九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(2)

2025-02-11 | 九里バラバラ情報

池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』
30頁-31頁
光行の妻への疑問があるようなので、確かめてみようと思う。

藤原明衡ー敦光ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)
1099年に有光生まれる
1125年?三男有季生まれる
1150年?次男敦倫生まれる
1170年あたりに敦倫の娘が生まれる。
1187年に親行が生まれる。

あり得る範囲だと思う。



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源光行の妻であり、親行の母であったと思われる【藤原敦倫】の娘の周辺(1)

2025-02-10 | 九里バラバラ情報
藤原敦倫の周辺
敦倫の娘が、源光行の妻となって親行の母となった。

藤原明衡ー茂明ー敦経ー敦倫ー源光行妻(敦倫の養父が敦経)

藤原明衡ー有光ー有季ー敦倫ー源光行妻(敦倫の実父が有季)


では、藤原敦倫の周辺を調べてみよう。以下の系図も参考に進めようと思う。


藤原敦倫の養父であった敦経は藤原茂明と中原広俊の娘を父母としている。
藤原茂明は藤原敦基中原季成の娘を父母としている。
つまり、茂明の母も妻も中原氏となる。

敦経の養子に敦倫がいる。
藤原敦倫は、実は藤原有季の息である。敦倫の母はわからない。
有季の両親は、藤原有光三善為倫の娘である。(倫の文字はここからきていると思う。)

三善為倫



藤原有光の父は藤原敦光、母が源親光であり、祖父が藤原明衡となる。
敦光の妻にはもう一人、大中臣輔清の娘もいた。

敦光の祖父でもあった藤原明衡の母は、良峯英材の娘。
養子明業を迎えるが、明業は実は菅原明任の息である。
菅原明任の父は為職である。高祖父が菅原道真となる。

敦光の兄弟であった藤原敦基の息に茂明がいて、敦倫の養父であった。


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源氏物語研究者の源光行 再登場 (3) 建礼門院女房 美濃局の時代はいつか?

2025-02-09 | 九里バラバラ情報


親行と同年代であったすると、1185年-1189年に生まれたとあり、その前後に建礼門院女房美濃局とすると、出仕したのはいつなのか?と言う疑問が生じる。
源光行が1163年生まれなので、光行が18歳の時に美濃局が生まれたとして、4歳の時までに出仕したことになると思う。
という事は、母親も建礼門院の女房であった可能性も思う。(幼い子を連れて出仕)
または、時代が違い後の鎌倉時代に入ってからのことでもあるのだろうか?


1188年に徳子が歿したという説もある。上のページより




文治2年(1186)
4月下旬後白河法皇、お忍びで建礼門院を訪問する。

28日建礼門院、法性寺に隠棲する(『平家物語 延慶本』)。
文治三年(1187)2月1日源頼朝が平家から没収した領地のうちから、摂津国真井、鳥屋の両荘園を建礼門院に与えた(『吾妻鏡』)。



文治四年(1188)2月15日頃
 建礼門院、往生する(仮説)


光行の娘は京在住の人物もいたそうなので、建礼門院美濃がそうであったのかもしれないと思う。

また、上にあげた系図の光行の兄にあたる『能廣』が気になっている。大江能廣・中原能廣が存在する。

など、考えているうちに池田利夫著の『新訂 河内本源氏物語成立年譜攷 ―源光行一統年譜を中心にー』が届いた!



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源氏物語研究者の源光行 再登場 (2)

2025-02-07 | 九里バラバラ情報
新古今和歌集の部屋さんより、記事の一部をお借りする。(感謝)

吉書始

建久九年(一一九八)戊午 この年、光行、鎌倉へ移住か。
正治元年(一一九九)己未 一月源頼朝病歿す。
二月光行は、源頼家征夷大将軍就任の吉書始に鎌倉幕府重臣らと列座し、その政所にある。
正治二年(一二〇〇)庚申 十二月光行は石清水社歌合(前大和守従五位上源朝臣光行)に列座。関東より上洛した折の出座か。

以下の論文から、系図と飯富庄の飯富季貞と源光行の周辺の記載のある一部を貼って参考にしていきたいと思う。






この部分の「文治」は多分間違いと思われる。
文治元年は1185年で、
寿永と文治は重なっていることから、源義仲の征夷大将軍就任の際となってしまう。(義仲が征夷大将軍は今初めて調べていて知ったのであるが‥‥)

この記事の上に池田利夫著の論文からひいた、新古今和歌集の部屋さんの記事の【正治元年】(1199年)が正しいのではないだろうか?
また、頼朝が歿した直ぐ後のことで、まだ頼家も正式には征夷大将軍には就任してはいないが、第二代鎌倉殿に就任したという事になるのかもしれない。

源光行、36歳の頃である。




源光行は長生きで、81、82歳まで生きていた。
光行(寂因)ー親行(覚因・弟が素寂)ー義行(聖覚)ー知行(行阿)ー 経行(大和守)

その源氏物語研究は脈々と続き、曾孫の行阿も源氏学の権威となっている。

此の親行は、文治年間(1185年 - 1189年)頃の生まれと推察され、文永年間(1264年 - 1274年) まで史料上で見えているそうだ。(wikipedia情報)

父の光行と交代で政所に出仕していたそうなので、気を付けていれば吾妻鑑に記載があるかもしれない。
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源氏物語研究者の源光行 再登場

2025-02-06 | 九里バラバラ情報
源光行の娘は建礼門院美濃であり、美濃は建礼門院=平徳子のすぐそばに居た人物である。
平徳子は安徳天皇の母親であり、壇ノ浦の戦いで生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔いながら生きるという 激動の人生を送る。

さて、ここで思い起こすことがある。
九里太郎=蓮忍入道が冨城蓮忍として居たのが因幡国の冨城郷であり、岡益の石堂のすぐ近くなのである。(もしかすると冨城郷内にあったのかもしれない)

岡益の石堂は安徳天皇陵墓参考地、ともなっている。



つまり、そこを守る役目も負っていたのではないか?という事を考えてしまう。
もしもそうならば、この源氏物語の研究者であった源光行の近くに存在していた冨城蓮忍であっても、なんら不自然ではないと思うのだ。

但し、近頃の私の想定では、蓮忍は1200年ジャストあたりに生まれたとしており、安徳天皇が歿してからやや間が空いている。
蓮忍が因幡国の在庁官人となっていたのは、たぶん1245年前後か?と想定している。

1250年(もしくは1249年?)には、東国下総国にいて(帰ってきて?)千葉氏の執事的な役目を弟カ甥の常忍が負っている。

常忍の母は千葉氏という。夫は源光行という説があり、そこを調べているのである。同じ時代に、目立つ源氏の光行が三人は存在するため、その見極めが難しく、また、本当に源光行が父であったという証拠もない

土岐光行、南部光行(=信濃三郎光行)など、【光行】は人気の名前であったようなのだ。

富木常忍と共に同じ千葉氏の執事的な人物に【長専】がいたが、此の周辺を調べてみると、意外と源氏物語研究者のの源光行との接点があるかもしれない…と云う気になった。






これから、この辺りを煮詰めていきたいと思う。





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養和元年二月 1181年 散位久経 奉行 (新情報)

2025-02-05 | 九里バラバラ情報
今まで、1185年以前の久経の情報が見つかっていなかったのだが、新たに吾妻鑑(吉川本 第1-3 第1)のなかに情報を見つけることができた。




災厄を払う神拝を…の部分である。
志田三郎先生義広が、鹿島社領、鹿島新宮領を荒らしたようである。

1181年、鎌倉にいたのだと思う。
そして、中原氏らしい働きをしていた!
鹿島神宮の関係者でもあるのだろうか…

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羽衣伝説

2025-02-05 | 佐々氏 バラバラ情報
養老七年(723年) 羽衣伝説の記載あり 餘語(余呉)氏を調べてみる。

餘語氏のことから菅原氏(土師氏)を調べることとなったが、そのミナモトには秦氏が移り住んできた事に起因するのではないか?と思い至った。

【絹織物関係の秦氏】

以前も繭を育てる秦氏、織物の秦氏あたりを調べていたが、伊香郡との接点はどうだったのだろう。

繭と糸無くしては織物ができないので、やはり羽衣を創れる素材と人材がそこにはあった、居たのだと思う。

秦氏は、かなり広範囲に分布している。
直ぐ近くにも依知秦氏がいたので、そのあたりとのつながりがあったと思う。

そのような眼で探すと【琴の糸】というページを見つけたので、ご紹介しておこうと思います。




(浜ちりめんの歴史)

【北近江(湖北地方)における絹織物の歴史は大変古く、記録によると、すでに和銅(わどう)年間(708~)に「綾錦(あやにしき)」という絹生地(きぬきじ)が織られていました。】とあり、上記の723年の羽衣伝説の記載よりも前に、すでにあったという事になる。

秦氏が居住していたか、指導にやって来ていたか、で、接点はあったはずである。


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通明寺 元は【土師寺】という名であったそうだ。

2025-02-01 | 古代からのつながり


土師連八島の邸宅があり、その後寄進した 推古二年(594年)場所付近 ↓ 土師寺=道明寺



奈良に移った後の場所 秋篠・菅原の文字が見える。
大江はこの周辺は見当たらないようなのだが、秋篠や菅原とは離れた場所の大和郡山市の右手に大江町があった。


↓ 菅原付近


↓ 大江町




続日本紀によれば、桓武天皇の母方の祖母・土師真妹は山城国乙訓郡大枝郷(大江郷)の土師氏出身である。 桓武天皇、早良親王の母となった。土師氏の一族は、桓武天皇にカバネを与えられ、河内土師氏は改姓せず残るが[、秋篠氏・菅原氏、大枝氏(後に大江氏)に分かれていった .(wikipedia)

山城乙訓郡大枝郷
 ↓


月読神社の裏手の山を越えたあたりが【大枝郷】となるようである。
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第十六次遣唐使 延暦二十三年 筑紫発 

2025-01-29 | 佐々氏 バラバラ情報






この第十六次遣唐使には、最澄も、空海も、橘逸勢も参加していた。
この表を見ると、菅原清公善主梶成良峯長松(医師)など、聞いたことのある人物が多い。




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菅原氏を調べていると、余語氏との関係が見えてきた。

2025-01-27 | 佐々氏 バラバラ情報

菅原姓 佐々系譜
餘語右衛門大夫菅原入道梅哲 先祖は江州 餘語庄人








佐々加賀守一義 京極高次の家臣とある。
京極高次の分限帳に【九里】の名前が載っている。

さて【久利・久里・九里一族】の本のなかの
菅原氏との関連部分によると、久利民部真利 が出てくる。















上記のページには
『北岡城は,秦久利の居城でした。秦久利は,菅原道真公によく仕え,菅公も文学の才のありました秦久利を愛し,親交があってしばしば城を訪れました。
 秦久利は,老いて1女のみであったので,菅公がこれを憐れみ,族子をおくって家を継がせ,その名を久利長門守といいました。・・・』

とある。

龍燈院と菅原道真にも秦久利が登場する。


佐々氏の系譜の中に江州の餘語庄人であったと記載があるが、その【餘語庄】は、中原が住んでいた所なのではないだろうか?

以前書いた自分のブログからだが、此の中原俊興(余呉大夫)は、実は、秦久利の関係者?なのだろうか?
秦氏は機織りの技術を日本に伝えたではないか。
餘語の『ご』は、余【呉】とも書くように呉国と関係がありそうだと思う。
羽衣伝説も絹の織物が登場する物語であるように。





此の俊興の父是俊の役職に『織部少允』と見える。
織部司の許で働いていたのではないだろうか?
頭・助・大允・少允・大属・少属…

織部司 ↓

この父の名前に『』という文字が含まれているのも、菅原氏の【是善】から来ているのではないかと思われる。

菅原道真903年没で、俊興『住近江国伊香郡』の記載が天慶二年(939年)。
さらに遡り、長城の註を見ると『太宰少監』とある。

菅原道真の左遷の様子は、wikipediaによると『昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、1月25日に大宰員外帥に左遷された』とある。

それに追随していった者に中原長城がいたのではないだろうか?
そう思って、中原長城を調べてみると、それ(左遷)以前に太宰に赴いていた人物であったことが分かった。

筑後国司が殺されたという事件があり、事件を収めるために中原長城が兵を連れて筑後へ行くという事のようである。元から大宰府に居たのだろうと思う。

同じ文書内に菅原宗岳(菅原善主の息)が登場し、判官巡察弾正菅原宗岳が事件の糾明のために大宰府へ派遣されたそうだ。

菅原道真が845年生まれで、此の事件が元慶七年(883年)なので、38歳の時の事件となる。

さて、中原の系図を見ると讃岐に関係する人物が二人いたことがわかる。
弘宗王と中原長谷(長城の父)である。
弘宗王は讃岐権守、中原長谷は讃岐権介である。
長谷の息の【月雄】にも讃岐権掾とある。

それら註と秦久利は、何かしら関係があるのだろうか?

近江国の中原氏も依知秦氏と婚姻関係や養子縁組はあったのではないかと想像もできる。

つまり、近江国の湖北の中原氏は、秦氏の血も入っているのではないかと思うのだ。


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