デジブック 『築城名人藤堂高虎の城』
日時 平成26年7月12日(土)
会場 杉並区高井戸地域区民センター 多目的室
講師 築城愛好家 岡山信孝 氏
主催 杉の樹大学同窓会
内容 1.藤堂高虎という人物
(1)司馬遼太郎の藤堂高虎に対する見方
①源平時代、鎌倉時代にもなかった武士の型であった。主家を選び一家に忠誠心はなく、
中世的な武士道の好きな家康には理解しがたい武士であった。
②近江浅井家の家臣の家に生まれ、近江阿閇(あつじ)淡路守、磯野丹波守秀家、
秀吉の弟秀長につかえ主家を転々とした。主家を変えるができたわけは高虎の武勇が
尋常でなかったことによる。
③家臣を統御するのに利と射俸心で釣り、みずからの処世法も利と射俸心で動いている。
豊臣大名の中では応接、交渉ごと、祝いの使者、もめ事の調停、宴会の接待などに
長じていたし、露骨な功利主義を覆い隠すすべも知っていた。
(2)十人の主人に仕えた75年の人生
①浅井長政の軍の一員として姉川の合戦に初陣(高虎15歳)。
高虎最後の合戦は60才の大阪夏の陣。
②浅井の有力武将阿閇淡路守貞征に仕える(17歳)。
③浅井から織田信長に降った磯野丹波守員昌に仕える(18歳)。
④信長から磯野丹波守に養嗣子に入れられた津田七兵衛
(織田信澄=信長弟信勝の子17歳)に仕える(19歳)。
⑤羽柴秀長(のち豊臣秀長)に仕える(21歳)。
⑥秀長死後、秀長養嗣子秀保(13歳)に仕える(36歳)。
⑦豊臣秀吉に請われて下山(死者は生駒観正)、伊予宇和島7万石。
⑧徳川家康(将軍 慶長8年(1603)~慶長10年(1605))。
⑨徳川秀忠(将軍 慶長10年(1605)~元和9年(1623))。
⑩徳川家光(将軍 元和9年(1623)~慶安4年(1651))。高虎没 寛永7年(1630))。
2.藤堂高虎が徳川初期政権において果たした役割
①関ヶ原合戦以前に徳川家康と書状のやりとりがあった。
②伊予国で関ヶ原合戦後家康から戦功により20万石に。
③江戸城の縄張り(設計)。
④備中国内に2万石。
⑤慶長14年(1609)西国大名の500石以上の船に対応、交易を統制。
⑥傾聴16年(1611)肥後監国。
⑦家康と秀忠の仲介。
⑧日航東照宮造営。
⑨徳川大阪城の縄張り。
⑩秀忠娘和子(まさこ)入内。
3.藤堂高虎がかかわった主なお城
①紀伊和歌山城 ⑥肥前豊臣秀保陣 ⑪伊予甘崎城 ⑯丹波亀山城
②大和郡山城 ⑦伊予宇和島城 ⑫伊予今治城 ⑰伊賀上野城
③(京都)聚楽第 ⑧伊予大洲城 ⑬伏見城 ⑱伊勢津城
④紀伊粉河城 ⑨順天倭城 ⑭江戸城 ⑲二条城
⑤紀伊赤木城 ⑩近江膳所城 ⑮丹波篠山城 ⑳徳川大坂城