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小説「ゴジラ -1.0」の解釈はどこまで信用していいのか

2023-11-16 12:42:12 | 特撮・モンスター映画
※個人ブログにつき、「ゴジラ-1.0」の映画および小説の内容に関してある程度触れています。ネタバレ要素もあります。

Googleのニュースでは利用者の検索やWEBの閲覧履歴からニュース一覧の内容を決めているので、今のわたしの場合一覧ニュースのかなりのパーセンテージが映画「ゴジラ -1.0」関連で占められています。わたしの関心と言う部分を除いたとしても世間的に「ゴジラ -1.0」関連のニュース記事は少なくないようで、今までの怪獣映画関連とあまりに違う扱いにちょっと驚いているkrmmk3です。「シン・ゴジラ」でもヲタ関連はともかく一般ニュースではここまでの扱いではなかったよいに記憶しているのですが。ゴジラはイケる、として東宝の広報も気合が入っているのでしょうか。
そのいくつかを眺めていると、「小説版で分かったあのシーンの意味」みたいな記事がいくつか出てるんですね。映画はもちろん登場人物の心情までこと細かく表記したり言わせたりしているわけではないのでどう解釈すべきか鑑賞者の解釈にゆだねる部分はどうしても存在します。「ゴジラ -1.0」でも当然多々あったのですが、小説版でそのいくつかの答えがズバリ書いてあると。そういわれると気になるので小説版、買って読んでみました。まぁ電子版なんですけどね。8インチのタブレットを買って以来すっかり買う書籍が電子版ばっかりになってます。電子版だと改訂が行われた際に自分が買ったものまで書き換えられて細部が変わってしまう可能性があるので今まではそちら一色になるのを避けていたんですが、8インチタブの扱いやすさに屈しました。そう考えると今までメーカーが意地になって作ろうと思えば作れるまともな8インチタブを作ろうとしなかったのは、印刷の書籍市場を守るためだったのでは・・・という陰謀論を思いついております。

さて、まずは小説を一読して最初に思ったことは「内容が映画そのまま」という点です。昔角川書店(現KADOKAWA)が話題作になる映画を作り、その公開に合わせて同じタイトルで発売される小説を出版する角川映画の手法を確立して以来他社でも同じやり方をやることは珍しくなくなってはいます。が、それらはたいてい映画と内容を一部ないし大幅に変更するものでした。怪獣ものでわたしが読んだもので言うと

・ゴジラ東京編・大阪編
ゴジラ第1作と第2作「ゴジラの逆襲」を小説化したもので、ゴジラの原作者香山滋氏によって子供向けに書かれた内容です。大阪編はほとんどそのまま、せいぜいアンギラスが熱線を吐く(ただし映画の脚本でも熱線を吐いているので、吐かないのは映画本編だけ)くらいの違いしかないですが、東京編の方は主役が新吉少年に差し替えになっていて尾形はチョイ役に落とされてしまっています。また、「東京ゴジラ団」なるゴジラを崇めるあやしげな一団が登場しますが、ほとんどにぎやかしでした。

・科学冒険絵物語 ゴジラ
きのこ雲をイメージしたと言われているあの最初のゴジラデザインを描いた阿部和助氏が「え(絵)」を担当した児童小説版ゴジラ。他の著者は原作として香山滋氏の名前があるのみで文章の担当者は不明ですが、全ページ挿絵付きなのに120頁もある大ボリューム(しかも復刻を除けば雑誌掲載のみ)なので別々に書いたら連携に時間かかりすぎるので阿部氏が直接文章も書いたと思われます。やはり新吉少年がクローズアップされ、しかも恵美子ともども年齢が10歳前後と思われる容姿に変えられて二人が仲良くなる、という改編がありました。個人的に一番気になるのは山根博士が「わたしは、いままでゴジラを生けどりたいと考えていたが、もうそののぞみはすてた」「わしは、はじめは学者としてゴジラの生命をたつことははんたいだった。だが、これをみては・・・」のセリフとともに芹沢博士の説得にあたっており、ゴジラ打倒派に乗り換えたことが語られている点ですね。

・空の大怪獣ラドン
これも絵物語。担当はマンガ「8マン」やコミカライズ版「ウルトラセブン」で知られる桑田次郎氏。ただ、あのシャープな画風とはかなり違うリアルタッチで、当時の子供には映画よりもはるかに怖かったんじゃないかと思います。60頁の内容にもちろん全頁挿絵付きで掲載は雑誌のみ、当時の作家の仕事量のすごさは驚愕するしかありません。内容はほぼ映画に準じますが登場人物構成が大きく変更されいて、主人公が映画主人公の弟の中学生になってます。何よりラドンの絵が完全な鳥になっていて全く違う印象を受けます。

・ゴジラVSビオランテ
若狭に出現するビオランテの所謂植獣形態が、手足のある、植物体ではありますがより大きなゴジラ、な姿になっており、熱線も使いました。映画では最後死亡した白神博士が生き残るのも印象的です。あとはスーパーX2の性能もファイヤーミラーがなくて違っていましたね。個人的な思い出では本作の"プロローグ"と"エピローグ"が普通の一章ばりのボリュームの上、内容の肝心な部分がそこに集約していたので、プロローグは"つかみ"、エピローグは本編終了後のオマケ部分程度の存在と思っていた自分の常識を覆された覚えがあります。

・ゴジラVSキングギドラ
プロローグとエピローグが追加され、プロローグではなんと宇宙怪獣の方のキングギドラが登場、未来人によって倒されています。ゴジラの復活も、映画本編の「たまたまそこに核廃棄物があった」ではなく、原潜の魚雷によってゴジラ化する扱いとなっています。エピローグは完全にオマケでした。

・モスラ
初代モスラには「発光妖精とモスラ」という一応原作扱いの小説がありますが、結果から見るに、多分これも原作というより事前刊行のノベライズに近いものでしょう。文中ではゴジラの名も大きさの比較でちょっとだけ登場していますが、残念ながらそれ以上は覚えていません。1996年の「モスラ」もノベライズ化されています。内容の変更点はなかったようですが、登場怪獣のデスギドラの説明にエントロピーを使用しており、かなり説明がくどい内容でした。また、それゆえデスギドラは不死身で封印する以外ない、とされていました。

・ゴジラ2000ミレニアム
表紙目次を含めなければ236頁の内容のほぼ2/3までがオリジナルストーリーという驚愕の内容。映画本編のストーリーは最後1/3でなぞるように使われているにすぎません。ラストのゴジラとオルガの戦いに至ってはわずかにラスト3ページのうちの2ページだけしか使っていないのです。実はわたし、当時映画を見る前にこちらを読んでしまっており、実際に映画を見に行った時は「映画のほうはこんな途中から始まるの?」とヘンな驚き方をしておりました。

他にも怪獣映画を使った小説は多々ありますが、読んでいなかったり読んだことを忘れていたり資料が見つからなかったりで省略。
とまぁ前置きは長くなりましたが、映画を小説化する際には作家も映画の不満点や物足りない部分を補ったり自分でストーリーが頭の中で勝手に出来上がったりするのか、それなりの改編が行われるのが通例なのです。まして怪獣ものはビジュアルメインのシーンが多くてそのまま書いたら書面が埋まりませんから。そこを考えると「ゴジラ -1.0」は実はゴジラの登場シーンは短く、本編の内容が多めなバランスになっているのでほぼそのままでも文庫本一冊くらいにはなるのでしょう。ちょっと短く感じてしまいましたが。
他の部分は他のニュースや検証にゆだねるとして、わたしが気になっていた部分二か所を取り上げます。まずは呉爾羅がゴジラになった経緯。映画ではそれっぽく触れられるだけだった1946年のビキニ環礁での「原爆実験」、クロスロード作戦・ベーカー実験が明確に原因と書かれています。おそらく実際の実験をモデルに書いただろう旧帝国海軍の戦艦「長門」らがその実験によって破壊された様子も描かれています。一方呉爾羅はといいますと、たまたまその熱の範囲内にいて熱と放射線で焼き尽くされようとしながらも脅威の再生能力で乗り切り、表皮の細胞が再生の際に元の形を再現できないエラーを繰り返しながら巨大化する様が書かれています。小説内の映画比で一番加筆の多い部分と言っても過言ではありません。が、やはりわたしの疑問であった「なにゆえ日本領であるはずの大戸島近辺に生息していた呉爾羅がわざわざビキニ環礁まで出向いたのか」に関する答えはありませんでした。ビキニ環礁って日本本土から3000km以上も離れてるんですよ。呉爾羅は大戸島にたびたび上陸していました。何度も上陸するほどということはその近くを縄張りにしていたということで、そこから1000km単位も回遊するとは考えづらいです。大戸島が日本本土から見ればはるかにビキニ近海にあったとしても、距離数キロってことはないでしょう。まして「原爆実験」ですから範囲も水爆に比べれば限られていたはず。やはりわざわざアメリカが連れて行って実験材料に使ったとしか思えないんですが・・・。
もう一つのゴジラ東京上陸の際にこれに攻撃をしかけた戦車部隊。これは「本土決戦にと秘匿温存されていた新型の四号戦車」という説明があったのみでした。これで判断すると、一部の元軍人が旧帝国軍の秘密兵器を勝手に出撃させた、としかわたしには読み取れません。戦後すぐのマンガの展開みたいで格好よくも感じるのですが、すぐに出撃どころか砲撃もできる状態の戦車を4両も隠しておけるか? というのは大いに疑問。そこにも回答はありませんでした。

そして、この小説。著者は監督の山崎貴氏となっています。が、本当に本人が書いたかは少々疑問が残ります。一番気になったのが序盤で主人公が載っていた零式艦上戦闘機、略称零戦で知られる戦闘機ですが、これに「ゼロせん」ってルビが振られてるんですよ。戦後の人間からすればこの戦闘機は「ゼロせん」が定着していますが、少なくとも実際に使った人たち、終戦以前では「れいせん」と呼ばれていたはずです。ゼロは英語表記ですから軍では使わなかったでしょうし、映画の中では「れいせん」呼びでした。他に序盤で機銃を「20ミリ」と呼ぶのも疑問。多分劇中では「きじゅう」としか呼んでいなかったような。ちょっと覚えてないですが(20ミリって呼んでました、すいません)。まぁ「ゼロせん」は担当編集者が勝手に振った、20ミリは本来使っちゃいけない言葉だけど咄嗟に出てしまった、と納得することはできます。が、後半ではルビもへったくれもなく戦闘機を「ゼロ」と呼び、また登場人物のセリフの中に「ダメージ」という言葉が出てきたり・・・。後になるほど言い回しへの配慮が薄くなっているように感じます。少々大げさな演出表現を用いても時代考証は優先するイメージのある山崎貴氏っぽくない書き方で、別人が名前を伏せて代筆したのではないか、という気がしてなりません。まぁこの手のではよくある(と言われる)話ではありますけど。もちろん真実はわからないでですけどね。

そういうこともありまして、いくらほとんど映画準拠でも映画と小説は別物、中身は書き手の解釈であって、有力な説ではあっても答えではない、程度の扱いにしておいた方がいいと思うのでした。せっかく面倒くさい設定・理屈っぽさから解放されたゴジラ映画である「ゴジラ -1.0」なんですから各自の勝手な解釈という楽しみを「小説に書かれているからこれが唯一解、他は全部間違い」と思考停止してしまうことで塞ぐようなことはやめておきましょうね。


 
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