もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

桃とドミニカ旅券

2021年11月29日 19時40分09秒 | タイ歌謡
 1990年代初頭、湾岸戦争が世界の耳目を集めていた頃だ。おれは巷間の緊張など看過して、呑気に中華系のご婦人達と淡い交流を持っていた時期で、あれは楽しかった。ご婦人たちに共通していたのは、皆日本人の苗字を名乗っており、中国人同士でも日本名で呼び合い、日本語で喋っていた。これは華僑の人々に多いんだが、母語が台湾語、廣東語、潮州語、福建語みたいな方言だと、中華人民共和国基準では普通話(ぷーとんほあ - 標準語)とされる北京語を話せない人が多く、お互いに意思の疎通を図ることができるのは日本語だ、という場合が屡々あったのだ。日本に来たばかりで日本語に不自由だった場合は英語かと思ったら、そうでもなく筆談という手段があった。華人同士ならこれで何の問題もなく、相手が日本人でも、ある程度は伝わる。
 中華人民共和国の人口は14億だが、その他に台湾や各国に散らばった華僑も含めると、中国人と見做される人々の人口ってのは凄い数になるんだろうね。16億とか。そうすると世界の人口が79億弱だから、5人に1人は中国人ってことになる。つまり、5人家族だったら、そのうち1人は中国人ってことだ。
 さて、中華のご婦人たちが日本名を名乗る理由は今となっては不明で、当時はそういうものだと稽え、疑問にも思わなかった。日本名を名乗ることに、それほどの執着があったようにも思えない。そして日本語の発音は決して褒められるものではなかった。ああ、この人は余所の国の人なのだなと、すぐにわかってしまう発音だったが、それを気にする様子は、まるでなかった。いっぽう、その子供たちは流暢な日本語を話していて、家では中国の方言で話すのかと思ったら、それに併せて日本語と英語の多国籍言語で話すことが多いという話だった。
 そういえば華人一家の娘(インターナショナルスクールに通う十代半ば)が電話を貸してほしいと、事務所を訪ねてきたことがあった。ちょうど近くを歩いていて母親と話す用件ができたらしく、「ママの友達」であるおれの顔が浮かんだと言った。まだ携帯電話が普及するまえの話で、娘は当時まだ日本では珍しかった歯並び矯正のチェーンを装着していた。花柄のスパッツ姿が当時の若い中華娘らしくて微笑ましかった。娘が自宅に電話をかけると、目当ての母親は不在で、妹が相手だったらしく受話器から聞こえるテレビの物音に「哎呀 (あいやー)! You watchin’ いいとも! ずっるーい!」と叫んでいて、なんかもう、とことん国籍不明なのだった。
 そんなもので、多言語入り乱れる会話ってのは、ちょっと想像がつかないと思っていたんだが、じぶんに息子ができると日本語とタイ語のミックスで話すことが多く、ああ、これか、とのちに思い至った。あれは思惑があって、そうしていたのではなく、自然となるべくしてなっただけのことだったのだな。
 かれらの住所は白金とか麻布とか一の橋、二の橋なんかで、当時から金持ちか金遣いの荒い人の住むエリアだった。渋谷から出るバスで、そんな地域を網羅する路線もあり、あれは高級なのか貧乏くさいのかわからなく、利用する人も、そう多くはなかった。この路線に乗って座れなかったことがない。かといってガラガラだったこともなく座席の占有率は、いつも絶妙に八割ほどを保持していた。ちょうどおれは離婚したばかりだった。また、それまでのバブル景気は、池に落ちた落雁みたいに跡形もなく掻き消えた直後のことで、知人に「ごめん。借りたカネが返せない。その代わりと言っちゃ何だが、おれの持っているマンションの部屋に住んでくれないか」と言われ、離婚して住む所がなくなっていたおれは、渡りに船と承諾した。友人宅に居候するのは気も紛れて楽しかったが、それが長引くのは遠慮しなくてはならなかった。
 借金のカタに用意された部屋は金杉橋にあって、東京タワーの近くだったが、窓はその反対側に向いていて、即座に交差点の信号が何色か見える部屋は信号の色マニアなら垂涎の物件だった。最寄り駅というとJRの浜松町か地下鉄なら芝公園駅だったが、そこから十数分歩かなければならず、バス停がすぐ近くだった。恵比寿の事務所に行くには、そのバス路線に乗るのが良かったが、その車輌にお中華な奥様がたが乗り込んでくることはなかった。あの人たちはバスになんか乗らないんだろうな。あのエリアには、まだ地下鉄の駅がなかった頃の話で、当時あの辺に住む人たちは「地下鉄の駅なんて。そんなものが近所にできたら下品な人やビンボー人がゾロゾロ来ちゃって、おぞましいでしょ」という認識だった。
 おれが利用していたバスの路線が渋谷行きというのは憶えているが、帰りは反対側のバス停から乗り込むだけだったからその目的地についての記憶が曖昧だ。たぶん浜松町行きとか、そんなかんじだろうか。
 で、じっさいに金杉橋の部屋に住んでみると、借金取りがなん人も訪ねてきた。事情を説明すると、なかには「え。借金のカタって丸め込まれて占有屋やらされちゃってる、ってことですか」と勘違いで同情されて、カレーライスを奢ってくれた人もいた。おれが金を借りて返せない人だと思っていたようだ。よほど不憫な顔をしていたんだろうか。
 六本木に飲みに行くのに自転車で行くと、友人に「それはオシャレなのかビンボーなのか」と尋ねられて、オシャレな要素はひとつもないから、たぶんビンボーだな、と答えたのを憶えている。やがてこの物件は円満に話がついたのか、ぶんどられたのか知らないが半年ほどで人手に渡り、その後は蒲田のマンションに移った。そっちは借金取りが3人くらいしか来なかった。追って転職で、おれは東京を離れることになったんだが、その後しばらくして、この物件の持ち主とは連絡が途絶えてしまった。誰に訊いても「さあ。東京湾にでも沈められたのではないかな」などと言い、あの当時はそんな人が多かった。借金が億を超えると殺されちゃうよね、と言われていた頃だ。それからさらに20年もすると、「さすがに億超えると、そりゃもう返済は無理だよなって話で、昔と違って内蔵売り飛ばしたり保険金かけて殺す訳にもいかないし、みんな諦めちゃうから取り立ても厳しくないよね」になってしまうとは想像もできなかった。マグロ漁船に乗せられるって話も今となっては都市伝説の類いだという。
 数百万円程度の借金がリアルに「死ぬほど頑張れば返済できそう」ということで取り立ても厳しい。自殺しちゃうのも、このくらいの金額が多い筈だ。億単位の借金があって、それを苦に自殺って話は聞いたことがない。
 恵比寿の米屋の長男は、景気の良かった頃「株で儲かっちゃってさぁ、だからニューヨーク行くン。ニューヨークに行くのに普段着だとアレだから、新しい迷彩服買いに行くんだ」って胸を張っていたが、迷彩服を着るような人はニューヨークのどの辺に出没するのか見当もつかないのだった。その謎を解く機会もなく、いつの間にか米屋はなくなっていた。合衆国にでも移住した可能性もあるかもしれないが、バブル景気の当時必要以上に元気だった人々はどこに行ってしまったんだろうね。
 中華な人々の付き合いを思い返すと、最初は「誰々の紹介」ということで、まず旦那が同伴で来る。この旦那も日本名を名乗ってはいるが華人だ。で、しばらく談笑の後、「まあ、このとおり妻は日本の事もよく知らないんで、相談に乗ってやってはくれないだろうか」という話になる。それから頻繁に来るかというと、そんなこともなく、忘れた頃に「近くまで来たよ」と菓子折りを下げてきたりする。今思うと、ご婦人たちは若い頃美人だった顔つきだった。まあ、そのへんはおれも距離を置いていたというか、そういうことになると、あの人達はアマチュアではない感じが剣呑なので、ただの話し相手として付き合っていた。実際、あの人達の話は滅法面白い。そしておれの話によく笑う。お互いの周波数が倍音関係にあるような気がした。
 いち度、「トワダさんから聞いたんだけど、近いうちに香港に行くんだって?」とチエさんから連絡が来た。チエさんの日本名は何だっけな。忘れちゃった。まだ詳細は決まっていないが、そのつもりだと答えると、スケジュールが決まったら、うちの娘を香港まで連れて行っていくれ、と言う。
 いや、悪いけれども現地では忙しいんで、香港での相手はしていられないと断ったら、「そうじゃないよ。成田で飛行機に乗るだけよ。香港の空港には迎えが来るだから、飛行機の中でだけ迷子にならないように見ていてよ」という。「さすがに香港は、うちの娘のほうが詳しいよ」と笑う。それもそうだ。いいよ。と答えた。しかし飛行機の中で迷子になるなんてことはあるんだろうか。
 香港への移動日、娘は一人でやってきた。随分まえに会ったとき、美人な娘だとは思っていたが、実際に会ったら「今ね、モデルやってんだ」と言って、にっ、と一瞬で笑顔を作った。初めて見た笑顔の作法だった。話を聞くと芸能人で甚だしく有名なアイドルは仲良しの友人で、「あのコ、育ちは良くないけど芸能人には珍しく、すっごく良いコなの。でもね、この話をすると、紹介してくれって言う男が多くて、そういうのってホント馬鹿だと思う」と憤るのだった。モデルかぁ。そういえば、おれも子供の頃、モデルやってたんだよな。と言おうかと一瞬思ったが、やめた。「そうなの?」と訊かれたら、うん。プラモデルの方だけどね。と答えなければ嘘になるので、そう言ったとしたら、これはもうマグロの刺身に貼られたサロンパスみたいに冷たい視線を向けられるか、せいぜい良くても、ふん、と鼻で笑われるに決まっていた。
 この人達の親は、生まれた娘には英語と中国語をみっちり仕込んで、女の価値を釣り上げるということをする。そのうえ美人なんでは鬼に金棒という気がするが、今くらいの距離が良いと思えた。危険物や爆発物の取り扱いには資格が要るように、必要以上にお近づきになるには、おれには何かが欠けていた。まあ、お近づきになりたいとも思わなかったが。
 別の家族の3姉妹も英語と中国語が滅法巧い。華僑の娘として生きていくのは、あるいはたいへんなことなのかもしれない。
 娘は大事そうに段ボール箱を抱えていた。「桃なの。なんか、すっごく高いんだって。この桃」と、硬い表情で言った。持ってやろうかと思っていたが、やめた。落としたり、どこかにぶつけたりしたら面倒だ。
 そうだね。あるよね。そういう果物。スーパーなんかで5000円もせずに買えちゃうような庶民向けのチャチな物じゃない。金持ちしか行かない店で売ってるやつだ。おれはカートを持ってきて、これに載せると良い、と言った。
「わあ。ありがとう。桃と林檎だけは日本のが世界一だってお爺ちゃんも言ってた」
 お爺ちゃんと話すときは、廣東語なの?
「そう。お爺ちゃんは福建語のほうがラクみたいだけど、わたし、あれ聞いてもわかんないの」
 たいへんだな。
「そうね。たいへんだったと思う。香港まで河を泳いで渡ってきたって言うし」
 そう。お爺ちゃんも大変だったんだねえ。
「うん。わたしね、お爺ちゃん大好きなんだ。……あ! これ美味しい! 機内食なんて臭くて不味いけど、これは美味しいな!」飲み物と共に提供されたハニーローストのピーナッツにぴょんぴょんと2cmほど飛び上がって喜んでいる。おれの分も差し上げたら目を輝かせた。「やだぁ、もう! ありがとう」
 なんだこれは。会話がギリギリで成立しているのか、それとも噛み合う歯車のない新手の流体力学の仕組みで、辛うじて掠っているのかわからない遣り取りで、面白かった。娘も楽しそうで何よりだと思った。

 そんなこともあり、中華婦人のチエさんとは、とくに親しくしてもらった。中秋の頃に月餅が届いて、事務所では「それぜったい同類だと思われてますよ」とからかわれたりした。あ。親しくしたのは、もちろん母親の方だ。モデルの娘じゃない。母親は、おれより一回りくらい年上ではなかったかと思う。同類って言い方には引っかかるものがあったが、そういうふうに考える日本人は多かった。おれは中国という国はそれほど好きではないが、中国人のひとりひとりは好ましい人物が多くて、好きだ。本土に多い教養がなくて傍若無人な中国人は苦手だが、華僑の人たちは概ね良い感じだ。で、おれは華僑には人気があるような気がする。
 いち度、雑談中ふいに「あ。そうだ。わたしたち、ドミニカン・パスポートつくるね。あなたも一緒にどうかと思うだけど」と言われた。
 ……? 意味を図りかねた。
「ドミニカン・パスポート、いいだよ。ヴィザないでも、いろんな国に入れるだから。あなたのもapplyできるよ」
 ああ。そういうことか。どうしようかな、と一瞬思った。
「あ!」若い娘みたいな声で、チエさんが笑い出した。「あなたニホンジンだったね。日本のパスポートはドミニカン・パスポートより便利だから、必要ないだわ。あはははは」
 あ、そうか。おれニホンジンだったね。
「あはは。そうだよ。あなたニホンジンだよ。忘れるダメね」

 今はどうか知らないが、華人の間でドミニカ共和国のパスポートを作るのが流行った時期があったのだ。ところで、おれがドミニカについて知っていることといえば、ほんの僅かで、大きな島(知らなかったんだがイスパニョーラ島というんだそうだ)の東半分で、西の隣国はブードゥー教(ゾンビ発祥の教えだ)で有名なハイチだってことくらいか。音楽ではクンビアが盛んだった筈だと思いググってみたら、たしかに盛んではあるがクンビアの本場はコロンビアだった。惜しい。いや惜しくねぇか。ドミニカ発祥の音楽はメレンゲだった。ああ。メレンゲって、そうなのか。サルサに飲み込まれた印象だったが、そうでもないようで、強い2拍子だからタイのモーラムと融合させても良いかもしれない。
 ドミニカというくらいだから、コロンバス一行が日曜に発見したのかと思ったら、それはドミニカ国のほうで、ドミニカ共和国のほうは聖人ドミニコの名に因んでいるそうだ。なるほど、それで首都はサント・ドミンゴなのだな。ドミニカ共和国について知っていたのはそれだけだ。何も知らないのと同じことだ。ググった結果、国の人口は一千万人強で、これはインドネシアのジャカルタ市に住む市民と同じくらいだ。今年の人口ランキングで200国中の84位というから国の規模としては中くらいなんだろうか。人口が最も少ない国はツバルで1万人弱だそうだ。ツバルについて知っていることといったら海面上昇だけだ。だいたいの人は同じようなものではないか。まあ、その程度の人数なら潜水服を揃えるのも難しくないんじゃないかというような事を思ったが、そういう事を言うと叱られそうなのでやめておく。
 特産品はどうせバナナとかココナツなのかと思ったら、砂糖とカカオが有名らしい。ニッケルも豊富だそうだ。1円玉の素材だ。日本がまた有事になった際に爆撃機なんかの材料にするべく備蓄するために1円玉はニッケルなんだぞ、と聞いたことがあるが、そんなの大した量とも思えず、嘘なんじゃないかと思っている。叩いて薄く伸ばすから、量は少なくて良いとか? ベニヤ板に貼り付けて金属に見せかけるとか。そんなんじゃ、また戦争に負けるだけだから、止めた方がいい。
 あと、ドミニカ共和国は野球が滅法強いことも有名だったな。財政が豊かなのかどうか知らないが、ある程度の金額を寄付するとドミニカの旅券を発給してもらえる制度があるのだと、チエさんは言っていた。身も蓋もない物言いでは、それは「買う」というよね。当時、それくらいしか外貨を稼ぐ手立てがなかったってことなのだろうか。
 ドミニカ。
 華人が、こぞって旅券を欲しがる国。
 そのうち行ってみるかな、と思ったまま、機会もなく、とうに還暦を回ってしまった。行かないだろうな、もう。
 強い陽射しの中、陽気にメレンゲを踊りながらチョコレートと旅券をくれる国。
 ちょっと行ってみたいと思ったでしょ。

 じつは退院して、ひと月以上経っている。それなのに更新がなかったのは、ぼんやりとダラダラ過ごしていたからで、療養生活を満喫していたと言っていい。読書しながら転た寝するというような、念願の優雅な日々であった。だらだらは良い。健康の基本だ。これからも更新のペースは遅いと思う。

สาวทรานซิสเตอร์ The Sound Of Siam
 さて、今回の歌は「สาวทรานซิสเตอร์(サオ・トランシスター)」という曲で、トランジスター娘って意味だ。随分と古い曲で、1960年代の曲だ。これをイマ風に演奏してるんだが、ここでアルトサックス吹いてるリーダーがゴーちゃん(無気音だからゴーと表記するけど、タイでのアルファベット表記はKoです)で、おれの二十数年来の友人でもある。まさかタイで知らない者がないほどの有名人になるとは思わなかった。知り合った頃はラマダホテルのバーで吹いていた。しがないバンドマンの一人だったけれど、この人の演奏が好きで、よく夫婦で聴きに行った。やがてリーダーアルバムを吹き込むんだと言いだし、結構話題になってテレビに出演したりするうちに二枚目三枚目とアルバムを重ね、あっという間に人気者になっていた。昔から良いやつで、会うと必ずボトル入りの5バーツの水を買ってきてもてなしてくれた。昔ながらのタイのもてなし作法で、律儀な男だった。すげえ良いやつとしか言い様がない。うちの奥さんもゴーちゃんのことは褒める。
 アマチュア時代からアドリヴにタイ古典音楽のフレーズを入れ込んで喝采を浴びては嬉しそうにしていたから、こういうのも本領のひとつだ。取って付けたサービスなんかじゃない。
 ところで女性ヴォーカルの2コーラス目が終わったところで「ビョェー」ってチャルメラっぽい音がフィルインしてくるんだが、チャルメラっぽいのはあたりまえで、チャルメラとは親戚関係の楽器だ。ปี่กลาง (ピークラーン)という楽器で、構造はチャルメラだけでなく、西洋楽器でいうとオーボエとかファゴットも同じ系譜だ。いやいや音がぜんぜん違うじゃん、と思われるだろうが、違いといえば西洋楽器のほうがマウスピースが長いから音色が違うんだろうか。んー。でもオーボエに比べてファゴットなんかマウスピースのその先にボーカルと呼ばれる長い管が更に伸びてる割には音色は大きくは違わないから、長さじゃないのか。ま、とにかくどれも2枚リードの楽器だ。あ。でもタイのปี่(ピー)属のリードは椰子の葉から作るんだよね。西洋楽器用の葦は使わない。それが音色の差だろうか。サックスなんかと違って、この手の楽器のリードは原始的っていうか、音らしい音が出るように熟練するのにエラく時間がかかる。サックスなんて、すぐでしょ。あらゆる楽器の中で、一番上達が早い楽器がサックスだもんね。2番目はギターだ。
 まあいいや。歌の話に戻ろう。昔の歌だけあって、歌詞はどうってことのないものだ。

私はただの農民
トランジスターを聞くだけで十分
どこへ行くにも ラジオを持って行く
丘を上って小川を下り いつでもラジオがそこにある
農民の影絵劇(昔の田舎の娯楽に合わせたルクトゥン歌謡)の歌を聴く
農民の影絵劇のルクトゥンが好きなのよ
みんなは私を馬鹿だと言う
何が悪いものか
影絵劇の歌はステレオ仕様になってない
たとえステレオになったとしても そんなのどうだっていい
さいきん流行の国際音楽なんてタイ風のデタラメ英語じゃないの
私はトランジスターラジオのタイのルクトゥンに夢中なのよ

 歌詞は二番も三番も、こんな感じで古くさい。
 でも、タイっぽくて楽しい曲だ。
 ゴーちゃんはデビュー当時、驚異的に巧かったんだが、さすがにデビューして二十数年も経つと、こういうのを聴いて育った若手がどんどんでてきて、彼らも笑っちゃうくらい巧い。技術的には高校生くらいでもゴーちゃんみたいに巧いのがいて、感慨新たに思う。昔、おれがタイに住むようになった頃は巧いとかいう以前に音程が悪いとかリズムが悪いとか、酷いのが山ほどいた。
 ただ、スタープレイヤーが現れていないだけだ。近いうちに何てことない顔で出てくるんだろう。ゴーちゃんもそうだったように。
 うちの息子も苦もなくギターでタッピングなんかかましちゃうんだが、もう今となってはタッピングなんて超絶技巧でも何でもないそうだ。
 新しい波はもう、その辺の屋台でカオ・パッカパオでも食っているに違いない。プロのオトナが作る燻し銀の作品なんかじゃなくて、まったく新しいアマチュアが現れるのはもうすぐだ。そういう意味では、タイの音楽シーンはオープンだから期待できる。

ดาวกับพระจันทร์ (VENUS) - MAIY [ Official MV ]
 タイ語で「期待の新人」みたいな検索で出てきたのが、この娘だ。メイ・スピッチャという娘らしい。これを書いている時点で、本日公開ホヤホヤのMVで、曲は「ดาวกับพระจันทร์(ダオカッププラチャン)」といって、星と月って意味だ。リリースから僅か5時間で22,000回以上も再生されている。しかしタイ語のウィキペディアにもこの娘の項目はまだなく、詳細が一切不明なんだが、他の歌のダウンロード数も半端ではない。顔を見てわかるように、断じてアイドルではないと思う。
 MVの中で串団子みたいなのを食べてるんだけれど、これは日本で言う米の粉を使った団子ではなく、豚の挽肉や魚の擂り身を使ったลูกชิ้น (ルークチン)という軽食だ。このMVでは魚の擂り身のほうだね。色が白いし表面が滑らかだもん。味と食感は蒲鉾そっくりだ。豚肉のルクチンだと、色が黒っぽくなって表面が凸凹になるから、これもすぐわかる。肉団子そのものだ。
 MVに寄せられたコメントは「歌に感動しました」「泣きました」みたいなのばっかりだ。このまま大化けしそうなので、しばらく様子を見ることにしよう。
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