九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

乾氏の系図

2019-04-21 | 雑記

どこにも「土岐乾秀氏(行・之)」は見えませんが、何かの参考になるかもしれません。
もうご存知かもしれないのですが。。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-toki-inui.html


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日置氏の謎ときが、ここに詰まっているかもしれない。メモ

2019-04-19 | 雑記



https://yomiagaeru.exblog.jp/27511365/


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内蔵助とは…佐々氏か津田氏か…

2019-04-16 | 雑記

もう一度この記述をわからないなりに読んでみる。



この中に「九野里上松ハ内蔵助古参の者にて御座候」とある。
他のページも読んでみると、この人物は佐々内蔵助であることがわかる。

其の佐々成政に肥後熊本で仕えていたのが「水野日向守勝成」の23歳頃となるのだろうか。
Wikipediaには「天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられる。」とある。

記述にある「竹の宮」という場所も肥後熊本のようであり、津々堂さんのブログにも記事があった、この場所と思われる。
https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/63b952d899285dbb8218758c059d9065

それよりも以前だが、水野勝成は京極高次と以下のような関りがあった。
「本能寺の変のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる。霊源院の好意で京都を脱出したあと、京極高次の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた。」勝成18歳ころと思われる。

さらにこの勝成、織田信雄の家臣でもあった時期があり、分限帳にその名の記載があるそうである。

また、水野勝成の弟忠胤の正室は於振(織田信長の娘)という。於振の母親はお鍋の方。
【於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日)】は、織田信長の娘。六女であり、母はお鍋の方。

三河水野藩主・水野忠胤に嫁ぎ、1男2女(勝信、南條宣政室、丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。

この勝信は、勝成の養子となった 。

「お鍋の方」は近江と関係が深い。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E9%9B%B2%E9%99%A2

この小倉実澄と関係がありそうで、しかもその息松寿のwikipediaによると、

「鎌倉時代より近江国に本領を持っていた国衆、小倉氏の出身。

父である実房(=実澄)は、小倉氏庶流である小倉東家の当主として近江高野城主[滋賀県東近江市永源寺高野町にあった城趾]であったが、永禄13年(1570年)に金ヶ崎の戦いで信長に協力して、千種越えによる織田軍の岐阜城帰還を援助した事が六角承禎の怒りを買い、六角氏の軍勢(蒲生定秀)によって攻められ、実房は八尾山城[滋賀県犬上郡多賀町にあった城趾](やつおやまじょう)で自害した。

母の於鍋の方は、二児を連れて延びて織田信長のもとを訪れ、庇護を請うた。信長は母子ともども岐阜城に迎え入れて、於鍋の方を側室として娶った。於鍋の方は間もなく信高を、次いで信吉を産んだ。

連れ子である甚五郎・松寿兄弟もそれぞれ織田家の家臣に加えられ、近江に本領が与えられたという。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起こった時、御番衆であった松寿は京都町内に宿を取っていたが、変報を聞いて湯浅直宗らと共に急ぎ本能寺に駆け入り、信長を守って明智光秀の軍と戦ったが、衆寡敵せず討死した。

『小倉婦人記事』[土佐国土佐郡永国寺町の小倉正見氏が私蔵していた古文書]によれば享年は16であったという。

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兄の甚五郎は「天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もある」そうである。

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話を水野氏に戻すと、小倉・京極・佐々・織田信雄に縁があり、これは九里氏とも重なってくる。
九里は大和宇陀松山藩では信雄の配下にいたはずだが、分限帳には名前がなく、京極高次の分限帳に記載があるので、高次についていたと思われる。

大和宇陀松山藩には近江出身者が多いが、多賀氏に養子に入って宇陀の秋山城を居城としていた「多賀秀種」の頃に共に入ったとも考えられる。が、京極の居た大津城を攻めたりもあったので、仲間ではなく、別のグループであったようである。しかし、その二手の近江組が大和宇陀松山藩では一堂に会し、共に藩を創っていくことになったのではないだろうか?(ココはいい加減な仮想)

さて、水野日向守覚え書に出てきた人物「上松大膳」を探してみよう。
山崎家士軍功書の中に「上松大膳」とある。

《史料紹介》 石川県立図書館所蔵「山崎家士軍功 書」竹井英文著 東北文化研究所紀要 第49号 2017年12月
…によると以下となる。

加賀藩の家老・山崎長徳(閑斎)の家臣団に関する「戦功覚書」を紹介するものである。
山崎長徳は、もとは越前朝倉氏の家臣であり、後に加賀藩前田家の重臣となった人物として、本多政重や横山長知などとともに大変著名な人物である。


この山崎氏の流れと同じく越前朝倉氏の門番もしていた九里十兵衛。その後に加賀藩にいる九里氏

同じ軍功記の中に以下のような記述も見つけた。(内容はよくわからない。)

向七兵衛の書いたものである。
「一 、私十八之年、当地徳山又兵衛殿ひろまにて少し申事仕出、其いこんをのこし、九日めに当町大もし屋所ニ私晝ふセりい申処を、彼あいて罷越私おき合不申以前ニ、二ヶ所きりつけ申処ニ、おき合候てきりやい申候、
私ハわきさし、あいてハ刀にて仕候、私六ヶ所手をおい申候、あいても二三ヶ所きりつけ申候、其以後たかいにくミあい申、あいてのわきつほをつきぬい申処へ、いつれも打合、双方引わけ申候、
則横山々城殿・片山伊賀殿、御両人御越御覧被成、双方共ニ御のけ被成候、

私あいて其比九里大蔵と申仁にて御座候
此けんくわ双方をちども無御座候、於後之様子、今至て御存之かた〳〵可有御座候御事、」

何の事だろうか? 比九里か、九里か・・


同じ文書に「上松大膳」「山崎長門家士野上甚五左衛門」という名も出てくる。


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眼の気功だそうです。

2019-04-15 | 雑記

試しに行ってみましたら、良いようです!

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190411-00000070-sasahi-hlth&p=2



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渋谷系飯田家と浅小井系深尾家と中原系岡田家

2019-04-10 | 雑記

勝手に○○系と名付けて、頭を整理しようと試みてみた。

・渋谷系飯田家の祖は佐々木秀義の室となった女性の兄弟である。

・佐々木行定末裔の浅小井系深尾家は九里氏と戦国時代であるが九里氏と婚姻関係がある。

・中原系岡田家は中原氏であり、どこかで岡田郷か岡田荘などの地頭となって岡田氏を冠した家である。
 その末裔と思われる岡田竹右衛門元繁(茂)は「中原一族の岡田氏」であり、江戸時代に自分のルーツを探しに千葉に赴き、原氏を調べている。原氏・臼井氏の末裔のようである。

・富城氏(因幡国 蓮忍入道・息常忍)は因幡国を離れて1250年前後に千葉氏被官となっている。

・鎌倉時代後期に熊野に住した九里氏は、江戸時代に鳥居忠政に仕えていた「九里孫三郎」とつながっている。

・九里・九野里・くのり孫兵衛の名が「水野日向守忠重、または勝成」の家臣であったようである。この孫兵衛こそが、九里孫三郎こそが、我が家の「別紙」文書に残っている名前である。


・九里氏は岡田氏と同族と思われる。なぜなら、岡田元次の弟「五味元保」は、熊野大智庵の九里の墓を守てくれていた「五味氏」とつながっていると思われるため。

・宇陀松山藩の九里氏も岡田氏を名乗っていて、江戸時代になって改めて九里を名乗った。
同時期に同藩にいた岡田氏は「岡田十右衛門」であり、後に九里家に養子に入っていることからも、こちらも先祖は「竹右衛門」と同じだったのではないだろうか。







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松尾社 神主相頼 その周辺

2019-04-10 | 飯田氏
コトバンクより
松尾社 雀部庄
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。…


〈ささいべのしょう〉〈ささべのしょう〉ともいう。丹波国天田郡雀部(ささいべ)郷(《和名抄》)に成立した山城松尾社(松尾大社)領の荘園で,現京都府福知山市の前田・土・戸田・石原(いさ)・川北一帯に比定される。

天田川(由良川)が流れ,雀部荘堺より下流は松尾社の供菜所であった。当地が松尾社領となったのは1091年のことで,天田郡前貫首(かんじゅ)丹波兼定の寄進による。

のち松尾社神主頼親が松尾社を本家として立荘し,領主職はその子相頼以下子孫(東氏)に伝領された。

当荘は御厨(みくりや)的性格が強く,荘内に鵜飼いがいて鮭・鮎などの鮮魚を松尾社に備進するのが重要な課役であった。また宿直(とのい)役・夫役などを務めており,そのための12の番(番頭)制が形成されていた。

1186年梶原景時が関東下文によって当荘代官に補任され,景時失脚後は地頭が置かれた。以後鎌倉時代を通じて地頭・地頭代との相論が続いたが,幕府の安堵をうけ,室町時代も社領として命脈を保った。

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つまりこの雀部庄の場合だけかもしれないが、秦氏=東氏 となる。
この荘園の周辺事情もよくわからないので、下記のページに助けてもらおう。関係のありそうな部分をピックアップしてみた。

https://tangonotimei.com/amata/sasaibeg.html

雀部は仁徳(大鷦鷯尊)のサザキを冠した御名代部とされる。『書紀』継体即位前記条によれば、丹波国桑田郡にいた仲哀五世孫の倭彦王を天皇にしようと迎えにきたのが物部麁鹿火大連と巨勢男人大臣であったという。

その後の異議申し立てでは、「巨勢と雀部はもともと祖先が同じで、氏姓が分れた後で大臣に任じられました。その結果、雀部氏がかつて大臣に任じられたのに、今では、巨勢氏がかつて大臣に任じられたことにされている」と述べ、認められている(『続日本紀』)。巨勢男人大臣とは実は雀部男人大臣であった。

神武記には子・神八井耳命は雀部臣、雀部造の祖。
また孝元記には、建内宿禰の子・許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。とある。
「天孫本紀」では、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の八世孫が倭得玉彦命で、
九世孫が弟彦命。妹は日女命。
次に玉勝山代根古命(山代の水主の雀部連・軽部連・蘇宜部首等の祖。とある。

葛城氏系の巨勢氏系で西隣の宗部郷の蘇我氏などとは近い氏族と思われる。大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)が巨勢氏の本貫のようで、御所市のゴセという市名もまた巨勢にちなむとか。
古代、5世紀頃までの大豪族、紀氏とも古くは同族、葛城氏・紀氏の大一族の一氏族が雀部氏である。


応神から武烈までの「河内王朝」「ワケ王朝」期の天皇の后はたいていが葛城氏で、なじみの市辺押磐皇子や弘計(顕宗)・億計(仁賢)・飯豊青皇女も葛城氏が母である。:
雀部氏の本貫ははっきりしたものがないが、だいたいこのあたりであろう。遺跡から見てもこのあたりの一帯が葛城氏の本拠地と見られ、雀部も葛城氏の本体部分の氏族かも知れない。

なお、六人部については尾張氏と同族。また和泉国諸蕃に「六人部連。百済公同祖。酒王之後也」、百済国酒王は河内国錦部郡あたりにいたようで、どちらにしても古くは大きくは葛城の一族ということになるかも知れない。律令時代の後の世では宗部とか笹部とか六人部などになっているが、それ以前は彼らの母体の葛城氏が押さえていた地であったと思われる。葛城氏は雄略時代に滅び、その後裔氏族、雀部氏などに引き継がれたのであろうか。

大和国葛上郡日置郷や朝妻や鴨も尾張(高尾張)も当地にあるので、こうしたなじみの氏族も当地あたりが本貫かも知れない。「高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の人為り、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ」と紀にある高尾張も当市内にある。本当かどうか知らぬが葛城の元の名が高尾張だという、「天孫本紀」には天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の四世孫の瀛津世襲命は亦は云ふ葛木彦命、尾張連等の祖、とあり、どうも尾張氏は葛城とは関係が深そうに見える。用明紀に、葛城直磐村の娘の広子は一男一女を生んだ。男は麻呂子皇子という、当麻公の祖。とあり、鬼退治伝説の麻呂子親王もまたそうである。
丹後の竹野神社の祭神の一人の建豊波豆羅和気命もまた葛城之垂水宿祢の娘と開化の子である。

コセは天津の是社神社のコソであろうと思われ、新羅の始祖王は赫居世(かくこせ)という、カクコセハンと正式には読むのかも知れないが、そのコセだから巨勢氏は渡来氏と思われる、その同族雀部氏もまた本来は渡来氏かと思われる。
紀には、彼ら氏族の祖・英雄葛城襲津彦が朝鮮で活躍し四邑(桑原・佐糜・高宮・忍海)の漢人の始祖らを連れ帰ったの伝が載せられているが、何のこともない彼ら自身もより古い渡来人であったからそうしたことができたものと思われる
各地に雀部が置かれたが、その一つに沙沙貴神社(近江八幡市安土町)があり、のちの佐々木源氏(近江源氏)の拠点となった、京極氏や朽木氏などなじみの江戸期の藩主家もこの一族になる。

中世は雀部荘で、平安後期~戦国期の荘園。当荘は松尾大社領で松尾社の神菜を支えるため天田河(由良川)での魚釣の停止が命じられている。今も音無川と呼び、音無瀬橋があるのはこの慣例のためである。
松尾社領というが、もとは丹波兼定の先祖相伝の私領で、ずいぶんと広い所だが、以前から在地では丹波氏の支配を受けているようである。

寛治5年(1091)11月15日付の丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に、
 丹波国天田郡前貫首丹波兼定謹辞
    奉寄 松尾御社御領私領田畠等事
   合壱処者
    在丹波国天田郡管[
    四至(割注・東限高津郷 南限□□□庄 西限土師郷并奄我 北限大山峯)
     副進田畠坪付壱通
  右、件田畠、兼定先祖相伝私領也、而寛治三年二
  月五日受病悩沈寝席、前後不覚之刻、可寄進松尾
  御社御領之由、令申祈□之処、以同八日夜、依有
  夢想之告、任祈請之□、忽得平癒、随件私領永寄
  進既畢、但於本公験者、以去応徳二年二月廿一日
  夜、不慮之外、従国衙依被追捕失了、而向後件公
  験等雖取出他人、敢不可有後日之沙汰、仍所寄進
  如右、謹解、
   寛治五年十一月十五日   前貫首丹波(花押)
                  (裏書)「兼定」

丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えらている、丹後王朝は葛城氏に対抗した三輪王朝系(のちの天皇氏系)氏族と同盟関係(開化妃の竹野媛・垂仁妃の日葉酢媛。天理市に丹波市という所があるが、こちら側に関係が深い)だが、但馬は葛城と結んで神功皇后を生んでいるし、葛城系の弘計・億計が丹後に逃れているからまったく葛城と関係がなかったわけでもない。
「続日本紀」延暦4年(785)正月17日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名がみえ、天田郡でも支配的勢力となっていたと思われる。
南北朝以降は、秦(東)相憲-相衡-相季-相勝-相継-相言-相行-相郷と松尾社家東氏が代々伝領。
康安元年7月10日に荻野三河入道父子3人・杉本八郎父子5人などが荘内に乱入,当荘代官中務丞父子4人・上方公文父子4人・池辺四郎兵衛尉父子4人・林入道子3人・石原村孫三郎下人2人など41人が討たれるという事件が起こっている。
荘内の地名として「石原村」「富(戸カ)田村」「前田」「提村」「野中村」などが「松尾大社文書」「東家文書」に見える。

近代は雀部村で、明治22年~昭和11年の自治体。土師・前田・川北の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成。昭和11年福知山町の一部となり、村制時の3大字は福知山町の大字に継承された。

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《姓氏》
『丹波志』

雀部鍛冶 子孫 前田村 桜野ニ
雀部道明ト云鍛冶屋敷跡 今字ニ雀部屋教ト云 本ハ野道具ノ鍛冶也 天正年中明智光秀鎗矢ノ根ノ鍛タリ 細工ハ荒ケレトモ物ヲ能通ス故 雀部道明ト云四字ヲ付玉へリ 子孫ハ福智山下紺屋町鍛冶半兵衛ト云 前田村ニ雀部田地ト云所少有之トモ 今ハナシト云へり

ここに言う「桜野」は、現在の前田の小字桜(さくら)だそうで、古来原野であったという。現在では誰も知る者もないが、「毛吹草」丹波の章に「雀部矢根、鑓」とあって、世に知られていたことがわかるという。福知山市字鍛冶に、先代まで屋号を鉄屋といい、もと下紺屋町に住み、刀鍛冶をしていたという家があるそう。また御霊神社の宝物に「丹波住雀部道明」の銘のある大きな鏃があるそう。


雀部郷の主な歴史記録

『福知山市史』

雀部郷
雀部郷は佐々伊倍とよみ、上野・三河にもある。「ささいべ」及び「ささべ」というのは佐々岐倍の転訛といわれる。近世雀部荘といいまた福知山市に合併するまで雀部村と称していた区域は、和名抄の雀部郷である。山口氏の天田郡志資料上巻々頭の中世十郷図は、和名抄の郷名を地図化したものと思われ、それには土師の北に雀部郷が広く占めている。



『福知山・綾部の歴史』

雀部荘の成り立ち
雀部荘は、現在の雀部学区から土師を除き、戸田・石原・土を加えた地域である。平安後期から室町中期に至る間、京都の松尾大社の荘園であった。昔、雀部郷と呼ばれたこの地域は天田郡の豪族丹波氏の私領であったが、寛治五年(一〇九一)、丹波兼定が病気の快復を祈願して松尾大社に寄進したものである。

  雀部荘の経営組織
松尾大社は雀部荘の領主となって後、荘内の名田を七反ずつに均等化して五か名(三五反)で一つの番を構成し、一二か番を編成した。番には番頭が置かれ、番頭の所有する名を番の名称とした。この他、これも七反均一の庄屋名と呼ばれる二四か名があり、有力名主が所有していた。

荘園の荘務は、下司と呼ばれる役人が公文・案主らの下級荘官を指揮して、年貢・公事・夫役などの徴収にあたった。案主は政所(役所)で文書記録の保管作成にあたり、公文は年貢などの徴収を分担した。

  雀部荘のムラ
荘園時代の雀部郷には、富田(戸田)・石原・菅内・河与木・土・野中・堤の七か所の「ムラ」があり、このうち戸田・石原・土については現在の行政区に継承されている。

(笠原彰)

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上記に登場する「丹波兼定」「摂津国左近衛将曹中臣近友」に関しても調べていく必要があると思われる。

又、相頼は長野の今溝荘にも登場している。

鎌倉期に見える荘園名水内【みのち】郡のうち郷名でも見える文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈松尾社領〉 今溝庄」と見え,当荘は山城松尾社領となっていた(吾妻鏡同年3月12日条/信史3)

仁治元年10月日の松尾社前神主秦相久陳状に「一,信濃国今溝庄事 副進……件庄者,相頼去永万年中募御供用途内,申下庄号 宣旨以来,代々付社務知行之,敢無相交他輩」と見え,当荘は平安末期の永万年間に荘号宣旨を得て立荘され,松尾社神主秦相頼-同頼康-同相能-同相久と伝領された(漂到流球国記裏文書/同前補遺上)

「沙石集」説話拾遺6の「説教師の施主分聞き悪きの事」には,更級【さらしな】の地頭の嫡女は当地の地頭の妻とあり,この地は「さい河の辺なれば,常に魚ある所にて」と記されている(信史4)

嘉暦4年3月日には「今溝・瀬黒郷地頭」が諏訪社上社五月会御射山の頭役を勤め(守矢文書/同前5),同年奥郡の「五町・栗田・今溝」が玉垣5間の造営所役を勤めている(諏訪大宮造営目録/信叢2)

また元徳元年12月10日の重阿譲状によると,「今溝庄北条内田弐段」は以前に重阿からその子長知に譲与されたが,長知が重阿に先立って死去したため,改めて息女大萱小太郎入道後家尼に一期分として譲与し,同2年2月25日幕府の安堵を得た(弥彦神社文書/信史5)なお今溝とは「新しくできた用水」という意味らしく,現在の北八幡堰がそれにあたるらしい現在の長野市高田・北条町などの一帯に比定される

1329年のことだが、「水内郡今溝荘北条の地頭沙弥歡阿の娘は、「大萱小太郎入道後家尼」(信史 5 一〇九)といわれ伊那郡大萱郷の大萱氏と結婚していた。…」とある。




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飯田家義  

2019-04-08 | 飯田氏

この方、関係がありそうです。
鎌倉時代の飯田氏 登場です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%AE%B6%E7%BE%A9

飯田 家義(いいだいえよし、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
桓武平氏秩父氏流渋谷重国の子
兄弟に光重、高重、時国、重助、重近、佐々木秀義室。

相模国高座郡長後(藤沢市)で誕生した。
大庭御厨の管理を行っていた大庭景親との所領争いの末、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を治める。その後、景親と和睦しその娘を娶った。 

1180年(治承4年)、源頼朝が起こした石橋山の戦いでは、源氏方に加勢する計画であったが境川の前を平家方の総大将・景親に、後方を弟の俣野景久に挟まれ、その場は平家方として参戦した。しかし戦いの末少数となった頼朝勢を土肥の椙山(すぎやま)へと逃避させた。
なお椙山で頼朝は大庭軍の梶原景時に居所を知られるが、未発見を装うことで景時も頼朝の窮状を救った。

しかし後の富士川の戦いにて、家義は源氏方に参戦して武勲を挙げ、また石橋山での救援の件により頼朝から厚く信任され、論功行賞において平氏側だった者では家義だけが飯田郷を安堵され、地頭に任ぜられた。

1200年(正治2年)北条義時の命を受け、かつて石橋山の戦いで頼朝を救った仲である梶原景時を倒し駿河国大岡(沼津市)の地頭職を得た(梶原景時の変)。

晩年を過ごした飯田郷には、現在富士塚城址公園があり、空堀の跡も僅かだが残されている。

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以下は歴博DBより 気になる一部なのだがコピーしておく。飯田(いいだ・はんだ)と関係する一部


蒲御厨と飯田氏:
角川地名=馬込川と天竜川の間に位置、範頼所生伝説あり=東大寺文書に見える地名によると、庄域は浜松市東部=正治1頼家、地頭職を停めて神宮に寄進
【備考】  神鳳鈔=550町、上分30石・在地領主=(開発)蒲神明社神官蒲氏(源氏)→内宮禰宜大中臣氏を通じ寄進→内宮領、給主;大中臣、検校職;源氏→地頭職→(鎌倉中期以後)得宗被官→(元弘3)泰家跡→岩松経家→(一時)高師泰→(明徳以後)東大寺→守護有力被官の代官請負・カ21307=室町院所領目録=「武家所進地頭職」・建久3神領注文=蒲御厨、内=給主内宮一禰宜成長等・明徳3義満=東大寺塔婆料所として寄進・『出典』追加:由良文書・東南院文書・妙照寺所蔵大般若経奥書・鎌倉大草紙


☆遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。
…という事で、【源範頼】と深く関係する。

さらに以下の情報もある。
周智郡森町:その地は蒲御厨飯田郷であり、飯田庄を周智郡森町に比定

山内庄の中にも「飯田」

下総 海上 橘庄 :
荘園志料=「海上庄」「東庄」ともいう・角川地名=東庄=千葉常重の私領であった国衙領立花郷の後身=正和2,4,25関東下知状に「橘庄号東庄」円福寺文
千葉胤頼子孫東氏の名字の地で、保延二年に収公された祖父常重の私領「立花郷」の後身と推察・荘園志料は汎称して海上庄ともいうとするが、海上庄は別置・『東鑑』文治2乃貢未済庄々注文=橘并木内庄=二位大納言・石井新二「東庄」=二位大納言を藤原兼房(兼実弟)と推定=三崎庄とともに摂関家領で皇嘉門院領であったと推察し千田親雅との関係を想定・香取社遷宮用途注進状=100石究済


信濃 伊那 伊賀良庄 :
平凡地名=北は飯田台地の南を流れる松川、南は阿知川に至る天竜川西岸一帯=鼎町〜飯田市松尾、伊賀良、山本地区〜阿智村会地、伍和〜阿南町
【備考】  ヘキ352=キヨ231=和歌山県那智山出土銅経筒銘文=保元1「信濃国伊那郡伊賀覧御庄中村郷光明寺」・嘉暦四年諏訪上社頭役下知状=地頭=江馬遠江前司後家、江馬越前前司など・鳩ヶ嶺八幡宮(木像神像)銘文「弘安戌子五月」・殿岡地頭四条頼基、日蓮を後援・文治4時政地頭→元徳1時見、篤時ら→跡=得宗領

丹波 天田 雀部庄(ササイベ ):
『地名辞典』追加:=建久9年貢200石=嘉禎4地頭と相論=元徳1松尾社の社家相論あり=伝領関係は松尾社家東氏相伝=秦(東)相憲→相衡→相季→相勝→相継→相言→相行→相郷・カ5315嘉禎4六波羅下知状=当庄は天承2松尾社日次供祭料所として宣下=治承に梶原景時地頭代職=正治2飯田清重景時追討の功により地頭職→嘉禎4地頭光信(大宅)新儀非法停止・康永3師守記=丹後国後三条院勅旨田内雀部郷=文殿廻・→4106021「三条院勅旨田」参照・ヘ1301寛治5天田郡前貫首丹波兼定寄進状=当庄の事か

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この飯田氏、地頭を補任されていることからも、富木(富城)とも繋がってくるのでは、と思う。

丹波国の蓮忍が地頭であった「河守御荘」付近の「雀部庄」が「飯田氏」であったこと。その後は大宅へとなっているが、実はこの大宅光信は飯田清重の息のようである。

http://kougenji.la.coocan.jp/s/takahasi/0003.html


その後秦氏(東氏)と関連してくるようである。

さらに調べていくと、雀部庄は松尾社と関係が深く、
コトバンクによると以下のようである。

丹波国天田郡(現,京都府福知山市上佐々木,下佐々木)にあった荘園。
《和名抄》にみえる雀部郷の一部である。松尾社前神主相頼の父頼親が流失田25町を開発し,さらに便宜の田畠を相博して加え松尾社領荘園として立荘したことが,1197年(建久8)の相頼譲状と翌年の後鳥羽院庁下文にみえる。本家は松尾社で年貢を神用にあてていたが,領主職は頼親の譲をうけた相頼の子孫(秦(はた)氏)が相伝したようである。鎌倉時代に地頭や地頭代の狼藉があったが幕府の安堵をうけ,南北朝の争乱にさいしても濫妨狼藉がみられたが,室町幕府や朝廷によりその領有が保障されている。

この相頼周辺は明日以降に…と思う。

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酒呑童子と源頼光、碓井貞光

2019-04-04 | 雑記

碓井氏といえば、「碓井貞光」

異界と日本人: 絵物語の想像力
著者: 小松和彦

大江山の近く「河守庄 地頭蓮忍」につながってくる話
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遡ってみると。臼井氏(原氏)⇒ 碓井貞光 ⇒ 和賀氏 ⇒ 本堂氏 

2019-04-04 | 朽木氏

ひょっとするとこのようになるのでは?という仮想。

朽木氏の系図と同じサイト内に「本堂氏」という系図があった。
この系図の中に「小堀政徳妻」「朽木綱泰妻」とあった。

この本堂氏の系図に和賀氏が、和賀氏を調べていくと碓井氏が出てくる。
碓井氏は臼井氏とつながっているとかそうすると、原氏につながる。

その和賀氏は横山党でもあり、系図では刈田義季は和田義盛の養子となっているとある。



http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/usui1.htm

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朽木氏

2019-04-04 | 朽木氏

以下のアドレスのページに朽木氏の系図と概要が出ていた。
この系図を見つつ、wikipediaと違いがあることに気が付いた。
信綱~泰綱~頼綱となっているのがwikipedia
信綱~高信~頼綱となっているのが朽木氏系図

他にも差異があるが、嬉しかったのが定綱の息たちのこと。
広綱、定重、定高、信綱、宏定、定厳、時綱、行綱、頼定、定雅 10名の名前が!


http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/koutai/kukki.htm

九里氏と関係する大事な部分は↓

 朽木荘は山間の荘園でしたが、京都に比較的近く、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこともあって早くから開け交通上の要衝としても重視されていました。
 そうしたことから朽木氏は近江の守護であり同じ佐々木一族である六角家に属しながらも、足利将軍家とも深い関係があり、将軍義晴・義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがありました。

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義晴は足利義澄の息であり、「亀王丸」のことである。
水茎岡山城で生まれていて、赤松氏に預けられていた人物である。

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さらに、久多庄との争い(相論?)があったのも、この朽木氏との間だったのではないだろうか。
その朽木氏のなかに飯田氏がいたようなのである。




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