向王であり、息が漢皇子で天武天皇となる。
つまり、崇峻天皇ー長谷王(田目皇子)ー高向王ー天武天皇となるのではないだろうか?

何処を探しても見つからない「定世親王」は、実は「長谷王」でありかつ「田目皇子」なのではないか?と。
暗殺された天皇のこどもたちを守るために名前を変更し、系図も分解されて隠されていたのではないだろうか?




右が崇峻天皇のいた倉梯宮、 左が推古天皇がいた豊浦宮である。

下記の推古天皇の記事を読むと、邪魔であると思った人物を誅殺しているという怖ろしい面も持っている女帝である。

彼女は異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の死後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。 

*****

田目皇子は聖徳太子の兄という位置づけであったが、
田目皇子の本当の父は「用明天皇ではない」のではないだろうか?という疑問と、

江州中原系図の崇峻天皇と近江国御家人井口中原系図の天武天皇とつながるのではないだろうか?

という処から考えてみた。

上記はありえない仮想かもしれないが、一応想像してみると
570年あたりに生まれた田目皇子、592年には崇峻天皇の暗殺がある。

定世親王は崇峻天皇の皇子であることを隠すため田目皇子となる。
田目皇子は「豊浦宮」で、推古天皇が預かることになる。
推古天皇の娘もまた【田眼皇女】として共に育ったのかもしれない。
という結論に達したのである。


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江州中原氏の崇峻天皇から始まる系図を調べてみる。(4)泊瀬部皇女 長谷部内親王

2023-07-31 | 中原氏バラバラ情報
天武天皇に『泊瀬部』という娘がいた。


『泊瀬部皇女』、またの名を『長谷部内親王』
コトバンクより↓
?-741 飛鳥(あすか)-奈良時代,天武天皇の皇女。
母は宍人〓(“木へん”に「穀」)媛娘(ししひとの-かじひめのいらつめ)。天平(てんぴょう)9年三品(さんぼん)をさずけられた。持統天皇5年川島皇子をほうむるとき,柿本人麻呂が皇女に献じた歌があるところから,川島皇子の妻だったという説が有力。天平13年3月28日死去。長谷部内親王とも。

天武天皇の皇女で、母は宍人大麻呂の娘

泊瀬部皇女は天智天皇の息【川島皇子】に嫁ぐことになる。


43.に長谷部内親王の名がある。741年 薨去 


長谷部内親王の母は【宍人大麻古の娘という】
宍人カジ媛娘(ししひと の かじひめのいらつめ)↓




嫁ぎ先の川島皇子の系より 淡海豊庭が出ている。847年
河島皇子とも記される。天智天皇の第二皇子。冠位は浄大参。
淡海朝臣・春原朝臣などの祖。





大津皇子と仲が良かったはずなのだが、大津皇子に謀反の意があると川島皇子が密告したことになっている。

が、このことも疑いの余地がありそうなのだそう。
ここをもう少し調べてみようと思う。

さらに宍人氏のことも、。
さらに、川島皇子の裔には【淡海氏】がいるとのことで、ココが江州中原氏につながりがありそうなので気にかかっている所である。

*****

天智天皇の許に生まれ、天武天皇の娘を娶り…という難しい立場に立たされてしまった川島皇子。

時は686年。天武天皇崩御したのが当時の9月9日で、10月2日には謀反の意あり、と密告・捕縛となったようである。大津皇子は23歳。川島皇子は29歳の時になる。


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江州中原氏の崇峻天皇から始まる系図を調べてみる。(3)高向王

2023-07-30 | 中原氏バラバラ情報
江州中原氏のもう一つの【近江国御家人井口中原系図】が天武天皇からになっていることを解く鍵が見つかったような気がしている。

一つは、崇峻天皇が暗殺されてしまい、定世親王が長谷王と名を変えていた可能性を感じる事。

もう一つは、聖徳太子の兄【田目皇子】の息が高向王であること。

田目皇子のwikipediaによると、「男子一人(一説では高向王(宝女王の最初の夫、漢皇子の父))と佐富女王がいる。」そうである。
聖徳太子の異母兄となる。

この高向王が田目皇子の息という。
高向王は定世親王の従兄弟ともなる場所にいる人物である。

さらに、高向王の息=漢皇子が天武天皇であるとの説がある。

秦氏が衰え始め、此の天武天皇の中に組み込まれたのかもしれない。

高向利男の娘であった人が弘宗王の妻となり、息【長谷】の母となっている。

長谷‥‥此の長谷の兄弟時正の息【正基】から【中原】という註が見えてくる。
すでに中原を称していたのか、改中原賜清原真人姓とある。

長谷と中原…ここに何かありそうである。











wikipediaには

  • 仁寿元年(851年)弘宗王の子息8名が臣籍降下し中原真人姓を与えられた。
  • 貞観16年(874年)上記の弘宗王子息の子孫と想定される中原正基が清原真人姓(舎人親王の子孫に与えられる氏姓)に改姓した。




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