九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

石寺の観音寺周辺の武士たち(2)後藤喜三郎高治 後藤喜三郎高安  

2025-04-06 | 後藤氏

美作守の下に見える【後藤喜三郎】⇒ 戸賀十兵衛 の系と思われる。
高治本人邸かもしれない。






この喜三郎は【後藤喜三郎高安】とある。
高治と同じ喜三郎なので、親子か孫子と思われる。
では、高恒はどうなのだろう…

姓氏と家系 第24号では
後藤三郎左衛門尉高種(1475,1482年に見える)
後藤但馬守高恒(はじめは三郎左衛門尉)…高種の息と思われる
そして、跡に後藤但馬守(はじめ三郎左衛門尉)、津川城主の後藤播磨守実方の息が但馬守の養子として入ってくる。
その息に高治がいることになるそうだ。

つまり、高恒の曾孫の年代となる高治である。
高安は高治の兄弟か息であろうと思われる。



永禄6年(1563年)、六角家中でも特に信望のあった重臣・後藤賢豊親子を観音寺城内で誅殺してしまう。(観音寺騒動)のあとの時代

この方は、後藤対馬守氏豊のことと思われる。

*****



【山崎源太左衛門】…盛家は、また次回に!




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石寺の観音寺周辺の武士たち(1)後藤但馬守 

2025-03-30 | 後藤氏

厳助往年記

上記のアドレスには有益な情報が満載であった。

この情報と我が家の「姓氏と家系」近江後藤氏系図仮説的再構築(岩城大介氏著)から、考えてみようと思う。

後藤三郎左衛門尉基明(播磨国の住人)・・・文和三年(1354年)討死
だが、この基明が近江の系とつながっているかどうかは定かでは無いようだ。

近江後藤氏に確実につながってくるのは、覚曇だそうだ。
後藤左衛門入道覚曇… 永德元年12月 (1381)の東寺文書  山内代(として記載があるようだ。)

後藤但馬前司…永田左衛門四郎政国の女に嫁す。14C後半

後藤将監…佐々木六角持綱の使者(はじめは因幡左衛門尉を称す)
「建内記」嘉吉三年(1443年に記載あり)

六角氏頼から持綱まで
氏頼(妻・道誉の娘)ー満高(妻・足利基氏の娘)ー満綱(妻・足利義満の娘)

後藤正賢…長禄4年(1460)の東寺文書

後藤三郎左衛門尉高種

後藤三郎左衛門高恒

後藤大和守高忠

佐々木高頼の時後藤三郎左衛門高恒 但馬守に
その子大和守高忠が高頼・定頼に仕える
この2人についての記録が 朽木家古文書 に十余通残されている

という貴重な情報が上記web頁頁に書かれていた。







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六角氏頼の周辺(2)石寺 

2025-03-21 | 九里バラバラ情報



この地図の中の【美作守】というのが九里美作守賢秀 だろうか???九里美作守員秀だろうか????
水茎の岡山城 九里氏は1467~77,年の応仁、文明の乱に戦功をたてた九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆が築城した。 

九里美作守賢秀 を調べてみなくては。

もう、この地図の頃には九里は壊滅的ダメージを受けていたのかもしれないが…



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六角氏頼の周辺(1)石寺の九里助泰 九里助恒 和歌山の九里系図より 

2025-03-17 | 九里バラバラ情報

1300年代、石寺は地名であったのか、お寺の名称であったのか。





石寺 掃部助 石寺祝 属六角判官氏頼 住蒲生郡石寺

観音寺城御屋形跡の麓にあるので、石寺からもアクセスできる道や階段があったようである。 まだ石垣も残っているようである。少し手前にある日吉神社には舗装した道がある様だ。



つまり、九里助泰は六角氏頼に仕え、すぐ側に居住していたのだと思う。
さらに、【祝】とあるので神職であったと思う。


この日吉神社と関係があったのかもしれないが、記載はない。

九里助恒には「属佐々木六角道誉 元弘建武◇袖切」とある。
佐々木六角と京極道誉が元弘~建武の時代に袖を分かち、六角についたという事だろうか?
この系図の註はどの時代に書かれたものなのだろうか?
系図の最後の人物は江戸時代になりそうである。

佐々木氏信の三男であった満信

満信の息宗氏
宗氏の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗綱は六角氏信の息であり満信の弟にあたる。
宗氏の息が道誉である。
更に道誉の妻は二階堂時綱の娘
二階堂時綱とは、室町幕府初代の政所執事であったそうだ。



【九里助恒】の時代を探っていこうと思う。


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九里宇左衛門良泰 石門心学 八日市市史より

2025-03-12 | 九里バラバラ情報
江戸時代の九里氏を新たに見つけた。



大河ドラマの【べらぼう】にも登場する人物、松平定信もその心学の影響を受けていたという。


もう一人、京極材宗に仕えていたと思われる【九里大夫】
員秀のことだろうか?

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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(3)房総半島と鎌倉の中継点であった六浦荘

2025-03-09 | 大中臣氏
源義朝(または義平)が大中臣実経に地頭職をあたえた【六浦荘】とは、どのような場所であったのだろうか?

今の金沢文庫あたりとし、地図とその周辺を確認してみると交通の要衝であったようなのだ。








うすく小さな赤く囲ってある部分は、逗子の沼間(義朝の居館があった場所)
金沢文庫にも鎌倉にも近い!
逗子の沼間は、房総半島へ行くときには金沢文庫方面へ、鎌倉へ行くのも同じくらいの距離で行けるすごく良い場所に居館があったようだ。



【義朝の東国】wikipediaより

義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け上総御曹司」と呼ばれた。

東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。それまでの居館があった鎌倉郡沼浜(現在の神奈川県逗子市沼間から高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。 

長男・義平の生母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野義通の妹との間には次男・朝長を設けるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。

義朝の勢力伸張は、下野国足利郡足利に本拠を置く大叔父である義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の嫡男・義康と相婿となるなど連携を強めた。

*****

義朝の母は藤原忠清の娘で、忠清は秀郷流の伊藤氏でもある。
その忠清の甥の清隆(猫間中納言)の妻は平正盛の娘である。


以下は 私的 memo

その清隆の娘は藤原長輔に嫁ぎ、季隆を産んでいる。

卜部氏系図に吉田
那珂大中臣氏の系図に吉田
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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(2)久良岐郡六浦庄 

2025-02-26 | 大中臣氏
久良岐郡六浦庄とは…
久良岐郡はそう呼ばれる前には「海月郡」と言われていたようだ。
保元二年に大中臣実経が義朝かそれ以前に給わった時には相州六連庄となっているが、同じ六浦荘と思われる。

昨年貰って来た金沢文庫パンフレットには、『北条実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢に居館と称名寺を建てその傍らに金沢文庫を創立しました。』とある。
鎌倉時代からは、久良岐郡となって武蔵国になったのかもしれない。












平安時代には大中臣氏が六浦荘地頭職を担っていたのだが、鎌倉時代のある時から北条氏に移っていたことになろうと思う。
つまり、大中臣氏としては実経・実久の時代に最高潮の時を迎え、その実久の曾孫の時代には丹波国に移住することとなったという事のようである。
しかし、まだ那珂氏は東国に残っていたようである。

以前調べた際に倉栖氏(倉樹とも?)が金沢文庫のあたりに居たのも、大中臣氏と関係があったような気がしている。(北条貞顕の祐筆であった倉栖兼雄 の一族か?)

****

宮騒動(1246年)か霜月騒動 と関係があったのかもしれない。
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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(1)

2025-02-26 | 大中臣氏
大中臣の経久とは、年代が違うから別人と思っていたが、久しぶりに本を取り寄せてじっくりと読んでいくと‥‥再考の余地は十分にあるのではないかと思った。

記事を読んでくださっていらっしゃる皆様には、行つ戻りつ、で申し訳なく思うのだが致し方ない。その都度、気になる事を今の私にできる範囲で進めていくしかない。

まずその年代について、再考する。
大中臣で那珂金山氏となった経久の曽祖父に当たる実久に『承久三二十七他界畢』 とあり、その横に小さく『八欤』 と記載があり、どうもこの部分は『八十七カ?』という事にも読めそうなのである。
さらに87歳であることの証のように、その実久の父に当たる実経が保元二年に賜わる相州六連庄云々と註がある。

そこから年代を辿っていくことができるのではないか?と思う。
大中臣実久は、承久二年に87歳⇒1133年生
弟には、実広(近藤武者)がいる。
近藤国平と共に全国を駆け回った中原久経とのつながりがありそうである。








1133年に生まれた実久が1221年に歿した。
1133年から20-25年経って、3人の子息(時久・時連・為久)に恵まれたとして、1153-1158年の生まれと想定できる。この中に中原久経がいるのだろうか?
そうには見えないのだが、経政は養子とあり、久経はその父親であったかもしれないとも思う。
時連は遅めの30歳のときに養子(経政)を迎えたとしよう。1183-1188年。
その経政の息経久は、1203-1208年あたりの生まれとならないだろうか?

経久(蓮忍)には1239・1247・1249年の文書が残されており、妥当な線かもしれないと思う。

*****

因みに訓読明月記の中に「中原実久」の記載があった。





正治二年の十月の明月記 中原実久 となっている。1200年 

これは、大中臣実久とは別人カ?
この時点で正七位上 に当たる少尉である。
大中臣実久は京都守護にまでもなったというのだから、それ相応であろうと思われる。
京都守護のメンバーを見ると正五位下 から従四位下あたりと思われる。

*****

大中臣実久の息には、時久、時連、為久、とある。だいたい1150年代生まれと思われる。久経と同年代ではないだろうか?

もしくは、久経、源朝長より先に生まれた人物であった?とすると此の実久自身かもしれない。が、そうであるならば、系図の中に「鎌倉殿御使」の註があってもよさそうなものである。大中臣氏の略系図には詳しい註の記載があるのだから。

時連が養子として迎えた【経政】は、中原経任であったのではないだろうか?
というのも、橘次という事で近江国御家人井口中原系図に註がある。(養子のため橘次となったのではないだろうか?)もしくは、中原政経の息であったか?


突然、話は飛ぶが…
中原という地名も残っている橘樹郡だが…
武蔵国の橘樹には官衙があったそうなのだ。
中原氏はそこで働いていた役人であったような気がするのだ。
なぜなら、蓮忍入道は国衙の在庁官人であった。
この近江国の中原の一族は、役人として働いていたのではないだろうか?
(もしくは古代はあったが、鎌倉時代にはどうだったのだろう。)




武蔵国の有馬は、橘樹郡にあった。
中原がもしも官人として橘樹周辺の中原にいたとすると、有馬氏とも何かしら関係があったかもしれない。有馬経澄がまだこの辺りに居て、その後肥前に渡り開発領主となり朝澄に相伝し、それを臨時的に蓮忍入道が相伝し、蓮仏に渡し、もとの有馬氏に戻したような気がしている。

橘樹⇒中原⇒稲毛⇒有馬 

橘樹郡の中原という地名の中の稲毛庄内にある有馬という場所

朝澄の息家澄・連澄が蓮忍・蓮仏であった可能性もある。
ただ、肥前太郎経久という人物が但馬国菅荘の地頭であったことを考えると、蓮忍入道が肥前の有馬氏の相伝をされたことから肥前太郎となったような気もするが、ではなぜ、但馬国では経久とし、蓮忍入道を名乗らなかったのか‥‥が不明となる。

*****


この典膳権亮が中原久経に当たるのだろうか?
しかし、この中原は大中臣の実久よりも前の人物になるのだろうか?
この辺りの意味がクリアにわかれば、前に進めると思うのだが、私にははっきりしないのだ。可能性としては、兄弟であったか? あるいは年代的には、息子の妻の父とも考えられるか? 

久寿二年(1155年)源久経(別人か・・・)
久寿二年(1155年)中原信兼

仁安三年(1168年)内膳典膳(従七位下)中原久経
養和元年二月 (1181年) 散位久経 奉行
寿永四年(元暦二年)(1185年)鎌倉殿御使 近藤国平と共に京都・畿内近国・鎮西・四国など廻る。




経久=沙弥蓮忍・蓮忍入道   (肥前太郎経久??)

丹波国御河村荘が室尾谷山観音寺に寄進をする文書(1239年)… 沙弥蓮忍
肥前国 高来郡深江の地頭職 相伝(1247年)… 深江入道蓮忍
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (1249年あたり?)… 蓮忍入道

但馬国菅荘案主 藤肥前前司経久(1285年以前)… 肥前太郎経久


臼井五郎久常も、同時代にいる。
中原久経は「久常」の記載もあったのか、そう書かれている本もある。

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源光行の娘は、1244年にまだ生きていた。

2025-02-16 | 九里バラバラ情報
源氏物語の研究者の源光行は、息 親行が1185-1187年あたりに生まれたという仮定により、建礼門院美濃局もそのあたりに生まれたかと思う。



1214年迄生きていた建礼門院に仕える女房という事になるが、年齢的にも壇ノ浦の戦い の時に生まれていたかどうか‥‥という事になる。

つまり、建礼門院徳子の栄華の時代ではなく、ひっそりと暮らしていた時代の女房となるのではないだろうか?
もしくは以前書いたように、母親も建礼門院の女房として出仕し、そこに幼い時分より連れて行かれていた、なども考えられる。(1185年以前に生まれていたとすると可能か・・・)

他の方の本に光行には他にも娘がいたのではないかという事であったが(下の資料)、私が調べた範囲では見つからなかった。

1185、1186年あたりの生まれと言えば、常忍の母の年代と同じである。
常忍の母は建治二年(1276年)に90歳で歿しているそうである。





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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(2)

2025-02-11 | 九里バラバラ情報

池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』
30頁-31頁
光行の妻への疑問があるようなので、確かめてみようと思う。

藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)
1099年に有光生まれる
1125年?三男有季生まれる
1150年?次男敦倫生まれる
1170年あたりに敦倫の娘が生まれる。
1187年に親行が生まれる。

あり得る範囲だと思う。



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