【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源光重 と その周辺 (メモ)

2018-04-20 | 雑記
「波多野御曹司」と書いてある。


親光の次に親朝。その親光と大中臣の親光。中原親光・藤原親光。。。親光と朝親・親朝の組み合わせが多いこと~。悩めます。





https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%99%82%E5%85%89



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近江に住んでいた「大中臣親光」 この人が美作で、本郷氏になったのか???(メモ)

2018-04-20 | 大中臣氏



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大中臣氏系図の中の「輔清・清親」 と 清原氏系図の中の「輔清・清親」

2018-04-20 | 大中臣氏

下は「清原氏系図」


下は「大中臣氏系図」







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大中臣清親とその周辺 (メモ) 

2018-04-20 | 雑記


https://books.google.co.jp/books/content?id=-wt-YQkFCpYC&hl=ja&pg=PT150&img=1&zoom=3&sig=ACfU3U0z3kBPjmTCfMCMvZZ-ow4YMqGZog&ci=44%2C180%2C929%2C1386&edge=0


大中臣清親(おおなかとみ の きよちか、生年不詳 - 保元2年(1157年))は、平安時代末期(崇徳・近衛朝)の伊勢神宮宮司。岩出と号する。祭主大中臣輔清の長男で、母は斎院次官源親長女。子に大中臣清宣らがいた。

保延4年(1138年)祭主に任ぜられ、その後神祇大副・伯代宣旨を受ける。斎宮大別当に補任され、康治元年(1142年)非参議になる。久寿2年(1155年)後白河天皇即位の大嘗会の賞により正三位に叙せられた。保元2年薨去。


大中臣親定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大中臣 親定(おおなかとみ の ちかさだ、長久4年(1043年)-保安3年1月28日(1122年3月8日))は、平安時代後期の神官。
名は「むつさだ」とも読む。父は伊勢祭主大中臣輔経。母は斎宮寮頭大中臣兼興女。子に親仲・親宣・親能・親康・師親らがいた。

文章生や勘解由次官を経て、永保2年(1082年)従五位上・神祇権少副に任官した。応徳3年(1086年)神祇少副に転じる。寛治5年(1091年)には同族の大中臣惟経・大中臣親長・大中臣輔弘らと伊勢祭主職を競望し、親定は藤原師通に「文盲」とそしられたが、源経信・藤原実季の推挙により祭主に補任された。嘉保元年(1094年)祭主在任時の功績により従四位上に昇進。天仁元年(1108年)には鳥羽天皇の大嘗会寿詞奏の褒賞により従三位に昇叙された。天永2年(1111年)神祇伯に任ぜられたが、大中臣氏出身者の神祇伯は親定で最後である。永久2年(1114年)美濃権守を兼任し、保安3年(1122年)正月28日に80歳で薨去した。

大中臣親仲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大中臣親仲(おおなかとみ の ちかなか、延久5年(1073年) - 保延6年9月29日(1140年11月10日))は、平安時代後期の神官。父は伊勢祭主神祇伯大中臣親定。母は三善章経女。親兼・親経・親章・親通・親隆・親範らの父。

伊勢守・常陸守などを歴任し、正四位下神祇権大副に至った。この間、堀河天皇の康和5年(1103年)10月22日に昇殿を許される。嘉保2年(1095年)に内宮造宮使を勤め、保延元年(1135年)には外宮造宮使をも勤めた。保延4年(1138年)には家職である伊勢祭主に補任されるはずだったが、同族の大中臣清親が親仲の老衰を訴え、親仲に代わって祭主に任ぜられた。保延6年(1140年)9月29日卒去。享年68。


大中臣 親章(おおなかとみ の ちかあき、康和5年(1103年) - 永暦2年1月25日(1161年2月21日))は、平安時代後期の伊勢神宮祭主。父は正四位下神祇権大副大中臣親仲。母は橘宗季女。大中臣為親・大中臣親家らの父。

天永元年(1110年)7月17日に8歳で従五位下に叙されて以後、たびたびの造宮及び祈祷の褒賞により昇進を重ね、仁平4年(1154年)には従四位上に昇叙された。保元2年(1157年)祭主・神祇大副になり、在任5年だった。この間、二条天皇の大嘗会寿詞奏の功績により従三位に叙せられた。永暦2年(1161年)正月25日(一説には29日)薨去。山城守や河内守などの地方官としても実績があった。
参考文献

角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店、1994年。
近藤敏喬編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年。
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源光保 と その周辺 (メモ)土岐光信の弟(源氏)と大中臣氏が繋がった。

2018-04-20 | 美濃源氏

http://minogenji.html.xdomain.jp/page074.html

そして「興定三郎トハ友員の郎党」とあったように、日野氏の有師が友員(有仁の勾当)で、その郎党が土岐氏(=隠岐氏)ということはないだろうか?

その周辺を探っていると【源光保】に出会った。以前にも記事にしていたかもしれないが、新しい気持ちで書いてみようと思う。
この人は、母親が大中臣輔清の娘で、この輔清の長男が「岩田家」の祖となる「大中臣清親」である。

大中臣 清親
[ 寛治元(1087)年 ~ 保元2年8月7日(ユリウス暦:1157年9月12日) ]
神祇大副輔清一男。
康治元年11月14日(ユリウス暦:1142年12月2日)叙従三位。
正三位・非参議・神祇大副・祭主。


源光保(泰) wikipediaより

(1137年検非違使左衛門少尉。1154年出雲守。1156年正四位下)
[父、源光国。母、神祗大副大中臣輔清娘]兄、土岐光信(母は別の女性)

1156年6月、保元の乱の前、鳥羽殿を守護。源義朝より位は高い。
平治の乱(1159)前半で藤原信西を発見、斬首。但し後半の二条天皇が六波羅に脱出して以降は清盛側に。
保元の乱自体が当初反信西の色彩が強く、源光保は二条天皇派の軍事貴族として反信西の一点で後鳥羽院派の反信西勢力、藤原信頼と共闘したものと思われる。
平清盛は最初は中立派だった。
後半は共通の敵信西無き後の院政派と二条天皇親政派の分裂か?摂津源氏の頼政一党も後半では義朝と戦う。 
1160年6月、後白河上皇の命を狙った疑いで、薩摩国配流(川尻で誅殺) 。これ以降平清盛の軍事独裁が始まる。

参考: 「院政の展開と内乱」p74(京大:元木泰雄)


weblioより

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。

生涯

大治5年(1130年)、闘乱事件の罪により兄・光信の土佐国への配流が決定すると光保もこれに連座して右兵衛尉の任を解かれたが間もなく還任される。
その後、兄に代わり鳥羽法皇の北面武士を務めた際、娘(土佐局)が法皇の寵妃となったことを契機としてその近臣となり、仁平元年(1151年)の院昇殿を皮切りに、久寿元年(1154年)には従四位下・出雲守となり、さらに保元元年(1156年)には正四位下に叙されるなど異例の早さで昇進した(『兵範記』)。

保元元年(1156年)7月に鳥羽院が崩御すると院近臣の一人として藤原信輔や信西らと共に入棺の役を務めた。また美福門院に近かったことから、その猶子となっていた守仁親王(後の二条天皇)の側近となり[1]、直後の保元の乱にあたっては甥の源光基(土岐氏の祖)と共に後白河天皇方に参加して勝利する。
乱の後、即位した二条天皇の親政派と退位した後白河上皇の院政派が対立を生じると、光保はかねてからの関係により終始前者の側に立って行動する。

その流れの中で平治元年(1159年)に勃発した平治の乱にあたっては、嫡男・光宗や甥の光基らを率いて藤原信頼・源義朝方に参加、第一の攻撃目標に掲げられていた信西を追跡し、山城国において発見・殺害するという大功を挙げた。

しかし同じ親政派の葉室惟方や大炊御門経宗の裏切りにより二条天皇が内裏から脱出すると、信頼方に味方する理由を失った光保一党は動揺し、初め陽明門の守備に付くが、最終的には寝返って平清盛方に加勢した。
このため乱の直後は処罰を免れるが、二条親政派の排除を意図した後白河院によって、引き続きその立場を狙われることとなる。

永暦元年(1160年)6月、後白河院の命を狙ったという罪状でついに光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流となった。さらに間髪を置かず、同国川尻(鹿児島県指宿市)において誅殺された。

参考文献

宮崎康充 「古代末期における美濃源氏の動向」『書陵部紀要』第30号(1979年、宮内庁書陵部)

関連項目

美濃源氏


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土岐氏の中の深栖氏 (メモ)

2018-04-20 | 美濃源氏
源光重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

養父・仲政が国司として東国に下向した際、兄たちと共に同行し現地に所領を得て居住したとされる。
しかし、所領の位置については下総国とも下野国とも云われており明確でない。
『平治物語』には子の頼重が京から東国の深栖一族の所領にまで源義経を招き入れた際にこれを出迎える存在として登場している。『尊卑分脈』には光重が「波多野御曹司」と称したと記載されているが、その詳細については不明である。

本拠地・深栖の所領は五男仲重の子孫が代々相伝し、鎌倉時代以降も御家人として続いたことが『吾妻鏡』にみえている。
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加地八郎左衛門女『尼浄智』と三善氏・富来氏との関連。(メモ)

2018-04-20 | 三善氏

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f9d1f051373ea275ff1e8e61e1f5c7e6

加地実秀女が三善氏の妻であって『尼浄智』と仮定する。

三善氏の一族の中に富木氏(富城・富来・土岐)がいた。(三善大田乗明の姉の夫が富木常忍であった。)

そして、もしかするとその加地実秀は大友実秀と同一人物であった可能性もあるという。
下記との関係が、この加地氏とのことにつながってくるのかどうかは不明だが…

大友能直は父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

昨日、大田昌明という人物を見つけた。乗明と関係がありそうな名前である。

また、土岐氏と大中臣氏の関係も見つけた。

大中臣氏と那珂氏の関係が福知山の金山氏の「大中臣系図」で見ることができたが、それ以外に、今度は近江に住んでいたと書かれている大中臣氏の系図を見つけたので、次の記事に書いてみようと思う。


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土岐氏と深尾氏を調べていたら…

2018-04-12 | 浅小井深尾氏
下記のHPが出てきた。
http://miwagine.nobu-naga.net/miwanorekisi.html

太郎丸城の概要(首陽城または旭城とも云う)                                        
1、築城 文明10年2月(西暦1469
2、城主 深尾和泉守重列 宇多天皇近江源氏佐々木氏流深尾氏
3、概要
深尾氏の祖先高義は、近江国深尾村(現三重県員弁郡藤原町古田地区)に住み、
その子行信を経て、その子重列に至り、加納城主斎藤利藤と誼を通じていたので
その招きにより、文明10年2月山県郡に移り、太郎丸地区野田の地に太郎丸城
を築きこれに住み、美濃国守土岐氏に仕え大桑城の支城として、北野城(鷲見氏)
とともに勤める。
土岐氏滅亡後斎藤道三に仕える大永4年68才(1524)病にて卒せり。墓地
は龍翔禅寺南にあり、位牌は高富大桑深尾家菩提寺般若寺にあり。重列は菅原神を
敬い、姓を菅原に改めて、梅鉢を家紋とするも、斎藤と同紋なるため、旗印しは
日の丸に改めたと云われている。
その子、二代城主、重盛氏(重利ともいう)織田信長に仕える。永禄3年(1560)
織田信長に従い桶狭間の戦に参加(土井、山田、大塚、土本、塚本、桑原これに
従う)今川義元氏滅亡す。
永禄7年9月(1564)信長斎藤龍興を改める。深尾重盛火を城下に放ちて攻める。
龍興の臣、不破、安藤、稲葉等の武将、重盛によって降伏を願う。城ようやく落ち
龍興紅州浅井長政方へ落ちてゆけり。重盛永禄8年6月(1565)病に卒す。
62才、法号 済川道弘大禅定門、夫婦の位牌、龍翔禅寺に葬る。
その子、三大城主長男 重政あとを継ぎ、織田信長に仕える。天正元年8月(1573)
越前朝倉氏との戦(姉川の戦)に参加する。(土井、塚本、山内、山県氏これに従)
天正4年信長安土城に移る。岐阜城主織田信忠に仕える。天正10年6月本能寺の
変にて、信長、信忠自害、豊臣秀吉の天下となるや、三男重良に譲り浪人となる。
文禄2年1月(1696)65才卒す。位牌 心光宗伝大禅定門 龍翔禅寺に葬る。
4代城主重良織田信孝に仕える。信濃国高遠城攻撃左大腿部を傷付き癒えざるため
太郎丸城に在りて参加せず。天正11年11月織田信孝の臣、遠藤慶隆、遠藤慶嵐
周囲の豪家を焼いて太郎丸城を攻める。門の外に出て大いに奮戦せり。
この戦いで重三戦死する。後和睦して信孝に仕える。信孝秀吉と戦い戦死す。


六地蔵石幢 (ロクジゾウセキトウ)
1、今立年月日  享保壬寅7年(西暦722年)
1、場   所  旧美濃国山県郡太郎丸村六地蔵四辻
1、道   標  右ハせきむら 1里18丁
         左ハすわらみち
1、呼   称  1名 嘘つき地増
          道標に右 せきむら 1里18丁とあるがそれ程近くない
          嘘をついているので、今でも嘘吐き地蔵と言われている。
         1名 子守地蔵
          昔し地蔵様に子供を背負わして農作業に精を出したので、
          子守地蔵とも唱えています。
1、旧江戸時代には、大名道路の四辻に建立されていて、その地が六地蔵という
地名になった。口伝えによれば、昔寂しいところで、しばしば追い剥ぎや送り
狼がでたので、六地蔵を祀り、村人や旅人の安全を願って建てたものと伝えて
います。 昭和30年代の土地改良で現在地に移転安置しました。
2、参考
    六道(地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)苦悩する、人々を救う為に、
    六つの分身になられたとされ、六地蔵尊を石幢に刻んで安置されたもので
ある。
太郎丸「かけつ」の伝承

太郎丸「太郎丸団地」前付近一帯は、江戸時代から明治30年頃まで一面に花の菖蒲や
「かけつ」が群生していて、「かけつケ洞」と呼んでいた。
花盛りの5月~8月期には、食堂や出店売店等が出て大勢の見物客で賑わい、芸者の姿や
三味線の音が聞こえたと伝えています。
明治30年前後に改田工事が行われ皆な、田に変わったという。その池の畔に大辨方尊天の
水上様がお奉りしてあったのを、土地改良の時山裾に奉り替えて現在に至っている。
新種「太郎丸かけつ」
この地でカケツの新種が発見されて、それを「太郎丸カケツ」という


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二階堂行政 (メモ)

2018-04-12 | 二階堂氏
二階堂行政 https://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂行政
この人は、
父:工藤行遠、
母:藤原季兼娘(藤原季範妹)

秦氏の娘

とあるように、尾張氏と秦氏と藤原氏と婚姻関係があり、仕事上では政所執事として代々世襲しており、鎌倉時代は大江氏・三善氏と共に働いていた。


二階堂行政の息である二階堂行光の系は、のちに須賀川城主となり、家臣に「矢部氏」がいる。
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佐々木行実 息 盛実=井源太=浅小井武蔵守盛実

2018-04-11 | 浅小井深尾氏

豊浦冠者佐々木行実 ― 盛実(井源太)(佐々木荘下司・佐々木宮神主)- 家実(井源太)― 家員(平井)・基重(住常陸・井上祖)・長家(浅小井四郎・山田・深尾・奥島祖)・高実(馬場祖)
 
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051e1.htm#006                                
浅小井系の深尾氏と
真野系の深尾氏

2つの流れがあるそうだ。

明日またじっくりと考えてみよう!
                                    


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