九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

時雨かと… 源 順   秋から冬となりつつある今

2020-10-30 | 和歌

北海道、晩秋から今すぐにでも冬となりそうな時雨。


時雨かと驚かれつつふるもみぢ紅き空をも曇るとぞ見し  源順

誰ぞこの昔を戀ふるわが宿に時雨降らする空のたびびと  藤原道長

消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしのもりの下露  藤原定家

露は霜水は氷にとぢられて宿借りわぶる冬の夜の月   二条院讃岐








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仁木七郎と九里 笠置寺にて

2020-10-30 | 九里バラバラ情報


九里伊賀守宗忍 仁木七郎に与して…仁木七郎は御供衆…(九里、また負け戦)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E6%B0%91%E9%83%A8%E5%B0%91%E8%BC%94

笠置寺 弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)
戦火にまみれ、大変な歴史であったようだ。
一日修行ができるそう。

https://www.kasagidera.or.jp/about/

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岡田某氏 前野長康 藤堂高虎 織田信雄

2020-10-30 | 岡田氏 バラバラ情報

藤堂高虎が前野長康の娘を洛北の岡田氏に匿ってもらえるようにと連れて行ったのが1595年頃と思われる。藤堂高虎が40歳の頃である。
藤堂高虎は加茂郡の常念寺に滞在していたことがあるのは1620年。
前野氏の事の以前からのつながりであったのかもしれない。

そして洛北には岡田鴨神社がある。この神社は常念寺と同じ加茂郡である。古くは加茂郡は「岡田」と言っていたそうだ。
藤堂高虎は江州中原氏の系図の中に登場する。同じ系の中にいる。
良峯姓の前田氏と江州の中原氏はどこかでつながっていたと想像できる。

そして、それこそが九里の祖である九里左衛門太郎経久 蓮忍入道の周辺なのではないだろうか。
この人と息・弟・甥の可能性もある常忍の二人は因幡国にいた形跡もあり、伊福部氏・長田氏を見知っていたはずの人たちである。
長田氏とは同族であった可能性もある。1249年あたりまで因幡国に居住していた。
平氏でありながらも(私の直系の九里は平姓)源頼朝の配下に入った良峯姓原氏と似た立ち位置にいる。

その九里と良峯姓の原氏が近い関係であれば、その良峯姓原氏と同族(兄弟からの分れ)の前野氏が藤堂氏に助けられるのも、納得できる。
もっともっと後の戦国時代にできた藤堂氏と前野氏の関係がそうさせたのかもしれないのだが(藤堂は前野長康雅自害に追い込まれた際に、その場にいた人物でもある)
氏族の関係も少なからずあったのではないかと想像する。

また、大和宇陀松山藩の九里に二度も佐々氏となった元の前野氏が養子に入ってきていることもその傍証と成るのではないだろうか。
そして、其の九里は、宇陀藩に入った際、最初の頃は「岡田氏」を名乗っていた。岡田政直とある。
その政直が九里に改めているのである。理由は記されていない。

ここに、私はつながりを感じる。
しかももしも岡田鴨神社に潜んでいたことがあったとすれば、そこも賀茂氏と関係がある場所である。

1615年 織田信雄 宇陀藩主となる。
もしもその匿われた1595年に岡田政直として九里政直が生まれていたとすると、1615年には二十歳である。









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常念寺





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近くに岡田国神社も見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE


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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(2)良峯姓 前野宗長 周辺 追記あり

2020-10-29 | 佐々氏 バラバラ情報

宗長:高長長男、初名小二郎という、前野右馬入道宗長と成る 滝口を称号す始祖なり。
宗長は尾張守平忠盛卿に召し出され、京師に罷り越し北門警固の御役儀を仰せ出られるため、御帝より滝口の姓を勅許蒙る者なり、よって右馬入道宗長をもって武門と成る始の人なり。


長高:高長次男 羽黒氏元祖 長高初名二郎という、羽黒二郎長高と成る。
長高の子孫は長俊・吉高・佐高
長俊の系は吉綱・幸範
吉綱ー安義・高光(土佐三郎)
安義ー義光・長光(羽黒村居住)

吉高(箱羽三郎云)-住高ー高俊(この人後僧と成る)
吉高の息安氏ー佐善(長谷部氏の元祖なり)

長高ー佐高ー祐義(長高三男 岩部氏と成る)


女子:

右は羽黒三党なり、岩部氏箱羽氏長谷部氏長高元祖なり、尾張国羽黒村に居住仕る者なり、羽黒長高は前野右馬入道宗長と共に京師北門警固の武門の家繁昌。

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宗安:宗長嫡子 佐兵衛尉、前野右馬入道宗安滝口を称号。
嘉禎元年1235年卒 七十二歳。

入道宗安の室は越後国頸城郡菅原天神の社家吉田氏の女なり。
宗安は尾張国守平忠盛公に召し出され忠盛の家人と成る、親宗長と共に京師北門警固の任に当たり、養和元年1181年信濃国の住人木曽冠者源義仲人数を催し越後国に乱入を企てるの時、相国平清盛公の御舎弟薩摩守忠度卿、越後国守城助職公加勢のために入道宗安を遣わされる、すなわち宗安人数を相集め越後国頸城郡吉田荘に下向、塁城に拠り取出を築きこれを守る、城助職公は越後越中勢を召し連れられ、信濃国横田河原に攻め入りなされ布陣、勢い盛んなり、さりながら戦い利非ず越後の国府まで敗退、同年六月越中国倶利伽羅の一戦に大敗、越後勢は四散廃軍と成る、御舎弟の長茂公に随い奉り共に山城国に隠れる、建仁1201年二月長茂公源氏追討のため、院宣を乞うも許されず、遂に東洞院御所に人数差し向けこれを囲む、この時入道宗安勇戦仕る、身方は無勢郎党多く討ち取られ大和国吉野郡吉野山なる処に隠れる、源氏の詮議は吉野山中に及び、やむなく同国生駒郡山中に潜み隠れるの時、院宣これあるに依り河内判官代に罷り出て旗下に参ずる者なり、この御陣は生駒山中に隠れ候いて依り十有余歳の後の事、入道宗安関ねんの宿志果さんと判官代に随い城南寺に駆け向う、河内判官代は尾張川に部署を定む、入道宗安は尾州住人中嶋左衛門尉と共に洲俣川を守る、宮方は敗退して北条義時の軍門に降る、中嶋左衛門尉は六波羅に願い出でなされ仍って旧領安堵の御沙汰あるに依り、入道宗安は左衛門尉の被官と成り、先祖代々の本貫の地前野邑九十五貫文下し置かれ候事、維時承久の歳三年春1221年 宗安公の事永正改め系図を写す。

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明俊:前野左兵衛尉高長三代、右馬入道宗安舎弟土佐坊明俊信濃国伊奈郡笠原牧居住、前野氏元祖。
明俊ー定俊(土佐坊)・宗光・高近(左兵衛尉高近勢州河内住居前野氏)

宗光ー宗吉ー安定(前野二郎宗光美濃国 土岐郡笠原牧居住)・宗高(前野氏)


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城長茂=長茂公とは、城四郎 のことで、城資長・坂額御前の兄弟である。
城氏(じょうし)は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。本姓は平氏。常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82
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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(1)良峯姓 立木田高成周辺

2020-10-28 | 佐々氏 バラバラ情報

尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図
永正二年 1505年
永正六年 1509年改め
寛永十一年1634年吉田孫四郎改め

尾張国丹羽郡稲木庄主
元祖 本姓良峯氏、寄木郷立木田本家
高成:高成は立木田太夫高成と称号。
尾張国丹羽郡稲木庄主となる祖宗開発伝来の治田なり。
尾張二の宮の大宮司家となる。
高成の室は坂東平氏上総権介平広常の女なり、故に後高成の女伊勢の平氏の平忠盛公の側室なり。

高春:高成長子 原氏祖
原太夫高春と称号。
尾張二の宮の大宮司と成る。
尾州春日井郡郡司と成る。その地に移り原氏の祖なり。


高義:高成次男 立木氏祖
立木田高成の次男なり、高成の跡を襲い立木田を称号尾張国丹羽郡郡家なり、稲木庄寄木村に住す立木の元祖なり。
高義ー高重・高光・高真
高光の子孫は高将・兼高ー住高ー遠高ー員高ー成高ー正高(立木氏祖)・吉高


高長:高成三男 前野氏元祖 高長尾張国丹羽郡稲木庄前野邑に住す小弓庄主なり。
佐兵衛尉と成る、高長定紋 揚葉蝶菊桐と相定む、高長は立木田太夫高成公三男なり、尾張国丹羽郡小弓庄を開発荘主と成る、尾張国丹羽郡前野邑の開発草分けの元祖、高長公は前野佐兵衛尉高長を称号する始めの人なり。


高弘:高成四男 下野氏 高弘尾張国丹羽郡稲木庄下野邑に住す。
尾州丹羽郡下野氏の祖なり、高弘下野邑上野郷を開発治田と為す、下野氏上野氏定紋、揚葉蝶桐紋と相定む、高弘公は元祖なり。


女子:高成子
女子一人あり、この女子伊勢国平氏の棟梁平忠盛公側室と成る、その子薩摩守忠度卿なり。

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上野氏 高弘子三人あり
高守・高光・高助
下野弥六郎高助は尾州稲木庄下野邑を開発、下野氏の元祖なり京師北門を警固





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古代からのつながり 物部氏 穂積氏 伊福部氏 矢田部氏(矢部) なんか関係がありそうな氏ばかり。 伊福部君〔牟義都君同族か〕

2020-10-26 | 古代からのつながり

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek2.htm

「物部」は職掌(軍事警察・司法及び手工業諸物品の管掌)から生じた氏の名・・・・とある。

文中の気になるワードを書き出しておく。

鏡、田原本町、刀槍、大和国十市郡穂積里、十市根は石上神宮和邇氏族の物部首

イナバ(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の因幡国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、美濃国厚見郡の稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見え、これらは皆、物部氏の同一系統に関係すると考えられる。それが、みな大矢口宿祢の系統だとみられるということである。

美濃の稲葉山の別称が金華山

鉄鍛冶の伊福部(伊吹部=息吹部)に通じるものか。伊奈波の神を「製鉄の神」と位置づける論考もある(今津隆弘「古代美濃考-神の系譜と伝承を中心にして-」『神社本庁・教学研究所紀要』第十号)。

伊福部君牟義都君同族か〕美濃国の武儀郡と関係がありそうである。

鍛冶・造船や武器・土器(布留式土器)などの物品の生産・管理を行い、こうした手工業技術者も配下にあった。神祇・祭祀に関係することも多く、早くも崇神紀には伊香色雄が神への供物(多くの平らな土瓶)の担当者とされたことが見える。次代の十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌したのもその延長であり、これらが「物部」の氏の名の起源であろう。

鏡作連は物部と同祖ではあるが、早くに分かれた別族である。


屋形連という「天孫本紀」に見える姓氏である。これまで、同書 以外にはこの氏の存在を端的に示すものがなかった。それが、本稿検討過程で、『三代実録』貞観二年五月条に「尾張国人従六位上笛吹部高継を本姓物部屋形に 復す」とある記事に関係すると思われるようになった。この「物部屋形」こそ屋形連と同族とみられるということである。笛吹部が起った笛吹村は、葛城山東麓 の忍海郡の笛吹神社(式内の葛木坐火雷神社にあたるか) の鎮座地で、現在の葛城市南端部の笛吹である。伴造の笛吹連は『姓氏録』河内神別にあげられて「火明命の後なり」と記され、尾張氏族とされるから、不思議 な記事だと感じていた。こうした改姓の多くの例に鑑みて考えてみると、おそらく母姓に因り「笛吹連」を名乗って尾張国に住んだものであろうが、本姓(父姓)の物部屋形に戻したものとみられる。物部屋形から改姓したのが屋形連であろう。
 笛吹の地は、葛上郡今木庄のわずか三キロほど西に位置するにすぎないし、榎葉井のある鴨神の旧桜井村地域からも北に七キロという近距離であ る。旧桜井村は金剛山東麓であって、この地に式内・高鴨神社が鎮座しており、その「前西方に小字の氷室・氷室道ノ下があるが、氷室跡であろうか。当地は凍 豆腐を産する寒冷地である」という『奈良県の地名』の記事も留意される。氷室の管理が物部氏の職掌のなかにあったことを考えると、この氷室が「屋形」なの かもしれない。
 いずれにせよ、鴨神-三室-今城の三点を結ぶ地域(葛木川の中・上流域)あたりに物部屋形氏が住んで、笛吹部と通婚したと推される。そうすると、屋形連が特に榎井連との近縁性を示唆する「天孫本紀」の記事は信頼して良いことになる。



以上、「天孫本紀」物部氏系譜の検討 宝賀 寿男氏の記事 よりであった。(太字や気になるワードは私が付した)

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武功夜話 前野家文書 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社 四巻目・補巻(千代女書留)(1)

2020-10-25 | 佐々氏 バラバラ情報

図書館から借りてくることができた四巻・補巻。

http://hakubutukan-tomonokai.blogspot.com/2016/05/
全訳をなさった吉田氏

さぁ、読もう!!

  本日の散歩道
  
  



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武功夜話には出てこない話  良峯清風と良岑晨直(ときなお) さらに・・・ 尾張大海の娘

2020-10-25 | 佐々氏 バラバラ情報

良峯安世のご子息方
木蓮(よしみね の いたび)、長松(よしみね の ながまつ)、清風(よしみね の きよかぜ)、宗貞(遍昭)、高行、遠視、晨直、晨省、晨茂、行振

良岑 清風の母は丹治氏娘

良岑 衆樹(よしみね の もろき)の妻は丹波氏または丹治氏娘
息は良岑 義方(よしみね の よしかた)


遍昭の母親は不詳だそうだが、一説には光孝天皇の乳母ともいわれている。
900年代には円融天皇乳母――良峯美子という人物も現れていることから、良峯姓が乳母の系であったことの証ともなるかもしれない。
「少将乳母良峯美子」

乳母、尾張、と言えば思い出されるのが海部氏 素晴らしいページを見つけた。

http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k306/kodaishi306.pdf

「大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は、尾張郡海部郷の首長尾張大海の娘で、大海人は幼少の頃ここで育てられた。
彼は壬申の乱で吉野を脱出し伊勢へと抜け出た際、尾張氏の一族の助けを受けた
乳兄弟の尾張大隅は傘下の鍛冶伊福部を派遣して、大海人の本拠美濃での刀槍の生産に協力し、皇子は美濃・尾張の兵を主力として、不破の関を越えて瀬田の唐橋を目指し、勝敗を決する戦いを挑んだのである。」とある。

そこで尾張国海部郷で、しかも良峯か丹羽に関係する場所を荘園DBで調べると、なんと出てきたのが「江南」前野氏の居住地でもあった。
http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s13/

さらにここでは伊福部が尾張にもある事を知った。鍛冶、刀槍の生産!



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武功夜話には出てこない話  良峯宗貞の容姿際立って美しく… 深草少将だったのだろうか???

2020-10-23 | 佐々氏 バラバラ情報

桓武天皇ー良峯安世ー良峰宗貞(遍昭)-素性法師(玄利

宗貞=僧正遍昭 (新古今和歌集の部屋さんページより)
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/058afb516f12e3562ce6f80e3f2d4a78





元慶寺 「僧正遍照」とても詳しく載っております!(かげまるくん行状集記 さんのぺーじより)
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024i.html

https://books.google.co.jp/books?id=qfp3ewGC0TMC&pg=PA124&dq=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi8i4_93MrsAhWXBIgKHZhwBdEQ6AEwAXoECAEQAg#v=onepage&q=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&f=false

https://rekishi-style.com/archives/952



大英国博物館所蔵(British Museum) ↓ 二つの画像




素性法師
https://www.britishmuseum.org/collection/search?agent=Sosei%20Hoshi%20%28%E7%B4%A0%E6%80%A7%E6%B3%95%E5%B8%AB%29


Okada Shuntosai (岡田春燈斉)の(銅版画?)もBritish Museumある。




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円仁
円仁は壬生姓のようである。系図あり
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/24/kiyo0024-02.pdf

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

「玄理の父 宗貞は、「嘉祥3(850)年出家 36歳 法名 遍照。元慶3(879)年 権僧正 65歳。
仁和元(885)年11月23日元慶寺座主カ 花山僧正と号す。
寛平2(890)年正月19日 入滅 74歳。
慈覚大師(円仁 第3代天台座主)の弟子 安然和尚と称し、天台座主長老師。」と系図上には記述あり。

しかし、「五大院安然尊者と密教 木内 央氏」によれば、遍照と安然和尚とは別人物であるようです。
安然は、慈覚大師(円仁)の門流であり、対立する円珍流に対して、遍照は、第3極の僧正であったという。詳しくは、下記 URLにて参照されたい。
               ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_755/_pdf )
更に、(今昔物語19 「頭少将良峯宗貞出家語」には、宗貞は、出家前に男子1人・女子1人を産ませたる。と。また、「本朝皇胤紹運録」には、宗貞には、2人の息子(素性・由性)がいたと記載されている。
*素性の幼名は、玄利はるとし と呼ばれていた。」という。
とすれば、良峯家系図の宗貞の次男 玄理は、素性の幼名と重なり、由性であるべき所が、そのように誤って記載されたのであろうか。


利と理は、同じく「り」と読めるので、私的には問題がないようにも思えるのだが…


また、昨日見つけた尾張に関する記載に「鳴海」とでていた。これは良峯が持っていた「成海荘」の事だったかもしれず、調べる必要があるかと思った。
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武功夜話 気になる登場人物memo (15) 佐々成政に関する記事をピックアップ 第三巻より

2020-10-21 | 佐々氏 バラバラ情報

p.29
家伝記。前野喜左衛門義康日次記に記す前野小兵衛勝長の事、佐々蔵助成政進退の事

一、付けたりの事
家伝記によるところ、遠州浜松御城徳川殿との御就談の趣は、これは喜左衛門(前野義康)日次記併せ、越中よりの前野小兵衛尉(前野勝長)、佐々平左衛門の顛末は、親亀斎(小坂雄善)申し語り候事と多少相違ありそのままに誌し置く

一、喜左衛門日次記に言う、御舎弟前野小兵衛尉当夜申し語り候事。
御舎弟小兵衛殿、平左殿を相伴い越し候は、師走(一文字の方)三十日酉の四ッ頃、浜松において徳川殿直談の事あり。すなわち佐々蔵助殿の和議承服仕らず、家康公と北越の固め等閑(なおざり)にならず、押して筑前守退治の旨取り付け、陽春を待ち呼応蜂起の由に候。

…(略)

===*===

九里は越中国新川郡にも、砺波(利波)にもいた。前野氏と同じくである。そこで闘った残党であったのではないだろうか。
前野小兵衛は新川郡で討死した。

===*===
p.43
越中国利波城主 前野小兵衛勝長伝の事 佐々蔵助成政の事

一、前野小兵衛尉は、真野江小兵衛宗康の三男なり。小さくして尾州比良の城主、佐々蔵助成政に奉仕、蔵助殿に相随い越中へ入国、蔵助殿越中の守護に任ぜられ時、」小兵衛尉は利波郡において一万五千石賜り利波城主と為る。小兵衛尉の妻女は佐々平左衛門の妹なり、平左衛門と共に佐々蔵助殿の股肱の長臣、蔵助殿に相随い転戦その功名は勝数えうべからずなり。前野加賀守と成る。長子又五郎という吉康の事、親に劣らず豪勇並びに北越の勇将なり。次第嘉兵衛という、甲申(天正十二年)師走佐々蔵助一行の者三十有余騎尾州へ罷り下り候の時、親小兵衛と共に雇従、在所前野村に罷り来る。…略…

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此の小兵衛の系こそ、二度も九里に養子に入って下さった系なのである。
一度目は又五郎の吉康の息 十助 で、佐々蔵助成政に仕えている。

二度目は大和宇陀松山藩の時代に十助の弟直勝孫宗明(佐々宗淳の実兄)のさらに曾孫が九里修政である。
直勝を一代目とすると六代目となる。

この前野氏が九里に二度も養子に入ってきたという事。そして前野氏は永田氏とも養子縁組を行っている事…等考えるに、九里の先祖蓮忍・常忍が【良峯姓原氏】と関係があった事は、あながち間違いでもないと思うのだ。

前野小兵衛勝長の裔は佐々を名乗っているが、前野氏である。
勝長の妻が佐々蔵助成政の姉でもあることと、佐々氏に息がいなかった事で、佐々氏を名乗るようになったのだと思う。

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佐々成政周辺は、この後どんどん戦渦に巻き込まれ、討死していく。合掌


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