本日、何か新しき世界が見えた気がする。
囃す心は何にでも通じる。思いあっての囃子は必ず通ずる。
能舞台での動かぬシテを囃す事と絵画の中のシテを囃す事はそう違わ無い。
囃す事は同じと思います。
音楽として囃子もよろしければ、音楽じゃない囃子もあるかもしれません。
囃子はシテを通じてお客様へ流れるものかもしれない。しかし囃子はひとつの小鼓でも囃子であると思うんです。
わたくしの小鼓道はどこへいく。
わかっているのはやっぱり能が打ちたい。
能は一人で出来ぬが、囃子は一人で出来るかも。
似合わぬ囃子は駄目だろう。似合う囃子は美しいかもしれない。
おじいちゃんの言う『らしく』道へも通ずるかもしれない。
今日の音と、つぎに出す音の間は囃子方として大切な時間と感じる。
佛さんへ念仏を唱える様に、作品への囃子はありかもしれない。
能舞台から見せているので無くて、能舞台の中の空間を見られている事を感じた。
感じるままに綴ったまとまりのない文章である。久しぶりで腕がなまってる。
心行くままに小鼓を打つ事は無いが、何だか心行くままに小鼓を打った感触がする。
大切な一日であった。
囃す心は何にでも通じる。思いあっての囃子は必ず通ずる。
能舞台での動かぬシテを囃す事と絵画の中のシテを囃す事はそう違わ無い。
囃す事は同じと思います。
音楽として囃子もよろしければ、音楽じゃない囃子もあるかもしれません。
囃子はシテを通じてお客様へ流れるものかもしれない。しかし囃子はひとつの小鼓でも囃子であると思うんです。
わたくしの小鼓道はどこへいく。
わかっているのはやっぱり能が打ちたい。
能は一人で出来ぬが、囃子は一人で出来るかも。
似合わぬ囃子は駄目だろう。似合う囃子は美しいかもしれない。
おじいちゃんの言う『らしく』道へも通ずるかもしれない。
今日の音と、つぎに出す音の間は囃子方として大切な時間と感じる。
佛さんへ念仏を唱える様に、作品への囃子はありかもしれない。
能舞台から見せているので無くて、能舞台の中の空間を見られている事を感じた。
感じるままに綴ったまとまりのない文章である。久しぶりで腕がなまってる。
心行くままに小鼓を打つ事は無いが、何だか心行くままに小鼓を打った感触がする。
大切な一日であった。