大中臣の経久とは、年代が違うから別人と思っていたが、久しぶりに本を取り寄せてじっくりと読んでいくと‥‥再考の余地は十分にあるのではないかと思った。
記事を読んでくださっていらっしゃる皆様には、行つ戻りつ、で申し訳なく思うのだが致し方ない。その都度、気になる事を今の私にできる範囲で進めていくしかない。
まずその年代について、再考する。
大中臣で那珂金山氏となった経久の曽祖父に当たる実久に『承久三二十七他界畢』 とあり、その横に小さく『八欤』 と記載があり、どうもこの部分は『八十七カ?』という事にも読めそうなのである。
さらに87歳であることの証のように、その実久の父に当たる実経が保元二年に賜わる相州六連庄云々と註がある。
そこから年代を辿っていくことができるのではないか?と思う。
大中臣実久は、承久二年に87歳⇒1133年生
弟には、実広(近藤武者)がいる。
近藤国平と共に全国を駆け回った中原久経とのつながりがありそうである。
1133年に生まれた実久が1221年に歿した。
1133年から20-25年経って、3人の子息(時久・時連・為久)に恵まれたとして、1153-1158年の生まれと想定できる。この中に中原久経がいるのだろうか?
そうには見えないのだが、経政は養子とあり、久経はその父親であったかもしれないとも思う。
時連は遅めの30歳のときに養子(経政)を迎えたとしよう。1183-1188年。
その経政の息経久は、1203-1208年あたりの生まれとならないだろうか?
経久(蓮忍)には1239・1247・1249年の文書が残されており、妥当な線かもしれないと思う。
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因みに訓読明月記の中に「中原実久」の記載があった。
正治二年の十月の明月記 中原実久 となっている。1200年
これは、大中臣実久とは別人カ?
この時点で正七位上 に当たる少尉である。
大中臣実久は京都守護にまでもなったというのだから、それ相応であろうと思われる。
京都守護のメンバーを見ると正五位下 から従四位下あたりと思われる。
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大中臣実久の息には、時久、時連、為久、とある。だいたい1150年代生まれと思われる。久経と同年代ではないだろうか?
もしくは、久経、源朝長より先に生まれた人物であった?とすると此の実久自身かもしれない。が、そうであるならば、系図の中に「鎌倉殿御使」の註があってもよさそうなものである。大中臣氏の略系図には詳しい註の記載があるのだから。
時連が養子として迎えた【経政】は、中原経任であったのではないだろうか?
というのも、橘次という事で近江国御家人井口中原系図に註がある。(養子のため橘次となったのではないだろうか?)もしくは、中原政経の息であったか?
突然、話は飛ぶが…
中原という地名も残っている橘樹郡だが…
武蔵国の橘樹には官衙があったそうなのだ。
中原氏はそこで働いていた役人であったような気がするのだ。
なぜなら、蓮忍入道は国衙の在庁官人であった。
この近江国の中原の一族は、役人として働いていたのではないだろうか?
(もしくは古代はあったが、鎌倉時代にはどうだったのだろう。)
武蔵国の有馬は、橘樹郡にあった。
中原がもしも官人として橘樹周辺の中原にいたとすると、有馬氏とも何かしら関係があったかもしれない。有馬経澄がまだこの辺りに居て、その後肥前に渡り開発領主となり朝澄に相伝し、それを臨時的に蓮忍入道が相伝し、蓮仏に渡し、もとの有馬氏に戻したような気がしている。
橘樹⇒中原⇒稲毛⇒有馬
橘樹郡の中原という地名の中の稲毛庄内にある有馬という場所
朝澄の息家澄・連澄が蓮忍・蓮仏であった可能性もある。
ただ、肥前太郎経久という人物が但馬国菅荘の地頭であったことを考えると、蓮忍入道が肥前の有馬氏の相伝をされたことから肥前太郎となったような気もするが、ではなぜ、但馬国では経久とし、蓮忍入道を名乗らなかったのか‥‥が不明となる。
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この典膳権亮が中原久経に当たるのだろうか?
しかし、この中原は大中臣の実久よりも前の人物になるのだろうか?
この辺りの意味がクリアにわかれば、前に進めると思うのだが、私にははっきりしないのだ。可能性としては、兄弟であったか? あるいは年代的には、息子の妻の父とも考えられるか?
久寿二年(1155年)源久経(別人か・・・)
久寿二年(1155年)中原信兼
仁安三年(1168年)内膳典膳(従七位下)中原久経
養和元年二月 (1181年) 散位久経 奉行
寿永四年(元暦二年)(1185年)鎌倉殿御使 近藤国平と共に京都・畿内近国・鎮西・四国など廻る。
経久=沙弥蓮忍・蓮忍入道 (肥前太郎経久??)
丹波国御河村荘が室尾谷山観音寺に寄進をする文書(1239年)… 沙弥蓮忍
肥前国 高来郡深江の地頭職 相伝(1247年)… 深江入道蓮忍
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (1249年あたり?)… 蓮忍入道
但馬国菅荘案主 藤肥前前司経久(1285年以前)… 肥前太郎経久
臼井五郎久常も、同時代にいる。
中原久経は「久常」の記載もあったのか、そう書かれている本もある。