私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

頌歌 ―不死なる幼きころに 第九連③ 

2014-02-14 10:31:55 | 英詩・訳の途中経過
Ode:
Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood

William Wordsworth

IX [ll.149-156]

But for those first affections,
Those shadowy recollections,
Which, be they what they may,
Are yet the fountain light of all our day,
Are yet a master light of all our seeing;
Uphold us, cherish, and have power to make
Our noisy years seem moments in the being
Of the eternal Silence: truths that wake,



頌歌 ―不死なる幼きころに

ウィリアム・ワーズワース

IX[149-156行目]

はじめの心のおののきの
とらえがたない憶い出を
あるべきままにおくならば
吾らすべての日を照らす光の泉となりつづけ
吾らすべての目に映る光のぬしでありつづけ
吾らを支え いつくしみ 力をあたえ
かしましい年日を常のしずけさの
うちの刹那と思わせる 




 ※久々に九連目のつづきを。もう一回でこの連は終わると思います。155行目「常」は「トワ」とお読みください。
  また、150行目の「とらえがたない」は、大手拓治の例のやつから借用いたしました。↓


  みづのほとりの姿

  すがたは みづのほとりに かぶけれど、
  それは とらへがたない
  とほのいてゆく ひとときの影にすぎない。


  わたしの手の ほそぼそと のびてゆくところに
  すがたは ゆらゆらちただよふけれど、
  それは みづからのなかにおちた 鳥のこゑにすぎない。

  とほざかる このはてしない心のなかに
  なほ やはやはとして たたずみ、
  夜の昼も ながれる霧のやうにかすみながら、
  もとめてゆく もとめてゆく
  みづのほとりの ゆらめくすがたを


 
   わが最愛の愛唱歌のひとつです。今までにも再三表明してきた気がしますが、私はわりとユング心理学の信奉者です。アニマ/アニムスを女/男ではなく無意識・受動・感情/意識・能動・思考の要素でとらえた場合、少なくとも私個人の内面の分析とは合致する…気がするのです。独学&我流の解釈ですが。そして私が心の底から惹きつけられる詩は、大抵この「無意識・受動・感情」の部分に対する「意識」からの憬れを歌ったものである気がします。その部分は、やはり私も性差意識にとらわれているせいか「水辺の女性」の姿で思い浮かぶことが多い。大手拓治のこの詩は、その意味で私の嗜好にぴったり当てはまったのでしょう。
 この一見甘く分かりやすく、通俗的にさえ思われる感傷性を、現代の詩の多くは欠いている気がします。近ごろニュースにもちあがっている例の「現代のベートーベン」の件など、問題は、作品の質そのものではなく作者の話題性にばかり注目する私たち自身の傾向のほかに、現代音楽があまりのも難解になりすぎてしまったせいではないかという気がします。私たちはたしかに安直な感動を求めている。分かりやすく、古典的で、端正で平凡なハーモニーを求めているのに、才能のある創作者は不協和音ばかりを奏でる。だから紛い物に走るのだという気がするのです。