九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

上野国緑野郡佐味郷(現群馬県藤岡市平井付近)と田原本町の佐味村

2019-03-18 | 古代からのつながり

上野国緑野郡に「佐味郷」あり、大和国の田原本町にも「佐味村」があった。

しかも、田原本町と言えば、このブログでもたびたび登場している「鏡」に関する神社がいくつもある場所である。

この偶然は一体何を教えてくれているのだろう。

上野国緑野郡佐味郷(現群馬県藤岡市平井付近)と、2つ前の「上野国多野郡」の記事。この奇遇!

緑野郡は、廃止されて多野郡となっているので、佐味郷の場所も今は多野郡となるのではないだろうか。
(明治29年(1896年)4月1日 - 「緑野多胡南甘楽郡役所」の管轄区域をもって多野郡が発足。同日緑野郡廃止。)

歴博のデータベースには上野国の佐味郷は出てこなかった。

しかし、上野国片岡郡があったようだ。佐味郡のあった場所も平井付近という。まるで近江国のようではないか。

以前記事にした多胡碑にも
「上野国片岡郡・緑野郡・ 甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。」とあった。

佐味神社は近江国の伊香に二つもあり、その場所は江州中原氏がいた場所である。特に九里氏につながっている中原経行の系が伊香に関わっているのである。


鏡に関しては、「八尾村」に 古墳時代(前)鏡造り(鋳造)の技術集団が入ったようで、
奈良時代には鏡作郷 (正倉院文書)があったことが記載されているそうである。

http://tasukinokai.sakura.ne.jp/muramura_q4.html#yao_his

http://tasukinokai.sakura.ne.jp/muramura_q4.html#sami

さらに歴博のデータベースに上野の佐味郷はなかったものの、他の地域がどれも「九里氏」と関りがあるところにも思えるのだ。



佐味とは「際」であるとwebのページにはあったが、「錆」にも通じ、鉄を扱う人々であったはずである。
つまり、中原の古代氏族はこの佐味氏と共に働き、移動してきたのではないだろうか。


コメント

ウガジンサマ 宇賀神様

2019-03-16 | 雑記

「宇芸神社」の中に「ウガジン」の記載があった。

これはどこか記憶にある名であった。それは近江国の竹生島!
この島にいらっしゃる神様。

宇賀神。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E8%B3%80%E7%A5%9E

近江とのつながりを感じた神様のお名前でした。

コメント (1)

有道氏に続く秩父行義

2019-03-16 | 有道氏

有道氏に続く「秩父行義」の周辺を探ろうと思う。

前々回の記事で、この時代に登場した人物

源範頼
秩父行義(大類五郎左衛門尉)⇒(児玉党)
山田太郎義澄
この山田義澄に関しては、以下のページに記載があった。
http://chibasi.net/miurasoryo4.htm

(長勝寿院供養に供奉した御家人(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条))⇒
随兵六十人〔東〕(弓馬の達者)・門外左右に伺候

この山田氏が養和2年(1182)壬寅3月5日、 上野国甘楽郡白倉邑の地頭職に補され、白倉山田氏の祖という。)

~~~*~~~

この秩父行義の弟に注目して見ようと思う。
【武蔵武士】googlebooksより






・・・と九里村と出てくる。

ところが、調べて行くと、「美九里村」らしい。

昔は九里だったのか。。。。

鏡にも関係している。ここでは美九久里村になっている。



美九里村のあるあたりを「緑野」(みどの)というらしい。
ここに「宇芸神社」があり、社伝によると、天武天皇白鳳7年4月8日の創建とある。

http://www.genbu.net/data/kouzuke/uge_title.htm

ウカノミタマ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%9E






コメント

源範頼 の 右筆 中原重能

2019-03-16 | 中原氏バラバラ情報

http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_482/yurin3.html

永井氏発言部分に「中原重能」が登場している。「頼朝に対してきつく言っていて」…

其の外東京大学史料編纂所DBに範頼が没してからの1232年に名が出ている。





少監物中原重能〈臨時内給 〉
この少監物とは、コトバンクによると
「〘名〙 令制の官職の一つ。中務(なかつかさ)省に属して、大蔵寮・内蔵寮の倉庫の収納物の出納の管理をつかさどった。正七位下相当。下物職(おろしもののつかさ)」
「日本古代の令制官司である中務(なかつかさ)省に属する品官(四等官の系列外の官)の一つ。大監物2人,中・少監物各4人,史生4人より成る。職掌は庫蔵の物の出入に立ち会って監察し,鍵を後宮の闈司(みかどつかさ)から請け取り,またこれを返納することであった。…」

とある。


wikipediaによると、中原康貞との関係に言及している。

建久元年(1190年)6月28日、都の院庁官・中原康貞が、範頼を通じて院伝奏・藤原定長と、関東申次・吉田経房を訴えた事に対し、頼朝は訴えをまったく聞き入れず、両者ともに公武での務めをよく果たしている良臣であり、この事は口外しないよう範頼に言い含めた。

康貞の讒訴の意図は不明だが、範頼が中原康貞の仲介を行ったのは、康貞の弟・中原重能が範頼の家政機関の運営を行う吏僚であったためと考えられる。頼朝挙兵に参じた頃の私的郎党はわずかなものであったと思われるが、追討の実績・三河守補任や所領の獲得などによって私的な主従関係を結んだ武士の数も増えていったと見られる。また範頼と京との結びつきの強さから、直属武力なる武士たちには朝廷の武官職を持つ者も多かった。養父・藤原範季は九条兼実の家司であり、西国遠征の際には養父との接触にも慎重だった範頼が公家の争いに関わったのは、何らかの事情があったものと考えられる。

同年11月の頼朝上洛に従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめる。この時の上洛で源氏一門の源広綱が前駆に選ばれなかった事を理由に遁世した事を、広綱の使いから聞いた頼朝は、「行列の前駆は後白河院が定められた他は、参州(範頼)は兄弟であるので他の者には準じがたく、このことは相模守(大内惟義)以下も承知していることだ」と述べている(頼朝が推挙した供奉人は範頼と星野範清であったが、範清も頼朝の母方の従弟である)。






コメント

岡田氏と片岡氏 そして 足助氏

2019-03-09 | 雑記

有道氏を調べていて、思わぬ発見があった。

日本の苗字七千傑【清和源氏満政流】《八島重実流》から山田氏に入る。そしてさらに「足助氏」に入ると片岡氏につながるのだが、その片岡氏は近江国の「片岡氏」なのだそうだ。

左から4番目 片岡氏


さらに、山田氏の下記のアドレスにある一文。

「父の秩父行綱(ちちぶ ゆきつな)とともに源範頼(みなもとの のりより)に従い、そのときの功により武蔵国入間郡大類を賜り、伯父成季(なりすえ)の養父白倉邑(しらくらむら)の地頭山田太郎重澄(やまだたろう しげすみ)の四女を娶った。」の部分が範頼・入間・秩父氏・山田氏と関係すること、さらにその秩父氏が、佐々木氏とつながってくること(現在佐々木哲氏のメルマガ記事で発表中)
この箇所が気になっている。

(私は今、岡田氏を探している。そしてこの辺りに富木氏の祖もいたのではないだろうか)



http://oorui.net/index_qhm.php?%E5%A4%A7%E9%A1%9E%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%87%BA%E8%87%AA


http://oorui.net/index_qhm.php?%E5%A4%A7%E9%A1%9E%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C


入間 大類 (毛呂)


コメント (5)

日置と日奉氏は関係があるのだろうか?

2019-03-08 | 雑記

なぜか魅かれ、重要な部分のような気がするので、memoしておこうと思う。

(岡田氏に戻らなくちゃ大和宇陀藩の始りに!つぎへ進まなくては!!)

【日奉氏と武蔵四牧(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧)の成立】を書かれていらっしゃる方がいらして、とても重要と思われる。

https://ameblo.jp/seibeiishitarou1224/entry-11771841754.html

太陽祭祀の一族であるようだ。
さらに、藤原氏とつながる!

しかも藤原隆家の兄の系からという説がある。

その藤原氏の家司だったのが、有道氏である。
有道 惟能
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
別名 有道維能
官位 従六位上、武蔵権介
主君 藤原伊周
氏族 有道宿禰
父母 父:有道惟広、母:平公雅の娘(公雅の娘に平忠常の室もいる)
妻 菅原薫宣の娘
子 惟行?

この有道氏のように何等か理由があって流された主君についてきた家司が他にもいたと思うのだ。

以前有道氏に関するブログを読んだのだが、江州中原氏と非常に周辺事情が近い感じで、宮道氏にも通じていた。

では、岡田氏へ⇒⇒



コメント (1)

突然ですが、比企氏は日置氏⇒小野氏・松田氏なのでは?

2019-03-06 | 雑記

一度はもう考えないようにと思っていたのに、また「比企氏」に舞い戻っている。

しかも、比企氏=日置氏

そのルーツが日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社にいらした「小野日守」から始まる。

日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社。

http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu06.htm

島根県の図書館レファレンスに寄せられた【日御碕神社の神職に「日置」姓があるか】の答えが、以下である。

「資料1:p279-280「日置風水(ひおき・ふうすい)」の項目があるが、日御碕上官となっていた。文人として記載が中心で、神官としての記述はなし。

p108「小野有忠」の項に記述あり。小野有忠は日御碕神社検校・小野政通の子で、小野政近家を継ぎ、松田氏と称して松江市大野町の地頭職となる。有忠の子に有基がおり、大野庄の安堵状には「日置有基」の名前が見られ、「松田を称せるに今又日置を称する所以は日置は基本氏なるを以てなり」とされている。よって、日置氏はもともと小野氏から出た家であることがわかった。

資料2:p467に「日置清政」「日置風水」「日置政高」の項目あり。「日置清政」は「御崎社検校」と、「日置政高」は「日御碕神社検校の一族」となっている(2人とも南北朝期の人)。

「日置風水」は江戸時代中期の人で、「日御碕神社・社家の日置氏に養子に入り」と書かれていたので、江戸時代では日置氏は日御碕神社の上官社家と位置づけられていたようである。なお、同じくp150-151「小野尊俊」(江戸時代前期)は「日御碕検校」とされている。

~~~*~~~

これらに続き、
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3521

松江と比企、遠すぎる感じはしますが、何等か用事があって武蔵まできたのかもしれない。


http://www.hiki-genkiup.jp/rekishi/index.htm

 比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴です。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場しますが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説が有力です。ちなみに、鹿児島県には薩摩半島西部に日置郡があります。

コメント (4)

中原氏を再考してみる。(3)

2019-03-05 | 中原氏バラバラ情報

自閑様が以前コピーをしてくださった箇所、昨日の日本の苗字七千傑さんの系図と比べると、「基広」の系が七千傑さんの方では消えている。
それだけではなく「貞清」以下が大きく違う。

という事は、問題を起こした基広の系を消しているのだと思う。

この基兼の父は基広であろうと思うのだが、(九条兼実に凶悪人と酷評されている基広。)
基広ー基兼ー基時…となるのでは。

もう一つの可能性は
基広ー基康…です。

…という事は、兄弟かもしれない。「基兼」「基康」

鹿ヶ谷事件で問題を起こした「中原基兼」。

三左衛門事件をおこした「中原政経」。(一条高能に仕えていた)

この二つの系のその後は消されているのではないだろうか。

どこか(伯耆?)に配流された後に源通親が没し、その後に許されたとも聞く。

しかし、情報が少ない。

~~~*~~~

もう一つ、中原氏関係で。


源氏の木曽冠者(かんじゃ)義仲は、帯刀(たてわき)先生(せんじょう)義賢(よしかた)の二男である。

義賢は去る久寿二年(一一五五年)八月、武蔵(むさし)国大倉館で、鎌倉の悪源太(あくげんた)義平(よしひら、義朝の長男)に討ち亡ぼされた。
 その時、義仲は三歳の幼児であった。乳母(うぼ)の夫である中三権守(ちゅうぞうごんのかみ)の中原兼遠(なかはらかねとお)がこれを抱いて、信濃(しなの)国の木曽に逃れ、義仲を育てた。

…という事は、義仲の乳夫母もこの武蔵国大倉館に住んでいたと思われるのだ。
中三兼遠なので、三男である。

日本の苗字七千傑の「中原氏」によると、兼経ー【兼頼と某と兼遠と兼之】兄弟の部分である。まず父兼経に関して調べてみよう。

兼経に関しては、但馬国城崎の人 中原兼経之此(筑摩県史)という。また、外記補任にも「中原兼茂」が「兼経」の事と思われるそうである。

また、なぜ木曽にいたのか…という事だが、大吉祖庄という庄園があり、そこの担当で宗像の大宮司家の庄司に抜擢されていたのが、「中原兼経」であったのだ。
そのことがあって、兼遠も木曽に逃げようと思ったに違いない!




兼経の担当していた但馬国城崎は治部大輔平行範の所領である。
行範の父は、平範家であり、その妻は藤原清隆の次女 (猫間中納言)である。
その清隆の息が「藤原光隆」であり、義仲に会いに行き、大変な目にあって帰ってきた人物である。

この平範家・行範とのつながりがなければ、「猫間中納言」とのつながりも生まれなかったであろうと思われる。

とはいえ、兼遠は、源義賢の息義仲の乳父母であった。
もう少し、掘り下げたい。



コメント (2)

中原氏を再考してみる(2) 中原康貞と中原重能 そして源頼朝・範頼・義仲・義経の右筆・乳父母

2019-03-04 | 中原氏バラバラ情報

源範頼のwikipediaに以前見つけた「中原康貞」と「中原重能

範頼が中原康貞の仲介を行ったのは、康貞の弟・中原重能が範頼の家政機関の運営を行う吏僚であったためと考えられる。

確かに重能は確認できる。



しかし「康」がついていないことからも、養子に入ったか、義理の弟か…


義経の右筆が中原信康であった。中原信仲の子であるという系図があるそうである。(が、信基という可能性はどうか?)

源義仲を中原兼遠が乳父母として育てていた。中原頼季と兼遠が同一人物という説もある。頼季の息には康頼

中原重能が範頼の家司であった。

…という事は、
頼朝…中原親能・大江広元・平盛時・乳母「比企尼・若狭尼・山内尼・寒川尼・摩々尼」
範頼…中原重能(中原康貞の弟)
義仲…中原兼遠と妻
義経…中原信康(信仲の息・あるいは信基?の息)

こんなに中原が、入り込んでいたとは。
康貞と康頼や仲康との関係は分からなかったが、光家という人物が良く文書に出てくるがこの「信康」と近いようである。

そして、平盛長・盛時という人がいる。

この盛時は中原、中、平、とよばれている。


この盛時は、頼朝の「個人的な秘書」=「家司」であった可能性もありそうであることから、私の勘では乳母の夫かと思う。
つまり頼朝が小さな頃には乳父母であったのではないかと。

実は比企尼の孫娘の婿というのが「源範頼」なのである。

この比企氏の辺り、はやり中原っぽいのである。

memo的でスミマセン。

この時代 知家事:中原光家もいる。
コメント (2)

平賀・大内氏と藤原秀能との関係

2019-03-03 | 雑記

平賀義信は、妻が比企尼の三女であったそうである。
さらに子には「大内惟義、平賀朝雅、小野朝信、平賀隆信、小早川景平」がいる。

この大内惟義のwikipediaによると
大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。

惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。 …とある。

惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。
伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。
同国大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。

承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。

この惟義の妻が「藤原秀宗の妹」。つまり藤原秀康・秀能の叔母にあたる女性なのである。







コメント