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熊本レポート

文字の裏に事件あり

出水神社の変

2015-04-17 | ブログ

 3月末、出水神社(熊本市中央区水前寺公園8−1)の社務所で、一人の責任役員が使う机の中から個人の記念硬貨(8万円)を含む書類、鍵等が消えた。同役員は窃盗事件として熊本東警察署に届け出て、4月に入ると同署は直ちにこの捜査に入った。
 だが、このホシ(犯人)は盗んだ相手が県警出身の責任役員だと知ってか、指紋一つも残さず持ち去ったからスゴ腕。


 ところが、そのホシは使用者である責任役員の指紋まで拭き取っていた。すなわち綺麗に掃除までして、ホシはお帰りになったのだ。果たして、それほど時間、精神状態に余裕のあるホシは居るのかとなるが、そこで素人にも浮上するのが「内部犯行」という見解。裏を返せば、警察OBの責任役員が相手にもかかわらず陰湿なイジメ。
 出水神社は地元情報紙の解説を借りると、「金の成る木を巡る内紛状態」にある。細川県政時代から細川派の責任役員、事務局職員が増えて県庁OB、公益財団法人永青文庫役員との兼任と細川色が色濃くなり、平成24年9月には細川佳代子夫人まで責任役員に就任。細川系以外は先述の被害者だけが残って孤立となると、これは内紛というより排除抗争で、いまや出水神社はその細川家化の最終段階。
 意外な「細川家に忠誠を誓えるか否か」での信任とか、佳代子夫人から「そろそろお辞めになっては」という言葉も出ている(該当責任役員談)状態では、先の内部犯行という見解も決して不自然ではない。
 しかし古今伝授の間は細川家の管理として、また過去に熊本市と長期の訴訟にもなった水前寺成趣園の所有権を敢えて棚に上げても、この出水神社は細川家の私的財産ではなく、何ら細川家が関与できる神社ではない。これは先の物質的な見地からではなく、神社としての精神文化による見解。
 明治10年、西南の役で焼け野原となった熊本の城下を見た旧西原、旧城南村の旧藩士らが、この復興、発展を願って、また人心のより所として崇敬の甘棠会を設立し、その彼らによって建立されたのが出水神社。
 当然、甘棠会が旧藩士の集まりであったことから藩祖である細川幽斎、二代忠興、三代忠利、八代重賢を祀ることになり、場所は細川家の別邸であった成趣園に建てたという経緯にある。


 その後、歴代の藩主十柱とガラシャ夫人まで合祀とされたが、神社本庁はそれを無承認というのも創建の文化を尊重しての判断。そもそも神社、崇敬神社は創建時の趣旨、精神そのものが文化であって、規約を含めて時代、時代の背景によって改め、付け加えられるべきものではない。
 また本来、源氏や平家から江戸の藩主まで、それを祀った大宮(国管理)から神社は、その末裔、子孫が深く関与するところは他にどこにも存在しない。
 神社とは国民の共有する文化であって、崇敬という文化からして、先の出水神社におけるイジメに至る騒動は、関与する責任役員が地元では著名な顔触れだけにその品格までが問われる。物質文化ではなく、精神文化としての旧藩士らの文化からの品格である…。