御家人井口中原系図の後、九里が文書に初めて出てくるのが(推定ではあるが)源員定である。
≪源員定と九里員定≫
仲村研氏による『研究ノート』より
保内商業の展開過程 ―小幡・石塔との相論を中心に―
44ページ中の15ページ目に【源員定】が出てくる。
『応永三十四年十二月は、この相論が頂点に到達した時でもあるが、
同月十一日、左衛門尉源員定は調査報告の書状を提出している。
源員定とは九里氏と推定され、あて先は守護配下の者であろう。
この書状によると、愛知河南宿領内の五日市で得珍保塩商人が商売していたか否かという尋問にたいし、
源員定は「自往古、無座、彼商人等買売候段勿論候」と返答している。』
とある。
員秀・隆員も同じく保に関わっていた。
九里賢秀という人物もこの関係者ではないかと思う。
応永34年とは、1427年のことである。