Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

「旅」の持つ政治的ロマンチシズム

2005-11-12 11:40:37 | 時事・海外
なんとなくぼおっとネットを見る。藤原新也氏のサイトを読んでいていくつか思うこと。

私は昔はなんとなく藤原氏を敬遠していてどうも胡散臭い感じがしてならなかったのだが、最近こちらのサイトを読むようになって全く認識が新たになった。

氏は『チベット放浪』という本を出しているが、実際に行っているのは現在「インド領ラダック」と呼ばれる地域なのだそうだ。で、藤原氏によると、この「ラダック」は「行ってみると風土、民像(原文ママ、「民族」の誤変換か?)、宗教、言語もまったくチベットそのものだった。若い私は歴史を聞き取りし怒り感じた。そして帰国後、雑誌で敢えてそれをラダックと呼ばず「チベット」と呼ぶことにした。」その結果、インド政府からクレームがつき、場合によってはインドへの入国が拒否される可能性もほのめかされたのだという。

私はなんとなく中国領にされてしまったチベットでは人々は抑圧されて不幸になったが、ラダックはインド領だから幸運だったのだろうと思っていたのだが、全然そんなことはなかったようだ。ラダックがそんなに「チベットの不可分の一部」であるとは思っていなかったし、いろいろと認識が足りないところもあるなと思った。現在、本来のチベットは中国内でもチベット自治区を削って青海省に入れたり分断工作が進んでいるし、このままいわゆる「西部大開発」が進められたらチベット人がアメリカインディアンのおかれた状態になってしまうという状況は徹底的に進行してしまうだろうという印象なのだが、それだけでなくインドやパキスタンの領土になってしまっている国境による分断もまた進んでいるのだと思わざるを得なかった。そういう意味でチベットもまた、モンゴルのように分断されてており、またクルドのように国家を喪失した民族なのだということを強く印象付けられた。

「国境とは力のある大国が線引きをするいかさまものなのだ。旅はその国境をはぎ取る作業でもある。」と藤原氏は言う。こうした言辞は反体制・アナーキズムを気取る浅薄なものだと思うことが多いが、氏の言葉には重みがある。そして「国境を剥ぎ取る」という国家という巨大な存在に対抗するいわば政治的ロマンチシズムを見出すそういう「旅」もあるのだとちょっと感動させられた。もちろんその感動は、現実のインド国家や中国国家からの激しい圧力への氏の抵抗があって初めてもたらされるものである。

ダライラマとのインタビュー番組がNHKで放映されたことがあった。私はそれは知っていたのだがインタビュアーが山折哲夫氏と藤原氏ということでどうも気が進まず見なかった覚えがある。しかし実は、日本の放送界にはダライラマは扱わないという不文律があるのだそうだ。大NHKがそれを破ってインタビュー番組を制作するということ自体が大変な冒険なのだという。もちろん当然それは、それによって中国との関係を悪化させるということである。

そしてそのような企画をどのように進めたかというと、ディレクターは藤原氏に「この企画は今の段階では私と会長の海老沢しか知りません」と言ったのだという。海老沢氏はさまざまな悪口雑言を浴びてNHKを去ったが、そんな骨のある人物だとは知らなかった。結局人間の本来の人格というものはこのようなところに現れるのだと感動した。

藤原氏のところにはそれ以来日中友好協会の定期刊行物が届かなくなる、などの変化があったそうだが、中共のブラックリストに載った可能性は高いのだという。チベットやダライラマを扱うということは今でもそのような危険のあることで、やはり信念がなければ出来ないことなのだと改めて認識する。日本にも海老沢氏のような骨のあるトップがいたということに少々安心を覚えるとともに、それが石をもて追われる状況でもあるのが今の日本なのだなということも感じた。

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やるね

2005-11-12 11:10:50 | 雑記
昨夜帰京。昨日はいろいろ忙しかった。実際の忙しさよりも、いろいろなことで気持ちが忙しいというか余裕がなくなっていたことで、疲れを感じたのかもしれない。しかし表面上はそういうことも顔には出さないようにして人にも穏和な対応をしていた。というか、自分では出来たと思っているのだが。ただ、少し強い言い方をすると相手が黙ってしまうようなこともあったので内側の妙な強いテンションは相手には伝わっていたのだろうと思う。

まあしかし、なかなか難しいなと思っていたことがどうにかなりそうな感じになってきた件もあって、人生というのはいいこともあまりそうではないこともいつも連れ立ってやってくるのだなと改めて思う。やはり変なことばかりが起こるのは相当な局面なのだ。それは普段からそういう流れのようなものを敏感に察知していないから耐震装置のようなものが働かなくなっているということではないかという気がする。感覚をいろいろな面で鋭敏にしておくことは、やはり生物として生きることの基本、最重要事項だなと思う。

特急の中は割合空いていた。出張帰りと思われる会社員集団がなんとなく管を巻いているのはいつものことだが、あまり気にならず。ご飯を食べて週刊文春を読む。先崎学のコラムが面白かった。将棋の公式戦では将棋会館の15畳くらいの部屋で真ん中に机を置いて向かい合って二人の記録係が座り、その両側に将棋盤が置かれ、それぞれ対局者が座る。将棋盤、机、将棋盤と並んで人間は3対3のような形で座るのだという。記録係に座るのは奨励会の少年たちなのだが、その少年たちがつい居眠りをしてしまうことが往々にしてあるのだという。

話は先崎氏のそういう少年時代の失敗談なのだが、居眠りをしていてもパチリと駒音がすると目が覚めるのだという。確かにプロの将棋では1時間くらい長考することもあるわけだから昼食後などには少年たちが居眠りをしてもそう不思議ではない。駒音で目が覚めるのは棋士の習性のようなものだというわけである。しかしあるとき先輩棋士にいたずらをされて、音を立てないように指されてしまい、目が覚めたら数手進んでいたのだという。先輩はニヤニヤしているし、自分は真っ赤になって、まさか記録係がどう指したのかと聞くわけにも行かず、想定できる手順を勝手に書き込んだのだという。すると先輩が記録用紙を覗き込み、「あってるよ、やるね」といわれたのだという。まさにスリルとサスペンスである。

思い出したが、昨日はビッグコミックの新しい号も読んだのだった。どういうわけだか感動的な展開になっている連載が多く、特に『天上の絃』はつい涙がこぼれてしまった。戦後国交のなかった日韓の間で本当に苦労した人たちがいるのだなと改めて思った。

『小早川伸木の恋』はもうすぐ大団円を迎えそうだ。柴門ふみのマンガはいいと思うものと気に入らないものが極端に分かれるのだが、これはなかなか面白いなあ。やはり当初悪役かと思っていた婦長さんがどんどん変わっていくところなどはドラマとして見ごたえがある。医療の世界というのも人格高潔な人たちの集団だとつい思ってしまうが、ネットでいろいろなものを読んだり巷間伝えられるニュースなどを見たりすると、もちろん素晴らしい人たちも多いのだと改めて思う一方で、必ずしもそうでもない人たちも多いのだなと最近は思う。昔の人が医者にかかりたくないというのは人の世話になりたくないという独立心の表れだったのが、現在ではあまり信頼が置けないという不信感の現われになっているということがなければよいが。

12時前に帰宅し1時ころ就寝。目が覚めたら9時前で、どうも大事な連絡の電話をうっかり受け損なったらしく、少々凹む。連絡は結局ついたのだが、ちょっと凹み系の精神状態であることを自覚する。まあ精神的にも肉体的にもちょっと疲れているということだろうから無駄な抵抗はせずにおとなしく過ごすことにしよう。
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