九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(2)久良岐郡六浦庄 

2025-02-26 | 大中臣氏
久良岐郡六浦庄とは…
久良岐郡はそう呼ばれる前には「海月郡」と言われていたようだ。
保元二年に大中臣実経が義朝かそれ以前に給わった時には相州六連庄となっているが、同じ六浦荘と思われる。

昨年貰って来た金沢文庫パンフレットには、『北条実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢に居館と称名寺を建てその傍らに金沢文庫を創立しました。』とある。
鎌倉時代からは、久良岐郡となって武蔵国になったのかもしれない。












平安時代には大中臣氏が六浦荘地頭職を担っていたのだが、鎌倉時代のある時から北条氏に移っていたことになろうと思う。
つまり、大中臣氏としては実経・実久の時代に最高潮の時を迎え、その実久の曾孫の時代には丹波国に移住することとなったという事のようである。
しかし、まだ那珂氏は東国に残っていたようである。

以前調べた際に倉栖氏(倉樹とも?)が金沢文庫のあたりに居たのも、大中臣氏と関係があったような気がしている。(北条貞顕の祐筆であった倉栖兼雄 の一族か?)

****

宮騒動(1246年)か霜月騒動 と関係があったのかもしれない。
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那珂金山氏【大中臣氏】を再考してみる(1)

2025-02-26 | 大中臣氏
大中臣の経久とは、年代が違うから別人と思っていたが、久しぶりに本を取り寄せてじっくりと読んでいくと‥‥再考の余地は十分にあるのではないかと思った。

記事を読んでくださっていらっしゃる皆様には、行つ戻りつ、で申し訳なく思うのだが致し方ない。その都度、気になる事を今の私にできる範囲で進めていくしかない。

まずその年代について、再考する。
大中臣で那珂金山氏となった経久の曽祖父に当たる実久に『承久三二十七他界畢』 とあり、その横に小さく『八欤』 と記載があり、どうもこの部分は『八十七カ?』という事にも読めそうなのである。
さらに87歳であることの証のように、その実久の父に当たる実経が保元二年に賜わる相州六連庄云々と註がある。

そこから年代を辿っていくことができるのではないか?と思う。
大中臣実久は、承久二年に87歳⇒1133年生
弟には、実広(近藤武者)がいる。
近藤国平と共に全国を駆け回った中原久経とのつながりがありそうである。








1133年に生まれた実久が1221年に歿した。
1133年から20-25年経って、3人の子息(時久・時連・為久)に恵まれたとして、1153-1158年の生まれと想定できる。この中に中原久経がいるのだろうか?
そうには見えないのだが、経政は養子とあり、久経はその父親であったかもしれないとも思う。
時連は遅めの30歳のときに養子(経政)を迎えたとしよう。1183-1188年。
その経政の息経久は、1203-1208年あたりの生まれとならないだろうか?

経久(蓮忍)には1239・1247・1249年の文書が残されており、妥当な線かもしれないと思う。

*****

因みに訓読明月記の中に「中原実久」の記載があった。





正治二年の十月の明月記 中原実久 となっている。1200年 

これは、大中臣実久とは別人カ?
この時点で正七位上 に当たる少尉である。
大中臣実久は京都守護にまでもなったというのだから、それ相応であろうと思われる。
京都守護のメンバーを見ると正五位下 から従四位下あたりと思われる。

*****

大中臣実久の息には、時久、時連、為久、とある。だいたい1150年代生まれと思われる。久経と同年代ではないだろうか?

もしくは、久経、源朝長より先に生まれた人物であった?とすると此の実久自身かもしれない。が、そうであるならば、系図の中に「鎌倉殿御使」の註があってもよさそうなものである。大中臣氏の略系図には詳しい註の記載があるのだから。

時連が養子として迎えた【経政】は、中原経任であったのではないだろうか?
というのも、橘次という事で近江国御家人井口中原系図に註がある。(養子のため橘次となったのではないだろうか?)もしくは、中原政経の息であったか?


突然、話は飛ぶが…
中原という地名も残っている橘樹郡だが…
武蔵国の橘樹には官衙があったそうなのだ。
中原氏はそこで働いていた役人であったような気がするのだ。
なぜなら、蓮忍入道は国衙の在庁官人であった。
この近江国の中原の一族は、役人として働いていたのではないだろうか?
(もしくは古代はあったが、鎌倉時代にはどうだったのだろう。)




武蔵国の有馬は、橘樹郡にあった。
中原がもしも官人として橘樹周辺の中原にいたとすると、有馬氏とも何かしら関係があったかもしれない。有馬経澄がまだこの辺りに居て、その後肥前に渡り開発領主となり朝澄に相伝し、それを臨時的に蓮忍入道が相伝し、蓮仏に渡し、もとの有馬氏に戻したような気がしている。

橘樹⇒中原⇒稲毛⇒有馬 

橘樹郡の中原という地名の中の稲毛庄内にある有馬という場所

朝澄の息家澄・連澄が蓮忍・蓮仏であった可能性もある。
ただ、肥前太郎経久という人物が但馬国菅荘の地頭であったことを考えると、蓮忍入道が肥前の有馬氏の相伝をされたことから肥前太郎となったような気もするが、ではなぜ、但馬国では経久とし、蓮忍入道を名乗らなかったのか‥‥が不明となる。

*****


この典膳権亮が中原久経に当たるのだろうか?
しかし、この中原は大中臣の実久よりも前の人物になるのだろうか?
この辺りの意味がクリアにわかれば、前に進めると思うのだが、私にははっきりしないのだ。可能性としては、兄弟であったか? あるいは年代的には、息子の妻の父とも考えられるか? 

久寿二年(1155年)源久経(別人か・・・)
久寿二年(1155年)中原信兼

仁安三年(1168年)内膳典膳(従七位下)中原久経
養和元年二月 (1181年) 散位久経 奉行
寿永四年(元暦二年)(1185年)鎌倉殿御使 近藤国平と共に京都・畿内近国・鎮西・四国など廻る。




経久=沙弥蓮忍・蓮忍入道   (肥前太郎経久??)

丹波国御河村荘が室尾谷山観音寺に寄進をする文書(1239年)… 沙弥蓮忍
肥前国 高来郡深江の地頭職 相伝(1247年)… 深江入道蓮忍
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (1249年あたり?)… 蓮忍入道

但馬国菅荘案主 藤肥前前司経久(1285年以前)… 肥前太郎経久


臼井五郎久常も、同時代にいる。
中原久経は「久常」の記載もあったのか、そう書かれている本もある。

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源光行の娘は、1244年にまだ生きていた。

2025-02-16 | 九里バラバラ情報
源氏物語の研究者の源光行は、息 親行が1185-1187年あたりに生まれたという仮定により、建礼門院美濃局もそのあたりに生まれたかと思う。



1214年迄生きていた建礼門院に仕える女房という事になるが、年齢的にも壇ノ浦の戦い の時に生まれていたかどうか‥‥という事になる。

つまり、建礼門院徳子の栄華の時代ではなく、ひっそりと暮らしていた時代の女房となるのではないだろうか?
もしくは以前書いたように、母親も建礼門院の女房として出仕し、そこに幼い時分より連れて行かれていた、なども考えられる。(1185年以前に生まれていたとすると可能か・・・)

他の方の本に光行には他にも娘がいたのではないかという事であったが(下の資料)、私が調べた範囲では見つからなかった。

1185、1186年あたりの生まれと言えば、常忍の母の年代と同じである。
常忍の母は建治二年(1276年)に90歳で歿しているそうである。





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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(2)

2025-02-11 | 九里バラバラ情報

池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』
30頁-31頁
光行の妻への疑問があるようなので、確かめてみようと思う。

藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)
1099年に有光生まれる
1125年?三男有季生まれる
1150年?次男敦倫生まれる
1170年あたりに敦倫の娘が生まれる。
1187年に親行が生まれる。

あり得る範囲だと思う。



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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(1)

2025-02-10 | 九里バラバラ情報
藤原敦倫の周辺
敦倫の娘が、源光行の妻となって親行の母となった。

藤原明衡ー茂明ー敦経ー敦倫ー源光行妻(敦倫の養父が敦経)

藤原明衡ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)


では、藤原敦倫の周辺を調べてみよう。以下の系図も参考に進めようと思う。


藤原敦倫の養父であった敦経は藤原茂明と中原広俊の娘を父母としている。
藤原茂明は藤原敦基中原季成の娘を父母としている。
つまり、茂明の母も妻も中原氏となる。

敦経の養子に敦倫がいる。
藤原敦倫は、実は藤原有季の息である。敦倫の母はわからない。
有季の両親は、藤原有光三善為倫の娘である。(倫の文字はここからきていると思う。)

三善為倫



藤原有光の父は藤原敦光、母が源親光であり、祖父が藤原明衡となる。
敦光の妻にはもう一人、大中臣輔清の娘もいた。

敦光の祖父でもあった藤原明衡の母は、良峯英材の娘。
養子明業を迎えるが、明業は実は菅原明任の息である。
菅原明任の父は為職である。高祖父が菅原道真となる。

敦光の兄弟であった藤原敦基の息に茂明がいて、敦倫の養父であった。


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源氏物語研究者の源光行 再登場 (3) 建礼門院女房 美濃局の時代はいつか?

2025-02-09 | 九里バラバラ情報


親行と同年代であったすると、1185年-1189年に生まれたとあり、その前後に建礼門院女房美濃局とすると、出仕したのはいつなのか?と言う疑問が生じる。
源光行が1163年生まれなので、光行が18歳の時に美濃局が生まれたとして、4歳の時までに出仕したことになると思う。
という事は、母親も建礼門院の女房であった可能性も思う。(幼い子を連れて出仕)
または、時代が違い後の鎌倉時代に入ってからのことでもあるのだろうか?


1188年に徳子が歿したという説もある。上のページより




文治2年(1186)
4月下旬後白河法皇、お忍びで建礼門院を訪問する。

28日建礼門院、法性寺に隠棲する(『平家物語 延慶本』)。
文治三年(1187)2月1日源頼朝が平家から没収した領地のうちから、摂津国真井、鳥屋の両荘園を建礼門院に与えた(『吾妻鏡』)。



文治四年(1188)2月15日頃
 建礼門院、往生する(仮説)


光行の娘は京在住の人物もいたそうなので、建礼門院美濃がそうであったのかもしれないと思う。

また、上にあげた系図の光行の兄にあたる『能廣』が気になっている。大江能廣・中原能廣が存在する。

など、考えているうちに池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』が届いた!



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源氏物語研究者の源光行 再登場 (2)

2025-02-07 | 九里バラバラ情報
新古今和歌集の部屋さんより、記事の一部をお借りする。(感謝)

吉書始

建久九年(一一九八)戊午 この年、光行、鎌倉へ移住か。
正治元年(一一九九)己未 一月源頼朝病歿す。
二月光行は、源頼家征夷大将軍就任の吉書始に鎌倉幕府重臣らと列座し、その政所にある。
正治二年(一二〇〇)庚申 十二月光行は石清水社歌合(前大和守従五位上源朝臣光行)に列座。関東より上洛した折の出座か。

以下の論文から、系図と飯富庄の飯富季貞と源光行の周辺の記載のある一部を貼って参考にしていきたいと思う。






この部分の「文治」は多分間違いと思われる。
文治元年は1185年で、
寿永と文治は重なっていることから、源義仲の征夷大将軍就任の際となってしまう。(義仲が征夷大将軍は今初めて調べていて知ったのであるが‥‥)

この記事の上に池田利夫著の論文からひいた、新古今和歌集の部屋さんの記事の【正治元年】(1199年)が正しいのではないだろうか?
また、頼朝が歿した直ぐ後のことで、まだ頼家も正式には征夷大将軍には就任してはいないが、第二代鎌倉殿に就任したという事になるのかもしれない。

源光行、36歳の頃である。




源光行は長生きで、81、82歳まで生きていた。
光行(寂因)ー親行(覚因・弟が素寂)ー義行(聖覚)ー知行(行阿)ー 経行(大和守)

その源氏物語研究は脈々と続き、曾孫の行阿も源氏学の権威となっている。

此の親行は、文治年間(1185年 - 1189年)頃の生まれと推察され、文永年間(1264年 - 1274年) まで史料上で見えているそうだ。(wikipedia情報)

父の光行と交代で政所に出仕していたそうなので、気を付けていれば吾妻鑑に記載があるかもしれない。
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源氏物語研究者の源光行 再登場

2025-02-06 | 九里バラバラ情報
源光行の娘は建礼門院美濃であり、美濃は建礼門院=平徳子のすぐそばに居た人物である。
平徳子は安徳天皇の母親であり、壇ノ浦の戦いで生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔いながら生きるという 激動の人生を送る。

さて、ここで思い起こすことがある。
九里太郎=蓮忍入道が冨城蓮忍として居たのが因幡国の冨城郷であり、岡益の石堂のすぐ近くなのである。(もしかすると冨城郷内にあったのかもしれない)

岡益の石堂は安徳天皇陵墓参考地、ともなっている。



つまり、そこを守る役目も負っていたのではないか?という事を考えてしまう。
もしもそうならば、この源氏物語の研究者であった源光行の近くに存在していた冨城蓮忍であっても、なんら不自然ではないと思うのだ。

但し、近頃の私の想定では、蓮忍は1200年ジャストあたりに生まれたとしており、安徳天皇が歿してからやや間が空いている。
蓮忍が因幡国の在庁官人となっていたのは、たぶん1245年前後か?と想定している。

1250年(もしくは1249年?)には、東国下総国にいて(帰ってきて?)千葉氏の執事的な役目を弟カ甥の常忍が負っている。

常忍の母は千葉氏という。夫は源光行という説があり、そこを調べているのである。同じ時代に、目立つ源氏の光行が三人は存在するため、その見極めが難しく、また、本当に源光行が父であったという証拠もない

土岐光行、南部光行(=信濃三郎光行)など、【光行】は人気の名前であったようなのだ。

富木常忍と共に同じ千葉氏の執事的な人物に【長専】がいたが、此の周辺を調べてみると、意外と源氏物語研究者のの源光行との接点があるかもしれない…と云う気になった。






これから、この辺りを煮詰めていきたいと思う。





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養和元年二月 1181年 散位久経 奉行 (新情報)

2025-02-05 | 九里バラバラ情報
今まで、1185年以前の久経の情報が見つかっていなかったのだが、新たに吾妻鑑(吉川本 第1-3 第1)のなかに情報を見つけることができた。




災厄を払う神拝を…の部分である。
志田三郎先生義広が、鹿島社領、鹿島新宮領を荒らしたようである。

1181年、鎌倉にいたのだと思う。
そして、中原氏らしい働きをしていた!
鹿島神宮の関係者でもあるのだろうか…

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羽衣伝説

2025-02-05 | 佐々氏 バラバラ情報
養老七年(723年) 羽衣伝説の記載あり 餘語(余呉)氏を調べてみる。

餘語氏のことから菅原氏(土師氏)を調べることとなったが、そのミナモトには秦氏が移り住んできた事に起因するのではないか?と思い至った。

【絹織物関係の秦氏】

以前も繭を育てる秦氏、織物の秦氏あたりを調べていたが、伊香郡との接点はどうだったのだろう。

繭と糸無くしては織物ができないので、やはり羽衣を創れる素材と人材がそこにはあった、居たのだと思う。

秦氏は、かなり広範囲に分布している。
直ぐ近くにも依知秦氏がいたので、そのあたりとのつながりがあったと思う。

そのような眼で探すと【琴の糸】というページを見つけたので、ご紹介しておこうと思います。




(浜ちりめんの歴史)

【北近江(湖北地方)における絹織物の歴史は大変古く、記録によると、すでに和銅(わどう)年間(708~)に「綾錦(あやにしき)」という絹生地(きぬきじ)が織られていました。】とあり、上記の723年の羽衣伝説の記載よりも前に、すでにあったという事になる。

秦氏が居住していたか、指導にやって来ていたか、で、接点はあったはずである。


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