九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源季貞の兄弟光季の息であった【源光行】 

2024-10-24 | 九里バラバラ情報
源季貞(飯富季貞)の兄弟【源季光】その季光の息が【源光行】なのだそうだ。

【 平家物語と源光行】第1巻 に光行の系譜があった。
それによると、

清和源氏満政流
満政ー忠重ー定宗(大懸)ー重宗ー重実・重時他ー季遠(養子)(若狭住人)ー光遠(養子・改め光季)ー光行ー親行他・建礼門院美濃



二代にわたり、養子が続いている。
しかし、大懸というキーワードが出てきた。
関係があるかどうかは不明であるが、上総介広常の妹か娘かと婚姻関係のある原氏大懸神社の宮司であったと思う。

さらに、千葉氏の執事的な役割を持っていた法橋長専や常忍のすぐ近くに光行がいたかもしれないのだ。

闘諍録という平家物語の異本があるそうで、源光行も関わっていたかもしれないという。

三善康信(1140年生)と源光行も、年齢は18歳違うが同じ時代を生きていた。ともに京から鎌倉へやってきた仲間である。鴨長明とも親しかったそうだ。

源光行は1163年生まれという。もしも、もしも、だが、土岐光行ではなく、この源氏物語の研究者であった源光行が常忍の父であったならば53歳の時に生まれた5男であった・・・・となるのだろうか?

調べていくと、どんどん今まで知らなかった情報が集まってきた。
もっと調べ、まとまってから記事にしたいと思う。
法名は「寂因」であったそうだ。(1235年歿か?)




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もう一人の『源光行』が、我が系の九里に養子に入った岡田氏とゆるくつながっていた。

2024-10-18 | 美濃源氏
「光る君へ」の源氏物語のその後を追っていて、源氏物語の研究者であった源光行がでてきた。土岐氏ではない方の源光行である。

以前は調べも付かなかったのだが、突然道が開けてきた。
富城常忍の周辺にも源光行という名がみえていたと思う。(これは、誰かが考えた仮定で、土岐光行を想定したものであったと思う。)

源氏物語の研究者の光行の父は源光遠(または光季)で、光行と兄弟の則清は 院政期に京武者として活動した大和守源重時の曾孫にあたる(『尊卑分脈』) という。

Wikipediaによると「源光行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての政治家・文学者・歌人。源氏物語の研究者であり、河内方の創始者に位置付けられる
…北条泰時の命で和歌所・学問所などを設置した」ともあるので、幕府とは親密であったろうと思われる。

さて、源重時とは‥‥と調べてみると、なんと八島の祖源重宗の息であり、重実の弟であった。

我が系には岡田氏の養子が入っていたのだが、其の祖は重実ー重遠ー重直とある。

また、光行の叔父と言われる季貞は飯富季貞という。

飯富とは千葉の土地 上総国望陀郡飯富荘 、他の地にも何カ所かあるようだが、季貞の息の宗季の姓となったのは袖ヶ浦町飯富 だそうだ。

Wikipediaには飯富宗季の後裔は、世々甲斐に居り、武田氏に仕えた。
…とある。

その部分も、板垣に養子に入った乾氏と同じ家紋(榧之内十文字)であった九里とどこかでのつながりがあるのかもしれないと思う。


これは、新しい展開を予感させる。


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松田中左衛門尉 と その娘【京極局】 (1)河村秀高

2024-10-15 | 九里バラバラ情報






松田義常の母である中河辺清兼の娘。其の姉妹が源朝長の母であり、中原久経の母である…との説で、今まで調べてきたが、ふと、義常の母の義理の姉妹に当たる女性もいたのではないかと思い、調べてみることにした。

義通の妻が中河辺清兼として、河村秀高の妻は義理の姉妹にはならないのだろうか?

秀高の妻は松田中左衛門尉の娘で、源頼朝の女官を務めた京極局であった。
此の松田のあとの【中】は中原氏の中ではないのだろうか?


コトバンクより
河村義秀

生年:生没年不詳
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫,波多野氏の一族。秀高の子。治承4(1180)年,源頼朝の石橋山挙兵の際,平家方に属し頼朝軍と戦い,のち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)年8月の鶴岡八幡宮放生会の際,景能の進言で流鏑馬射手に召し出され,三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き,頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され,以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛や曾我兄弟の仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行。承久3(1221)年の承久の乱では,幕府軍に属して軍功を挙げた。
(澤野泉)


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臼井常康 と 臼井親常 そして 匝瑳常成 と 匝瑳常広

2024-10-07 | 九里バラバラ情報
山田町史 千葉氏略系図より


上記の系図によると
臼井六郎常康上総介・下総権介常兼の息であり、下総権介常重の弟と見える。
臼井十郎親常…上総権介常隆の息であり、上総権介広常の弟と見える。
臼井親常と金田頼次は兄弟である。(上総権介広常とも兄弟)
頼次は三浦義澄の娘聟であった。

上の系図では、匝瑳八郎常広は見えるが、匝瑳常成は見えない。

幸いなことに野栄町史に以下の系図があった。
常澄(青いポイント)の下に常成がみえる。匝瑳三郎とある。



常兼の息に匝瑳八郎常広がいて、
常兼の弟の相馬五郎常晴の孫に匝瑳三郎常成がいることになる。

よく見ると、疑問が湧く。
匝瑳氏の系図では、常成の弟に広常がいる。
つまり父は『常澄』
ところが、一番上の上総氏の系図では広常の父は常隆である。

  

どちらが正しいのかは、わからないままということのようである。
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香取郡白井郷の白井胤時 白井氏から鏑木氏へ  その鏑木氏へ 金田成常の子、胤泰 ⇒ 伯父鏑木胤定の養子となり家督を継ぎ鏑木胤泰となる

2024-10-05 | 九里バラバラ情報

白井鏑木氏

鏑木城は、下総の名族千葉氏の庶流鏑木氏の居城である。鏑木氏は、千葉常胤の孫胤時の子九郎胤定が下総国鏑木郷に分封されて鏑木氏を称したことに始まる。原氏・円城寺氏・木内氏と共に「千葉四天王」と称される。


 鏑木城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。城の南は現在は一面の水田となっているが、中世の頃には椿海と呼ばれる広大な内海があった。

香取郡誌
↓ 文永十年 1273年



そして宝治合戦。
再びここに舞い戻ってきた。
確か稲毛十郎と深江平朝澄の時である。


上記の第二章 鎌倉時代の上総金田氏 その二 も言及しているように、まるで討伐を知っていたかのように、用意されていた感がある。

あの、肥前国高来郡の深江の譲り渡しの文書もそうであったように‥‥
何処かに違和感を感じるのだ。

そして上総・下総にも「原氏」が見え、肥前の深江の「原城」がみえる。
共に上総介との関係のある「原氏」なのではあるまいか。

白井氏と臼井氏 文字が似ているため混乱してしまうのだが、臼井氏は後に原胤定に乗っ取られてしまい、其の原氏から胤信(ジョアン原主水)が出るのだ、何だか近いような気もするのである。(場所も臼井と白井は隣である。)

さて、此処を間違いのないように進めないと‥‥

鏑木氏の居城のあった現在の旭市と椿海を挟んで反対側に匝瑳があった。
[荘園名]匝瑳 ... 椿海の東端に位置す …とある。(匝瑳庄)



新たに気にかかっているのが匝瑳氏である。
此の一族は、熊野と縁が深く湯浅氏とも養子縁組でつながりがあるのである。
しかも場所は九十九里の浜に面している。


匝瑳常広の子息宗光が紀伊国在田郡湯浅残党の湯浅宗重の養子と記されている



更に金田頼次は、三浦義澄の娘婿であった事がわかり、三浦半島の佐原城跡
より15キロほどのところに金田港がある。こちらは久里浜で、やはり久里や九里という文字がある。
娘婿の金田頼次に譲った領地だったのではないだろうか?

木更津にも金田があり、三浦半島の金田港と行き来をしていたのではないだろうか?(全くの仮想)

鏑木氏と金田氏
金田氏と三浦・佐原氏
匝瑳氏と湯浅氏
湯浅氏と紀伊国
・・・とつながる。
そして熊野本宮!

九里氏の始まりは藤原秀郷流の一員であり近江国の中原氏の息となった人物(久経)であったろうと思っているのだが、その後は、千葉氏とも、三浦氏とも関係があったかもしれないと思っている。

匝瑳氏のように匝瑳南条荘が熊野宮の領地であったこと、
匝瑳氏から湯浅氏となった人物がいたことから、九里氏も熊野本宮とつながりを持つに至ったのではないだろうか?
その系が和歌山の系図のある九里氏となったのではないだろうか?

そして、柏原藩の九里の系も元を遡ると、藤原秀郷流と近江国中原氏であったと思うが、上総介広常の周辺である原高春・前野氏と関係があったように思う。
という事は、鏑木氏や金田氏とも関係してくるのではないだろうか?

しかし、
『臼井氏と匝瑳氏とは千葉常胤の叔父臼井常康・匝瑳常廣を初代とする一族。上総広常の兄弟臼井親常・匝瑳常成とどのような関係なのか不明である。』・・・とある。
 
さらに、近江の金田庄にいた九里氏は、下総・上総・三浦半島の金田氏ともつながりを持っていたのではないだろうか?

此の東国と近江国のつながりは、藤原秀郷の時代から続いていたのではないだろうか?

今後の課題としては、湯浅宗重と匝瑳常廣の息宗光
臼井常康と親常
匝瑳常廣と常成




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下総国香取郡小見川町 上小堀・下下小堀 (2) 木内荘は二位大納言領 粟飯原氏は上小堀の一部を領す

2024-09-29 | 九里バラバラ情報
気にかかっていることをメモしていこう。

木内荘、その中に上小堀。
では、下小堀も木内荘内となるのであろうか?
浄福寺がある場所のようである。
二位大納言領とあり、藤原隆房のこととある。

下小堀もまた木内荘のようである。

小見川城には粟飯原氏
そして片岡氏の佐貫城近くには、鏑木城があり鏑木氏がいた。
この子孫が後に金田氏となっていく。

また、明智光秀を調べていた際にその時代の【淡海温故録】に白井氏が出てきたことがあった。

これも関係してくるかもしれないので、頭の片隅に残しておこうと思う。








上総国の金田保 
金田頼次 上総広常の弟である。
上総国長柄郡金田郷(現・千葉県長生村金田)の領主

広常の娘(妹説もあるが)に良岑高成室がいる。

良岑高成

前野家に通じている。

さらに前野高長の姉妹に忠盛の室=忠度の母がいる。
忠度に熊野別当湛快の娘が嫁いでいる。
ここで、上総広常、良岑高成、原高春、前野高長、平忠度、熊野別当家とつながる。

金田頼次の周辺でもある。

この「金田」と九里の居た近江国金田庄

近江国の金田庄

菖蒲氏(波多野氏)、菖蒲金田家(佐々木氏)もある。

下総国(後に上総国)と近江とは、佐々木氏と関係がありそうなのである。
千葉介平成胤の母は上総介平広常の娘であった事。
胤正の五女が佐々木盛秀の妻となっていること。(佐々木盛綱の息盛秀
盛季のことと思うが…)
この辺り、すこしでも解明できれば嬉しいのだが。

 
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下総国香取郡小見川町 上小堀・下下小堀

2024-09-17 | 小堀氏
地図で小堀の位置を確認中、上小堀・下小堀という地名を発見した。
しかも、場所が見覚えのある当たりである。




これは、木内荘の中なのだそうだ。

木内荘


千葉の東胤頼の息である木内胤朝。

良忠

まだこれから調べていくので、秀郷流の小堀氏と関係があるかどうかまではわからないのだが、小見氏と称する中に秀郷流佐野氏の庶流とあった。
さらに、木内胤朝の孫胤直の系も小見を称した者がいたようなので、この辺りが接点かもしれないと思う。


小見氏や佐野氏は、実は以前少し調べていた。

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小堀五郎と九里小五郎から予測してみよう!(2) 佐野氏・小山氏

2024-09-09 | 九里バラバラ情報
1280年前後~1300年前後生まれ、と思われる小堀五郎と九里小五郎兄弟。
このころには、まだ系図上には「熊野」という文字は見えず、
助恒に『六角・道誉 元弘・建武 袖切』とあることから、(小堀は後述)、九里は近江にいたと思われる。活動期は1331-1336年であったようだ。



九里は京極の祖となった佐々木氏信の四男と言われた宗綱と関係があったのではないだろうか?
なぜならば、一説では、佐々木宗綱の妻は野尻時光の娘で、野尻時光=波多野義重の息である‥‥というのだ。
このあたりで、佐々木氏と波多野氏との接点ができている。
更に京極氏のテリトリー内に小堀氏が住んでいたように思う

京極氏遺跡群


赤い矢印 が 小堀町



小堀の祖は秀郷流の佐野氏という説と系図があるが、私は小山氏もまた関係があるような気がしていて、佐野氏と小山氏の両氏と関係があったのではないかと思う。小山氏と共に熊野にやってきたのではないだろうか?
それは、家臣としてかもしれない。

その辺りを調べている。








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明日は【九月九日 重陽の節句】 そして秘密の…九里の日

2024-09-08 | 日記
九月九日、
最近出会った記事に、
『この日に菊の花を浮かべたお酒やお茶を飲んで、こうなりたい!こうありたい!こうしたい!を語らうと、不思議と叶う』と出ておりました。

今年は、私も願いつつ家族に語ってみようかと思います。

友人とピアノの4手(連弾)や2台ピアノのための曲(コンツェルトなど)をはじめ、また、自分の弾きたい曲も練習を始めたのが6月あたり。

で、7月の終わりに「ばね指」なるものになってしまい、弾きすぎかもしれない?とかなり練習にブレーキをかけました。

でも、でも、本当は、思い切り弾きたい時に弾きたいという気持ちがくすぶっているのです。
しかし、それをすると、もしかすると取り返しがつかない、もう一生弾けない手になってしまうかもしれないので、それも困る~~。

願いは
手の不調が改善して、思うようにピアノを楽しみたい!

以前撮った動画、1分のみですが願いも込めて公開です。…メールで送れませんでした。。。。
何か方法を考えますネ。
You Tube 創ってみました。


忘れてはいけないのは【九里】と最近動きのあった【坂橋・さかはし】などなどご先祖様のこと。

たとえ全て分かったとしても自分自身に何か変化があるわけではないと思うのですが、どこで、何をして、どのような生活を送っていた人々で、何故北海道に渡ってきたのか…
幾多の戦争や天災や病気などに見舞われながらも、生き抜いてきた子孫が今現在生きている人になるので、先祖がいなければ私たちもいない。
そこに、妙な凄みを感じています。

9月9日、そのようなことを考えさせられる日でもあります。
明日 重陽の節句 です。
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小堀五郎と九里小五郎から予測してみよう!

2024-09-07 | 九里バラバラ情報



五郎と小五郎…という事は、父親も○○五郎であった可能性もあるか?と思い「五郎の線」で調べてみることにした。

「九里ではなく、小堀で調べていくと何かがわかるかもしれない。」と以前調べた際に秀郷流が出てきた。

では、秀郷流の中のどの氏なのか?を突き詰めてみようかと思う。
まず、○○五郎がいる氏から!







佐野氏の中の小堀氏は、系図の中に見つけた。






「佐野氏」で関係がありそうな箇所は以上であった。
小堀彦太夫政長と小堀宮内長利である。

が、これだけではよくわからない。

「五郎」「秀郷流」にこだわると、他にも接点があるかもしれない。
以前の記事につけた系図 
五郎の系 波多野五郎義景
     菖蒲五郎実経 ↓


石見国美乃知黒谷地頭職は「菖蒲五郎真盛自関東所給預也」 
石見国長野庄美乃知谷承久三年九月源助長は「依勲功賞」より当郷地頭職に補任せられたが、これは当然承久乱の功によるものであろう。


もしや、九里氏となる以前は「波多野流の菖蒲五郎の系だったか?」
とも思うのだが、決め手に欠けている。
萩藩の和智氏が持っていた文書に、広沢実方の名がみえる。
この人物も義通の息か…と云われている。

石見国も大事だが、紀伊国熊野でいないか?
「五郎」「秀郷流」

いた!小山氏である。
我が家に以前購入した『紀州小山家文書』という本がある。
そこにいくつかの系図が載っている。
小山政光ー朝政ー長村(小山五郎左衛門・小山大夫判官・母中将宗長女)ー時長(小山左衛門五郎・小山下野大掾)ー宗長ー五郎左衛門ー貞朝(小山四郎左衛門尉・下野守評定衆ー高朝(小山下野守)ー秀朝(小山判官)ー朝氏 童名犬丸・改蒲生)

高朝ー実隆(小山新左衛門尉・文保二年1318年任左衛門尉 小山三郎、後入道法眼浄円)ー隆長 (実隆嫡子 号小山五郎 正平七年1352年文書有)ー 隆春(小山五郎左衛門・元中九年1392年)ー隆義(小山五郎三郎・)

九里が熊野に赴いたのは1300年代初めではないかと思う。
実隆以降とかかわりを持っていたかもしれない。
実隆は、熊野にいたようで、文書に熊野山小山三郎殿・・・と1289年に文書(書状の写し)が残っている。

『是時湖山判官秀朝舎弟新左衛門尉実隆、同八郎経幸等亦奉鎌倉命、率一族十三人従平、三百余騎上洛、実隆・経幸為守護南辺、下向熊野、実隆在牟婁郡潮崎庄古座浦、経幸同郡冨田郷(子孫今在三箇庄)、・・・・・』

これは、小山氏の五郎とつながっていたかもしれない!という気がしてくる。
小山実隆と息の五郎隆長あたりを調べてみよう!



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