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柴高の毎日

8月1日より、goo blogでの公式ブログに移行しました。

地元の歴史04

2014-09-24 18:30:00 | 図書室
今回は阪急崇禅寺駅の「コンクリート」について。
写真3枚の説明です。
(下)前回も紹介した昭和30(1955)年頃の崇禅寺駅。ホームの端に駅舎にいたるスロープがみえる。
(中)昭和32(1957)年頃の崇禅寺駅。同じく飛鳥人権文化センターのホームページに掲載されていたもの。この写真でもホーム端のスロープがみえる。
(上)現在の写真に当時の駅舎の位置を想像して赤線で描いたもの。

上記ホームページに、以下のような崇禅寺駅についての紹介がありました。

南方駅~崇禅寺駅の間には、以前にはS字カーブがあり、通過速度が制限されていた。これを解消するため昭和30(1955)年に改良工事に着手し、同年、新路線への切り替えを果たした。これにより京都線のスピードアップが実現。崇禅寺駅にはかつて構内踏切があったが、都市整備の進行に合わせてお客様の数が増加したため、安全と利便性を重視して、昭和50(1975)年末に駅整備は地下道内に移された。

上の紹介文にもあるように、昭和50(1975)年末に、現在も淡路方面の下りホームで利用している地下道や改札口が完成したとのこと。
以上のことから、写真(下)(中)の駅舎やホーム端のスロープ、構内踏切はこのときに撤去されたと想像されます。
この駅舎とホーム端のスロープがあった部分に、現在の「コンクリート」部分が延伸されたホームとして増設されたはずです。

ということで、写真(上)で、昭和50(1975)年末より以前にあったスロープと駅舎、構内踏切の位置を想像して赤線で描いてみました。非常にみにくいですが、
(A)ホーム端のスロープ
(B)駅舎(駅舎は淡路方面の下りホームにしかなかったはず)
(C)駅構内にて梅田方面のホームへいくための構内踏切
ということになります。

次回は上の紹介文にあった「南方駅~崇禅寺駅の間には、以前にはS字カーブがあり、通過速度が制限されていた」と気になる記述があったので、それについて探求したいと思います。○○・○・





地元の歴史03

2014-09-24 12:32:00 | 図書室
阪急崇禅寺駅で撮影した写真3枚の説明です。
(下)現在の高架工事の様子を阪急崇禅寺駅の梅田方面ホームより淡路側を撮影したもの。
(中)同じく梅田方面ホームから淡路方面ホームを撮影したもの。赤の四角で囲んだ部分を注目してください。
(上)その赤い四角の拡大写真です。

写真(上)を見て。明らかにホームの土台部分が左右で異なります。
左(梅田寄り)の「古ぼけた石垣」と、右(淡路寄り)の「コンクリート」です。
ざっと見渡したところ「古ぼけた石垣」は現在のホームの半分ぐらいをしめており、約30mぐらいでしょうか。
「コンクリート」は、写真(中)の向こうに見える踏切あたりまで伸びており、約15mぐらいかな。

以下は阪急のホームページなどでまとめた崇禅寺駅の歴史です。
1921(大正10)年 4月 1日 北大阪電気鉄道十三駅~豊津駅間開通と同時に開業。
1923(大正12)年 4月 1日 路線譲渡により新京阪鉄道の駅となる。
1930(昭和5)年 9月15日 親会社との合併により京阪電気鉄道十三線の駅となる。
1943(昭和18)年10月 1日 阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄(1973年に阪急電鉄に社名変更)の駅となる。

ということは、左の「古ぼけた石垣」は、おそらく1921(大正10)年4月の崇禅寺駅の開業当時のものと思われます。
1914(大正3)年に始まった第1次世界大戦で大戦景気となりバブルを謳歌した日本でしたが、1918年に大戦が終了、1920(大正9)年3月にバブルがはじけて戦後恐慌となります。思想面では大正デモクラシーの全盛時代。全国的に普選運動や労働運動が盛り上がります。
崇禅寺駅が開業したのはちょうどそんな頃。当時は今より車両は小型で車両数も少なく、「古ぼけた石垣」の約30mぐらいで十分でした。
1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で崇禅寺駅周辺は壊滅的な打撃を受けて廃墟と化しましたが、その大空襲をものともせず「古ぼけた石垣」は生き残り、開業以来93年間もの長きにわたって、ホームの土台として活躍してきました。「古ぼけた石垣」に焼け焦げたあとらしきものがあるのは、アメリカ軍が投下した焼夷弾によるものでしょうか。

その後、車両の大型化と車両数の増加によりホームは延伸されましたが、どの駅をみても「古ぼけた石垣」を中心にして前後に延伸したことがうかがえます。

しばらくすると高架工事のよって崇禅寺駅の「古ぼけた石垣」は姿を消しますが、今もなお阪急の各駅に残っている「古ぼけた石垣」(もちろん柴島駅にもある)をみて、その駅や路線の歴史を調べてみてください。新たな発見があるかもしれません。

次回は「コンクリート」部分について、あれやこれやと想像したいと思います。○○・○・








地元の歴史02

2014-09-18 16:26:00 | 図書室
前回に続いて「飛鳥橋踏切」の話題。

踏切のすぐ柴島高校側を流れていた小川のことですが、新たな情報を入手しました。
昭和30年代半ばのことですが・・・。
(1)おそらく淡路側の柴島浄水場から流れ出した水は、南方側へ向かって流れており、少なくとも現在のJR京都線の手前あたりまで小川があった。
(2)小川は非常にきれいで幅は2mぐらい。「ドブ川」と呼ばれていたという情報もあって詳細は不明。
(3)近くに田んぼもあり、釣りをした記憶はないが、ザリガニぐらいは生息していた模様。
(4)踏切を渡って学校側のすぐのところに「橋」があり、「飛鳥橋」と呼ばれていた。
(5)少なくとも東京オリンピックのあった1964(昭和39)年頃までは、小川は流れていた。
(6)その後、年代は不明だが、柴島高校が設立された1975(昭和50)年前後に暗渠化されたか埋め立てられたかで小川はなくなり、柴島高校と崇禅寺駅の間に細長い公園ができた。

その公園の線路側には盛り土の残骸があり、けっこう年代物の巨木が並んでいたので、戦前からのものが残っていたのかもしれません。藤棚やブランコ、シーソー、滑り台などの遊具やベンチが3、4個あり、放課後、下校途中の生徒たちが座って談笑してました。残念ながら現在は高架工事中で細長い公園の面影などまったくありません。

当時の様子がわかる写真などを探していたら、今はなき飛鳥人権文化センターのホームページに、以下の写真が掲載されていました。
昭和30(1955)年頃の崇禅寺駅です。写真左、駅の向こうに少ししか写ってませんが、当時の浄水場(現在の柴高グラウンド)らしいのがみえます。
小川はまったく見えないのが残念。

さて、この駅舎は現在の崇禅寺駅のどのへんにあったのでしょうか。この写真は現在のどのへんから撮影されたものなのでしょうか。次回はこの話題にしたいと思います。

図書室では、次回の購入計画に『阪急ワールド全集〈4〉阪急ステーション―写真で見る阪急全駅の今・昔 (Hankyu books―阪急ワールド全集)』を計画していますが、在庫があるかどうかわかりません。もし購入できたら、確実に崇禅寺駅や柴島駅の「今・昔」の写真が掲載されていると思うので、楽しみにしてください。




図書室ニュース9月号

2014-09-16 14:18:00 | 図書室
9月12日に図書室ニュース『ふろむB』9月号を各クラスに配布しました。

編集委員が決めた今月号のテーマは「沖縄」。
2年生は9月24日から27日、沖縄に修学旅行に行きます。
ということで、沖縄料理を特集しました。
「にんじんしりしり」と「サーターアンダーギー」の特徴とレシピを写真入りで紹介。
『おじぃおばぁが食べてきた沖縄の元気料理』(西大八重子)という料理本も紹介しました。
最後に「去年3年生の修学旅行では台風が直撃してしまったようですが、今年はそうならないように願うばかりですね。2年生の皆さんが修学旅行を満喫できますよう、心から祈っております」と、1年生編集委員の切なる願いでコーナーを締めました。

例によって、空いたスペースがあったので、以前図書室のブログでも取り上げた学校近くの「飛鳥橋踏切」をちょっとだけ紹介。
毎月恒例の教職員によるおすすめ本は、『感動する脳』(茂木健一郎)です。



地元の歴史01

2014-08-29 14:49:00 | 図書室
現在阪急京都線の高架工事が実施されています。

大阪市建設局のホームページには、
「大阪市建設局は、阪急電鉄(株)とともに阪急京都線・千里線の連立事業(高架化)を行っています。この事業では、線路を高架にすることで17か所の踏切を一挙に除却し、踏切による交通渋滞や踏切事故を解消するとともに、・・・」とあります。
完成するのがいつかホームページでは分かりませんでしたが、「崇禅寺」「淡路」「柴島」「下新庄」4駅が高架化されるそうです。「崇禅寺」や「柴島」がどんな駅になるか楽しみですね。

ところで、皆さんは、柴島高校のすぐ近くにある踏切の名前を知っていますか。
撮り鉄マニアの間では有名な踏切らしいですが、写真にあるように「飛鳥橋踏切」といいます。
ということは、その名が示すように「橋」があって、そこに川があったということ。
地元の古老の話では、柴島高校と京都線の間に、戦前、稚鮎が遡上するほどのきれいな小川があり、よく川遊びをしたらしいです。
ちょうど高架工事が実施されているところですね。

戦後、埋め立てられて京都線側に古木が生い茂る細長い公園になり、春は新緑、夏は蝉しぐれ、秋は紅葉、冬は寒風と、四季折々の風景を楽しみながら、先輩たちは登校しました。
ほどなく「飛鳥橋踏切」は撤去されます。この地に清流があった歴史を残すべくブログに写真を掲載しました。

このような「地元の歴史」を皆さんに知ってもらえるよう、図書室で郷土史の本などを揃えられたらいいなと思っています。