持続する夢

つれづれにふと気づいたことなど書き留めてみようかと
・観劇生活はえきさいてぃんぐに・日常生活はゆるゆると

竜馬の妻とその夫と愛人 2/2

2005-12-01 00:47:42 | 演劇:2005年観劇感想編
11/30のつづき>
平田満氏演じる松兵衛は。どこまで、というほど人が良い。我が分を知り、過大評価も過小評価もしない生き方は。もどかしいを通り越し、いっそ振り切れていて清々しい。おりょうが竜馬を追い続けることを、否定することなく。さりとて、彼に近づく努力をすることもなく。ただただ、おりょうに対する誰よりも深い想いを。貫きとおせる強さを、ここにみる。

おりょうが、浮気相手の虎蔵のもとから戻らなくとも。虎蔵をつれて長屋に戻ろうとも。そのまま、一緒に出て行くと言い出そうとも。どこまでも弱腰で。見かねた、佐藤B作氏演じる覚兵衛に。さんざん焚きつけられて、ようよう抗戦姿勢となる。かと思えば、無邪気にしびれ薬(←犬用)を取りだしてみせたり。これらを愚鈍だと切り捨てるには、愛嬌がありすぎて。。決闘の準備とばかりに、剣の稽古を始めるふたり。やたらめったら木刀を振り回すだけの平田さんへの、B作さんのツッコミ。「・・・お前、基本的にこの芝居を馬鹿にしてるだろ」に、失笑。そうなんだよ。情けない人物のはずなのに、いつもどうにも余裕があるんだよなぁ。

ここより、感動のしどころと思われ。隠します→独りで行くことを決めたおりょうを。止めにかかる、覚兵衛を。松兵衛は、全力で阻(はば)む。彼女「だけ」に対する、決して揺らがぬ、純粋で深い愛。自分のもとを去りゆかんとする女への、万感の思いをこめた叫びが胸に迫る。。わたしが、亡くなった竜馬に、唯一勝てることがある。そばにいることができる。天賦の才や、生きざまが竜馬に遠く及ばなくとも。おりょうを暖め、寂しさをまぎらわせることができる(←そう? ←失言)。なぜなら、「わたしは、生きている」から。「だから、待っているよ」と続く言葉は、どこまでも優しい。・・・それでも。おりょうが、彼のもとに戻る日は来ないのだろう。それでも、きっと。松兵衛は、一生待ち続けることだろう。ならば。おりょうは、松兵衛とともに居なくとも。ほんの少しだけ、幸せであるのだろう。

平田満氏は。誰とでも綺麗な調和を生み出す、それはそれはすてきな役者さん。記憶の中から外せないのが、『サイレント・ヒート(1997年)』。当時は、故三浦洋一氏との競演が話題になった演目だけど。彼とのやりとりは、タイトルに違うことなく。静かな内に、火花が散るかのような激しさを秘めていて。。あぁいう、彼のお芝居を。ぜひ、また観たいと願ってる。

当演目は、まだまだ全国公演中。ちなみに、次回公演は三谷幸喜氏の新作とのこと。

<追記> 竜馬ファンの友よりの情報。史実の松兵衛氏が、彼女の碑に刻んだ言葉は。
      「坂本竜馬之妻龍子之墓」 今更に台詞がよみがえり・・・、うるるん(←おそっ)。

竜馬の妻とその夫と愛人 1/2

2005-11-29 00:37:55 | 演劇:2005年観劇感想編
劇団東京ヴォードヴィルショー 第60回公演 『竜馬の妻とその夫と愛人』
劇場:シアターBRAVA!
作:三谷幸喜
演出:山田和也
出演:佐藤B作,佐渡稔,あめくみちこ,平田満(客演)


近々。坂本竜馬の十三回忌が大々的に執り行われようとしている。竜馬の妻・おりょうを法事に呼ぶべきなれど。彼女の行状を考えるに、英雄・竜馬の妻とは名乗らせがたく。。舞台は、横須賀の貧しい長屋。彼女が、新しい夫・松兵衛と住まうところに。彼女の妹婿・覚兵衛が訪れる。その生き方が恥ずべきものならば、おりょうを斬る、という使命を持って。

全編を通して浮かび上がるのは、英雄・坂本竜馬の大きすぎる存在。おりょうに言い寄る男は、誰一人として彼の姿を考えずにいられない。そんなものに捉われないほどの男を、おりょうは求め続けているのかもしれない。けれど、唯一とらわれないでいられたのは。優しいだけがとりえの、うだつのあがらぬ男で。それではやはり、物足りない。飲んで乱れて、寂しさに荒れる。それをも、待つだけの夫。そんな時期に現われた、虎蔵。竜馬を知らぬと言い放ち、されども彷彿させる言動を取る男に。おりょうが、惚れぬわけがない。

あめく氏演じるおりょうは、他人(ひと)を人とも思わぬ振る舞いをする。史実、その勝気さゆえに周囲の者に嫌われたという。強がるなかに、愛する人を突然失った悲しさを、あますところなくにじませて。さればこそ、虎蔵に惹かれたのだと思わせる。虎蔵は、姿なりは写真から抜けだしたような竜馬なのだけど。あっという間に化けの皮が剥がれ、ただの竜馬フリークなのだと知れるのに時間はかからない。なのに、滑稽さを笑って捨てるには。やはり竜馬の存在は大きすぎるのだ。圧倒されて、誰もが足元を見失うほどに。ここだけ、反転にて→おりょうが、胸から吐き出す台詞の。馬鹿にするな。私は坂本竜馬の妻だ、は。決して失われることのない自尊心と愛で。とうとう、居場所を捨て去る結末は。とても、哀しい。

三谷氏の、史実とフィクションを混じえて描きあげる作品は。2004年の大河ドラマ『新選組!』にて、堪能させていただいたが。ここまで、達者な演者にかかれば。まるで目の前で事柄がおこっているかのように、真実味がただよう。それでいて、かっちり笑わせて、きっちり泣かせる芝居には。絵本を読み進めるかのような安心感もあり。何よりも、大切なのは。人を心から「愛する」ことなのだと、あらためて知らされる。

<追記> 映画版では、竜馬の模倣男は江口洋介氏だそうで(←大河では本物)。
       こういう洒落っ気は三谷氏ならではで。・・・観たくなるじゃないか。

ダブリンの鐘つきカビ人間 2/2

2005-11-22 00:16:20 | 演劇:2005年観劇感想編
11/20のつづき> 本文中、ラストシーンに触れる部分を反転にしています。
ファンタジーな世界にひきこまれて、旅人気分になると。物語は真に迫ってくる。童話に残酷味が混じり始め、愛が死に向かいだす。そういうことに恐怖しているなかに、究極の愛情を見せつけられて。感動のうちに終わりを迎える。ある種、オーソドックスともいえる展開。もしくは、明快なエンターティメント。そして、さすがの再演の安定感。

危険な森に踏み入り、活劇を繰り広げる土屋アンナ氏は。戦う姿が凛々しい。やはり森にて、異形と戦う橋本さとし氏の。殺陣の決まり具合はさすが。このふたりの姿が、得体の知れない物語に信憑性をもたせてくれ。中山祐一朗氏が、狂気に信憑性をもたせてくれる。
片桐仁氏のカビ人間は、心の綺麗さが全面にでていて。初演(2002年←未見)をつとめたという、大倉孝二氏の姿を想像しながら観てしまったよ。観ごたえがあったんだろうなぁ。。結果的に、彼を追い詰めてしまう中越典子氏からは。想いが逆の言葉となって発声されてしまうことの驚きと苦しみが、伝わってくる。
人斬りを尽して千人に達したときに、奇跡をおこすという剣。カビ人間を死に追いやった失意に、この剣を自らに突き立てる彼女の姿は。目を背けたいほど哀しくて。鐘の音とともに、魔法が解けるがごとく、すべての病が治癒するシーンは。彼女の祈りの奇跡として、当然のこととして受け入れられる。

館にて、主は。昔語りを終え、恋人たちを眠りに誘う。当時、市長だった彼の罹った病は。年一度の祝日の正午10分前に、教会の鐘が鳴るときに死を迎えるというもので。カビ人間に鐘を撞かせてはならないと、教会に火をつけ。彼を犯人として追い詰める。おとずれた奇跡の治癒の時に、彼の身におこったことは。不死を得るというものだった。
今の彼は、安らかな死を望んで次の奇跡の時を待つ。血塗れた剣を、片時も離すことなく。千人に満ちるまで待ち続ける。あぁ、だから、ここは街でなくなってしまったのか。。

市長を演じる池田成志氏は、がっちり芝居を締める役割を負っていらして。それでいて、神父役の山内圭哉氏とのバランスは絶妙で。共に悪意のたくらみを行うシーンは。もうほんとに、悪い悪い(←喜)。群馬「水産」高校ってさ。ここ、海、無いよねぇ?

客電が点灯し、館内放送が流れても止まない拍手に。山内氏より、「なにを盛り上がっとんねん!」というキツイ突っ込みが(笑)。あとにキャスト全員による、お歌のプレゼントあり♪ ほんでもって、なるしー(←池田氏愛称)。ハケるの早いよっ、早すぎる(笑)。

ダブリンの鐘つきカビ人間 1/2

2005-11-21 00:59:39 | 演劇:2005年観劇感想編
PARCO・RICOMOTION Presents 『ダブリンの鐘つきカビ人間』
劇場:シアタードラマシティ
作:後藤ひろひと
演出:G2
出演:片桐仁、中越典子、橋本さとし、山内圭哉、中山祐一朗、池田成志 他


濃霧の森で迷う恋人たち。この寂しい森は、かつては栄えた街であったと。たどりついた館の主(あるじ)は、不可思議な昔話を語りはじめ。いつしか、ふたりは。彼の語る伽噺のなかに取り込まれていく。

原因不明の奇形奇病に冒されつつある街。各人の症状は、千差万別で。背中から天使の羽が生える、柿(!)が生える。遠目が効きすぎる。若いのに老人になる。そんな中に朗報が。怪獣の徘徊する森に、病を治す奇跡の剣があるという。
時折、はさみこまれる館の場面によって。恋人たちが、このファンタジックな物語に。街への旅人として関わり、ともに追体験をしていくのだと知らされる。

誰も、近づきもしないほど醜い容姿になるという病に罹った者がいる。彼(カビ人間)は、元は美貌でいながらも心根は極悪であったという青年で。今は美醜が入れ替わり、心が限りなく澄んでいるという。その外見に拒否を示していた少女が、美しい心を愛しはじめる。だが、彼女は。思うことの、逆の言葉しか喋ることができない病に冒されていて。

追い詰められたカビ人間を。救いたいがために発する、彼女の「殺して」「大嫌い」という罵倒の言葉の数々は。ことごとく、本心へと変換できて、切ないことといったらない。今は、天使の心でいる彼が。すべてを、黙って微笑んで受け入れるに至っては。彼自身が、人を傷つけていた過去への贖罪のようでもあり。。あおりに寸分狂うことなく、物語は進んでいく。
不思議な病に襲われた中世の街に繰り広げられる不思議な愛の物語。コメディでありながらも、美しくも哀しく、そして残酷なラブロマンス。<公式HPより>

どうやってまとめればいいか、わからなくなってきた。。お誘いを受け、最良席にての観劇。なのに、こめーん。。野を越え山を越えの仕事をやっつけた後で。気の緩みもあってか、しばしば気を失いつつ。はっきり目覚めたのが、ラストシーンと言う。。それでも、なんとか筋が追えてるのが我ながらすごい(←過った自画自賛)。なにはともあれ、明日に決着を。

偶然の音楽

2005-11-19 01:25:59 | 演劇:2005年観劇感想編
ここまで変則的な舞台美術は、めずらしい。客席に侵食する、縦に長く長い舞台は。遠近感を狂わせ、ひどく居心地が悪い。演者も感じているに違いない、違和感。そういうものまでもが、演出:白井晃氏の提供するものなのだろう。チェス盤のように、正しく組まれた石畳。いびつな表面は、昏い照明に陰影を浮き上がらせる。時折、ナナメに射す四角のスポットライト。光と影の狭間で、時の経過を示すように縦横に移動をつづける通行人たち。

手にした、いわれのない大金を。遣うだけの生活に疲れたころにおきた、偶然の出逢い。大きな賭け勝負で作った借金の、支払いとして肉体労働を強制されるナッシュ(仲村トオル)とポッツィ(小栗旬)。重い石をひたすら積み上げて、壁を造る作業は。人生においては、何の価値もない行動で。ただただ、借金の返済だけを目的としたもので。。

傍(はた)からみれば、転落の人生。けれど。大金を持ちながら成したいことも無く、淡々と日々を消化するだけだったナッシュは。幸せだったかと言えばそうではなく、ならば特別不幸になったわけでもない。
確実に減っていく借金、徐々に形をなしていく石の壁。単調でしかない作業が、意味をもち始め。。返済完了の夜。はしゃいで酒を飲み、娼婦と戯れる若いポッツィ(小栗旬)に触発されて。彼の口を、偶然ついて出てきた音楽。子どものころに覚えたのであろう賛美歌を、朗々と歌う彼のなかに。生命が、ふたたび息吹きはじめたことを感じる。

仲村氏の、低く太く通る良い声は。素敵。女優さんを抱く手指は、色っぽくてどきどきする。それでも、映像の方という感じは強く残るなぁ。小栗氏は、まだまだ青い若造を好演。娼婦と寝乱れて無防備に晒したあられもない後ろ姿、綺麗。あの栗色の髪を、シャンプーで泡だらけにして洗って。ドライヤーでふわふわにして、ぽふぽふしてみたい(←わんこ?)。ま、そんな欲求はさておいて(笑)。舞台の上で芯になれる役者さんが好き。真っ正直で、ごまかしを持たない役者さんが好き。これから彼は、どんどん技術を身に入れていくだろうけれど。現在ならではの役を、たくさん観たいと思う。

白井氏は、きっと。閉塞や絶望の音楽を奏でるのだと思っていた(公演詳細とともに、こちらで→予告編を)。開演前に舞台を見たときに。ぎちぎちのチェックメイトをかけてくるに違いないと覚悟した。←他の演者は、そういう役を務めていたと思う。勿論、救いのある結末ではないが。主演のふたりによって奏でられた偶然の音楽を、大切に記憶しておきたい。

BANANA FISH 2/2

2005-11-17 03:08:42 | 演劇:2005年観劇感想編
11/14のつづき> 一部のみ、反転を使用しています。
アクサルにまず感心したのは、男優の豊富さ。原作に登場する、ありとあらゆる男たち。これらの配役に、ほぼ(←余計なひとこと)無理がない。劇団の空気をもちつつも、やはりユニットの強みというべきか年齢もさまざまで。なんと、双子さんもいるらしく。英二(斎藤准一郎)と李月龍(斎藤洋一郎 )が、似てるのなんの(←結構アリだ)。アッシュ(柄谷吾史)と英二の、実年齢差は気になったけど。。スキップ(永井樹:子役)は、可愛く凛々しかったぁ。

セットチェンジなし、照明と黒い薄布だけによる場面転換。音楽・音響も効果的に使われ。役者たちは、客席通路をスピーディに出ハケを繰り返す。2段に組まれたセットの上下で、同時に別空間を展開し。あげく、台詞を交錯させる(←別シーンなのに台詞がつながってる!)手法は圧巻で。一連の、一切のもたつきを許さない脚本と演出には。惚れるよ。
狭いコヤ(劇場)が、一瞬にして。溜まり場になり、地下鉄になり、病院になる。日々が大きく飛ぶ場面では、客いじりありの笑いのシーンが挟みこまれ。原作の始終を組み込むために、どれだけの手が尽くされているかを考える。あぁ、このひと(演出家)は原作を大切に想ってくれているのだなぁと嬉しくなる。そういえば。始まりは群舞から。舞台上に密集するイイ男たちが、繰りひろげる踊りはため息もので。観客の構えを解くには、最適だったよね。

舞台を作り上げるために、意見交換が密な劇団も多いけれど。アクサルは、たぶん違う。演出家は演出家として、しっかり切り分けられている気がする。。なんて思っていた、のに。その、吉谷光太郎氏。役で拝見していたことが判明して、びっくり! とは言え。舞台上での立ち居が最強だったので、説は曲げないことにする。ちなみに、とても端正なブランカ(←役としても最強)としてご登場。原作のブランカは、ずっと苦手だったなぁ。

『BANANA FISH』は。コミックスの発刊を、リアルタイムに追いかけていた。ご贔屓は、ショーターとシンで。内容にどんどん辛さが増してきて、とうとう最終巻手前で挫折した。19巻だけを、ついに読まずにいた(ラストへの興味より、悲しさが大きかったんだよ・・・)。友いわく、「ありえへん」。返す言葉がないよ(笑)。
避け続けてきた物語の終わりを、ここで知る。それは、とても穏やかなもので。アッシュを優しく抱く光が美しく。英二の声と、舞台のはじまりからずっと聞いていた図書館員の声に。哀しいけれど、ゆっくりと癒されて。こんなところで、なぜか吉田秋生氏の原作画が重なった。

BANANA FISH 1/2

2005-11-14 02:06:13 | 演劇:2005年観劇感想編
演劇ユニットAxel(アクサル) 第5回公演 『BANANA FISH』
劇場:シアターぷらっつ江坂
原作:吉田秋生
脚本/演出:吉谷光太郎 
出演:柄谷吾史,斎藤准一郎,斎藤洋一郎,古川貴生,谷省吾,田中照人 他


『BANANA FISH』は、ニューヨークを舞台に壮大に展開されたハードアクションドラマ。当時は、少女漫画雑誌に連載されたけれど。異色作で、他作品と同時に読み流せる代物ではなかったと記憶している(←コミックス読者)。

1973年、ベトナム。一人の兵士が銃を乱射し同僚を射殺した。「バナナフィッシュ…」最後に謎の言葉を残し彼は廃人と化した。
…1985年、ニューヨーク。IQ200の知能に超一級の戦闘能力をあわせもつ少年アッシュ・リンクス。暴力と抗争に血塗られた街でストリート・キッズを束ねるアッシュと日本から来たごく普通の少年、奥村英二の運命的な出会い。
2人にはバナナフィッシュをめぐる巨大な陰謀との戦いがせまっていた。<劇団HPより>


アクサルは。劇団ひまわりのプロダクション部門がプロデュースする演劇ユニットなのらしい。男性ばかりで構成され。今までも、萩尾望都氏の『11人いる!』や、峰倉かずや氏の『最遊記』などを上演実績として持つ(←どちらも未見)。
個人的には。演目としてどのように解釈されようと、それはそれと割り切れる性質(タチ)だけど。それでも、さすがに考える。思い入れの強いファンを持ち続ける作品を、よくも舞台化する度胸があったものだとか(←責めてないよ、念のため)。19巻もの内容から、どのエピソードを選択するのだろうかだとか。「あの」アッシュを、一体誰が演じるのだろうかだとか。

結果は。期待以上のものを観せてもらえて、満足。作品は、2時間40分(←小劇場では、なかなかお目にかかれない休憩つき)。大作を始めから終わりまで、なんともバランスよく圧縮し。原作のイメージに案外近い役者さんたちをキャスティングし、やはり原作の疾走感を壊すことのない場面転換と時空越えを果たし。マフィアだ麻薬だ売春だというセンセーショナルな題材に、ふりまわされることなく。アクサルのユニットとしての特徴も、生かしきって(←おそらく)。ひとつの演目として、感動を描くことに成功していたと思う。

あれ、なんかベタ褒め? 次がいつになるかわからないけど、続けます。

越前牛乳

2005-11-13 00:10:08 | 演劇:2005年観劇感想編
カムカムミニキーナ旗揚げ15周年記念公演 第2弾 『越前牛乳』
劇場:シアターBRAVA!


いろいろな種類の舞台を、いろいろな理由で好きなのだけど。かなりベタな芝居に、もしやいちばん安らぐのかもしれないと思う夜。公演予告編は→こちらに。

南アルプス(←日本)の少女ハイジ(藤田記子)が、一緒に過ごしてきた乳牛のドナドナ(佐藤恭子)を。おじいさんの遺言(←殺すなよ:汗)に従い、市場に売りに行く。世間では、今しもブレイクしようとしている牛乳ブーム。儲けをたくらむ越後屋(八嶋智人)に、越前屋(松村武)。サムライ(清水宏)に、探偵(山崎樹範)に、牧師(吉田晋一)にと。なんでもありな登場人物たちに。翻弄され、引き裂かれたハイジの戦いの物語。

ボケるわ、フルわ、で大忙しの松村氏。なんと、堂々とボケっぱなしの山崎氏。←舞台で見ると色香が出てきたね。冴え渡る、八嶋氏のツッコミ。たとえ女優さんであろうとも、ミスると即座に教育的指導のかかる舞台って・・・(笑)。こんな「くだんない芝居(←最上級にほめてる)」を、わざわざBRAVA!で演ってしまう。そんな無駄な豪華さが、たまらなく好ましい。
ラスト近くの。ハイジがドナドナと、思わぬ再会を果たした場面では。吹きだしながら、つられて感動しそうになってしまったよ。ネタバレですので隠します。反転表示にて→注:探し辿り着いた先で、ドナドナは既に食材となっており。考えようによっては、辛いはずの状況を。役者さんは、ことさら感動的な芝居で再会を盛り上げてくれ。それが面白くてつい。。だけど。笑ってしまっては、おそらく人でなしだと思われ。。そういう、ちょっとずるいシーン。

このところ、1日3時間くらいの睡眠しか取れなくて。立ち止まると、睡魔に襲われる瞬間があり。瞬きで、閉じた瞼(まぶた)が持ち上がらない一瞬があり。劇場で、爆睡するだろう不安いっぱいで出かけたのだけども。とんでもない、きっぱりはっきり目が覚める。
まるで、言葉の連想ゲーム。一度聞き逃すと、取り戻しのつかない焦りと。あんまりな言葉繋ぎに、爆笑するのに忙しく。あっという間に感じる2時間半を過ごさせていただいて、今とても元気だ(←芯のほうでは、すっごい眠いけど)。

言葉の波のなかを、ふわふわ漂わせてもらって。だはだは笑って、手を打って。そうしてるうちに、優しい何かが沁みこんでいる。そんな舞台。

調教師

2005-11-13 00:01:08 | 演劇:2005年観劇感想編
KARA COMPLEX 『調教師』
劇場:Bunkamuraシアターコクーン
作:唐十郎
演出:内藤裕敬
出演:椎名桔平,黒木メイサ,峯村リエ,河野洋一郎,木野花,萩原聖人 他


唐十郎作品は久しぶり。内藤裕敬演出作品(←南河内万歳一座公演)も久しぶり。アングラというジャンルは。観る側の、飢(かつ)えた視線なくしては成り立たないと思っていて。望むものが、苦なくして入手できる昨今。望みもしないうちに、手の内にある昨今に。美しい劇場で繰り広げられるアングラに、抵抗がないといえば嘘になる。

戦後、貧しいながらイキオイのある日本。トタン張りの外壁。焼鳥屋の2階の奥には、くたびれた障子にさえぎられた小さな座敷。人力によって、ぐるりと回転され。裏側から、そこを眺めるシーンには。内臓をのぞき込むような、気持ちの悪さがつきまとう。
あらすじは、書けない。恐水症の犬騒動。押入れに住まう犬の飼い主。人(!)に噛まれた少年。犬を捕獲するべく、捜し求める保険所員。ありとあらゆる場面と台詞がつながりあうこの脚本は。書き始めると、全編書き連ねる羽目に陥るに違いない。

過去に、『水中花』という名で上演された演目の改訂らしく。キーワードは「水」。トタン屋根に叩きつける雨水(←以下すべて本物)。軍用犬の調教師だった男が、めぐり合えた少女に渡した水中花。部屋に吊るされた、水中花をいれた小瓶は。争いのたびに揺れ、水をこぼす。こぼれるごとに継ぎ足され、それでも失われる水は。まるで、赤い水中花が水を干しているようでもあり。一応、反転にて→この花と同じ赤のドレスを纏った少女が、水を張った水槽に沈みゆくラストは象徴的で。その「水」に、揺らめく「光」が印象的だった。

椎名・萩原両氏の芝居は、たいへんそつなくて。黒木氏は、美しくて。だけども。舞台にとても近い席(←飛び込みだったのにね)が逆に、寸止めの暴力を顕わにして物足りない(←危険思想?)。まだ、2日目なためかもしれない。遠慮がちで、本気で当てるつもりもない演技の連続は。冷静に「頭」で考えさせる芝居になってしまって、難解さが残る。
このところ。現実世界で、凄惨な事件が増えていて。いつも、キーワードは「心の闇」で。。そういう部分に踏み込んで、捻子(ねじ)あけてしまうような。肉体で感じて、肉体に考えさせる舞台は。いまこそ語られるべきなのだと、強く思う。

天保十二年のシェイクスピア 3/3

2005-11-12 01:23:33 | 演劇:2005年観劇感想編
最大級の期待を裏切らない舞台は、さすがの一言。お祭り騒ぎ(←好きよ)な演目。悲喜劇だから、人は死ぬ。1作品ですら、ごろごろ死んじゃうものを。集結させれば、もう悲しみの感覚も麻痺するほど、ばったばったと。。次から次へと現れてはいなくなる実力派俳優たちの、一種の見世物興行は。蜷川幸雄氏が、くりだす熟練の技とあいまって。見ていて楽しく飽きることがない。休憩込みで4時間20分の長丁場を、長いと感じさせず。あまつさえ、ずっと見続けていたいとすら思う。さすがに、終わったときには尻がしびれてたけど(笑)。

開演前から、舞台上には役者さんが現われて。王侯貴族のいでたちで、行き交う姿を見せてくれる。そのまま、さりげなく始まっていくのかと思いきや。客席後方から突如、裸同然の百姓達がなだれ込み。セッティングされた豪奢な柱やバルコニーに、鋸(のこぎり)を立て、破壊し始める。これが、中世から江戸への転換。
過去に観た蜷川作品では。泥臭さというものが、徹底的に排除されていたと思う。様式的な美というものを、前面に提示してもらってきたと思う。それが、本演目では。どこまでも、人力による舞台転換にこだわり。我々には。暗転のうちに行われることは見えないものという、舞台最大のお約束を守らせ。足りない部分は、想像力で補えと言う。

そんな生々しい舞台の上で。支離滅裂な人間模様については。神の視点で下界を眺めれば、こんなだろうか、と思わせるほど冷めた描き方がなされる。物語を、主役がぐいぐいひっぱるというのではなく。2002年のいのうえひでのり版では、あきらかに上川隆也氏(←佐渡の三世次役)が、その役目を負っていた。それぞれが、それぞれの人生を営む。こんなふうに、ちょっと突き放すくせに。歌でひきつける。なんて姑息な(←誉め言葉)。歌詞には、なかなかに古風な単語を選んであるので。難解ではあったけれど、好きだなぁ。

力量の揃った、個性の異なる役者さんたちは。「そらもう、えぇ仕事しまっせ(←とは、言ってないと思うけど♪)」な状態で。彼ら自身に、楽しむ余裕もあるので。それはそれは、楽しく観劇できる。誰ひとり、自分の領域を寸分欠くことなく。かつ、相手の領域を侵すことなく。全員が、確実に役割をこなし。あたかも、劇場一杯のジグソーパズルを、隙のないピースで仕上げるかのごとく。着実に、終盤に向かっていく。「完成された」という、成熟した演劇とはこういうものだと見せつけられてきた。
でもね。こんなふうに、混じることなく。役者さんたちによって、くっきりと描かれた稜線は。美しくはあったけれど。・・・少しだけ寂しくもあったよ、正直言うと。