ーー書いたまま眠っていた記事をブログにあげておこうと思いますーー
九里が1525年に滅亡とまで言われておりましたが、
次世代の九里として、
源兵衛が1537年から【鹿苑日録】に登場し、途中で九里対馬守となっております。
水茎岡山城を築城(改修か?)したのが九里備前守信隆と言われておりますが、八日市市史によりますと【九里対馬守】が城主始まりとなっており、どちらが正しいのかは分かり兼ねますが、対馬守説を取りますと子孫となりそうです。
そこの関係も未だスッキリしていませんので、今後の課題です。
次郎兵衛が1611年の【京極高次分限帳】に名前が出ていて、高次が高野山に行き剃髪する際に同行したか、もしくは高次の妹婿の氏家行広の元で桑名で戦い、敵の福島高晴に吸収されたかではないかと推測します。
この人が一番私の先祖に近いと思います。
我が家の古文書では、大和宇陀藩福島高晴の配下で、高晴と共に領地を案内する役についているところから書き始めております。
宇陀藩の住宅地図や文書では、岡田と九里は同居しております。途中で岡田を九里に改冒しております。
分限帳でも岡田と九里の名前が載っているので、分限帳の九里は亡くなり子どもが岡田に養子に入って後で復姓したのかもしれません。
その後は丹波柏原藩に移封されます。
三郎左衛門が【淺井日記】と1563年の【信長文書】に名前が残っております。
この人は本当は本当は永田氏で、永田氏の過去帳には「称九里」とあります。
信長文書にも、舎弟九里、、、と書かれており、九里と兄弟になった人と思われます。
1525年に激減した九里氏を絶やさぬ為に、九里の女性が息子に九里を継がせていた可能性もあると思います。
三郎左衛門は信長にスパイ容疑で所領・配下の者等を没収されます。
その後はどうなったのか、知りたいところです。
僕の苗字も九里(くのり)なんですけど、
まさか繋がる事とかあるんですかね。
過去から読み漁ってみます。
我が家も九里(くのり)の家系です。
このブログの書いていた場所が閉じられてしまうそうです。で、新たに
https://kunorikunori.hatenablog.com/
こちらに変更になります。
これからもよろしく!お願いいたします。