もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

我が名はブッサバー

2020年10月12日 21時18分10秒 | タイ歌謡
บุษบา - นิโคล เทริโอ 【OFFICIAL MV】
 ニコル・テリオさんです。本名です。父がアメリカ人なんで、名前が英語圏なんだね。
 この曲の名が「ブッサバー」。ブッサバーってのは「花」って意味です。普通はあまり使われない言葉で、文語です。タイ語にも口語と文語があって、例えば「映画」は一般的に「หนัง(ナン)」と言いますね。映画館のことを「โรงหนัง(ロングナン)」て言うでしょ。「โรง(ロング-建物)+หนัง(ナン-映画)」で映画館。
 文語だと映画のことは「ภาพยนตร์(パパヨン)」と言って、タイで普通に生活していたらまず聞かない単語だ。もっとも、多くのタイ人はこの文語を知っていて、でも使わない。なるほど。手紙なんかを書くときに使うのだなと思ったら、これも使わない。หนัง(ナン)で済ませちゃう。じゃあ意味ないじゃん。そんな使わない言葉を覚えてどうすんだ、って感じなんだが、まさにタイ人もそう思っているのか、若い人は文語を知らない人が増えてきているようだ。ほら、太平洋戦争のときの若い日本兵も家族に宛てて文語体のお手紙を書いていたでしょ。あれが戦後になると嘘みたいに口語体の文章で溢れ返る。
 タイも文語で手紙を書く人が少なくなってから随分と経っているようだ。おれがタイで暮らすようになった頃、このことについて訊くと、「あー。文語でモノを書くような人は、最近いないねー」とタイの老人が言っていた。
 どうも現在進行形で絶滅に向かっているようだ。
 あと、俺たちみたいな外人が文語を使うと、だいたい聞き返される。
「は?」って問い正すから、「ภาพยนตร์(パパヨン)」てもう一度言うと、「あー。パパヨン。……パパヨンね。映画のことだよね」って、なぜか狼狽える。まあ、そりゃそうか。文語は古臭い言葉だから、外国人が突然に「活動寫眞」て言い出すみたいなもんで、「は? おまえガイジン何で古語使う。昔の人かよ。ていうか何でそんな言葉知ってる。つうかภาพยนตร์(パパヨン)てภาพパープ(絵)+ยนตร์ヨン(映画)で同義語重複じゃねえか。どうなってんだ」みたいな複数の疑問がいっぺんに押し寄せて処理が追いつかないのかもしれない。
 花の事だった。口語だと「ดอกไม้(ドクマイ)」と言うのが一般的で歌詞では「ฉันชื่อบุษบา-チャンチューブッサバー(私の名前はブッサバー)」と言っていて、ブッサバーというのは女性の名前でもある。
 日本でも「いなかっぺ大将」の女友達の名が「花ちゃん」と「菊ちゃん」で、これはもう50年くらいまえの話で、年寄りしかわからない話題なんだが構わず続ける。タイ語でも「ブッサバー」なんて名前は古臭いようだ。でも、ナシではない。一周回ってアリみたいな。いなかっぺ大将の「大左衛門」なんて名前はなん周回ってもナシだけど、「はな」はナシではない、と思う。「きく」は微妙だね。若い人の名前ではない。
 いや、でも本名がニコル・テリオなんですけど。それがブッサバーなんて古風な名前を名乗るあたりが面白いと思ったのか。

 まあ、そんなことより、是非お聴きいただきたい。凄いんだ、これが。
どう凄いって、そりゃ聴いての通りだ。
 まず、歌詞なんだが、エイトビートの導入部で短いセンテンスを畳み掛けてくる。手法としてはハードボイルドのそれです。「銃把。重い。冷たい。回転式。装弾は六発。外せない。一発たりとも。失敗。それは己の死に直結する」みたいな。短いセンテンスを矢継ぎ早に重ねることで、叙情を排除してしまうわけですね。ヘミングウェイの文体も、基本はこれです。

私たちは会った。歩いた。衝突した。
私を覚えていますか?
歩いてぶつかった。あなたは行ってしまった。
まだ怒っている? 機嫌が直らないのね。
ひとこと言わせて ごめんなさい
素直 それが自慢
職業はなんですか?
まだお詫び申し上げます。
私の名前はブッサバー。ナナナナー、ナナナナー
私の名前はブッサバー。ナナナナー、ナナナナー

 すんげぇバカっぽいでしょ。
 サビのまえのエイトビートで語り込むところは、こんなの妄想です。
 歩いていてぶつかったことがあるってだけの話で、それを「まだ怒ってるかな」とか「お仕事は何ですか」だの、大丈夫かこの女、と。
 これね。ニコルじゃなくて並の娘だったら、押し寄せるばかの波状攻撃に飲まれてると思う。
 とくにサビの「ฉันชื่อบุษบา(チャンチューブッサバー-私の名前はブッサバーよ)」に続く歌詞が原文だと「หน่านาน่าน้าหน่านาหน่าน้าน้านานา」とあって、カタカナ表記だと「ナナナナー、ナナナナー」なんだけど、歌を聴く限り「ニャニャニャニャー、ニャニャニャニャー」としか聞こえない。MV観てると、こんなのが逃げ込んだ映画の中まで追いかけてくる。ちょっとしたホラーなんだけど、その本質は「ばか」です。
 こんなもの、正面からマトモに喰らったら肺か肝臓あたりに「ばか玉」と言われる凝縮されたばかのエッセンスが巣食ってしまいそうだ。
 もうね。ばかで溢れた世界。どこを見渡してもばか。Surrounded by stupid というよりFill up with stupid という感じ。世界中のばかを集めてみた、そんな中に、ひとり、すっくと立つ女、ニコル・テリオ。ジャンヌ・ダルクみたいに馬鹿に立ち向かうわけじゃない。戦わない。かと言ってばかの女王とか、そっち方面でもない。
 どこにも与しない。独りで、立つ。
 唐突だけど、若山牧水の句にあるでしょ、「白鳥は 哀しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ」ってやつ。あれです。
 そう思うと、ニコルって知性的ではないんだけれど、反知性的でもない。
立ち位置がよくわからない人だ。
 日本でもいるよね。こういう立ち位置の人。
 郷ひろみとか、高田みづえみたいな。
 ジャンルで類別できないの。何を歌わせても高田みづえっていう。
 そういう意味ではニコルも同様で、人気が落ち着いてからはパンクロックに行っちゃたんだが、「ニコルがパンク?」と思いながら聴いてみると、これが「あー。ニコルだわ」って感じで、そんなに違和感はないんだが、まあそんな楽曲が売れるわけがない。
 2004年だったか、タイの有名バンドのリーダーと結婚したりもしたが、最近別れてます。仕事には一貫して恵まれた人で、不遇をかこつということがない。もともとモデルの出だし、しかし「おしゃれ」なイメージだけでここまで生き残るのは難しいと思うんだが、政治的な意見を求められても普通に主張を展開して、それが反感を買うということもない。かつてタタ・ヤンが「私は思ったことを主張します」とばかりに(真っ当な)意見を主張したときなどは「芸能人風情が思い上がるな」的な反感が凄かったんだが、そういうのが一切ない。
 発言を聞いていると間違いなくアタマが良いと思うんだが、「ニャニャニャニャー」でデビューしちゃった人だから怖いものなしなのか。不思議な人です。

 ニコルといえばもう一曲、「ไม่ใช่ ไม่ใช่-マイチャイ・マイチャイ(違う。そうじゃない)」って曲があって、ばかっぽさということでは、これも秀逸。もちろんこの曲でも海の青空の青にも染まず漂ってます。
ไม่ใช่ ไม่ใช่ - นิโคล เทริโอ【OFFICIAL MV】  
 デビュー当時、一体何が起こったのかわからなかったが、あれから20年。聴き返してみるといろんな事がわかって面白い。特にタイでのばかに対するサバイバル技術の高さよ。これだからタイ歌謡は、やめられない。
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