もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

無礼講

2023年12月22日 20時37分23秒 | タイ歌謡
 今日は無礼講だと言われて、酒の席で上司のアタマをペシペシ叩いたか何かして即左遷されたのち、起死回生で「週刊こどもニュース」の企画を提出したら、(はぁーん。コドモ向けかよ。ま、いいだろ)と許可されて、思いがけずオトナの視聴者に「わかりやすい」と評判になって名を売って有名になったのちに、こんなNHKなんか辞めてやる、と飛び出したのが池上某で、ニュースをわかりやすく切り取って解説すると偏向報道し放題だと学んで現在に至るわけだ。今では切り取るだけじゃなくて「ハマスは元々ボランティア団体」「福祉団体」など平気でウソをつくようになり、年を重ねるごとに順調に成り下がっているのだった。ニュースをわかりやすく要約なんて至難の業で、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエル・パレスチナ問題なんて、どう要約しろというのか。若い者がよく言う「三行で説明してくれ」などというのは無茶な要求で、三行以内というなら「せんそうで しんだり けがをすると いたいから やめたほうがいいよ」というような解説だとバカとしか思えない。間違ってなきゃ良いというものではない。
 池上某は昨日今日からのろくでなしではないのだ。年期が入ってる。こういう「わかりやすいニュース」は古くは竹村健一あたりからの手口で、竹村は見た目が気持ち悪いからロクに評価されてないが、彼はマーシャル・マクルーハンの著作を日本に紹介した学者で、テレビがホットメディアなのだという理論をよく理解して利用した。当時竹村の愛人と噂されたのが小池さんで、栄子でもなくラーメン好きの天パでもない百合子の方だが、都知事であらせられる小池さんに、そんな後ろ暗い過去があるわけがないだろ。その証拠に緑のスーツが似合う。おまけにカイロ大学だぞ。
 まあ無礼講だと言われて、それが本当に無礼講だと思う奴もいないわけで、だったらどうしてそんな単語が存在するのかまったくの謎である。仲の良い友人達で催される飲み会が無礼講に近いが、そんな集まりで「今夜は無礼講だぁ!」なんて宣言することはない。上下関係がなくては無礼講は成立し得ないからだ。まあ無礼講であるかどうかと無関係に、他人のアタマをペシペシと叩くのはアウトな行為だった。一般の無礼講は何をやっても許されるルールではない。ナイフを刺すなんて以ての外だ。優しく、そっと刺してもダメ。
 無礼講だと宣言された状況で許されるのは、どこまでの逸脱なのか。脇腹をくすぐるぐらいは許されるような気もするが、これも課長辺りなら問題なさそうだが、会長の脇腹コチョコチョは進退がかかるよね。くすぐり方が天才的に巧かったなら、ひょっとすると出世できるかもしれない。いや、しない。普通は、しない。

 上下関係のある飲み会ってのは面倒なもので、うっかり役員なんかになるとタバコを咥えた途端に、シュボッとライターの火を若い者から向けられることもあって、「あ。……んーとね、タバコを咥えた瞬間から、それは喫煙行動に入っているわけで、火を点ける瞬間ってのは自分の程良いタイミングでないと按配が悪いんだよ。だから、おれの場合は気を遣わないで欲しいんだ。ついでにビールを注ぎ足されるのも調子が狂うから、おれに対してはそういうの一切構わないで欲しいんだよね」なんて言うと、他の役員が「な。このオジサン、面倒くさいだろ」と助け船を出してくれたりしていた。要は「余計なこと、すんじゃねぇ」というのを優しく言ってるだけで、「拙者のような者に気遣い無用でござる」と言い換えてもいいが、どっちにしても「え……。なにこのオッサン」と思われるのは避けられない。
 そんなのはタバコも吸っていたし酒も飲んでいた頃のことで、昔の話だ。昭和のオジサンは、おれみたいに構わないでほしがる他人とは距離が必要な偏屈者か、タバコを咥えたら即座に火を点けろとかビールのグラスが空きそうになったら素早く注げ。そうではない者は「気が利かないボンクラ」と詰る威張りんぼかの二択だった。どうかすると「ビールの注ぎ方ってのはなぁ、最初にドバッと、な。こう泡を立てて、それから静かにコップの面を伝わせて、こう」なんて講釈垂れるオッサンまでいて、どっちにしてもメンド臭い。でも講釈垂れのオッサンはキャバクラの女の子に「客の横に座んだろ。そんでこっちの掌は客の太ももの、この辺り。うん。そこに手ェ載せて、顔を近づける。そうそうそう!」なんてレクチャーして店の娘にお世辞抜きで尊敬されてたりして、ついぞ見かけない溌剌を振りまいていたそうだ。ひとの天賦の才というのは、どこにあるのか計り知れない。
 ともあれ距離が必要な偏屈者だったから飲み会は好きではなかったが、褒められたのは「帰り際が鮮やか」ということぐらいだった。これを「帰鮮(キーセン)」とは言わない。「じゃ、失礼します」と席を立つだけなんだが、今思うと褒められてなかったのかもしれない。

 無礼講のコンセプトは「分け隔てなく、平等に」ってことで、要は民主主義の自由・平等・博愛ってことなんだろう。その根源はフランス革命の元になったジャコバン党あたりか。
 ドヴォルザークが「ジャコバン党員」ってオペラを作曲してるんで、てっきりドヴォルザークは党員だったのかと思い込んでいたんだが、そんな記述はどこを探しても見つけられない。音楽家が思想なんかを持つとロクなことにならないのは世の習いなんで、このオペラは聴く気にならなかったんだが、そういうことじゃないと言うなら聴いてみようか、とはならない。だってチェコ語の歌詞なんて聴いてもわかんないんだもん。チェコ語がメンド臭そうだってのは想像に難くなく、そもそもドヴォルザークってのがチェコ語で「Dvořák」と書くんだけれど、これは二重子音でこのカタカナだと「ル」と「ザ」を同時に発音するんだと。

Antonín Dvořák の発音: Antonín Dvořák の チェコ語, ドイツ語 の発音

発音ガイド: Antonín Dvořák の発音をチェコ語, ドイツ語のネイティブ話者から学びましょう。 Antonín Dvořák の訳語と音声

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 さすがに還暦過ぎてチェコ語を覚えようかという気力はない。
 ドヴォルザーク先生の弦楽四重奏やチェロ協奏曲は素晴らしいもので、成熟期であっても多様な民族音楽の様式(主にチェコの舞曲だけれど、他国の様式やジャズなんかも)を取り入れていて、いかにも過渡期という感じなのに、時を経た今でもスタンダードとして生き残っている。基本は新古典的なオーソドックスなのにエスニックな旋律が鏤められているという作風で、チェロに限っても演奏上の難しい技法はないのに(あ。これドヴォルザークだな)と、すぐにわかる旋律がうつくしい。ただ、ちょっとヘンな人だったんだろうな、と思わせる雰囲気もあって、ドヴォルザークが鉄道マニア(今で言う乗り鉄)だったと知って、(あー。そんな感じ)と妙に納得した。おれも軽度の乗り鉄傾向があるが、ある種の乗り鉄の人って、トモダチになりたいとまでは思わないが信用できる感じがする。ある種の、というのは、目を合わせずにめっちゃ早口で喋るような乗り鉄ではなく、藤井聡太くんや内田百閒先生みたいな乗り鉄だ。根拠を示すことはできないが、ドヴォルザークもそんな乗り鉄だったような気がする。あと、吃音者が「ド、ド、ド、ドヴォルザーク」と言うのを「ドモルザーク」と称するって説はウソだと思うんだ。他人に言わない方が良い。あとドモルガンの法則も関係ない。
 ちなみに吃音の「吃」は、食べるという意味で、い、い、言われてみれば確かに音を食ってる。なるほど「美味しい」というのを中文普通話で「好吃(はおつー)」というね。廣東語では、あんまり聞かない。廣東語発音だと「好吃(ほうへ)」になるんだろうが、聞いたことのない言い回しで、おれが言うときは「好味(ほうめい)」を遣うことが多かった。とても美味しいと言うのは「真好味(ざんほうめい)」だね。こんなのも香港に友達がいた頃に遣っていたけれど、返還されてから友達は他の国に逃げたのか、行方知れずになってしまった。ちょうどその頃おれも引っ越しを繰り返したり離婚で住所が不安定になったりして、タイに渡って落ち着いてから連絡を試みたら、誰も連絡がつかなかった。彼らに行方不明になったと思われているのが、おれなんだろう。すっかり遠い所になってしまった。
 そういえば周庭ことAgnes Chowが「香港には戻らない」と事実上の亡命を表明し、香港警察もAgnesを指名手配してるんだが、かつて丘の上のひなげしの花と高い声で歌い、ユニセフ日本の広告塔となった元天才歌手も同じくAgnes Cだ。二人でフランスにファッションブランドのメゾンを作って「アニエスC」としたらどうか。まあ仲良くなれそうな要素が一つもない二人だから無理っぽいな。そういえば周庭はかつて安倍晋三に協力を求めたこともあって、安倍は中国の敵だからという発想だったんだろうが、敵の敵は味方とは限らない。安倍晋三は中国人の敵でもあったから、あまねく中国人に不利な行動を取る。差別なんかしない。いやしてるのか。「差別が嫌いだ。あと中国人と日本人も嫌いだ」とは言ってないが少しは思ってたかもしれない。

 あ。自由・平等・博愛(友愛)の話だった。このスローガンは民主主義の価値理念と言われてるんだが、これを追求して煮詰めた一つの形が共産主義だ。ここまで間違ってないよね。
 で、ベルリンの壁が崩壊して、ソヴィエト連邦が瓦解したとき、「共産主義の終焉」ということが言われたんだけど、それもよく考えると、共産主義の死ってのは、民主主義も道連れにしての無理心中になってしまうから、迂闊に共産主義を殺すわけにはいかないのだった。ていうか民主主義が生きているから共産主義も、しぶとく命を繋いでいる。
 民主主義なんて、庶民がバカばっかりだったらバカの意見が反映されてしまうロクでもない方法だけれど、既存のメソッドの中ではこれがいち番マシってだけで、おっそろしくアタマがよくて人格が高潔で判断が公正な独裁者がいたら、そっちの独裁の方が良いに決まってる。ただ、権力を持った人はアタマがおかしくなるのはこれまでの歴史が証明する事実だから、なかなかそっちには踏み切れない。アタマがおかしくならなくたって、指導者の考えなんて庶民にはわからず、必ず庶民は文句を言う。ブーブー言う。
 ただ独裁はぜんぶダメかというとそうでもなくて、シンガポールなんて上手くいってる方だろう。おれはぜったいに住みたくないが。リー・シェンロンから何とか言う人に変わるようだが、体制は変わらないんじゃないか。というよりリー・シェンロン体制が20年も続いていたことに驚いた。まえにも書いたが、タイ人がシンガポールを嫌うのは、だらだらと自由を貪ることができない印象が「ヤなかんじ」だからだろう。
 でもシンガポールなんてまだ良いのかもしれない。こないだの戦争の序盤なんかは日本国民は戦争を支持していたどころか「やったれやったれ」と好戦的で「この国に生まれて良かった」というのが大勢を占めていた。こてんぱんに負けたあとで、国に洗脳されたせいでヒドい目に遭ったとか、この国は信用できないとか、新聞社が悪いとか、言ってることが間違いではないが、自分のことは棚に上げちゃって被害者ヅラなんである。だって戦争でヒドい目に遭っちゃったんだもん。被害者そのものだもん。という卑怯者が多くて、まだ理性を保っている人でも「あの頃は、それが正しいと思ってたんだよ……」と呟くのが精一杯だ。アタマの悪いひとは昔の教訓なんて気にもしないので、同じようなことを繰り返しがちなんで、またこの国が戦争に巻き込まれないように願うばかりだ。とりあえず‘23年のGNPはドイツに抜かれて4位の見通しで、近いうちにインドに抜かれて5位転落だろうから、このまま国力を落として戦争を仕掛けようなどと思わないのが良かろう。ただ、国力が落ちると侵略されやすくなるから、若い人は今のうちに中国語でも勉強しておくといいかもしれない。国がなくなってしまったときに備えて、今のうちに「約束の地」を決めておいた方がいいかもしれない。緊急避難場所だね。エルサレムを目指すと、今以上にメンド臭いことになるから、あそこは諦めるとして、地震がなくて暖かい所が良いな。タイなんかうってつけだけど、そんなところにニホンジンが呼ばれもしないのに押しかけても良い顔されないから、氷期に陸地だった「スンダランド」にする。現在は海の底の大陸棚だが水深が浅いから、そこに盛り土で陸地にして借地するのはどうか。いや、どうか、じゃねぇわ。真剣に考えてどうする。
 話は戻って、共産主義は民主主義を突き詰めたエキスだけど、それがダメなのは「やりすぎ」ってことなんだろう。杉樽は酒の容れ物。及ばざるが如し。

 そうだ。平等ってことで思い出したが、ソウルオリンピックのときに金・銀・銅メダルは廃止して、全部金メダルにすりゃ良いのに、と思ったのだった。近頃の幼稚園の運動会ではないのだから、横並びに平等ということではなく、大きさの差をつけりゃいい。1位から3位まで大・中・小とするのね。これを金大中小という。韓国語発音で「김대중소(キムデジュンソ)」と言うね。言うよ。
 まあ88年当時のソウルオリンピックでは実現しなかったが、金大中大統領の在任期間が1998年-2003年だから、平昌オリンピックだったらアリかな、と思ったが、そうはならなかった。そこまで尊敬されてないんだろうか。ノーベル平和賞まで取ってんのに。
↑金大中小メダル。コラが雑すぎる。
 平等って、そんなに難しいのか。よーく考えたが、ひとに平等に訪れるものというと、「死」があった。なんとか寺院の集団自殺なんていうのも、この平等に縋ったのだろうか。神が平等に与えてくださるもの、それが死なのです、とか。ロクでもない神様だな、おい。
 全世界っていうような規模じゃなくて、近いタイムゾーン限定でも良いなら「朝」「夜」とか、「月」もそうだね。タイと日本で同じ月を同時に見ることはできるが、ブラジルの人とは共有できない。もっと範囲を狭めれば「雨」「日差し」などの天気くらいならあるか。無礼講が目指す平等な集まりというのはないものか、と少し考えたら、おれはアタマが良いので思いついた。あったぞ。
「靖子のリッツパーティー」だ。
 ある、というより、かつてあった平等な集会だった。ググったら1988年から、ヤマザキナビスコがヤマザキとナビスコに決裂した2016年8月までの28年間続いたという。1988年といえば佐々木希の生まれた年で、いっぽう2016年は橋本龍太郎の亡くなった年だ。それがどうした、どういう現代史の捉え方なんだ、という感想しか浮かばないが、その間粛々と靖子のリッツパーティーは開催され続けていたのだ。靖子さんがリッツに何載せる? とか訊いてくれるんである。呼ばれてぇー。ネクタイ着用で行っちゃうよね。
 靖子というのはもちろん沢口靖子さんだ。沢口靖子とリッツの前で、ひとみなすべて平等だった時代があったのだ。いち度でいいから呼ばれたかったなー。
 沢口靖子さんは歯茎がねぇ、というひとはわかってねぇな、と思う。靖子ちゃんはあの、ほんの少しだけ斜視っぽくなる瞬間があって、あれが良い。そういうひとはたまにいて、ほんの一瞬、僅かに斜視になるところが見られたら、「うっわー。すっげー!」って高揚しちゃう。堤義明は、あの斜視の破壊力にまいっちゃったんだと思う。
 斜視も、はっきりとわかるくらいのなら(たいへんだな)と思う。高校の時の友人に一人いて、「おれ、こんなんだから気味悪がられて人に避けられる」というようなことを北海道弁で言っているのを聞いて「え。そうなの?」と思った。斜視といえばサルトルがそうで、幼い頃に謂れのない中傷を受けたというんだが、強い斜視だったため、読書用に使っていた左目を後年に失明したりしてて、(あ。そうか。強度の斜視だと焦点が合わせられないのだな)と気が付いた。たいへんじゃん。ボーヴォワールなんかと一緒にいたんじゃ目もダメになるよななどと思ってはいけないんだろう。そういえばボリス・ヴィアンがサルトルと友人関係で、その繋がりでボリスは奥さんをサルトルに寝取られちゃったりしてて、その際サルトルは「無礼講だぁー!」とフランス語で言ったかどうか知らないが奴も、そこそこロクでもないから、まあ失明も止むなしかな、とお門違いなことを思った。
เอิ้นว่าชีวิต - มยุรา [ACOUSTIC LIVE ]
 曲のタイトルがちょっとわからなくて自動翻訳にかけたら「ただ人生と言ってください」とか意味不明なことを言ってて、調べたらเอิ้นてのがイサーン語だった。タイ標準語だとเรียกで、「呼ぶ」みたいな意味だった。だから直訳だと「それを人生と呼ぶ」ということになり、「それが人生」って感じか。
 ここで歌っているのはシロウトのマユラーという名のタイ娘で、オリジナルの歌も良いが、こっちが素朴で良かった。節回しがタイの庶民の歌い方で好感が持てる。
 オリジナルはดุ่ย เชียงรัมย์ドゥイ・チェングラムという男で、4-5年まえにイサーンのモーラムレーベルからデビューしている。ローカルスターで、アルバムも出しているけれど、ネットでの記事は少ない。この曲も「マジメか!」ってZ世代に言われそうな奴で、イサーン語なのに仏教的な色が濃い。説教ってわけではないんだが、人の道を説いちゃってる感じ。
 タイ人って、こういうのに「あー。はいはい。誠実誠実」とか「必死だな」とか「なにマジになってんすかー」とか言って混ぜっ返したりしない。(あー。うん。そうだね。そう思うのね)と受け入れる。マジになってるんだから、マジに聞いてあげよう、って姿勢ができてる。
 よく「タイは日本と同じ仏教国」なんて眠たいこと言う向きがあるけど、日本人で仏教に正面から向き合ってる人なんかいない。プロの僧侶ですら、(どうなのよ)ってのが掃いて捨てるほどいる。でもタイ人は小学校からみっちり仏陀様の教えを叩き込むし、ちゃんと浸透してる。どっちが良いか悪いの話じゃない。仏教なんてマヤカシだぞ、そんなもんで洗脳してんじゃねぇ、という意見もあるだろう。ただ、タイ人ってのは、人の言うことを聞くことができる国民だ。自分に都合の良い意見だけを聞きたがるタイ人だっているだろうが、多数派ではない。聞く耳持ってる。
 まあマジな歌詞っていうんだったら、日本のある種のラッパーがラップでやたらと感謝する内容なのも多くて、入れ墨入ってていかにも悪そうな奴が「この出会いに感謝」とか「生まれて来たこの幸運」とか歌ってて、(えー。おまえらラッパーなら世の中に呪い撒き散らせよ。不満ぶちまけろよ)と思うんだが、見た目とのギャップで「いいこと言う」のがウケるのか、感謝しやがってんの。いいのか、それで、と思うが、これもマジメなタイ人みたいなもんかと思えば納得だ。タイ人もマジメな奴は、ありがたい経文なんかの入れ墨入れてるもんね。
 歌詞はマジメだが、底が浅いとか言うと叱られちゃうな。えー。普遍的な内容を語っているね。うん。

もし人生の時間を戻せるなら 
最初からやり直して 古い問題をやり直すよね
おそらく成長したら 間違いなんか起こさないんだろうけど
それは 世間で言われている「断念」という意味ではなくて

でも その時 その時が真実だった
元には戻せないんだ
これをいつも おぼえておこう
この世に 何の間違いもなく生まれてきた人なんかいない

空を 見上げよう
彼は道を見つめて 空を見つめた
古いものだけに頼っていては 大人になれない
それを手放して もう考えないようにしよう

命という言葉は ただ生まれたという意味ではない
それを考えることに 意味がある
人生という言葉は 価値を創造することから始まる
問題は 知恵を使って解決するといい

それで みんな混乱してるんだ
 日本はねえ、高度成長からバブル経済の激動でシラケや「面白けりゃいい」に染まったせいか、マジメな人を疎ましがる希有な国民になった。表面的には面白くて距離を保てるかもしれないが、その韜晦に若干の悪意を滲ませてくる日本人は多いから、タイで疎まれるのはわかるでしょ。おまけにタイ人と見ると威張るし。根拠なく馬鹿な土人だと思ってる。こないだの戦時中の兵士の日記なんかに「土人の気持ち、いよいよ離るる」なんて東南アジアで嫌われていく様子が読んでいてツラいんだが、そりゃ自業自得ってもんだ。華僑がよく言うんだが「なんで日本人って、あんなにエラソーなんだ?」ってのがあって、ごめんね、と謝ると「あ! あ……。きみニホンジンだったね! 全員じゃないから! きみは違うから!」と大至急フォローしてくれるが、うちの奥さんも何かの拍子に「เย่อหยิ่ง(傲慢だわ)」って憤ったりすることがあるから、やっぱ大東亜共栄圏はマボロシだったのだな。ニホンジンはグローバリズムなんか目指さないでローカリズムで行った方がいい。島国で他国の人との付き合いの仕方がわかんないんだから、余計な欲は持たない方がいいよ。
 ガラパゴスで、いいじゃん。
↑これ作るのに15分もかかっちゃった
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