九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

九里氏と中島氏の接点  ともに伊庭氏被官であり、中島氏は舟木にいた。

2023-12-05 | 九里バラバラ情報
一番「にっかり青江」の伝承に近い中島氏は、伊庭氏被官であった中島氏ではないだろうか? 九里氏も同じく伊庭氏被官であった。

そうなると、1300年代に伊庭氏の又代官をしていたはずの九里氏、そして室町時代に移り住んできた中島氏。











(中島蔵人とその後裔 中嶋芳 著作 1966年)


予測だが、伊庭にある妙楽寺か、彦根にある妙源寺と思う。

【ゆは】は弓庭で伊庭の事でもあると思う。

伊庭氏のもとにいた傍証になるのではないだろうか。








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大曾禰氏 と葛西氏 

2023-12-04 | 九里バラバラ情報
4人の中で情報が一番多いとおもわれるのが【大曾禰義泰】だ。

安達時長から「大曾禰」と称しているようである。
」「」という文字で検索した方が良いようである。(国立国会図書館デジタル)

吾妻鑑にもその名【大曾禰】が多々登場していることがわかった。






大曾禰上総三郎義泰は、引付衆であった。

コトバンクより 引付衆

鎌倉・室町幕府において、訴訟専門機関である引付に属して訴訟審理にあたった役職。引付は鎌倉幕府の第5代執権北条時頼(ときより)が、裁判の公正を期し、能率化を図るために、1249年(建長1)に設けたもの。当初は御家人(ごけにん)が当事者である訴訟を扱う機関であったが、のち所領関係の訴訟を専門に扱う機関となった。引付は時期によって3~8の法廷をもち、各法廷では、引付頭人(とうにん)の指揮の下に、評定衆(ひょうじょうしゅう)、引付衆、奉行人(ぶぎょうにん)おのおの数名が訴訟審理にあたり、判決原案を作成して評定会議に上程した。引付衆には北条氏一門・有力御家人と文筆系職員とが任命されたが、しだいに北条氏一門の占める割合が高くなっていった。それはやがて、評定衆に進む階梯(かいてい)として北条氏一門の年少者が就任するという傾向も生んだ。評定・引付の制は室町幕府にも受け継がれ、内談(内評定)において評議するので、内談衆ともいわれたが、やがて衰退し、評定衆、引付衆の区別も不分明となり、その実質を失っていった。
[山本博也]


葛西清宗


父は葛西伯耆前司清経。官途は伊豆守(『龍源寺過去帳』)。法名は明蓮。妻は善祥院殿意庵妙休大姉。『尊卑分脈』には、安達藤九郎景盛の弟・大曾根次郎兵衛尉時長の孫娘として「葛西伊豆守妻」が見える(『尊卑分脈』)。
清宗の妻・善祥院殿は安達氏か。葛西庄に残った人物と思われる。

*****
葛西清宗以降に「伊豆守」が登場している。
隠岐佐々木義清の息泰清も葛西清親を娶っている。
その清親の孫の代が「伊豆守」のはじまりである。

つまり大曾禰で行くと葛西伊豆守の世代は「長経」の代となりそうだ。
その大曾禰長経の娘が隠岐時清に嫁いでいる。

其の大曾禰長経1232年~1278年 の弟が義泰。
大曾禰義泰1233年以後の生「上総三郎左衛門尉」。 

そして隠岐時清(1242年~1305年)1275年引付衆
弟が義泰、1243年以後の生まれか?


富田義泰の妻は「大原重綱の娘」である。

佐々木哲学校の情報によると


「重綱の娘は2人で、1人は京極範綱(右衛門尉)に嫁ぎました。範綱は評定衆京極氏信の次男ですが、早世しています。

もう1人は隠岐流佐々木義泰(富田左衛門尉・肥後守)に嫁いでいます。義泰は六波羅評定衆佐々木泰清の四男です。義泰の子息佐渡守師泰(佐々木佐渡入道如覚)は建武新政権で雑訴決断所三番(東山道)寄人に列しています(『雑訴決断所結番交名建武元年8月』続群書類従31輯下)。このように佐々木氏では庶子家も有力御家人となっており、しかも有力庶子家どうしでまた閨閥を築いていたことが分かります。 」とある。






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中島義泰と出雲六郎義泰、そしてさらに大曾根義泰・隠岐富田義泰 が同時代か。(2)

2023-11-30 | 九里バラバラ情報
昨日、大曾根義泰と富田義泰が同一人物と予想していたが、
かなり乱暴な失礼なことと思い直し、富田義泰を調べてみようと思う。

「覚念」という法名も当時多かったのか、佐々木宗泰(高岡宗泰=富田義泰弟)も覚念であった。

仕切り直し!

情報が少ないので、ご存知の方、ご教示いただけますと幸いです。

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中島義泰と出雲六郎義泰、そしてさらに大曾根義泰・隠岐富田義泰 が同時代か。

2023-11-29 | 九里バラバラ情報
同時代に義泰が4人いる。

一人目は中島太郎義泰で法名が覚念
霜月騒動で鎌倉で没しているようである。

二人目の出雲六郎義泰は次郎時光の弟で、波多野五郎義重の息である。法名は義詮である。

(義基の息七郎義泰で、註は無かったため略する。)

三人目、同時代にいる『大曾根義泰』が、私の感触では中嶋太郎と同一人物なのではないかと思うのである。

なぜならば、大曾根義泰の法名は覚然
そして歿した年月日が中島太郎義泰と同じである。

覚念と覚然 そして歿年月日弘安八年十一月十七日

そしてその「大曾根」という地名が尾張にあるのである。
中島も尾張と縁深い。

安達氏と同じ祖を持つ大曾根氏。
其の祖とは藤九郎盛長。
大曾根氏は代々上総介を名乗っていたそうだ。

疑問もある。
安達時長のwikipediaより
「所領は建保元年(1213年)の和田合戦で武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)を拝領した。時長の名字大曾禰は大曾禰荘(山形市)に由来しており、同地の明源寺境内には盛長創建と伝える毘沙門天があり、この堂は安達一門が代々住持した毘沙門山真妙寺の堂を移設したと伝える。兄景盛の出家後、その嫡子義景が安達氏の家督を継承して以降、時長の子長泰から大曾禰を名字とした分家が成立した。」
・・・と山形市の大曽根という。

*****

以前調べた際には「隠岐時清の妻が大曾根長経の娘」とあった。
四人目は、其の時清の弟に富田義泰がいるのである。

この大曾根氏の祖は安達時長(盛長の二男)という。家紋が十文字である!
更に時長の父「安達盛長」の娘は源範頼の室となっているのである。
比企氏の娘婿が藤九郎であったはずである。

富田義泰も同年代である。
いやはや、複雑だ。
そして隠岐時清の妻の父親大曾根長経。
その弟こそが大曾根義泰なのである。

どこか、オカシイ?
富田義泰と大曾根義泰も同一人物と思う。

とすると、波多野松田系の中島義泰=富田義泰=大曾根義泰なのか
はたまた出雲六郎義泰=富田義泰(出雲玉造荘)=大曾根義泰なのか。

出雲六郎義泰の法名は義詮なので覚然ではないのだが、同じ出雲関係のため富田義泰ではないかと疑われるが、違うかもしれない。
出雲六郎義泰=富田義泰かもしれないと疑われる。

そして富田義泰の兄が隠岐時清で、妻が大曾根である。
富田義泰=大曾根義泰と思われる。

法名と歿年月日が同じため、中島義泰と大曾根義泰も同一人物であると思われる。
中島義泰=大曾根義泰(上総三郎右衛門尉義泰)










悩める。
しかし、ココが藤原秀郷流と出雲佐々木氏とをつなぎ、且つ安達氏・比企氏とも繋がる線なのかもしれない。
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尾張員職(かずもと)と馬場員仲、そして員仲の妹の夫が中島氏であったそうだ。

2023-11-25 | 九里バラバラ情報
尾張員職は何度かこのブログにも登場している。
源頼朝の母方祖父に当たる。

同じ尾張氏の貞親は中原氏に養子に入ってきている人物である。
員職と貞親とは別系なのかもしれない。

貞親の実父は尾張秋時である。↓



熱田神宮社と源頼朝(頼朝の母となった由良御前の母は熱田神宮の 尾張員職娘 )と中原(大江・清原)氏とも小野氏ともつながりができてた。

中原師任の養子 
  • 男子:中原貞親 - 実は尾張秋時の子
-貞親-廣宗-廣忠-忠順-師茂-師員-師連-親致 と評定衆の系となっているようだ。(国史大系第60巻)

尾張氏は田島氏・馬場氏・千秋氏と称して、その馬場氏の員仲の妹が中島氏に嫁いでいる。(中世熱田社の構造と展開 藤本元著作)

以下では中嶋宣長か、もしかすると、もう一世代か二世代後の人かもしれないと思う。
父の成仲が1299年迄も生きているようで、員仲も1300年代にまだ生きている。その員仲の妹なので、





建武二年(1335年)に歿したことがわかり、1283年生まれとわかった。
中嶋宣長は、承久の変に宮方となっていたとあるので、1200年前後生まれと思われる。

つまり馬場員仲の妹は中島宣長の子孫に嫁いだことになると思う。

同じ尾張国でもあり、宣長の後裔は在庁官人でもあったようなので、両方にとって益のある繋がりであったのだろう。


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にっかり青江 情報をいただく。

2023-11-25 | 九里バラバラ情報
ヒントをいただいたメールから…(少々改変)

入間市柏原
この地域が槍の生産地ということ、そしてこの周辺に佐々木氏(加地氏)がいた様です。

 「にっかり青江」という刀にまつわる伝承  
京極にすぎたるものが三つある にっかり茶壺に多賀越中(丸亀藩・京極)


加治氏は古くからの家系と佐々木氏の家系が融合した感じで、佐々木盛綱と関係ありそうです。子の加治信実の方かも知れません。そして加治信実の子が、佐々氏の祖とされます。

ここ周辺と、自分の記憶とブログ内からのことをプラスしてみよう。
加治氏は備前国にも拠点あった。
後鳥羽上皇と坊門信清の娘との間に生まれた息 頼仁親王が備前に配流された際に、佐々木流加治氏が親王を守る役に就いていた。

さらに
浅小井家長のほうだが、母親は加地信実の娘。(蒲生郡志)

浅小井家長の息は公宣 「治部・播磨守」その弟「乾五郎」とある。

そして九里太郎経久の息富木常忍に源実秀より書状が届いている。

平胤員・源実秀連署書状(年未詳六月十五日)
文永二年に富木常忍殿 源実秀(花押)謹上 
(下総中山法華経寺破禅宗六裏文書)

更に後世だが、深尾秀長が九里の息を伊庭の乱から守り逃がしていると思われる。彼自身も逐電している。
九里の息だったのか、深尾の妻が九里だったためか…そこはまだわからない。

そして、加治信実の息に「佐々氏綱」である。
佐々氏とのつながりもそのようなところからかもしれない。








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久乗氏 御牧村(京都府久世郡にあった村)現在の久御山町の北部

2023-11-21 | 九里バラバラ情報


「くのり」 となっているので、御牧村にも一族が移っていたのだろうか?
此処は石清水八幡宮の近くで、巨椋池の干拓とも関係がありそうである。


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乾庄司 新介  伊吹に住む(3)乾駒之丞雅勝と永原越前守重行

2023-11-17 | 乾氏
『雅勝』という名前と『重行』という名前には隔たりがあるため、この間に養子縁組か賜字か何かがあったと思われる。

さらに、永原城主の乾主膳正秀之と『雅勝』も遠い。



系図を見ると、同じ年代の永原氏(別系)の正光も「まさ」、乾雅勝も「まさ」である。

さらに、次の年代の別系の永原氏重・吉重と本家の永原重行以降「しげ」が通字となっている。




もっと俯瞰的に見ると、佐々木流山崎氏の系から出た永原氏の名前とリンクしていることに気が付く。

上のアドレスの中の系図(54)に 山崎氏から分かれた永原に頼行という名が現れる。
宗行・雅行ときて雅勝となる秀郷流の永原氏と佐々木流山崎氏の間で何かあったと考えられないだろうか?

(56)の年代を見てみると、六角高頼の弟が、山﨑氏流永原氏と秀郷流永原氏の両方に弟を養子に出している。
永原高賢と永原重賢である。

*****

近江國野洲郡永原村に入った山崎氏が(49)の代で 『初代の永原右馬助景長』となり、(54)の代で、同化したのではないだろうか?

さらに、その間に永原新左衛門入道正光の系が挟まる形で入り込んでいる。

秀郷流の永原氏は足利将軍家を支える系、佐々木流山崎氏の永原氏は永原城主の系、永原新左衛門の系はやがて佐々木六角家を支える系になっていく、、、のように見える。

*****


上記より、気になる部分をピックアップと少し改変。


永原重隆 (~1550)太郎左衛門・越前守。六角家家臣。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。
九里源兵衛もその調停の場にいた。

永原重澄 (~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。


(水茎岡山城) 
九里信隆 (~1514)くのり・備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護
足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。水茎岡山城主。

九里浄椿 (~1514?)くのり。信隆の息ではないかもしれない。 
伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

九里宗恩 (~1525)くのり・伊賀入道?・宗忍?(宗恩と宗忍は別人)
後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎


1525年軍代・六角定頼(~1552)の軍事編成
1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。
守護代家。1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

先陣 佐々木五郎<朽木殿>
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)
目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原

後詰 田中<朽木殿>・横山<朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

六角義賢(1552~1561隠居)の軍事編成
1560年「野良田の合戦」浅井長政の独立、肥田城・高野瀬秀隆の離反。
『江濃記』・『浅井三代記』
六角軍2万2千兵。
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄

第二陣=楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)

永田景弘 (~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。
舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか(スパイ容疑で信長に嫌われ浅井氏配下に行ったか?)
永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。

・・・・



はて、乾主膳正秀之(=乾甲斐守秀之)は、一番上の系図には見えてこない。

しかも、この人物の系こそが、九里のいた水茎岡山城城主と長命寺縁起に載っているのである。







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乾庄司 新介  伊吹に住む(2) 永原城主乾主膳正秀之 そして、岡山城が久徳氏…が気にかかる。

2023-11-16 | 乾氏
江州佐々木南北諸士帳からだが、
人名から割り出すと弘治から永禄の年代ではないかと思う。もっと元亀やその後も含まれているかもしれない。
そのころ、水茎岡山城が九里から久徳兵庫頭になっていたようだ。
これはやはり、九里と久徳と近い一族であった…という事なのだろうか?

永原城主に関してを調べてみようと思う。


赤丸が永原城(館)周辺




永原宗行の息カ孫に乾駒之丞雅勝がいる。
この人物が、永原城城主であった期間があったと思われる。

永原氏の家老に中島氏がいたようである。
「深尾清十郎殿」に随い…とある。
野州郡史 上巻より

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乾庄司 新介  伊吹に住む

2023-11-16 | 乾氏
中島氏・中嶋氏を調べていて、本の中に乾氏をみつけた。






佐々木氏流の乾氏と思う。
永原城主となっている乾主膳正秀之(乾甲斐守秀之)。
加えて「にっかり青江」の伝承に出てくる「長光寺」にも乾二郎三郎の名前が登場している。




また、伊吹という処に住んでいる乾庄司(新介)は遠江守の弟であるそうだ。



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