熱田大宮司季範の娘が大中臣経高(中郡上総三郎)に嫁いでいた。
経高の註には「実ニハ足利ノ久我ノ子息也、而継父頼経ノ跡ヲ知行之故、号中郡三郎」とある。
「保元ノ乱之時内裏ヘ参向、又平治之時同ク参入、実ニハ経高ハ足利(但先足利)久我太郎子息也、継父頼経跡ヲ相伝◇
その息が朝経、隆元、経良、で、いずれも熱田大宮司季範娘を母としている。
この頼経(朝経の祖父に当たる)の兄弟に宗経(在京人也、母少納言冨家殿御内女房也)がいて、その息に「実経」がいる。
年代的には、系図から見るに義朝の歳とおなじくらいか?と言う感じである。義朝は1123年生まれ
その実経が相州六浦庄を義朝に賜わってるようである。(義朝ではなく…という説もあるかもしれない)
「保元二年賜相州六浦庄云々」となっている。
ここに大中臣氏と長田氏が重なっていて、大中臣実経と長田実経が同一人物ならば…実経が広経と改めたのではなく、広経が息としていたのならば…と空想してしまうのである。
しかも、平氏に加担して…というのは片岡経春と佐竹氏の事だったのではないだろうか?
長田氏が大中臣の片岡広経(弘経)として、いたならば・・・と。
この部分は、いつかわかるかもしれない。今は保留にしておこう。
足利久我氏を調べなくては!
一説では足利俊綱あたりというが、ならば、なぜ「久我?」
調べてみると「久賀氏」であった。
高経という名前があり、それではないかと思う。藤原秀郷流の足利有綱の三男となっている。

つまり、この大中臣氏は熱田大宮司家とも繋がり、又藤原秀郷流の足利久賀氏とも繋がっているという事になる。
同じ大中臣略系図の中には「経久」という名前が二名いる。(九里氏の祖は経久である)
とても怪しい。でも、わからないままになっている。。。。