音速パンチ

一人言全般

って思ってる

2006年06月24日 | Weblog
もう秋か。━それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか。俺達は清らかな光の発見に志す身ではないのか。━季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。

秋だ。俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、纜(ともづな)を解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥のしみついた空を負う巨きな町を目指して、舳先をまわす。ああ、腐った襤褸、雨にうたれたパン、泥酔よ、俺を磔刑にした幾千の愛慾よ。さてこそ、ついには審かれねばならぬ幾百萬の魂と死屍を啖(く)うこの女王蝙蝠の死ぬ時はないだろう。皮膚は泥と鼠疫(ペスト)に蝕まれ、蛆虫は一面に頭髪や腋の下を這い、大きい奴は心臓に這い込み、年も情けも辨えぬ、見知らぬ人の直中に、横わる俺の姿が叉見える、…俺はそうして死んでいたのかもしれない、…ああ、むごたらしいことを考える、俺は悲惨を憎悪する。
冬が慰安の季節なら、俺には冬がこわいのだ。

━時として、俺は歓喜する白色の民族らに蔽(おお)われた、涯(はて)もない海濱を空に見る。黄金の巨船は、頭の上で、朝風に色とりどりの旗をひるがえす。俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。この世を絶した力も得たと信じた。扨て今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。


この俺、嘗(かっ)ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜そうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。
俺は誑かされているのだろうか。俺にとって、慈愛とは死の姉妹であろうか。
最後に、俺は自ら虚偽を食いものにしたことを謝罪しよう。さて行くのだ。

だが、友の手などあろう筈はない、救いを何処に求めよう。

小林秀雄訳ランボー詩

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