私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇 ④

2009-08-18 22:02:35 | A・マーヴェル
A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ④


 主客をつねに区別する意識は「見る」ことに虚しさをもたらす場合がある。もしかしたら、この点こそが「悲しみ」の要因であるのかもしれない。「わたし」の主観をつねに意識し、「わたし」以外の存在を「わたし」の心に映った影として意識しているかぎり、「わたし」が知覚するものは、「わたし」にとってどれほど美しく感じられようと、貴く聖なるものに感じられようと、あくまで「虚ろなもの」に過ぎない。その価値はただ「わたし」の心の動きひとつにかかっている。ということは、いつか「わたし」の心が動き疲れてしまえば、その瞬間にいっさいの価値を失うのだ。
 世間の評価を拒絶して「わたし」の情動ひとつにあらゆる価値判断を委ねる――という態度は、つねにこの価値喪失のリスクを負っているだろう。ある花をはじめて見たときの震えるような思いと同じだけの感動は、花自体には何の変わりもなかろうと、二度目にはまずもって感じられない。三度目、四度目となってしまうとそのうち「美しさ」さえ感じなくなるかもしれない。「わたし」の心の動きひとつを頼みにしているかぎり、知覚しうる「地上のもの」の何を目にしても「涙」が流れなくなるときがくるかもしれない。「わたし」はそのときを怖れている。そのために、「あらゆる園」をつうじて、「わたし」の知覚に関わらず確固として存在する何か絶対的に価値あるものを求めるのだ。
 この「あらゆる園」いう表現は、「まなことなみだと」の第五連にも用いられている。

  おれはあらゆる園をめぐった
  くれないや 白やみどりのうちを
  だが見たすべての花からも
  蜜は得ず ただ涙ながれた

「泣く/涙する」という表現を「心の動き」とし、「見る」を「知覚すること」として取るならば、この連は、「わたしはあらゆる園をめぐって多くの花〔=美しいと感じるもの〕を知覚したが、そこから蜜は得られず、ただ自分の心の内で感情が動いたに過ぎなかった」と読める。第三連で言い放つ「涙こそが真の価値」という断言と矛盾はしていないが、この第五連からは、ありありと「蜜」への希求が感じられる。
 次の第六連で「太陽」が眺めおろす世界から抽出したいと望む「エッセンス」もこの「蜜」と同じものだろう。「わたし」が眺めようと眺めまいと揺るぎなく存在する何か本質的に価値あるものである。だが、「太陽」もそれを見出せない。世界すべてを眺めた果てに「太陽」が見出した「エッセンス」は「ただ雨だけ」なのである。

 続

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