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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(3)房総半島と鎌倉の中継点であった六浦荘

2025-03-09 | 大中臣氏
源義朝(または義平)が大中臣実経に地頭職をあたえた【六浦荘】とは、どのような場所であったのだろうか?

今の金沢文庫あたりとし、地図とその周辺を確認してみると交通の要衝であったようなのだ。








うすく小さな赤く囲ってある部分は、逗子の沼間(義朝の居館があった場所)
金沢文庫にも鎌倉にも近い!
逗子の沼間は、房総半島へ行くときには金沢文庫方面へ、鎌倉へ行くのも同じくらいの距離で行けるすごく良い場所に居館があったようだ。



【義朝の東国】wikipediaより

義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け上総御曹司」と呼ばれた。

東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。それまでの居館があった鎌倉郡沼浜(現在の神奈川県逗子市沼間から高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。 

長男・義平の生母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野義通の妹との間には次男・朝長を設けるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。

義朝の勢力伸張は、下野国足利郡足利に本拠を置く大叔父である義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の嫡男・義康と相婿となるなど連携を強めた。

*****

義朝の母は藤原忠清の娘で、忠清は秀郷流の伊藤氏でもある。
その忠清の甥の清隆(猫間中納言)の妻は平正盛の娘である。


以下は 私的 memo

その清隆の娘は藤原長輔に嫁ぎ、季隆を産んでいる。

卜部氏系図に吉田
那珂大中臣氏の系図に吉田
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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(2)久良岐郡六浦庄 

2025-02-26 | 大中臣氏
久良岐郡六浦庄とは…
久良岐郡はそう呼ばれる前には「海月郡」と言われていたようだ。
保元二年に大中臣実経が義朝かそれ以前に給わった時には相州六連庄となっているが、同じ六浦荘と思われる。

昨年貰って来た金沢文庫パンフレットには、『北条実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢に居館と称名寺を建てその傍らに金沢文庫を創立しました。』とある。
鎌倉時代からは、久良岐郡となって武蔵国になったのかもしれない。












平安時代には大中臣氏が六浦荘地頭職を担っていたのだが、鎌倉時代のある時から北条氏に移っていたことになろうと思う。
つまり、大中臣氏としては実経・実久の時代に最高潮の時を迎え、その実久の曾孫の時代には丹波国に移住することとなったという事のようである。
しかし、まだ那珂氏は東国に残っていたようである。

以前調べた際に倉栖氏(倉樹とも?)が金沢文庫のあたりに居たのも、大中臣氏と関係があったような気がしている。(北条貞顕の祐筆であった倉栖兼雄 の一族か?)

****

宮騒動(1246年)か霜月騒動 と関係があったのかもしれない。
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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(1)

2025-02-26 | 大中臣氏
大中臣の経久とは、年代が違うから別人と思っていたが、久しぶりに本を取り寄せてじっくりと読んでいくと‥‥再考の余地は十分にあるのではないかと思った。

記事を読んでくださっていらっしゃる皆様には、行つ戻りつ、で申し訳なく思うのだが致し方ない。その都度、気になる事を今の私にできる範囲で進めていくしかない。

まずその年代について、再考する。
大中臣で那珂金山氏となった経久の曽祖父に当たる実久に『承久三二十七他界畢』 とあり、その横に小さく『八欤』 と記載があり、どうもこの部分は『八十七カ?』という事にも読めそうなのである。
さらに87歳であることの証のように、その実久の父に当たる実経が保元二年に賜わる相州六連庄云々と註がある。

そこから年代を辿っていくことができるのではないか?と思う。
大中臣実久は、承久二年に87歳⇒1133年生
弟には、実広(近藤武者)がいる。
近藤国平と共に全国を駆け回った中原久経とのつながりがありそうである。








1133年に生まれた実久が1221年に歿した。
1133年から20-25年経って、3人の子息(時久・時連・為久)に恵まれたとして、1153-1158年の生まれと想定できる。この中に中原久経がいるのだろうか?
そうには見えないのだが、経政は養子とあり、久経はその父親であったかもしれないとも思う。
時連は遅めの30歳のときに養子(経政)を迎えたとしよう。1183-1188年。
その経政の息経久は、1203-1208年あたりの生まれとならないだろうか?

経久(蓮忍)には1239・1247・1249年の文書が残されており、妥当な線かもしれないと思う。

*****

因みに訓読明月記の中に「中原実久」の記載があった。





正治二年の十月の明月記 中原実久 となっている。1200年 

これは、大中臣実久とは別人カ?
この時点で正七位上 に当たる少尉である。
大中臣実久は京都守護にまでもなったというのだから、それ相応であろうと思われる。
京都守護のメンバーを見ると正五位下 から従四位下あたりと思われる。

*****

大中臣実久の息には、時久、時連、為久、とある。だいたい1150年代生まれと思われる。久経と同年代ではないだろうか?

もしくは、久経、源朝長より先に生まれた人物であった?とすると此の実久自身かもしれない。が、そうであるならば、系図の中に「鎌倉殿御使」の註があってもよさそうなものである。大中臣氏の略系図には詳しい註の記載があるのだから。

時連が養子として迎えた【経政】は、中原経任であったのではないだろうか?
というのも、橘次という事で近江国御家人井口中原系図に註がある。(養子のため橘次となったのではないだろうか?)もしくは、中原政経の息であったか?


突然、話は飛ぶが…
中原という地名も残っている橘樹郡だが…
武蔵国の橘樹には官衙があったそうなのだ。
中原氏はそこで働いていた役人であったような気がするのだ。
なぜなら、蓮忍入道は国衙の在庁官人であった。
この近江国の中原の一族は、役人として働いていたのではないだろうか?
(もしくは古代はあったが、鎌倉時代にはどうだったのだろう。)




武蔵国の有馬は、橘樹郡にあった。
中原がもしも官人として橘樹周辺の中原にいたとすると、有馬氏とも何かしら関係があったかもしれない。有馬経澄がまだこの辺りに居て、その後肥前に渡り開発領主となり朝澄に相伝し、それを臨時的に蓮忍入道が相伝し、蓮仏に渡し、もとの有馬氏に戻したような気がしている。

橘樹⇒中原⇒稲毛⇒有馬 

橘樹郡の中原という地名の中の稲毛庄内にある有馬という場所

朝澄の息家澄・連澄が蓮忍・蓮仏であった可能性もある。
ただ、肥前太郎経久という人物が但馬国菅荘の地頭であったことを考えると、蓮忍入道が肥前の有馬氏の相伝をされたことから肥前太郎となったような気もするが、ではなぜ、但馬国では経久とし、蓮忍入道を名乗らなかったのか‥‥が不明となる。

*****


この典膳権亮が中原久経に当たるのだろうか?
しかし、この中原は大中臣の実久よりも前の人物になるのだろうか?
この辺りの意味がクリアにわかれば、前に進めると思うのだが、私にははっきりしないのだ。可能性としては、兄弟であったか? あるいは年代的には、息子の妻の父とも考えられるか? 

久寿二年(1155年)源久経(別人か・・・)
久寿二年(1155年)中原信兼

仁安三年(1168年)内膳典膳(従七位下)中原久経
養和元年二月 (1181年) 散位久経 奉行
寿永四年(元暦二年)(1185年)鎌倉殿御使 近藤国平と共に京都・畿内近国・鎮西・四国など廻る。




経久=沙弥蓮忍・蓮忍入道   (肥前太郎経久??)

丹波国御河村荘が室尾谷山観音寺に寄進をする文書(1239年)… 沙弥蓮忍
肥前国 高来郡深江の地頭職 相伝(1247年)… 深江入道蓮忍
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (1249年あたり?)… 蓮忍入道

但馬国菅荘案主 藤肥前前司経久(1285年以前)… 肥前太郎経久


臼井五郎久常も、同時代にいる。
中原久経は「久常」の記載もあったのか、そう書かれている本もある。

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大中臣・真板・片岡・新堀… 佐竹本 大中臣頼基

2022-08-04 | 大中臣氏

大中臣朝臣公利、鹿島宮司となる(類聚符宣抄)…1007年(寛弘4年)

公利以下鹿島片岡に土着すとあり。

 

「萩原・片岡・荒原等の地区の人々が使った井戸です。今も水が湧き出ています。」とあり、だいたいの場所がわかる。

https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50206.html

 

各地の片岡氏 http://www.myouji.org/MFDocuments2/kataoka.htm

 

http://yaminabe36.tuzigiri.com/ibarakikenou/hokota1.htm

『新縞常陸国誌』は下記のように記載している。
(1) 城主(新堀権守利氏)について…「大中臣民ナリ、鹿島大宮司公利ノ後ナリ、元弘ノ比ノ人、鹿島尾張権守利氏卜云、鹿島南篠ノ内、宮本郷ノ内、岡野、葺前、益田等ノ村ヲ領ス、又、元行ノ勲功ニテ、南郡吉景村地頭トナリ、彼地二移り住ス」

 

真板 マイタ 前田(まえた)の転訛なり。真名板の俎は洪水で洗い流された田畑を云う。全く違う意味である。新座、鳩ヶ谷、春日部、越谷、本庄等に存す。千葉県君津市三十五戸、市原市七戸あり。

一 大中臣姓真板氏 苗字にて上総国住人なり。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「真板、大中臣姓」。吾妻鑑巻三十五に「真板五郎次郎経朝」。巻四十二に「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」。上総国山辺郡小西村(大網白里町)の日蓮宗信徒なり。本土寺過去帳(松戸市)に「妙言善尼・小西真板神五郎母・永正七年二月三日。妙円尼・小西真板二郎右衛門息女・九月四日」あり。小西村に日蓮宗正法寺あり、真板氏は現存無し。市原市潤井戸に七戸存し、日蓮宗泰行寺・光福寺あれば此地の出身にて、小西城主原氏に仕える。君津市内の真板氏居住地には日蓮宗寺院は無し。尚、武蔵国埼玉郡真名板村(行田市)の廃寺新義真言宗花蔵院は吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑あり。全くの無関係で附会なり。

 

紙本著色三十六歌仙
切(頼基) 1 幅
佐竹家伝来。現存する最古の歌仙絵。

大正 8 年、絵巻から歌仙ごとの掛幅装となった。

大中臣頼基の肖像に略伝と詠歌を添える。36.6 × 59.9cm。
比 企 郡 川 島町白井沼 675
公益財団法人遠山記念館
https://www.tobunken.go.jp/materials/glass/23518.html

 

佐竹本【三十六歌仙絵巻】より

…中でも佐竹家旧蔵の上下2巻が最古最優の遺品であったが,1919年各歌仙ごとに切り離され,諸家に分蔵されるに至った。これを〈佐竹本〉と呼んでいる。男は束帯姿を中心とし,女は正装の女房装束姿で,その装束,姿態の変化に富んだ装飾美,細墨線で的確に描き出した顔貌表現が有機的に結びつき,生動感豊かな画面となっている。…

 

美しい  ↓

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/19333

http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/yamatoe/03.php

 

なぜ佐竹本がバラバラになってしまったのか…の記事

http://www.arthajime.com/writers/?p=13430

 

 

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大中臣常道 意布伎神社(近江国伊富伎神社)に鏡・鈴を奉納 

2020-07-28 | 大中臣氏

この方と、経方が関係してくるのかもしれない。あくまでも「想像」である。

コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%B8%B8%E9%81%93-1061025

?-? 平安時代前期の神職。
神祇(じんぎ)官に勤務。貞観(じょうがん)9年(867)近江(おうみ)(滋賀県)の伊福伎(いぶき)社に鏡などを,
12年山城(京都府)の稲荷社にこの年発行された銅銭貞観永宝を奉納。
伊勢神宮にたびたび派遣され,元慶(がんぎょう)2年大和(奈良県)の春日社の神主をかねた。

滋賀県の神社 「志那神社」 滋賀県草津市志那町727
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=365

御祭神
志那津彦命 志那津姫命 伊吹戸主命
御神紋
竹に雀

御由緒
創祀年代不詳であるが、社記に当社は徃古延喜式式内意布伎神社であったが何故神号が改称されたか不詳、しかし清和天皇御宇貞観九年御奉納の鏡、鈴二品今以て現存する、この古鏡銘に「奉近江国伊富伎神」、古鈴銘に「貞観九年四月」とあり

国史神祗八巻に「貞観九年四月二日辛未遣神祗大祐正三位上大中臣朝臣常道近江国伊富伎神社奉弓箭鈴鏡云々」とある。又旧神官春日家にもこれを表す文書があり、その神名帳考証に志那ノ意布伎神是也と記されている。

但式内意布伎神社については確証がなく所在不詳とされている。
尚特殊神事として豊年万作を祈願し団扇二つでその風景を示す「さんやれ踊り」があり、また古老の言に徃古は参道に於て志那三郷(志那・吉田・志那中)より馬を出し豊作の吉凶を占う競馬があった由である。明治九年村社に加列。

風神踊り(さんやれ踊り)


志那神社
https://genbu.net/data/oumi/sina_title.htm

https://genbu.net/saijin/sinatu.htm
級長津彦命
しなつひこのみこと

別名
級長戸辺命:しなとべのみこと
志那都比古神:しなつひこのかみ
科津彦大神/科津姫大神:しなつひこのおおかみ/しなつひめのおおかみ
……

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命が家に関連する神々を生み、 海神、水戸神を生んだ後に、風の神・志那都比古神を生んだ。

志那は息が長いの意味で、 『日本書紀』の一書には、大八州国を生みだした後、伊弉諾尊が霧を吹き払った、その息から、風の神の級長戸辺命(またの名を級長津彦命)が生れたとある。

記紀には男女神として記されていないが、 『日本書紀』に「級長戸辺命」と女性神名のように記され、「またの名を級長津彦命」と男性神名を補足されているためか、 「級長津彦神、級長津姫神」や「級長津彦命、級長戸辺命」と、男女の神として祀られることが多い。

===*===

息が長い=息長氏を連想させる。

伊吹山、伊福伎神社、志那、息が長い、風神

息長氏と伊福部氏に通じる。



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源義朝の甥 頼朝の従兄弟 大中臣朝経(中郡二郎)「東海道領主也」母熱田大宮司季範女

2020-06-07 | 大中臣氏

熱田大宮司季範の娘が大中臣経高(中郡上総三郎)に嫁いでいた。
経高の註には「実ニハ足利ノ久我ノ子息也、而継父頼経ノ跡ヲ知行之故、号中郡三郎」とある。
「保元ノ乱之時内裏ヘ参向、又平治之時同ク参入、実ニハ経高ハ足利(但先足利)久我太郎子息也、継父頼経跡ヲ相伝◇

その息が朝経、隆元、経良、で、いずれも熱田大宮司季範娘を母としている。

この頼経(朝経の祖父に当たる)の兄弟に宗経(在京人也、母少納言冨家殿御内女房也)がいて、その息に「実経」がいる。
年代的には、系図から見るに義朝の歳とおなじくらいか?と言う感じである。義朝は1123年生まれ
その実経が相州六浦庄を義朝に賜わってるようである。(義朝ではなく…という説もあるかもしれない)
「保元二年賜相州六浦庄云々」となっている。

ここに大中臣氏と長田氏が重なっていて、大中臣実経と長田実経が同一人物ならば…実経が広経と改めたのではなく、広経が息としていたのならば…と空想してしまうのである。

しかも、平氏に加担して…というのは片岡経春と佐竹氏の事だったのではないだろうか?
長田氏が大中臣の片岡広経(弘経)として、いたならば・・・と。

この部分は、いつかわかるかもしれない。今は保留にしておこう。

足利久我氏を調べなくては!
一説では足利俊綱あたりというが、ならば、なぜ「久我?」
調べてみると「久賀氏」であった。

高経という名前があり、それではないかと思う。藤原秀郷流の足利有綱の三男となっている。



つまり、この大中臣氏は熱田大宮司家とも繋がり、又藤原秀郷流の足利久賀氏とも繋がっているという事になる。

同じ大中臣略系図の中には「経久」という名前が二名いる。(九里氏の祖は経久である)
とても怪しい。でも、わからないままになっている。。。。








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大中臣氏・片岡氏・宇都宮氏・平氏・小山氏・千葉氏・土岐・佐々木氏 みんな繋がっている。

2020-04-28 | 大中臣氏



無量寿寺(鳥栖)
https://shin.gr.jp/shinran/24/t_004.html



社家の姓氏 大中臣氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/huta_nik.html


宇都宮神社初代宮司は「大中臣清麿」であった。
「貞観二年(860)、勝道上人の従弟にあたる大中臣清真が、二荒山神社の神主となり、清真が日光山神主職の初代とされている。」

下総の片岡氏も大中臣の一族であり、近江国伊香郡の片岡氏も大中臣氏と同祖であった。

宇都宮氏の娘は平家貞に嫁いでいる。
平家貞・貞能(貞能の母が宇都宮氏) 以下はwikipediaからだが、
その家貞・貞能は、「伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。」

貞能は「貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。」
「貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した(『玉葉』閏10月2日条)。また『玉葉』の寿永3年(1184年)2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。

平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。 」

そして、浪合記の中の話に続く。http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
「大橋家伝

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。」

今回はその盛綱と息盛季が気になった。
平貞能が佐々木盛綱の舅という事になる。盛綱の息盛季を調べてみよう。以下は佐々木哲学校のコメント欄より

盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉・左衛門尉)が近江国野村郷を領したことから、野村氏が始まりました。

盛季が嫡男として在京御家人として京都に出仕していました。しかし承久の乱で、盛季は佐々木広綱・経高らとともに京方であったため、盛季の子盛蓮は出家し、さらに日向国諸縣郡に四ヶ所の所領があったことから日向に下向しました。盛蓮の長男頼親は踏切郷・村角郷を領し、六男光盛は伊東祐光の養子になりましたが後に帰家し中村を領し、七男光秀は佐土原を領しました。
このうち光盛の孫信盛は肥後国楠郷を所領を得たと伝えられます。

===*===

小山氏
宇都宮頼綱 小山政光の養子になる


小山氏
千葉胤政の娘が小山氏の妻に(たぶん、小山朝政)

小山朝政は、wikipediaによると
久寿2年(1155年)頃、小山政光の子として誕生。父は武蔵国の太田氏の出であり、下野小山に移住して小山氏を名乗り、後室に八田宗綱の娘で源頼朝の乳母である寒河尼を娶っていた

というのだが、兄弟の結城朝光の母も寒河尼なので、これは父政光の妻に寒河尼を娶って…という事なのだろうと思う。

寒河尼の父は「八田宗綱」で、宇都宮宗綱、中原宗綱ともいわれている。
つまり、この女性は宇都宮・中原・八田と小山氏をつないでいる人である。

そして、千葉胤政(正)の娘(成胤の妹)は千葉氏と小山氏をつないでいる人である。
胤政の孫胤綱の妹が土岐七郎に嫁いでいる。これは、土岐光家のことではないだろうか?
千葉頼胤の娘も土岐光定光行に嫁いでいる。
(光定の母が頼胤の娘であった。間違っていた!)スミマセン!

かなり、親しい関係のようだ。

===*===

 googlebooksより

 googlebooksより

(諸家系図纂)

===*===

土岐氏が出てくると九里種信の「起」は「隠岐氏」であったかな?とも思う。

土岐光家とは、どのような人物だったのだろうか?


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片岡信親(藤原尾張権守片岡信親)は大中臣宣親のことではないだろうか?

2019-08-07 | 大中臣氏

藤原尾張権守片岡信親 
神祇権少副大中臣宣親 (寛喜二年 1230年)

安貞3(1229)年2月20日条には以下のようにある。

今月二十日,遂行すべきの由,造営所御文到来す。然らば正文出来の間,十九日,これを勤行す。当日午時,造営使殿宣親,里亭・岩淵より直に参宮す

片岡信親と同時代である。鹿島神宮大宮司という事からしても、大中臣である可能性は大きいと思う。

大中臣為◇という名前は多く、もしかするとその中に「片岡為春」も存在しているのかもしれない。


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大中臣宗親

2019-06-13 | 大中臣氏

大中臣氏の系図はいくつもあるので、どれが正しいのかはわからないが、
wikipediaは「大中臣親仲」の息「宗親」のようである。



この人、アヤシイ。三善氏が祖母である。しかも橘氏が母である。
牧氏は橘氏とも関係があるのか、家紋が橘であったはず。





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牧宗親 大中臣氏系図

2019-06-13 | 大中臣氏

1191年まで生きていた「大中臣宗親」註には
大舎人権助 
九条院 
判官代 
建久二年卒 
造内宮使 
父代(譜代の事?)

とある。



この人、やはり牧宗親なのではないだろうか???



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