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門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

『千利休由緒書』現代語訳

2011-06-15 19:47:13 | 茶道
千家所蔵の茶道史史料のひとつ、『千利休由緒書』。江戸初期、紀州徳川家による徳川家康年譜作成事業に伴い、千家系譜を作成。同藩儒臣により、表千家四世江岑宗左逢源斎へ直接下問、その内容を記録させたものと伝えます。当時元伯宗旦は高齢にて存命。宗左は不明部分を随時、父宗旦に問い合わせながら答えました。
利休経歴と系譜について、生前の利休を直接知る人々から聞き合わせた『千利休由緒書』。茶道史史料としての信憑性は、数ある利休関係茶書の中で高く評価されています。

本書内容は、まず利休の系譜。足利義政の同朋衆であったとされる、利休祖父田中千阿弥から、茶の湯の師、村田珠光、武野紹鴎の足跡にも及びます。筆録者より質問が集中した、利休賜死の真相と経過については当然多くの紙幅が割かれることに。利休と秀吉の確執、大徳寺山門木像事件の経緯、切腹当日の様子、少庵、道安の処置。そして秀吉の死後はじめて明かされた、利休娘の聚楽第奉公のいきさつ。利休をめぐる多くの歴史の真実が、浮き彫りとなる好資料といえましょう。

言の葉庵では『千利休由緒書』を歴史ファン、一般の方に、もっと身近に触れていただこうと、読みやすい直訳にてお届けしました。今回、「信長・秀吉・家康と利休」「天正十九年、利休賜死にいたる過程」「利休娘の聚楽第奉公」の三つの段落をご紹介しましょう。


『千利休由緒書』 現代語訳抜粋版 水野聡訳 2011年6月


紀州徳川藩茶堂、江岑宗左談。同藩臣李一陽、宇佐美彦四郎筆録。承応二年編、寛文六年編


(質問)
利休は、いつ頃信長公に召しだされたのか。

 以下、宗左の返答。当時堺では、地元の茶人、今井宗久(菜屋)、津田宗及(天王寺屋)二名の茶名が高かったゆえ、信長公より各々三千石が下されていた。宗久は利休と親友であったため(利休は紹鴎の弟子。宗久は紹鴎の婿であったため親友となった)、利休を信長公に推薦する。利休は安土城に召され、茶を差し上げたが、ことのほかすぐれた点前であったゆえ、即座に三千石をもって召しだされることとなる。その後、安土へ詰め、毎度の茶の湯と茶堂を命ぜられ、並ぶもののない出世を遂げたのである。
 天正六年信長公は上洛。そのまま堺へ赴き、宗久、宗及、道叱宅にて茶会を開かれたが、その折、利休宅へも立ち寄られ茶を召し上がられたという。信長公が亡くなられた後は、秀吉公に召し出され、引き続き天下の茶堂としてご奉公することとなる。

 天正十二年春、秀吉公と家康様の間で合戦となった。秀吉公は不利であったため、自ら家康様の妹婿となって和談をすすめた。にもかかわらず家康様は上洛しようとなされぬゆえ、大政所様を岡崎へ人質として差し出されたのである。
 これにより、ようやく家康様は上洛。新町通三条猪熊の南、中島清延宅に到着された。これを聞いた秀吉公は早馬にて一行の旅宿、茶屋四郎次郎(訳者注 中島清延のこと)屋敷へ駆けつける。ここに家康様との対面がなったのである。この時、利休は棗の茶入を襟にかけ、秀吉公につき従う。家康様へ、茶弁当にて点前し、茶を一服差し上げた。秀吉公が、
「徳川殿。この坊主を知っておられるか」
 と話しかけられた。家康様は、
「いずれかで見かけたような」
 とのご返答。秀吉公、
「この者は千宗易と申して、今の天下の名人です」
 家康様、
「なるほど。安土城で度々見かけたゆえ見覚えていました」
 と仰られた。秀吉公は、
「昨年、閏八月より聚楽第工事を始めました。残念ながらいまだ完成しておりませんので、大坂城にて貴殿を歓待いたしたい。私は明日大坂へ参りますので、家康殿もぜひご一緒に」
 と誘い、二人で大坂へ出向いたのである。
 さっそく大坂城天守にて利休を亭主として茶会が開かれた。秀吉公も客となって、家康様、織田常真 (信雄)様同座にて、利休が茶を点てたという。その場で秀吉公は白雲の大壺と不動国行の太刀を引き出物として家康様に献じる。このことがあってより、家康様の御前へ利休は召されるようになり、ねんごろな間柄となったのである。


(質問)
利休賜死にいたる過程はいかようなものか

 宗左の返答は以下。大徳寺山門を再興したことに端を発する咎である。大徳寺山門は、応仁の乱以来、破壊されたままこれを立て直す人もなかった。連歌師島田宗長が再興に取り掛かったものの資金不足により門が出来上がったばかり。上の閣を欠いていたため、利休が作事を引き継ぎ、門の上に閣を建てたのである。額を掲げ、己の木像を造らせ閣上に設置させた。像には頭巾を被らせ、尻切雪駄を履かせた。このように天下に傑出し、無双の出世を遂げたため、讒言する輩もある。これらを耳にし秀吉公は機嫌を損ねたのであろう。
竜宝寺の山門は帝も行幸なされ、院も御幸、摂家・清華家の尊貴な方々、みな通られる門である。その門上にわが木像に草履を履かせ据え置くとは無礼千万、との咎めによって、天正十八年霜月に利休を勘当。翌十九年正月十三日堺へ追い下され、閉門が命ぜられた。

 加賀大納言前田利家卿より内々に、
「大政所様、北政所様に助力を仰ぎ、詫びをお入れすれば許されるであろう」
 と申し入れがある。利休は、
「天下に名の知られたわれらが、命惜しさに女性方に泣きつくなど、無念の極み。たとえ命を落とそうともいたしかたございませぬ」
 とお断り申し上げた。

 二月二十六日、秀吉の命により帰京。葭屋町の自邸に入る。そうしたところ、利休弟子の諸大名が身柄を奪回せんとの噂が立つ。秀吉公は上杉景勝に命じ、侍大将三人、足軽大将三人に率いられた六組、総勢三千人の軍勢により利休屋敷をひしひしと取り固めて両日厳しく警固させたと伝える。
 同月二十八日、尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守を検使に迎え、利休は切腹して果てた。辞世の頌(しょう)、和歌を別紙に書き留め宇佐美彦四郎に渡した。


・秀頼公の小姓、古田九郎八直談の十市縫殿助(といちぬいどのすけ)物語

 天正十七年二月、秀吉公は東山近辺へ鷹狩に出かけられた。黒谷吉問(田か)近くで、手に鷹を据え徒歩で通る道すがら、畑の中に花見帰りらしい、三十歳ばかりの女房を見かける。乗り物を供にもたせ、幼児を三人連れ、下人男女十人ばかりを従えている。先払いの木下半助が「上様の御成りである。脇へ控えよ」と告げたため、かの花見一行は柳陰にてつくばい控えていた。
 秀吉公が側を通りながら見てみると、主人とおぼしき女房は器量が類稀なほどすぐれ、年も三十、女盛りの様子。そこで供の小姓を使いに遣り、
「何者の妻女であるか」
と聞かせると
「千利休娘、万代屋宗安の後家でございます」
 と答えた。

 聚楽第に戻った秀吉公は、寵愛する尼、幸蔵司(こうぞうす)を呼び、かの女房へと書状を届けさせた。
「聚楽第へご奉公にお出でなさい」
 との内意。女房は、
「幼少の子等が大勢おりますので、ご奉公には参れません。どうかお許しください」
 と上意には応じなかった。
 秀吉公は徳善院 (前田玄以)を使いとして、父利休へ「娘を奉公させよ」と命じさせた。利休は、
「娘をご奉公に差し出したならば、きっと人に、利休めは娘のおかげで出世した、となじられましょう。そのようなことにでもなれば、これまでの佳名もみな水に流れてしまう。思いも寄らぬことでございます」
 と強く要求をはねつけたのである。秀吉公よりその後三度まで命ぜられたにもかかわらず、利休は頑として受け入れなかった。そのため秀吉公は、はなはだ利休を怨むようになったのである。
 しかしこれしきのことで罰しては、世間の目もいかが、としばし目をつむり、
「利休の罪を待ち、その折誅伐してくれよう」
 と思っていた。まさにこうした時、大徳寺山門の件が耳に入り、ついに利休は誅伐されたのである。

 以上は、古田九郎八の直談を長曽我部盛親方にて十市縫殿助が聞いたものである。大坂城落城後に、十市縫殿助が語ったところによる。九郎八は古田織部の嫡子、秀頼公の小姓組であった。

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『山上宗二記』の真実 第十回  新田・初花・楢柴

2011-06-06 21:47:39 | 茶道
引き続き「珠光一紙目録」より。
天下三名物茶入れの項目をご紹介しましょう。

一 新田肩衝 珠光が所持する。天下一である。  関白様
一 初花(はつはな)   同
一 楢柴(ならしば)   同
 引拙は、茄子茶入を手放した後も、この一品をなおさら楽しんだものである。ただし、自分は見ていない。宗易が話すのをよく聞いて記憶した。壺の形、尻のふくらみ具合がよい。釉薬は飴色だがひときわ濃く、釉が濃いという意味でならしばと名をつけたのである。「なれはまさらで恋のまさらん」という歌からとったものか。数寄の目からは、これぞ天下一といおうか。天下に三つの名物の一である。

一 抛頭巾(なげずきん)
 元珠光所持。へら目が四つある。向かい合って二つ、上下一文字に押し込んだへら目である。なだれ状の釉がかかるが、全体としては濃い飴色である。珠光が初めの茶の湯に用いたのが新田肩衝である。次が宗久文琳 、その後小茄子 を所持した。これを手放し代わりに、圓悟一軸とこの抛頭巾を入手した。
 珠光末期に宗珠へ譲り、
「忌日には、圓悟墨蹟を掛け、抛頭巾に簸屑(ひくず) を入れて、茶の湯を手向けよ」
 と遺言した。楢柴、抛頭巾は数寄の眼目といえよう。なお口伝あり。


宗二が“数奇の眼目”とした、楢柴、抛頭巾。むろん、利休も賞賛したであろうことは想像に難くありません。

「楢柴」は、鳥居引拙の道具。もとは足利義政の東山御物と伝えられ、引拙のあと、博多の商人島井宗室、秋月種実とわたり、秀吉の手中に転がり込む。当時の値は今日換算で「数億円」ともいわれ、戦国武将の茶器争奪熱ここに極まれり、と思われます。
そしてさらに数奇道具として興味をひかれるのが、珠光名物「抛頭巾」。利休ら後の茶人の「宗匠頭巾」姿にくらべ、珠光の抛頭巾姿の画は、いっそう侘びて風格を感じます。
さて抛頭巾、珠光より宗珠へ伝わり、のちに利休女婿、万代屋宗安が所持します。利休切腹に前だって、とかく仲のしっくりいかない義父利休の助命のため、宗安より秀吉へ抛頭巾が差し出されたという。しかし結果は皆様ご承知の通り。頭巾はいうまでもなく、利休はわが宝剣を天に“なげうつ”のでした。

利休は切腹の折、最後の茶会で用いた「おりすじの茶碗」、「自作茶杓」を形見として茶堂少厳に与え、
「思ひ出さるる折ふし、一服一会為すべし。本望にて候」
と遺言します。(『千利休由緒書』表千家)

粗末な「ひくず」で一服回向すべし、と言付けた珠光。一本の竹茶杓に後日の一服一会を託す利休。
珠光と利休が末期に伝えようとしたものは何か。今一度、思いをめぐらしてみたいものです。

 いにしへを思い出ずれば今になり
   今も昔にまた成ぬべし
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『山上宗二記』の真実 第九回

2011-06-02 22:31:35 | 茶道
 さて『山上宗二記』珠光一紙目録は、まだまだ続くのですが、茶碗より、花入、肩衝、茶入(茄子)と続き、「台子四飾りの事」の段落では、その他の道具という意味で、台子珠光道具、台子引拙道具、火筋、内赤盆、侘花入、夏の花、冬の花…と補完的な記述がやや雑多に記録されています。
 その中で目を引いたのが、「四方盆の事」で触れられる塗り師、"羽田五郎"についての以下の記事でした。

一 四方盆の事
 昔は、羽田(はねた)が塗り師の名人であった。中頃からは、法界門が上手である。紹鴎茄子を飾りはじめてより、塗りは法界門となった。上作は三十貫、中は二十貫、下は十貫である。
『山上宗二記』能文社2006

 そもそもこの「羽田五郎」なる人物、塗師最古の人とされ、茶器の棗は羽田が珠光のために作ったのが最初である、という説があります。
 「羽田五郎」は、相国寺の"法界門"前に住み、足利義政の用命を受けたともいわれる。この頃、法界門前には塗師等が職人町を形成し、それらの製品は「法界門塗」と称されていたが、羽田五郎もその中の一人であったという説があるのです。また、「五郎」の実体は羽田以外を含む門前の塗師たちを基にした伝説上の人物ではないか、ともいわれています。

 楽焼や竹花入などにくらべ、利休道具としてさほど取り上げられない棗などの「塗り物」の発祥と経緯。紀三、与三、盛阿弥など、利休時代の塗師たちよりも前代の伝説の塗り師「羽田五郎」。珠光時代の塗り物については、非常に興味をそそられるため、さらなる茶道史の研究と調査結果が待たれますね。


 宗易が盛阿弥に、
「棗は、漆の滓をまぜてざっと塗れ。中次は念を入れて真に塗れ」
 といいし。紀三、与三が棗は、塗りみごとすぎて、おもくれたり。
『茶話指月集』
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『山上宗二記』の真実 第八回

2011-04-29 21:36:56 | 茶道
「珠光一紙目録」、今回は今日の茶道具の眼目である、“茶碗”の段落を読み進めましょう。


茶碗の事

一 松本茶碗 代五千貫
 曜を五つあらわした青磁の茶碗。上に吹墨あり。口径五寸二分、高さ一寸八分、底一寸七分。よい茶碗とはこういうものをいう。口伝。総見院殿の御代に焼失する。

一 引拙茶碗
 右の茶碗と様子が少し違うが、よい茶碗である。総見院殿の変で焼失する。

一 安井茶碗
 この茶碗も、先の二つの茶碗と同じ。関白様より、豊後太守に遣わされた。

 天下の三茶碗というものは、右に記した茶碗のことである。口伝する。

一 珠光茶碗、総見院殿の御代に焼失する。
 唐物茶碗。醤色、へら目二十七あり。宗易より三好実休へ渡る。値千貫。似たようなものが薩摩屋宗忻にある。さらに口伝がある。

一 こんねん殿茶碗
 青磁物である。楊貴妃のうがい茶碗という説あり。いかがか、疑わしいもの。堺、満田方にあり。口伝。

一 善好茶碗
 昔、紹鷗・道陳が所持していた。数寄道具とのこと。堺、宗及にあり。

一 井戸茶碗
 これ、天下一の高麗茶碗。山上宗二が見出した二十の名物の一である。関白様にある。

 そうじて茶碗でいえば、唐茶碗はすたれた。当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗ばかりである。なりさえよければ、数寄道具となる。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社2006)
http://nobunsha.jp/meicho.html



「茶碗の事」、文頭には村田珠光高弟、松本珠報、鳥居引拙らの名物茶碗がまず挙げられます。そして当代、若き利休がひたむきに惚れ込んだ「珠光青磁茶碗」が登場。唐物青磁でありながら、下手の粗い作行が、侘びの心に叶ったものでしょうか。

似たようなものが薩摩屋宗忻にある―。

当時、珠光青磁手にはいくつか類物があったようですが、現在、銘「清滝」と呼ばれる、耕三寺博物館収蔵の珠光青磁茶碗は南宋時代(13C)の作。産地は中国南部、浙江省と推定されている。釉は灰褐色か黄褐色で薄手に作られ猫掻文といわれる引っ掻き模様が施されているのが特徴。宗二記では「へら目」と表現されていますね。この茶碗は現存する珠光青磁手の名品で、片桐石州の箱書があります。

利休の使用した茶碗を年代順に見ていくと、唐物から高麗、国焼へ、「見立て」から「創作」へと利休の侘びが発展・深化していった推移が明確にたどれます。
以下は、『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』から五一ある利休の茶会記をひろったもの。天文十三年(1544)利休二十三歳から、天正十八年(1590)利休最晩年の六十九歳までの記録です。

珠光茶碗(中国) 五  →利休ニ三~三八歳
天目茶碗(中国) 一六 →利休三九~六三歳
天目茶碗(日本) 四  →利休三九~六三歳
天目茶碗(不明) 二  →利休三九~六三歳
高麗茶碗(朝鮮) 一三 →利休四五~六九歳
楽茶碗(日本)  三  →利休六六~六九歳

総見院殿の変で焼失―。

天正十年、本能寺の変にて信長は天下統一の途上で突然命を落とします。その跡を継いだのが秀吉。そして天下人秀吉の筆頭茶頭となった“利休の茶”がまたたく間に日本中を席巻します。それまで、武野紹鴎の跡を「師のごとく一器の水一器に移すように」(宗二記 又十体)、敬い倣い、目利きと見立ての茶の本道を歩み続けた利休。しかし、秀吉の茶頭となってよりその「分別」は、がらりと変貌します。すなわち「創作」の時代のはじまり。樂焼を頂点とする、利休の国焼茶碗が茶の湯の座敷の主役へと躍り出ます。


さて、次に注目したいのが「井戸茶碗」。唐物時代に続き、壮年期の利休が愛した高麗茶碗です。「挽木の鞘」など、象嵌青磁手もありますが、今日なんといっても高麗といえば井戸。

天下一の高麗茶碗。山上宗二が見出した二十の名物の一。

山上宗二自身が見立てた、もとは高麗庶民の卑しい飯茶碗。侘びの眼目とされる茶碗です。自分が見立てたゆえか、つつましく「茶碗の事」の段落末尾に置かれています。が、晩年まで師利休も愛し続けた高麗井戸は、桃山期舶載品最後の見立て道具と呼べる、茶碗の逸品中の逸品です。特に、孤篷庵蔵「国宝喜左衛門大井戸茶碗」は、大坂の商家竹田喜左衛門より、本多能登守、中村宗雪、塘氏と所有が移り、安永年間、松平不昧が家中の反対を押し切って金五百五十両をもって購ったといういわくつきの名品。井戸独特の風姿と品格が時代を超えて数奇者を狂わせるのでしょうか。

段落最後、「そうじて茶碗でいえば、唐茶碗はすたれた。当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗ばかりである。なりさえよければ、数寄道具となる」と宗二は締めくくります。

山上宗二記では、唐物や前時代の名物道具に対して「当世はいかが(今日の時代にはあわない)」の寸評が、繰り返し繰り返し与えられます。宗二自身の評価ともいえますが、おそらく師利休の無言の教えを体現した言葉といえましょうか。
ちなみに上では、「なり」さえよければ数寄道具、とありますが、他の写本では「ころ」となっているものもあります。「なり(形)」と「ころ(大きさ)」では意図するところが違います。天正十七年板部岡江雪斎への伝書では「なり」、天正十六年雲州岩屋寺宛のものでは「ころ」となっていますが、相伝する弟子によって教えを変えたものでしょうか。他の芸道相伝ではよくあることですが。
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『山上宗二記』の真実 第七回

2011-03-29 20:08:59 | 茶道
それでは引き続き、「珠光一紙目録」を読み進めます。まず冒頭に、「大壷の次第」。大壷とは、葉茶壷のこと。利休以前、書院台子の茶の時代、大壷は床に飾る道具としてもっとも重んじられていました。東山以来の名品を総覧する一紙目録では、これらを必然的に筆頭にあげたものと思われます。


一 三日月

このお壺、茶が七斤入る。天下無双の名物なり。大きな瘤が七つ。前に腰袋を附けたような格好で、横長の瘤がある。その様が前へ少し傾いたように見え、面白い。それで三日月と名付けたということだ。下膨れの様も珍しい壺である。これは、その昔、奈良興福寺の内、西福寺にあったものだ。後に日向屋道徳の所持となる。次に、下京の袋屋。さらに三好実休へと渡る。戦乱に遭い、河内国高屋城にて六つに割れる。これを堺の宗易が継ぎ直し、太子屋の手で信長公へと奉ることとなった。(三好の老衆が三千貫にて太子屋へ質入れしていたものだが、太子屋がこれを信長公に捧げたのである)割れてなお、その値は上がり続け五千貫、一万貫と果てもない。お壺の様子は口伝する。しかし、総見院殿の本能寺の変にて焼失してしまった。

一 松島

 このお壺、茶七斤と少し入る。紫の土、釉の様は、真壺の手本である。三日月が無双の壺といえども、松島には劣る。二つを比べ、松島がよい、と古人も言い伝えるのだ。形はなるほど、三日月が面白い。しかし、この壺を松島と名付けるそもそもの理由。奥州松島は小島が多く、面白い名所である。この壺に島の如く、瘤が多いゆえ、これを松島と名付けたのである。
これら二つともに東山御物なり。その後、御物は方々に散失。松島は、桃山中期、三好宗三 の所持となる。後に宗三の子、右衛門太夫(三好政勝)が、紹鷗に売った。次の所有者、今井宗久が信長公に奉ったのである。これも、総見院殿、本能寺の変にて焼け失せた。

一 四十石のお壺

 このお壺、茶七斤半入る。関白様ものである。昔、真壺の値が百疋、二百疋かといわれていた時、千本の関本道拙が、米四十石の田地で求めたゆえ、四十石といった。ただし、四十石という名は、東山殿御物となってより付けられたものである。御物散在後、南都の蜂屋紹佐が所持。その次、堺の宗訥。後に関白殿へ上る。松島・三日月滅して後、天下一の壺であろう。その壺味は、三日月と同じ。さらに口伝がある。

一 松花

 このお壺、茶が七斤入る。黄清香(きせいこう)の壺である。土は黒色。瘤が二つあり。下釉は白っぽい赤。この清香の壺、松島・三日月・松花と三名物に数えられること誉れである。壺のお茶閑味は、名人衆も驚くほどという。古い言い伝えである。さらに口伝あり。松花、元は珠光所持。次に、誉田屋宗宅。その次、道陳。そして、信長公へ奉った。本能寺の変に、堀秀政が救い出し、関白様へと献上したのだ。

一 捨子

 関白様所持。この壺には茶が七斤と袋七つ、八つほど入る。お茶味のことはいうに及ばず、土もよく、釉かじかみ、上部に霜が降ったような面白いあんばいである。ある時、心敬が伺候すると、
「この壺に発句せよ」
 との上意である。頃も口切の折りであれば、
  ささかじけ 橋に霜おくあしたかな
 と詠んだ。
 この壺には「乳」がないので、捨子と名付けられたという旧説がある。が、これは誤り。乳は四つ、いかにも見事にある。東山殿が初めてご覧になって、御物とされた時、能阿弥を召し、
「これほど見事な壺に名がないとは。さては捨子か」
 と仰ったという。そのお言葉により、すなわち捨子となった。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社)


「三日月」「松島」「四十石」「松花」「捨子」と、当代一の名壷が目利きされます。
まず冒頭の「三日月」。「松島」がその贅(こぶ)の多さにより命名されたのと同様、「三日月」も"七つ"の大きなこぶにより、まず珍重されたという。加えて、「横長の瘤があり、壷が前へ少し傾いたように見え、それで三日月と名付けた」と、命名のいわれを説き明かします。利休以降、均整の取れた端正な美が尊ばれますが、この時代にはいまだ珍奇な"異形"の美が好まれていたのでしょうか。茶の美の変遷が伺え興味深いです。

名物「つくも茄子」は当初"九十九貫"で売られたため、その銘を得た、とする説があります。「四十石」も千本道堤が、四十石の田地を売り払い入手したため、その値がそのまま銘になったという。一般的に和歌や故事から引用され、名付けられる茶道具が多い中、"売買金額"がそのまま銘となる、そういうところに堺商人たちのバイタリティあふれるユーモア精神が感じられます。

銘の附け方でいえば、もっともしゃれているのが「捨子」。八代将軍義政が、連歌師心敬・同朋衆能阿弥という当代きっての数奇者ふたりを役者にそろえ、「見事な壺に名がない。さては捨子か」と即座に御物に加えたとの逸話でした。

数奇の世界には、天下の「三名壷」といわれるものがありました。古く義政の東山時代には「松島・三日月・象潟」。続いて信長の代には「松島・三日月・松花」。天正十年、本能寺の変にて「松島・三日月」が火に入り滅して後、「松花・四十石・金花」が名壷の代表とされるようになりました。

松花、旅衣ハ清香ナリ (分類草人木)
清香壷の類、松華・金花 (仙茶集)文禄二

利休も生涯、多くの自会に「橋立」を飾り、死の直前までこの壷には深く執心したものです。しかし、「侘び」をいっそう強く志向する利休以降の茶の世界では、やがて大壷は数奇者の床の間よりその姿を徐々に消していくこととなります。
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