もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

桜とサクラ

2020年03月18日 18時24分49秒 | タイ歌謡
ป้อจายลั้นลา : แคท รัตกาล อาร์ สยาม [Official MV]

 ケット・ラッタガーンさんです。ケットというのは英語のCatをタイ語表記したものなんだが、そんなに猫っぽくないね。なんで猫なのかというと、メオ族の人だからだろう。メオはタイ語で「猫」のことだ。
 近年、メオ族って言い方はけしからん、モン族と呼びなさいということで、これがポリティカル・コレクトなんだが、中文だと犭(けものへん)が取れて「苗族」と書いてミャオ族と読む。やっぱり侮蔑語だけど、中華思想だから周辺の民で侮蔑語でない民族などいないのではないかな。日本なんて「倭国」だよ。従順な奴らって意味です。的確なだけに腹立たしい。
 さて、モン族といえばバンコク首都圏ではパパデーン(พระประแดงーこれは音便化した言い方で、綺麗に発音するとプラプラデーンなんだが、おれの発音ではつうじた試しがない)地区あたりに固まって住んでいて、だけどチェンマイ近郊のモン族と違って民族衣装なんか着てないから見分けがつかない筈なのに独特の雰囲気があって、なんとなくわかってしまう。おまけにモン族だけの訳のわからない祭りを催して往来を占拠したり、拳銃の所有率が飛び抜けて高かったりして、でも殺人件数が高い訳でもなく、「なんかよくわかんない人たちだけど、近づかないようにしよう」と、一般のバンコクっ子からは敬して遠ざけられているようだ。あと貴州省だったか雲南省だったか、その辺のモン族の墓地というのが山奥の洞窟で、ひとが死んだら棺桶に入れて洞窟に運ぶんだけど、穴を掘らずに、洞窟の地面にそのまま安置していて唖然としたことがある。集落に棲む先祖代々の人々の棺桶が新旧取り混ぜて並んでいて壮観で。たぶん、山岳地帯に棲む人だけだと思う。少なくとも都市部に住む人にはできないよね。まさか人知れず地下に洞窟掘ってたりしてないと思うんだ。
 もう少し詳しく説明すると、ここで言うモン族には2種類あって、首都圏のパパデーン辺りに住んでいるモン族てのが、広い意味でのモン族で、タイ文字だと「ม้ง」と書く。アルファベットなら「mong(これだと声調がわからないんで低音を表すためにhmongと表記することもある)」タイ族による初の王国であるアユタヤ王朝のまえに、この地を支配していた「ドヴァーラヴァティー王国」という、ふざけた名前の王国の民で、雲南省や貴州省に多いメオ族の支系とはいえ、ほとんど見分けがつかない。で、チェンマイ周辺に住んでいるモン族はタイ文字だと「มอญ」と書いて発音が少し違う。アルファベットなら「mon」だ。最後の子音が違う。先の広い意味でのモン族(mong)とは、全く違う民族なのかというと、そうでもなくて広い意味でのモン族(mong)の支系がチェンマイ周辺に住むモン族(mon)だ。つまり、中国・ビルマ・ラオス・タイに広く住むメオ族の支系がタイ全土に住むモン族(mong)で、そのまた支系がチェンマイ周辺に暮らす山岳民族で、これをモン族(mon)という。また、中国・ビルマ・ラオス・タイに広く住むメオ族のことを、さいきんのポリティカリー・コレクトで、モン族(มอญ-mon)と呼ぶようになった。これはタイ周辺に広く住むモン族(มอญ-mon)と同じ綴りだ。従ってモン族(มอญ-mon)の支系のモン族(มอญ-mon)の、そのまた支系がモン族(ม้ง-mong)ってことで、ややこしいことこの上ないので、メオ族のことはミャオ/モン族(เหมียว/มอญ-miao/mon)と呼んで区別するようになってきたが、ポリティカリー・コレクトネスはどこに行った。元に戻ってんじゃん。
 モン族(มอญ-mon)の有名人といえば文句なくタクシンとインラックのシナワット兄妹(どちらも元首相)でしょうか。タクシンの渾名がそのものズバリで「メオ」ですからね。もちろん猫っぽい訳じゃなくてメオ族だからで、「มอญ」のほうのモン族だ。
 シナワット兄妹に比べりゃケット・ラッタガーンの知名度なんて吹けば飛ぶようなものじゃないか。現にうちのヨメは知らなかった。バンコクに暮らす者として、それは普通のことで、ケット・ラッタガーンさんはタイ北部、チェンマイあたりのローカルスターだからだね。「ばってん荒川」みたいなもんか。
 
 今回の曲はป้อจายลั้นลา(ポーチャイランラー)といって、初めは「満足してランラー♬」みたいな意味だと思っていたんだが、綴りをよく読むとポーチャイは、満足(พอใจ)のポーチャイではない。ヨメに訊いたら「立ち寄る」みたいな意味なんだって。立ち寄ると言ってもガッツリ立ち寄るんではなく、ひょっこり立ち寄るみたいなニュアンスで、英語だとStop atではなくPop inのほう、と言えばわかりやすいか。
 MVの撮影地はチェンマイのサンカンペーン地区にほど近いボーサン工芸村ですね。傘祭りが有名。少数民族の子どもたちが映っていたり、工芸品の売り場が映っていたりしてますが、あの子どもたちがモン族です。土産物売り場の品物は、モン族だけの物じゃなく、アカ族やリス族などの物も売っていて、なかなか楽しい。
 で、ケット姐さんなんだが、いきなりデカいですね。インラックもそうだが、北部には大きな女が、よくいる。北海道もそうで、これは乳製品が豊富なのと関係あるのかどうか知らないが、「恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する」というベルクマンの法則は関係ないと思われる。
 チェンマイ辺りは他の地域に比べて確かに涼しいが、寒冷という程のものではない。つうか、暑期はバンコクなんかの中央タイよりも北部の方が暑いんだった。内陸性気候ってやつだね。乾期は確かに涼しい。シャワーに温水の機能がない場合(北部の一般家庭には、そんなものはないのが普通だ)、水が冷たく、「ひゃぁー」と叫びながら水浴びすることになる。もとよりタイに棲む民が、この地に来てからせいぜい700~800年くらいのものだろうから、そんなスパンで巨大化する訳がないから、ベルクマンの法則は関係ないだろう。
 だから北のタイ人が大きいのは、食糧事情が原因なのかもしれない。そういえばロシア人の女の子で2m近いのがいて「大きいねぇ」って言ったら、「ウサギ食べてたからね」って答えたんだけど、ウサギって、そうなの? おれも食ったことあるけど、一回じゃダメみたいだね。
 ところでタイ北部に伝わるカントーク料理と呼ばれる民族料理(宮廷料理が発祥とか)などは日本料理に似ていて食べやすいのね。あと、モン族なんかの山岳民族は日本食と共通の物を食べてて、納豆(といってもビルマやタイでは加熱して食べることが多いんだけど)や熟鮨(なれずし)、飯寿司(いずし)と呼ばれる乳酸発酵させて作る日本寿司の原型なんかもそうだ。川魚だから、いろいろとヤバそうだけど。これは長江の民が日本とタイを目指して別れたために文化が似ているという説もあるけれど、料理に関しては、かつて中国とその文化圏(日本も含む)で同じような食文化だったんじゃないかという気がしてならない。ただ、中国の宋代にコークスが発明されて、中国本土で強い火力を使う現代に通じる料理法が編み出されて、周辺の日本とタイにはコークスが普及せず、旧式な料理が残ったのではないかと推測している。あくまで私見なんで、違っても「あ。そうすか」と、簡単に引き下がる心づもりはいつでもオーケーだ。
 料理以外では、集落の結界に鳥居を作ることで、これが日本の神社の鳥居とそっくりで、鳥居の上に、しばしば彫刻の鳥が止まってる。日本の古い時代の鳥居にも彫刻の鳥が止まっていたというんだが、他にも養蚕、焼き畑農業、お歯黒、歌垣の習慣などが共通していて、これを「照葉樹林文化論」というんだが、この仮説は否定される向きが多くて、実際には弥生人のルーツは長江流域の民で、この民が舟で二千~三千年ほどまえに日本に渡って来ていることに依るんだろう。
 ところで、このMVでは桜の花が度々映るんだが、昔この辺りを歩いていたら日本人の観光客がいて、ガイドさんが「このサクラはね、日本がくれたね。日本とタイ、昔から仲良いだから」と説明しているのを盗み聞きして、ほほう、そうなのかと思っていたのに、後にこれは嘘だと判明した。あれはヒマラヤ桜というもので、タイ語ではนางพญาเสือโคร่ง(ナンパヤーソクロン)というらしいのだが、これは正式名称ではあるものの、いっぱんにはซากูระเมืองไทย (サクラモンタイ)と呼ばれていて、意味は「タイの桜」だ。ヒマラヤ辺りが原産で、雲南省経由で渡来したと思われる。
 七十数年まえ、中国の国民党軍が台湾に逃げる時に、その逃走路を共産党軍に覚られないように陽動作戦のオトリで反対方向に逃げる「サクラ」が必要だったわけで、前述のように二千~三千年くらいまえの春秋戦国時代や、それ以前に漢人やタタール人(韃靼人)に押し出されるように、長江から雲南省経由でタイに逃げた者たちと、もう一方は舟で太平洋に向かって日本の畿内にたどり着き、その後弥生人と呼ばれた者たちの経路と似ている。
 で、タイ付近に逃げた国民党軍の末裔には麻薬王と呼ばれたクンサーなんかがいたんだが、オトリの陽動作戦だから人目につかねばならず、派手な服を着てたんだろうかね。芸人引き連れてどんちゃん騒ぎとか。さすがにそれはないか。
 それはともかく国民党軍の残党はタイ北部にたどり着いたわけで、「よし。ここで暮らすか」と決心したときに、その記念として植えたのがヒマラヤ桜だそうで、「仲良いだから」なんて腑抜けた理由ではないというのね。
 
 それでも「仲良いだから」説を聞いた当時は、メーホンソンあたりを歩いていると日本兵の戦没者記念碑なんかが何事もなく、あたりまえに現れたりして、「あー。インパール作戦かぁ」と思ったりしてたもんだから、そりゃ信じてしまうわけだ。ところで、あの戦争で責任を取った日本人がいない。というんだが、まあそうですね。日本でブッチギリに偉いあの御方は責任取らなかったし、じゃあオハナシとして「A級戦犯」に責任被ってもらおうと。そういう責任を取る人が必要だと思って裁判まで開いてお膳立てしたのに、あれは「悪いけど責任とって」って言い含めないから「いや。あの人達にはそれほどの罪はない」とか言って、まあそうかもしれんが、そういうストーリーが必要だって言ってんのに、「いやオレじゃねぇし」て逃げちゃう。なんか責任問題はウヤムヤだ。
 だから失踪で行方不明になった辻政信あたりに責任おっ被せて遺族には金握らせて「ま、アレですけど、ひとつヨシナに」で済ましちゃえば良かったのに、と俺はよく言っているんだけど。
 ところでタイは当時、大日本帝国と同盟国だったわけで、敗戦は免れず敗走する日本軍の背後に空砲を撃って「宣戦布告しましたぁ」で日本と関係を絶ったとして責任を追求されることもなかったタイを、「昔からしたたかな外交感覚」なんて言ったりもするんだが、タイはオトナの国ですからね。そのくらいは、やる。泥舟になんて乗らない。
 タイの、あの御方といえば最近即位された御方で、その先代といえば、これはもう国民からの尊敬を一身に集めた、あの御方だ。先代が御即位されたのが1946年。そのまた先代というのが先代の実兄で、兄が怪死なされたのが1946年で、これは奇しくも世界大戦終結の翌年。銃が暴発したとの由。
 もちろん誰も「責任を取った」とか「取らされた」とは言わない。でも、怪死の後、責任を追求する者はいなくなったわけだ。何の責任って、そりゃ戦争責任だ。日本がウヤムヤにして放り出した戦争責任は、タイではとっくに解決済みなんだな。ところでタイの、あの御方の怪死に関与したのが辻政信という説まであって、また辻政信か。だから日本も辻政信に責任をって、もう遅いか。
 数十年まえまでタイには「責任」を意味する単語がなく、さすがに今ではあるが「ความรับผิดชอบ(クワームラップピットチョープ。直訳すると、間違いも好ましい事も受け入れること)」と言い、なんかそれ違うんじゃないの。と日本人は馬鹿にしたりするんだが、その日本人で責任を取った奴は見たことない。責任取って辞めますみたいのは、それは「逃げ」というもので、責任じゃありません。そもそも日本語の「責任」と、英語で言う「responsibility」は違うよね。日本人てわかってないよね、と英語圏で言われてたりしてグウの音も出ないんだけど、タイ人はキチンと責任を取る人たちだ。普通に生活してても「オトシマエつけないと、どうなるか、わかるよね」って暗黙の了解があるから、「責任」なんて単語は必要なかったんじゃないか。どっちかといえばタイの責任は取るものというより、取らされるものという印象だけど。とにかく日本人は責任てことに限って言えば、からきし駄目だ。
 なんだよ、おまえはずいぶんエラソーだな、って言われそうだが、すいません。エラソーで。いや。これじゃエラソーじゃないな。「エラソーで、悪かったな、おまえら」ぐらいじゃないとダメなんだろうが、小心者だからこういう言い方に慣れてないのよ。許してね。
 まあ、あれです。とりあえず、おれは当時働いていたグループ会社の会長が殺されて、それは普通に判断したらけっこう危険な状況だったから、役員連中が日本へ逃げ帰る中、おれだけは逃げずに、おれが責任者だった会社の社員たちの新しい働き口を斡旋したってことで、タイ人の間では「ニホンジンなのに責任取る人」って評判なんだ。まあ、実態は顧客が途方に暮れるくらいなら、その顧客をお土産にする条件で別な会社に従業員さんたちを雇ってもらったってだけの話で、責任感というより、従業員さんたちにグズグズ文句言われるのを避けただけだ。あと、他の役員は逃げたのに、おれはタイに残ったってのは、ちょうどうちの奥さんと付き合い始めで、「この人と付き合えるんなら、死んでもいいや」って捨鉢な気持ちだったからで、端的に言えば女狂いじゃないの。いい歳して(その頃は四捨五入で四十歳だ)分別というものがなってない。
 まあ、そんな料簡でいたのは内緒だ。いちおう「責任取る、ちゃんとしたひと」って勘違いされてて、これは意外と便利で、タイ人の知り合いは言う事聞いてくれるし、うちの奥さんもおれに優しいから、そういうことにしているんだ。

 ぜんぜん歌の話になんなかったね。
 で、これがチェンマイ歌謡かというと、そんなジャンルはない。が、タイ北部ポップとしか言えないような曲ではある。多少はタイ北部っぽいアレンジだし。残念なのは、ケット姐さんは歌手に転向してからというもの、ほとんどルクトゥンばかりで、このような「イロモノ」っぽい楽曲は少ないことだね。この方面を伸ばしていただきたかった。知性のある人が、スコーンと抜けたばかみたいな歌詞を歌うってのは、いいものだ。
 ということで歌詞なんだが、これが本当に大したことない。

ハンサムなのね お近づきになりたい
上手くいくかしら ランラララン
(わたしと)一緒にいたいですか?

 というような、他愛のないものだ。あんまりアタマ良くない感じ。
 ただ、なんだかクセになる曲で、「お。ストリングス」と思わせるのはシンセサイザーの合成音っぽい。違うかな。そして続いて入ってくるブラスの音もシンセサイザーでは。あと乾いたタムタムのスコン! て音が良くて、泥臭いアナクロニズムは、わざとのようで、このアレンジは手が込んでいる。
 これを大卒インテリのケット姐さんが歌うからいいのか。人柄が良かったようで、地元では大人気だった。
 あ。あとケット姐さんは5年まえの2015年に引退して、今は普通に一般人として暮らしているそうで。もう46歳だからね。シアワセになっていただきたい。

 それからMVの終わりで小芝居の冒頭のセリフ。ソンテウ(乗り合いのピックアップトラック)に乗ろうと「ไปด้วยกันเจ๊า(パイドゥアイカンジャォ-一緒に行きます)」と言っているんだが、その語尾「เจ๊า(ジャォ)」。これが北部訛りのチェンマイ語とかラーンナー語とか言われるもので、タイ標準語だと「ค่ะ(カー)」と同じものだ。使い方も「ค่ะ(カー)」とまったく同じで、語尾に付くと女言葉になったり、これ単独だと女言葉の肯定で「はい」という返事にもなる。
 ここではジャォと言っているが、人によって「ジャー」だったり「チャー」だったりもする。
 これぞ北部、という言葉だが、ただしバンコク辺りのタイ中部の女性がこの「เจ๊า(ジャォ)」を使うことも少なからずある。北部訛りのこれを使うと「雅やか」に聞こえるというのね。ラーンナー王国の古都の言葉で上品だと。だから丁寧に聞こえるらしい。仕事がらみで目上の人や社外の偉い人相手に使ったりする。中央部に住む下品な女性は決して使わない言葉だ。
 まれにオカマ関係の男性が使うこともありますが、男がこれを言うことは、ほとんどない。ほとんど、というのは、呼びかけられた男性が「เจ๊า(ジャォ)」と答えると、まず間違いなく笑いを取れるんだが、何度も言うと手のひら返しで「あー。また言ってる」という2月のオホーツクの水死体みたいに冷たい反応になるので、ほとんど滅多に聞けないのね。ま、聞けたからといって、何か良いことがあるわけでもないんだが。

 最後に、下の画像は右も左も同一人物。右の坊主アタマの人もケット姐さんで、芸能界引退後、出家して「シンプルな生活がいいな」とフェイスブックに公開したもので、姐さんのファンからは「自由な人だ」と憧れる者が跡を絶たず。あ。ちなみにタイの出家は、その後の人生を仏門に捧げると決まっている訳じゃなくて、1日だけの出家から3日間、せいぜい3週間というのが多くて、3ヶ月とか長期の人は「凄えな」って感心されるけど、そんなのは稀だ。でもまあ、女性で出家する人はそれ以上に珍しい。ともあれ自由なタイ人に「自由だなー」って思わせる自由界の旗手。引退してもまだまだ尖ってるね。

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