録画人間の末路 -

人は記録をしながらじゃないと生きていけない

ゴジラ -1.0/Cが見られないので代わりにGIGANTISを見る

2024-01-18 15:58:12 | 特撮・モンスター映画
前にも書きましたがわたしの行動範囲では映画「ゴジラ -1.0」をモノクロ化した「ゴジラ -1.0/C」は上映されません。休日に遠出する手もなくはないですが、次くらいの最寄り上映館の上映スケジュールを見ても上映回数は少なく、どう調整してもスケジュールが合いそうにないので断念。休日はやること多いんですよ。

こうなっては他の作品を見て寂しさを埋めるしかありません。こういう時はやはり怪獣もの、それもモノクロ作品がいいでしょう。第一作ゴジラ? あれはさすがにさんざん見ているのでこういう場合の寂しさ埋めにはなりません。今回引っ張ってきたのは「ゴジラの逆襲」です。それも海外版の「GODZILLA RAIDS AGAIN」の方を購入しました。だって「ゴジラ -1.0」だって「海外が~、海外で~」ばかり報道されてるじゃないですか。だったらその穴埋めはやはり国内映画を海外配給したものに限る、というわけですよ。

長年半ば幻し扱いだった「ゴジラ」第一作の海外版「GODZILLA KING OF THE MONSTERS!」は少し前の講談社のDVDマガジンで、それに字幕を付けて日本に逆輸入された「怪獣王ゴジラ」は先日発売された「ゴジラ」BDの特典映像でようやくパッケージ化され、簡単に視聴できるようになりました。この作品は第一作をそのまま字幕を付けて海外で上映したものではなく、新規撮影されたスティーブ・マーチン(レイモンド・バー演)を主役に再構成されたもので、編集の際に日本語を残した部分では新規人物の解説とは全くちがうセリフが使われていたりすることもあって日本人が見ると非常に違和感のあるものとなっています。一方、「ゴジラの逆襲」海外版はそうした無理やりな編集や登場人物の追加はなく、事件が世間で騒がれていることを伝える新聞の見出しが「The OsakaTimes」「THEJAPANIESETIMES」「New York Chronicle」と言った架空の英字新聞になったり、太平洋を球状の平面に見立てた地図がアニメーション処理される程度で、内容の改編はほとんどない、といっていいくらいです。さすがにアメリカ向けだけあって吹き替えは全面的に行われ、日本語そのままで残っているのはダンスホールで歌われる歌くらいでした。そしてその翻訳が割とわるくなく、ちゃんと元映像の口の動きにある程度合わせて英語化され、しゃべらせているのです。日本で海外の映画を吹き替えて上映・放映されるときはそういうセリフに違和感を持たせない配慮は当たり前ですが、アメリカは無頓着。B級映画の中には登場する日本人を「特技はしゃべるときに口の動きがあってないこと」と揶揄するものがあるくらいです。大幅改編されたとは言え、アメリカでメジャー配給された日本の映画は「ゴジラ」が初ですから翻訳のノウハウも少なかったはず。そんな時期にこの丁寧な吹き替えは感心しました。ノウハウがなかったからこそ細心の注意を払ったのかも知れませんが。
と、内容に関してはある程度オリジナル順守の配慮が感じられる「ゴジラの逆襲」海外版ですが、こと"ゴジラ"そのものへの配慮は低かったのです。今回購入したパッケージは「GODZILLA RAIDS AGAIN」ですが、もともとアメリカで上映された時のタイトルは「GIGANTIS THE FIRE MONSTER」でした。ゴジラはゴジラ扱いされず、"ジャイガンティス"という別の名を与えられた怪獣となっており、作中「ゴジラ」という表記は一度もなされていません。なのでパッケージ内の映画の映像も、明らかにタイトル部分だけスタッフのクレジットと比べてインポーズの仕方が違うので差し替えられていると思われます。
それゆえ冒頭のゴジラ発見後の会議の部分だけ少々違和感が。「ゴジラの逆襲」ではゴジラは既知の怪獣だったため、確認作業はアンギラス(こっちは海外版でも"アンギラス")を中心に行われています。海岸版でもそのシーンをそのまま使っているので会議前半ではむしろアンギラスの覚醒を脅威のごとく扱っているのに、後半になるとアンギラスのことはどこへやら、ジャイガンティスの対処が中心になるという、やはりこちらを見ただけではわかりにくい展開。
大きな変更点として、その会議中に「ゴジラの逆襲」では山根博士が持ち込んだフィルムでは東京上陸時のゴジラ映像をただ流しているのに対し、海外版では地球創造から始まり、太古から巨大生物が進化し、最近ではこのような生物の出現も確認されているいう解説付きとしてゴジラ第一作のシーンが使われているところですね。その前振りとしてSF系モンスター映画のシーンがいくつか流用されていて個人的にはちょっと嬉しい。「紀元前百万年」「燃える大陸」「ジュラシック・アイランド(Unknown Island)」と言った恐竜の出てくるあたりはわたしでもわかるのですが、それ以外の地球創造の辺りはわたしでは専門外、誰か調べてほしいです。
悔しいのはやはり自分自身の英語のヒアリング能力の低さ。原題の「GIGANTIS THE FIRE MONSTER」から、FIRE MONSTERとは火を吐く怪物の意味なんだろう、などと本作を視聴する前は思っていましたが、会議中にはアンギラスに対しても「FIRE MONSTER」という言葉がおそらく形容詞として使われています。アンギラスは本作では火を噴きません(製作日数が短い作品なので、おそらく合成を減らしたかった・アップ用のギニョールにしかけを施す時間がおしかった、などが理由でしょう)から、FIRE MONSTERとは非常に狂暴な怪物、くらいの意味で使われているんでしょうか?? その前後の単語がほとんど聞き取れず、翻訳できない自分の能力が本当に恨めしい。ああ、学生時代にもうちょっと英語を勉強して基礎を作っておけば・・・。とたびたびおもうものの、わたしの行った高校は学校を上げて特定の大学の合格のみを目標とさせられる、進学校ならぬ受験校だったので、授業は受験対策のみで全然面白くなく、特に英語と数学はやる気を失わせるに十分でした。文章問題解かせるだけでヒアリングなんて一切なし(当時はそれでも良かった・・・らしい)だったので真面目に勉強したところでなんの役に立たなかったでしょうが。わたしの人生で一番後悔しているのが高校の選択。中学の時の「高校受験!高校受験!!」のプレッシャーに負けてひどい下痢体質になり、ボロボロだったわたしは判断力もなく、ただ学力ギリギリのところを周囲に薦められただけで選んでしまったのが不覚。なんで「高校受験!高校受験!!」でつぶれた人間が進学先に「大学受験!大学受験!!」なところ選んでるねん。なので合格した直後一度は収まった下痢体質もしばらくして盛り返し、結果落ちこぼれましたわ。ランク落として大学進学実績よりカリキュラムで選べばよかった。当時はまさか将来海外版や海外製怪獣映画を輸入してまで視聴したり、YouTubeで外国人の解説動画をチェックしたりする趣味を持つとは想像してなかったもんなぁ。

話飛びすぎました。「ゴジラの逆襲」自体は初めて見たとき、それほど面白いとは思いませんでした。終始暗い画面、コメディじゃないのに怪獣が迫る世界でどこか能天気に生きる人々、怪獣らしくない縺れ合い中心のバトルは中盤で終わってしまうし、クライマックスは延々と同じシーンの繰り返し。自称怪獣通て生意気盛りだったわたしが批評家を気取って批判するには十分な中身でした。「しょせん時間がないのに無理やり短期間で作った映画」って。ただ、それでも歴代怪獣の中でもっとも恐怖を感じたのは「逆襲」のゴジラです。驚かされる怖さじゃなくて、ちょっと背筋が寒くなる怖さ、の方です。それは大阪での対アンギラス戦のクライマックス、声を上げる回数が増え、顎も上がってきて明らかに疲労で劣勢にあったアンギラスの喉笛にかみつくゴジラ。さらに大阪城にたたきつけられたアンギラスは完全に戦意を失い、逃げ出そうとしたところを蟹股でノシノシと追いかけ、ゴジラはアンギラスの喉笛を再びかみ砕いて絶命させたあと、追い打ちで火焔攻撃で焼き尽くしてしまうのです。この、自分に攻撃してきた存在は逃がさない、執拗にトドメを差そうとするゴジラにゾッとしたことだけは当時から思っていました。今見るとそのゴジラの凶暴さの怖さはそのままに、むしろ怪獣という事件があっても一般人はそればかりに構う必要なし、大事なのは自分の生活という態度の方が親近感が持ててみていてほっとする好印象の映画という感想がわいてきます。怪獣や事件と関係ない人の生活を描くことは本多猪四郎監督はあまりやらなかった(「三大怪獣 地球最大の決戦」か「ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃」でちょっとあったくらい)ので、小田基義監督の独自性が歴史の中で光ります。本多監督があまり使わなかったこともあって怪獣映画において事件と関わりの少ない生活・風俗を描くスタイルは傍流となり、ゴジラやそれ以外を見ても生活をはっきりと描いた作品は「逆襲」以外には、それこそ「ゴジラ -1.0」くらいでしょう。「ゴジラ -1.0」をゴジラ第一作のリブートと言う人がいますが、土台となった演出面で言えば「ゴジラの逆襲」のリブートと見た方が正解に近いと考えます。
「ゴジラの逆襲」ではダンスホールで踊る恋人同士、戦友との再会の喜び、会社あげての宴会など当時ならではの様子が描かれ、時代を映す鏡という映画の楽しみをしっかり味合わせてくれます。海外版でもそれらのシーンが省略されるということはないんですが、なんですが、うーん・・・という部分が細部に数多。アバンタイトル部分には核兵器の爆発やミサイルの発射シーンが記録フィルムの流用して使われ、タイトルおよびスタッフがクレジットされたあと、なぜか日本の城のシルエットや海岸の映像が入り、そのあとは農村風景に。しかも千歯扱きだの唐棹だのと言った、当時としても時代遅れだろう器具を使った脱穀シーンが挿入されてるんですよ。ダンスホールシーンの直前にも三味線の楽団による演奏シーンが入ったりしてますし。異次元・地球の中にある別世界のド田舎。そういう空気で日本を描きたかったという、作品はともかく日本という国を見下した視点を感じずにはいられません。そうした思考は他でも見られます。
終盤、再度姿を現したゴジラ。日本の後は太平洋を横断して他国への侵入の可能性を示唆した地図が映るんですが地球の球形を平面に見立てた地図なので文字はブリッジ状に書かれ、日本はその一番上なのですが他国の国名を入れることを優先してカメラを設置したらしく、JAPANのPの字が映像の外にはみ出てしまっていて"JA_AN"になっちゃってます。一番ひどいのはスタッフクレジット。日本人スタッフの名前の一部が間違ってるんす。

千秋実→MINDRU CHAKI
香山滋→SHIGEM KAYAMA
円谷英二→ELIJI TSUBURAYA
小田基義→MOTOYOSHI QDQ

よりにもよって重要なスタッフばかり・・・。聞き間違えたというより東宝が提出した文字が読めなくて間違えたんでしょう。他はともかく小田監督の表記はさすがにおかしいと思って問い合わせて欲しいレベルですが、その必要すら感じなかったところがまた・・・でありますな。音楽は全面的に差し替え、ゴジラの鳴き声にアンギラスの声を使うシーンがあったりして音にはとことん無頓着。クライマックスの爆撃シーンがだいぶ省略されていますが、オリジナルは同じようなシーンの繰り返しが続きすぎて少しダレるので、むしろ締まって見えていい感じ。

どうしても随所に日本を見下すアメリカの態度が見えてしまう「GODZILLA RAIDS AGAIN」でした。これもまた時代を映す鏡、の一つだよなぁ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴジラ -1.0/Cは見られません | トップ | mineo10周年 なので使用感 »

コメントを投稿

特撮・モンスター映画」カテゴリの最新記事