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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

応永三十四年十二月 源員定(九里員定と推定)

2025-04-15 | 九里バラバラ情報

御家人井口中原系図の後、九里が文書に初めて出てくるのが(推定ではあるが)源員定である。

≪源員定と九里員定≫ 

仲村研氏による『研究ノート』より

保内商業の展開過程 ―小幡・石塔との相論を中心に―

44ページ中の15ページ目に【源員定】が出てくる。

『応永三十四年十二月は、この相論が頂点に到達した時でもあるが、

同月十一日、左衛門尉源員定は調査報告の書状を提出している。

 源員定とは九里氏と推定され、あて先は守護配下の者であろう。

この書状によると、愛知河南宿領内の五日市で得珍保塩商人が商売していたか否かという尋問にたいし、

源員定は「自往古、無座、彼商人等買売候段勿論候」と返答している。』

とある。

員秀・隆員も同じく保に関わっていた。

九里賢秀という人物もこの関係者ではないかと思う。

応永34年とは、1427年のことである。



九里亀治郎 島流しに。

2025-04-15 | 九里バラバラ情報

物語の中の九里と思っていた人物が、実在の人物と判明しました。

九里亀治郎 です。(亀次郎と書いてありますが、本当は亀治郎?)

帝国大学赤門由来 三田村鳶魚 (えんぎょ)作
http://books.salterrae.net/amizako/html2/mitamuraakamonn.txt

お役があるにもかかわらずお酒を飲みすぎ、酩酊し、松平肥前守の泊まる宿に掲げてある札を取ったり、足蹴にしたり、、、正直に白状しないためますます怒りをかい、とうとう一名はさらし首に、九里と大井は遠島に。。。

品川宿の大狼籍
「相聾が喰合をする一っ鍋」という落首が出来た。

一件の相手は、盛姫を頂戴した松平肥前守斉正(初名直丸)が帰国掛け、

 頃は天保七年三月十七日、場所は東海道の第一姑品川宿

第四十四号永姫のお婿さん一橋民部卿斉位が、川崎辺へ出遊の途中、

 雇従《こしよう》していた徒士《かち》中島吉太郎・平井東吉・九里亀次郎の三人で、

 昼食に宿場の茶屋半七方へはいって、つい一杯が嵩じて、お供先にはあるまじき大酩酊

目の前の往来に建ててある関札、松平肥前守旅宿と大書しているのを見て、お目障りになるから取り除けよう、と言い出した。

大名の道中には、宿割ズ目バ先発して、投宿の箇所はあらかじめ関札を建てる例であった。

一橋の酔ッばらい徒上は、同じ大御所様のお婿さんでも、九州の田舎大名と俺の旦那とは違う、

一橋家は一御三家(尾・紀・水)よりも公方様に近い御親類の御三卿(田安・清水・一橋をいう)だぞ、と妙に相婿なのが癩であったらしい。

三人は同輩の止めるのも聴かずに、関札を取り除けようとした。

そこへ佐賀侯の旅宿に当った品川宿本陣の下男が飛んで来て、佐賀の家来衆へ無断でお取除けになっては成りません、と遮って言っても、酔いに気の嵩《かさ》んだ連中は、耳にも入れない。

たちまちに関札を抜き取った。

下男が驚いてその関札を持ち帰って、本陣の勝手の膳の上へ置くのを、追い掛けて来た吉太郎が見て、我々どもが見ていると思って、わざと大切そうに下へも置かぬのは、面当てをするつもりなのか、何の田舎大名が、と土足に掛けて関札を踏み躁った。

サア大変、両家の交渉は凄じい。鍋島は田舎大名でも姉婿である。

無礼者を当方へ引渡せ、と真向大上段に構えた。

けれども、一橋が承知しない。

ついに法外の狼籍、松平の御称号を認めてあるものを土足に掛けた大不敬、
 肥前守は勿論、家来一同の恥辱、と幕府へ訴え出たので、中島は獄門、平井東吉・九里亀次郎●大井源次郎が遠島、そのほかに三人押込めになった。

公方様の息男息女というのが、妙に家来の鼻息を荒くする。

この騒ぎの二十三年前の文化十一年三月十六日にも、紀州へ婿にいった菊千代が目黒へ出掛けた際、やはり品川で加州と大悶着をやっている。

web上【江戸幕府の刑事訴訟手続き】(不敬罪)ー 再建の殿様 にも詳しく載っておりました。それを見て、実在の人物と判りました。

九里の曽祖父の本名は「大井」関係ありそうでしょうか??




九里の歴史  九里源兵衛、次郎兵衛、三郎左衛門

2025-04-15 | 九里バラバラ情報
ーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーー


九里が1525年に滅亡とまで言われておりましたが、

次世代の九里として、
源兵衛が1537年から【鹿苑日録】に登場し、途中で九里対馬守となっております。

水茎岡山城を築城(改修か?)したのが九里備前守信隆と言われておりますが、八日市市史によりますと【九里対馬守】が城主始まりとなっており、どちらが正しいのかは分かり兼ねますが、対馬守説を取りますと子孫となりそうです。
そこの関係も未だスッキリしていませんので、今後の課題です。


次郎兵衛が1611年の【京極高次分限帳】に名前が出ていて、高次が高野山に行き剃髪する際に同行したか、もしくは高次の妹婿の氏家行広の元で桑名で戦い、敵の福島高晴に吸収されたかではないかと推測します。
この人が一番私の先祖に近いと思います。
我が家の古文書では、大和宇陀藩福島高晴の配下で、高晴と共に領地を案内する役についているところから書き始めております。

宇陀藩の住宅地図や文書では、岡田と九里は同居しております。途中で岡田を九里に改冒しております。
分限帳でも岡田と九里の名前が載っているので、分限帳の九里は亡くなり子どもが岡田に養子に入って後で復姓したのかもしれません。
その後は丹波柏原藩に移封されます。

三郎左衛門が【淺井日記】と1563年の【信長文書】に名前が残っております。
この人は本当は本当は永田氏で、永田氏の過去帳には「称九里」とあります。
信長文書にも、舎弟九里、、、と書かれており、九里と兄弟になった人と思われます。

1525年に激減した九里氏を絶やさぬ為に、九里の女性が息子に九里を継がせていた可能性もあると思います。

三郎左衛門は信長にスパイ容疑で所領・配下の者等を没収されます。
その後はどうなったのか、知りたいところです。










九里家伝承と東家・西家の関係ー

2025-04-15 | 九里バラバラ情報
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http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d35656f450855192afd0fef2074bd6b4?fm=entry_awp


九里家の伝承「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野邑ニ建ツ。復タ小幡ノ巨家ヲ移シ館下ニ置ク、乃チ重元其一人。此レ自リ高野ヲ以テ居住ト為ス、慶長四巳亥九月廿四日卒ス、本源院天景宗祐居士ト号ス。・・・九里与三左衛門、故有リテ性ヲ改ム、九里者母方ノ性也・・・」と。(滋賀県中世城郭分布調査4)

近江の城郭探訪さんよりお借りしてきました。

以前から気になっていた⬆
「琵琶湖の浮城」成澤 邦正著 と 絡めて考えてみました。

本書よりかいつまんで書いてみます。
『小倉(小椋)右京実澄は、片田舎の一国侍ながら宮廷奥深くまで聞こえた一流歌人で、
妻が飛鳥井雅親の姫だった関係上で京の文化人と交流があった、、、、、』
 
九里三郎右衛門高雄は、この文人小倉実澄の元で学び育った関係、孫の照に、困った時には小倉氏を頼りなさいと常々言い含めていた可能性もあると思うのです。

小倉実澄が没した後であろうか、小倉氏は幾つかに別れ、小倉西家、小倉東家、他となっていたそうです。
そこで九里も西氏・東氏というように名乗ることとなったのではないでしょうか。

やがて、小倉氏は織田信長に加担したため六角佐々木に倒されるのですが、家臣たちは織田に従った者、また、蒲生氏の配下となった者がいたそうです。

織田に従って行った者が【九里甚左衛門正貞】加賀の流れになり、
蒲生氏の配下になった者は豊臣秀吉に派遣された会津に付き従って行ったのではないでしょうか?






別紙古文書の謎の人物が現れた。

2025-04-15 | 九里バラバラ情報
ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーーー
 

古文書の別紙というのは↓

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e63a7015c2084976c81ffe666615840d

九里孫三衛門のことです。

その人と関連のありそうな人物が居りました。

それは、今まで見落としていた【鳥居氏】です。

壬生城と深くかかわっているにもかかわらず、あまり表だっていなかったのです。

鳥居氏とは~wikipediaから抜粋してみます。

紀伊国熊野権現の神職の家柄である。平姓。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄。

 その後、松平氏(徳川氏)に仕えた。

鳥居元忠は、家康より3歳年長ということもあり、家康の生涯にあった大小あらゆる合戦に参戦した。

現在鳥居宗家は壬生に存在する。また、下野国であった栃木県内に散らばる多くの鳥居姓は、この鳥居氏の末裔たちである。

 壬生藩鳥居氏の側近には斎藤氏・森田氏・井山氏・佐々木氏の4氏がいた。

 森田氏は鳥居家武芸教授指南役方、井山氏・佐々木氏は壬生城護衛方、斎藤氏は鳥居家台所役を預かる忠実な部下だったとの話がある。

鳥居氏と和歌山の九里氏は繋がっていたのではないだろうか?


米沢藩主 上杉鷹山と九里三郎兵衛

2025-04-15 | 九里バラバラ情報

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上杉鷹山という立派な心優しい米沢藩主がおりました。藩の財政難の折、薬種商の九里三郎兵衛は藩主に妙案はないかと相談を持ちかけられ、領地内の野草で薬となるものを集め、売ることを提案します。

大和宇陀藩にも薬草園がありました。
そして、蒲生郡も額田王の時代、蒲生野と言って薬草があり、野摘みに行き歌を詠んでいます。

不思議ですが、三箇所とも九里のいた場所ですね。

そして、これを書いている時に『会津のリンゴ』が画家である友人より届きました。








九里の歴史 九里采女正

2025-04-15 | 九里バラバラ情報

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九里与右衛門という人が居ります。

たしか九里伝承に出てくる人は『九里与三左衛門』でしたので、『与』がついているあたり怪しいです。

『与右衛門』のほうは、九里采女正の息子の名前です。

ということは、九里采女正は九里照の親戚(叔父・従兄弟)ではないでしょうか。

照には兄三重郎がおりましたが、もしかすると他にも兄がいた可能性もあります。

采女正(うぬめのかみ)は上杉家の家臣目賀田信助の叔父で、目賀田の妻が世話をしていた上杉憲政の嫡男(龍若丸)を預かります。

龍若丸を敵(北條)に差出し、その子の命乞いをするも、そのグループ全員殺されてしまいます。(采女正は自分たちだけが助かろうとは考えていなかったと思うのですが・・・)

采女正の判断が甘かったのでしょうか。とくに子供がかわいそうです。


上杉に仕えた九里のことは、関係ないと思って調べておりませんでした。

この『与右衛門』の名前が広田氏の九里伝承の名前『与三左衛門』と近いことからにわかに浮上しています。

きっと、なにかココに鍵がありそうです。

そして、それが山内上杉家とつながって、山内氏との関係も見ていくことになります。




九里四郎

2025-04-15 | 九里バラバラ情報
  ーーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思うーーー

九里四郎 パリ滞在中1911年のモダンボーイ~の写真を見たことがある。

webによりますと~~
1886年1月1日 生まれ- 1953年3月1日没 

海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南郷次郎、南郷三郎の弟。

加賀藩前田家の家老・九里家の養子となる。

明治44年から一年間留学している。             ~~以上


九里四郎の周りには、当時の文人志賀直哉・谷﨑潤一郎・画家小出楢重・歌人与謝野晶子・陶芸家柳宗悦やバーナード・リーチなどそうそうたるメンバーが登場します。

芸術家の面々のほかに、親戚関係では、柳宗悦も実は従兄弟です。

柳宗悦は、始めの奥さん(柳道子)の従兄弟…と言うことになるでしょうか?

そして柳宗悦の奥様はアルト歌手の柳兼子!です。

脱線気味ですが、その柳兼子さんに師事し、本まで出したのが、私の母の親友「松橋桂子」さんです。

松橋桂子『楷書の絶唱 柳兼子』水曜社、2003年 

柳宗悦は、白樺派だったので、当然 武者小路実篤・有島武郎・里見弴 (学習院初等科から一緒)等とも親交があり、
お互いに影響し合っていたと思われます。

そして、またまた柔道の「嘉納治五郎」も再登場!(四郎のおじさんにあたるのです。)

このように周囲の人々に愛され、慕われた明るい九里四郎でしたが、1923年関東大震災では妻と娘を亡くし、長男も彼よりも先に他界してしまうのです。

そんな可哀相な四郎ですが、最後まで友人に支えられていたように思います。







六角氏頼の周辺(2)石寺 

2025-03-21 | 九里バラバラ情報



この地図の中の【美作守】というのが九里美作守賢秀 だろうか???九里美作守員秀だろうか????
水茎の岡山城 九里氏は1467~77,年の応仁、文明の乱に戦功をたてた九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆が築城した。 

九里美作守賢秀 を調べてみなくては。

もう、この地図の頃には九里は壊滅的ダメージを受けていたのかもしれないが…




六角氏頼の周辺(1)石寺の九里助泰 九里助恒 和歌山の九里系図より 

2025-03-17 | 九里バラバラ情報

1300年代、石寺は地名であったのか、お寺の名称であったのか。





石寺 掃部助 石寺祝 属六角判官氏頼 住蒲生郡石寺

観音寺城御屋形跡の麓にあるので、石寺からもアクセスできる道や階段があったようである。 まだ石垣も残っているようである。少し手前にある日吉神社には舗装した道がある様だ。



つまり、九里助泰は六角氏頼に仕え、すぐ側に居住していたのだと思う。
さらに、【祝】とあるので神職であったと思う。


この日吉神社と関係があったのかもしれないが、記載はない。

九里助恒には「属佐々木六角道誉 元弘建武◇袖切」とある。
佐々木六角と京極道誉が元弘~建武の時代に袖を分かち、六角についたという事だろうか?
この系図の註はどの時代に書かれたものなのだろうか?
系図の最後の人物は江戸時代になりそうである。

佐々木氏信の三男であった満信

満信の息宗氏
宗氏の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗綱は六角氏信の息であり満信の弟にあたる。
宗氏の息が道誉である。
更に道誉の妻は二階堂時綱の娘
二階堂時綱とは、室町幕府初代の政所執事であったそうだ。



【九里助恒】の時代を探っていこうと思う。