A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ②
主観としての「わたし」とそれが知覚する対象とをはっきりと区別する意識は、「わたし」とその他のものとを隔てざるをえない。結果、「わたし」の内面は、「わたし」以外の対象を映したひとつの小世界となる。
外界を映す小さな閉じられた球体としての「わたし」の内面。
ここで思い出されたのは、同じ詩人による「つゆのしずくに」に現れる「日の出のしずく」のイメージである。天上的な朝の空から地上に落ちた「しずく」は、今現に自分がいる「咲きひらくバラ」さえ仮の宿りと軽んじて、「おのれの生まれた曇りない国」をそれ自身の「小さな世界」の内に封じ込め、「おのれの在るところに触れもせず」に空だけを見つめ返している。
この「しずく」の態度は、曇りおおき地上のものからすればたいへん傲慢である。バラはさぞ気を悪くしたことだろう。とはいえ、自分自身が現にいる俗世間を軽んじて「天上的な世界」の映しを再現した自分自身の内面世界にのみ没頭する――というのは、たいへん傲慢ながら、いわゆる「詩人」の態度としてはいかにも似つかわしい気もする。
しかし、ここが重要なように思うが、地上の花を軽んじて「曇りない国」にこがれる「しずく」はあまり仕合わせそうではない。「しずく」は、「おのれの在るところに触れもせず」、自分が濁りはしないかとつねに怯えて安らがずに戦き震えている。そして、あくまでまわりのものに触れず内面を濁らせまいという態度を突き詰めると、「地上」では「白くまったき、けれど凍てついた」状態とならざるをえない。
つねに不安に震えているか、あるいは凍りついているか。心の持ちようとしてどちらも安楽な状態とはいえないだろう。内側に「天上」の映しを封じた「しずく」は、「地上」を軽んじながらも、主観のみに立脚した小さな内面世界に安んじてはいられないのだ。だからこそ、自分の表面に映る「歪んだ世界」に惹かれないよう自分を戒めながら、曇りなく欠けない外界として「天上」に憧れている。この場合の「世界」とは、内面世界の外にある対象と言いかえられるように思う。「しずく」の表面に――あるいは、「わたし」の心に映っているだけではない、外界に確固として存在する「わたし」以外の何かである。
虚ろをながめる目 ②
主観としての「わたし」とそれが知覚する対象とをはっきりと区別する意識は、「わたし」とその他のものとを隔てざるをえない。結果、「わたし」の内面は、「わたし」以外の対象を映したひとつの小世界となる。
外界を映す小さな閉じられた球体としての「わたし」の内面。
ここで思い出されたのは、同じ詩人による「つゆのしずくに」に現れる「日の出のしずく」のイメージである。天上的な朝の空から地上に落ちた「しずく」は、今現に自分がいる「咲きひらくバラ」さえ仮の宿りと軽んじて、「おのれの生まれた曇りない国」をそれ自身の「小さな世界」の内に封じ込め、「おのれの在るところに触れもせず」に空だけを見つめ返している。
この「しずく」の態度は、曇りおおき地上のものからすればたいへん傲慢である。バラはさぞ気を悪くしたことだろう。とはいえ、自分自身が現にいる俗世間を軽んじて「天上的な世界」の映しを再現した自分自身の内面世界にのみ没頭する――というのは、たいへん傲慢ながら、いわゆる「詩人」の態度としてはいかにも似つかわしい気もする。
しかし、ここが重要なように思うが、地上の花を軽んじて「曇りない国」にこがれる「しずく」はあまり仕合わせそうではない。「しずく」は、「おのれの在るところに触れもせず」、自分が濁りはしないかとつねに怯えて安らがずに戦き震えている。そして、あくまでまわりのものに触れず内面を濁らせまいという態度を突き詰めると、「地上」では「白くまったき、けれど凍てついた」状態とならざるをえない。
つねに不安に震えているか、あるいは凍りついているか。心の持ちようとしてどちらも安楽な状態とはいえないだろう。内側に「天上」の映しを封じた「しずく」は、「地上」を軽んじながらも、主観のみに立脚した小さな内面世界に安んじてはいられないのだ。だからこそ、自分の表面に映る「歪んだ世界」に惹かれないよう自分を戒めながら、曇りなく欠けない外界として「天上」に憧れている。この場合の「世界」とは、内面世界の外にある対象と言いかえられるように思う。「しずく」の表面に――あるいは、「わたし」の心に映っているだけではない、外界に確固として存在する「わたし」以外の何かである。
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