白井鏑木氏
鏑木城は、下総の名族千葉氏の庶流鏑木氏の居城である。鏑木氏は、千葉常胤の孫胤時の子九郎胤定が下総国鏑木郷に分封されて鏑木氏を称したことに始まる。原氏・円城寺氏・木内氏と共に「千葉四天王」と称される。
鏑木城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。城の南は現在は一面の水田となっているが、中世の頃には椿海と呼ばれる広大な内海があった。
香取郡誌
↓ 文永十年 1273年
そして宝治合戦。
再びここに舞い戻ってきた。
確か稲毛十郎と深江平朝澄の時である。
上記の第二章 鎌倉時代の上総金田氏 その二 も言及しているように、まるで討伐を知っていたかのように、用意されていた感がある。
あの、肥前国高来郡の深江の譲り渡しの文書もそうであったように‥‥
何処かに違和感を感じるのだ。
そして上総・下総にも「原氏」が見え、肥前の深江の「原城」がみえる。
共に上総介との関係のある「原氏」なのではあるまいか。
白井氏と臼井氏 文字が似ているため混乱してしまうのだが、臼井氏は後に原胤定に乗っ取られてしまい、其の原氏から胤信(ジョアン原主水)が出るのだ、何だか近いような気もするのである。(場所も臼井と白井は隣である。)
さて、此処を間違いのないように進めないと‥‥
鏑木氏の居城のあった現在の旭市と椿海を挟んで反対側に匝瑳があった。
[荘園名]匝瑳 ... 椿海の東端に位置す …とある。(匝瑳庄)
新たに気にかかっているのが匝瑳氏である。
此の一族は、熊野と縁が深く、湯浅氏とも養子縁組でつながりがあるのである。
しかも場所は九十九里の浜に面している。
匝瑳常広の子息宗光が紀伊国在田郡湯浅残党の湯浅宗重の養子と記されている
更に金田頼次は、三浦義澄の娘婿であった事がわかり、三浦半島の佐原城跡
より15キロほどのところに金田港がある。こちらは久里浜で、やはり久里や九里という文字がある。
娘婿の金田頼次に譲った領地だったのではないだろうか?
木更津にも金田があり、三浦半島の金田港と行き来をしていたのではないだろうか?(全くの仮想)
鏑木氏と金田氏
金田氏と三浦・佐原氏
匝瑳氏と湯浅氏
湯浅氏と紀伊国
・・・とつながる。
そして熊野本宮!
九里氏の始まりは藤原秀郷流の一員であり近江国の中原氏の息となった人物(久経)であったろうと思っているのだが、その後は、千葉氏とも、三浦氏とも関係があったかもしれないと思っている。
匝瑳氏のように匝瑳南条荘が熊野宮の領地であったこと、
匝瑳氏から湯浅氏となった人物がいたことから、九里氏も熊野本宮とつながりを持つに至ったのではないだろうか?
その系が和歌山の系図のある九里氏となったのではないだろうか?
そして、柏原藩の九里の系も元を遡ると、藤原秀郷流と近江国中原氏であったと思うが、上総介広常の周辺である原高春・前野氏と関係があったように思う。
という事は、鏑木氏や金田氏とも関係してくるのではないだろうか?
しかし、
『臼井氏と匝瑳氏とは千葉常胤の叔父臼井常康・匝瑳常廣を初代とする一族。上総広常の兄弟臼井親常・匝瑳常成とどのような関係なのか不明である。』・・・とある。
さらに、近江の金田庄にいた九里氏は、下総・上総・三浦半島の金田氏ともつながりを持っていたのではないだろうか?
此の東国と近江国のつながりは、藤原秀郷の時代から続いていたのではないだろうか?
今後の課題としては、湯浅宗重と匝瑳常廣の息宗光
臼井常康と親常
匝瑳常廣と常成