昨日帰郷。やはり『新潮』の蓮実の対談をしっかり読みたいと思い、丸の内丸善で購入。隣にあった『文学界』が映画特集で、蓮実がホウ・シャオシェンの映画について書いているのを立ち読み。「恋恋風塵」について、オマージュをあのように書けるのか、というのは目を開かされる思い。そのときは買わなかったのだが、やはり読みたくなってきた。しかし未入手。
特急の中で蓮実と古井由吉の対談を読む。古井の小説が無人称だ、ということを巡る話が主で、これは日本的な主語の曖昧さということではなく、西欧の人称のはっきりした小説(古井は、西欧の文学は「告発と弁明の文学」であって、人称の明瞭さは裁判における検事と弁護人の対立に由来すると見ている。その見方はうなずけるところがある。)においても、本来は無人称だったのではないか、その無人称性を回復するための実験としての小説だ、ということで、なかなか興味深い。
作品のテーマは「辻」ということで、そこに留まってもいけない、そこを通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない、という「辻」を書こうとした、それを象徴としてではなく、実在の場所を書いた、というのだが、私は読んでいて「辻」とは「現在」のことであり、「留まってもいけない、通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない」というのは「現在を生きる」ということなのだろうと思った。まあそういってしまうと身も蓋もない、ということかもしれないが、そういういわば現象学的?実存主義的?なことなのではないか。その読みが正しいかどうか、何しろ作品を読まずに判断するのは愚昧の極みであるから判断は出来ないが。
蓮実が「読了するということははしたないことのように思える」というのも同じようなことだろう。どんな作品でも、何度も読むに値する作品であればなおさら、数年あるいは数十年経って読み直してみると最初に読んだときとは全く違う印象を受けることがある。蓮実は「辻」の印象を「読み終えなかったという実感が強い」と言っているが、それはおそらく「現在を生きる」ということの困難さ、不可能さを現しているのではないか…と愚昧の上塗りをしてみる。テーマとしては実に面白いし、人として生きたことのある人なら誰でも何かしら感じることがあるという種類のことかもしれない。「辻」も、読む暇があったら読んでみたい。
プーシキン(全集4巻)を読み進む。
「ピョートル大帝の黒奴」。プーシキンの母方の曽祖父、エチオピア出身の黒人・イブラヒム・ガンニバルの伝記的小説。もともと人種的・民族的多様性のあるロシアとはいえ、黒人の貴族がおり、それがロシアの国民詩人の祖先であったというのはちょっと驚きである。レーニンがタタールの血を引いているとか、ラフマニノフが先祖にイスラム系の名、「ラフマーン」を持つものであるとか、ドイツ出身でロシア人の血統を全く引かない女性が皇帝になるなどする国ならではのことといえるだろう。しかしそれも、圧倒的な西欧化を進めたピョートル大帝時代ならではのことという側面もあるかと思う。
内容はピョートル大帝時代の宮廷絵巻という感じで、初めは欧化を学ぶために「摂政時代」のパリに派遣されていたイブラヒムが新都・ペテルブルクに「帰国」し、そこで近代化の途上で混沌とした熱きエネルギーに燃えるロシアを目撃する、という感じになっている。その象徴のものとして扱われているのが「夜会」で、わが国の鹿鳴館のありさまを思わせる。ロシアでは皇帝自らが罰則を科して出席を強要したと言うからその混乱振りはわが国の明治の比ではなかったかも知れない。ロシアの近代化と日本の近代化というのは相当共通点があると感じたが、私の不勉強の故だろう、その比較をした研究を読んだことがない。
それにしても、こうした混乱を極める改革を強引に推し進めたピョートルという皇帝に、プーシキンは強い共感を持ち、人間的な賛嘆を惜しまない。こうした改革の途上のアナーキーな熱気を愛したピョートルという皇帝の姿を、明確に、そして溌剌とした姿で描いている。プーシキンは日本でいえば、いわば「明治時代の文豪」なのだろう。ドストエフスキーやトルストイは、いわば大正時代の文豪とでもいえばよいのではないか。そういう時代的な比較も面白いように思う。
ストーリーも非常に面白いのだが、残念ながらこの散文小説は未完で、その後の展開をあれこれ想像してみるのも一興であろう。
「書簡体小説の断章」。これも未完の散文小説である。公爵家の養い子であったリーザがペテルブルクを辞去して祖母の所領に戻ったところを恋人ヴラディミルが追いかけてくる、といった設定だ。解説によると、この小説はのちの作品、「スペードの女王」などに流用されているというが、まあそういわれてみればそうだがという感じ。
ちょっと喉が腫れぼったい。風邪と言う実感もないので、花粉の影響だろうか。今年は飛散量は少ないという話だったはずだが。
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特急の中で蓮実と古井由吉の対談を読む。古井の小説が無人称だ、ということを巡る話が主で、これは日本的な主語の曖昧さということではなく、西欧の人称のはっきりした小説(古井は、西欧の文学は「告発と弁明の文学」であって、人称の明瞭さは裁判における検事と弁護人の対立に由来すると見ている。その見方はうなずけるところがある。)においても、本来は無人称だったのではないか、その無人称性を回復するための実験としての小説だ、ということで、なかなか興味深い。
作品のテーマは「辻」ということで、そこに留まってもいけない、そこを通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない、という「辻」を書こうとした、それを象徴としてではなく、実在の場所を書いた、というのだが、私は読んでいて「辻」とは「現在」のことであり、「留まってもいけない、通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない」というのは「現在を生きる」ということなのだろうと思った。まあそういってしまうと身も蓋もない、ということかもしれないが、そういういわば現象学的?実存主義的?なことなのではないか。その読みが正しいかどうか、何しろ作品を読まずに判断するのは愚昧の極みであるから判断は出来ないが。
蓮実が「読了するということははしたないことのように思える」というのも同じようなことだろう。どんな作品でも、何度も読むに値する作品であればなおさら、数年あるいは数十年経って読み直してみると最初に読んだときとは全く違う印象を受けることがある。蓮実は「辻」の印象を「読み終えなかったという実感が強い」と言っているが、それはおそらく「現在を生きる」ということの困難さ、不可能さを現しているのではないか…と愚昧の上塗りをしてみる。テーマとしては実に面白いし、人として生きたことのある人なら誰でも何かしら感じることがあるという種類のことかもしれない。「辻」も、読む暇があったら読んでみたい。
プーシキン(全集4巻)を読み進む。
「ピョートル大帝の黒奴」。プーシキンの母方の曽祖父、エチオピア出身の黒人・イブラヒム・ガンニバルの伝記的小説。もともと人種的・民族的多様性のあるロシアとはいえ、黒人の貴族がおり、それがロシアの国民詩人の祖先であったというのはちょっと驚きである。レーニンがタタールの血を引いているとか、ラフマニノフが先祖にイスラム系の名、「ラフマーン」を持つものであるとか、ドイツ出身でロシア人の血統を全く引かない女性が皇帝になるなどする国ならではのことといえるだろう。しかしそれも、圧倒的な西欧化を進めたピョートル大帝時代ならではのことという側面もあるかと思う。
内容はピョートル大帝時代の宮廷絵巻という感じで、初めは欧化を学ぶために「摂政時代」のパリに派遣されていたイブラヒムが新都・ペテルブルクに「帰国」し、そこで近代化の途上で混沌とした熱きエネルギーに燃えるロシアを目撃する、という感じになっている。その象徴のものとして扱われているのが「夜会」で、わが国の鹿鳴館のありさまを思わせる。ロシアでは皇帝自らが罰則を科して出席を強要したと言うからその混乱振りはわが国の明治の比ではなかったかも知れない。ロシアの近代化と日本の近代化というのは相当共通点があると感じたが、私の不勉強の故だろう、その比較をした研究を読んだことがない。
それにしても、こうした混乱を極める改革を強引に推し進めたピョートルという皇帝に、プーシキンは強い共感を持ち、人間的な賛嘆を惜しまない。こうした改革の途上のアナーキーな熱気を愛したピョートルという皇帝の姿を、明確に、そして溌剌とした姿で描いている。プーシキンは日本でいえば、いわば「明治時代の文豪」なのだろう。ドストエフスキーやトルストイは、いわば大正時代の文豪とでもいえばよいのではないか。そういう時代的な比較も面白いように思う。
ストーリーも非常に面白いのだが、残念ながらこの散文小説は未完で、その後の展開をあれこれ想像してみるのも一興であろう。
「書簡体小説の断章」。これも未完の散文小説である。公爵家の養い子であったリーザがペテルブルクを辞去して祖母の所領に戻ったところを恋人ヴラディミルが追いかけてくる、といった設定だ。解説によると、この小説はのちの作品、「スペードの女王」などに流用されているというが、まあそういわれてみればそうだがという感じ。
ちょっと喉が腫れぼったい。風邪と言う実感もないので、花粉の影響だろうか。今年は飛散量は少ないという話だったはずだが。
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