「践祚大嘗祭と古事記」坂橋隆司著 大塚書店
第五節 天語歌―― 春日の袁杼比売を通して――
春日丸邇(わに)の佐都紀臣(さつき)の娘の袁杼比売(おどひめ)は雄略天皇の妃となられた方である。
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まず、この天語歌のわかりやすく訳されたページを見つけたので、ご紹介したい。http://isuzujinja.blog103.fc2.com/blog-entry-2012.html?sp
また「雄略天皇」が
丸邇の佐都紀氏の娘で
「オドヒメ(袁杼比賣…おどひめ)」を妻にしようと
春日にお出ましになったとき
その途中で「オドヒメ」に会いましたが
「オドヒメ」は恥ずかしがって岡に逃げて隠れました。
そのときに「雄略天皇」が読んだその歌は
「『オドヒメ』が隠れた岡を
金の鋤を持ってきて見つけるまで掘り返してみようか」
その歌を読んだ場所を「金鋤の岡」といいます。
また「雄略天皇」は長谷にいる頃
たくさんの枝が茂る欅の木の下で宴会をしているとき
伊勢の国の三重から仕えていた釆女(うねめ)が
「雄略天皇」に大きなお盃を差し出しました。
そのとき、たくさんの枝が茂る欅の木から葉が落ちてきて
その盃に入ってしまいましたが
釆女は葉が落ちて盃に浮いていることに気付かず
そのまま「雄略天皇」に差し出してしまったため
「雄略天皇」は「無礼者!」と怒り
釆女を突き倒しその首に持っていた刀を突きつけ斬ろうとしたとき
釆女が「雄略天皇」に言いました。
釆女「どうぞ殺さないで下さい!
申し上げたいことがございます!」といって読んだ歌は
「『天皇』の坐す宮殿は朝日が輝き夕陽が照る美しい宮殿
竹の根のようにしっかり根付き木の根が這うように揺るぎなく
赤土を突いて杵で固めたように堅い堅い宮殿
檜で造った新嘗祭の御殿の側には
たくさんの枝が茂った欅の木が立ち
その上の枝は天を覆い
中の枝は東の国を覆い
下の枝は西の国を覆い
『天皇』の御代が益々栄えていくことを表しているようで
その繁った中から落ちてきた葉が盃に浮かぶ様は
この国の初め漂う海にコオロコオロと矛でかき混ぜて
国をお造りになった様子に似ていて恐れ多く
すべては『天皇』の栄える様子を表しているのです
このように申し上げます」
釆女はこの歌を読んだので罪を免れることが出来ました。
この時に正妻の「ワカクサ」が歌ったその歌は
「大和の国の高市の小高いところに建つ新嘗祭の御殿
その側に凛と立つのは葉の広い椿の木
その椿の葉のように広い心で輝きを広く与えてくれる
『天皇』さまに豊御酒をたてまつりたい
このように申し上げます」
そこで「雄略天皇」も歌を読みました。
雄略天皇「この宮殿に仕えているすべての者たちよ
ウズラのようにヒレを取りかけて右へ左へと駆け
セキレイのように尾が長いかのように俊敏に動き
スズメのようにみんな集まり仕事して
今日も酒に食事に準備して有り難いことだ」
これら3首の歌は天語歌といいます。
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歌謡の最後に
「許登能 加多理碁登母 許袁波」という「はやしことば」が付いていることから、これらが天語歌とわかるのだそう。
坂橋氏はこのように繙いている。
『これらの歌は八千矛の神を祀る神社の神事歌謡としてうたわれていた歌だという事はわかるが、ただこれだけでは、誰が語り伝えたかはわからない。そこで歌謡を見て見ると、その中に「阿麻波世豆迦比」(天馳使)という語が語られている部分があることに気がづく。…この天馳使の「アマ」は、海部の「アマ」で、海馳使とした方がいいのではないかと思う。』
『その理由に『倭名類聚抄』郷名に、伊勢の国朝明の郡杖部の郷に、鉢世都加倍、安房の国長狭の郡丈部の郷に、波世豆売という郷があるが、これらの伊勢、安房は海部に関係のある土地柄で。その郷名は、その土地の「ハセツカイベ」の部民の名から出たと考えられるからである。…海民の一族で、古伝説を語り伝える職掌を持った家柄があったのではないかと思う。』
この「ハセツカイベ(ハセツカベ)」が気になったので、調べてみると宝賀寿男先生がお書きになっているページがあった。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/siogama-j/siogamaj1.htm
そして、更にその続きと言っても過言ではないページも見つかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/32223518.html
塩竃神社史というものも見つかった。藤原実方につながっている。この人の妹は鈴木重実の室となっており、鈴木氏と、そして熊野と関係が深い。 (疑問もあると書かれているが。)
実方の男子:泰救 母は鈴木重豊の娘
男子:長快 熊野別当
女子:少将内侍- 母は大中臣輔親の娘、白河院女房
https://books.google.co.jp/books?id=Ph8RuwuwLTkC&pg=PP1066&dq=%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%9C%9D%E8%87%A3%E6%9C%89%E5%AD%A3&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjbq4OBt7feAhUKE4gKHbswD3IQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%9C%9D%E8%87%A3%E6%9C%89%E5%AD%A3&f=false
この海部と伝承、塩竃神社、熊野との関り・・・・を深めていくと、和邇・小野、とつながり、九里ともどこかで繋がっていると思うと、面白い。
壱岐・隠岐・対馬などに遺されている伝承・舞踏もこの海部のものなのではないだろうか?
…と思って調べたら、折口信夫氏が壱岐に調査で渡った際のことが書かれていて、失望したことを述べられている。
「雪の島」https://books.google.co.jp/books?id=7q_V02LpjhsC&pg=PT14&lpg=PT14&dq=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E3%80%80%E6%B5%B7%E9%83%A8&source=bl&ots=I9vwhTcT9y&sig=wJMg8bBlrmd6dnGxfs4Qq0Zk2Ps&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjh2b_0wbfeAhUPdXAKHSqXAwAQ6AEwAnoECAgQAQ#v=onepage&q=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E3%80%80%E6%B5%B7%E9%83%A8&f=false
折口氏の時代には、もうすでに残されていない海部の伝承(占い)だったようである。(占いをしてから船を出していた。)
熊野と房総との「食文化」につながりがあって、海で行き来していたか?と思ったのだが、
熊野と奥州とのつながりも思っていた以上にあることから、より北へと移動していたのかもしれない。
海で考えると、距離感がまた違っていて面白い!
「船」での移動なので、海の状態にもよるだろうが、時間も歩くよりはずっと速かったであろう。
https://www.cruiseplanet.co.jp/jap/jp_ps_170617.html