2009年6月10日
訴訟上の証明は論理的証明ではなく、いわゆる歴史的証明である ~最高裁判例
こんなことを聞かされたとしたら、どう思われるでしょうか。
「元来訴訟上の証明は自然科学者の用いるような実験に基づくいわゆる論理的証明ではなく、いわゆる歴史的証明である。論理的証明は真実そのものを目標とするに対し、歴史的証明は真実の高度な蓋然性をもって満足する。言いかえれば通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとする」
いきなり小難しそうな用語ばかりで恐縮ですが、これがニッポンの裁判の各現場でいわば指針となっている最高裁の判例です。1948年、昭和23年8月5日最高裁判所第一小法廷の判決です。
「裁判所が真実を明かすところではない」と聞かされていました。また現役の裁判長・天野登喜治判事の口からそれを具体的に聞いたときはわが耳を疑い、唖然となりました。 「裁判長のお弁当」の一場面でした。
--> こちら
ここでいう歴史的証明ですが、もともと裁判では被告の犯罪事実の証明は検察がしなくてはならないことになっています。それが不十分なら、裁判官はあえて証明させなければなりません。ところがところが、実態といえばほとんど機能せず検察の起訴どおりに判決がくだされ、その結果が有罪率99.9%となっているわけです。
で、歴史的証明の意味ですが、過去の一時点で歴史的・社会的事実(犯罪が行われたということ)があって、それを実行した者と被告人とが同一の人間であるということを検察官が証明してみせて、それについて裁判官が判断するという流れです。
ようするに検察が起訴したことについてだけ裁判官が判断するという建前なので、検察にとって都合がわるいこと、仮にそれが真実だとしてもそれを持ち出さなければ、裁判で真相が問われることはないということになります。「裁判所が真実を明かすところではない」というのはこういうことがあるからです。
■ 最良証拠主義の欠陥 --> こちら
「高知白バイ事件」では最高裁は上告をあっさり棄却しました。もちろんそれは想定されていたことですが、それでも一縷の望みをもって調査官たちがオフィスでどんな作業をし、それを裁判官がどう判断するのだろうかと疑問とともに期待も込めて見守っていました。が、そもそもそんな疑問や期待をもつこと自体が「愚かだった」とわかりました。
法律はおろか裁判所の判例に接することもなく、ましてや法律と同列同等となる最高裁の判例とはおおよそ無縁な一国民ですが、60年も前の最高裁の判例を知ることとなりました。たまたま「高知白バイ事件」にかかわり、それを通して「ニッポンの司法は崩壊した」と実感しましたが、それよりなにより、60年も前に崩壊のレールが敷かれていたことに驚き、いま考えを変え、認識を新たにしたところです。
当然のことながらその判例はいまも健在です。その判例を覆す判決が出ない限り、生き続けます。
だいぶ前のエントリーで「・・最高裁にしても初代長官のときはそれなりに機能していたがその後はどんどん変節していってしまった・・」と取り上げました。今般、60年前の判例を知ってやっとその裏がとれ、すべての疑問が解けたという思いです。ちなみに初代長官三淵忠彦1947年(昭和22年)8月4日~1950年(昭和25年)3月2日です。
■ 倒錯した論理、詭弁を弄する裁判官 国民が不幸になるだけ --> こちら
なんで冤罪事件が絶えないのか
たとえどんなにロクでもない警察・検察であったとしても、どんなに自白を強要させようとも、どんな方法で証拠をねつ造・偽造しようとも、最後の関門である裁判所それも3か所もあるが、そこで論理的証明が行われていたならば冤罪となった多くの事件が差し戻され無罪になっていたはずだと推定されます。
このことを国民は知っているだろうか・・・
警察・検察に犯人と決め付けられたら最後、どんなに科学的・論理的な証拠を積み上げようがそれに興味を示さないかもしくは消極的、さらには無視する姿勢を露骨にあらわすニッポンの裁判所。やっとその理由がわかりました。
判断する上でもっともベースとなるところで、国民が求めている価値観と大きく乖離していたら、そもそも裁判をやる意味がありません。
こんなことに疑問をもつ人はいないかもしれません。が、あえて取り上げてみました。1999年に発足した司法制度改革審議会が2001年6月12日に意見書を発表していますが、そこでも刑事裁判における冤罪問題について深くは立ち入っていないところをみると、国会でこのことが議論になったかどうか、知りたいところです。
いずれにしても判断の基準となる大問題と思うので、もし過去に議論があったとしても不十分であったのは明らかなのでそのことを踏まえて再度きちんと議論してほしいものです。
裁判所の凝り固まった脳みそではもはや対処できないとみているからです。
いま、細切れの時間を使って一冊の本を読んでいるところです。
|
「裁判官はなぜ誤るのか」 秋山賢三著 岩波新書 1967年判事補に任官,以後,1991年の依願退官まで各地で判事として勤務 1991年弁護士登録(東京弁護士会) 現在-日本弁護士連合会人権擁護委員 袴田事件等再審弁護団,全国痴漢冤罪合同弁護団団長,長崎事件弁護団団長などをつとめる 著書-『民衆司法と刑事法学』(編著,現代人文杜,1999)
|
前段で登場した最高裁判例は第6章に出てきます。
初めて知ることとなりましたが、私にとって驚愕の内容です。
著書の最後でこう結んでいます。
・・・・
裁判官たちが、もし真の社会的エリートを自負するのであれば、本来、裁判所が民衆から期待されている機能(すなわち「司法的チェック機能」)に徹すべきである。裁判官の基本的使命は、要するに「人民の護民官」として人権擁護機能の歯車に徹することにほかならず、それによって初めて、広範な民衆の側から「名誉ある裁判官」と認められることになる。
そうではなく、検察官のした誤った起訴を適切にチェックすることもせず、すでに見たいくつかの判決のように、無理矢理、矛盾に満ちた「有罪判決」にいつまでもひたすら固執しているようでは、遂には当該被告人たちから侮られることはもちろん、我が国司法は早晩、広範な国民一般からも見放されてしまうに相違ない。
http://c3plamo.slyip.com/blog/