もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

肉桂

2022年05月17日 19時20分23秒 | タイ歌謡
 肉桂と書いてニッキと読む。シナモンのことだ。アップルパイなんかに潜んでるやつで、和風だとニッキ飴とか八つ橋なんかに用いるアレで、辛さと癖のある爽快感が身上の香辛料だ。いっぱんにニッキは根を使い、シナモンは幹を使うというが、随分まえに九州出身の知人が、肉桂の木の樹皮を剥いで使っていたと言っていたので、その境界は厳密でもないのかもしれない。
 こないだの世紀末に、シナボンてのがタイでも流行った。ただのシナモンロールかと思ったら砂糖爆弾のシナモン風味って感じで、こんなの流行るわけないだろと思ったら、あっという間にパチモンの店が街中を席捲し屋台まで現れるのを見て、タイ人とシナボンの親和性の高さに驚いたんだが、ピークは3ヶ月も続いただろうか。申し合わせたみたいに急速に消滅した。なるほどね。いち度食べたら、しばらくは要らないもんな、あれは。
 頼んでもいないのにシナモンスティックがコーヒーや紅茶に付いてくることがあって、あれをストロー代わりにしようとしても管にはなってないから吸い上げるのは難しいし、吸い上げられたとしても火傷しそうだから止めるべきだ。あと、シナモンコーヒーを飲むと目が痛くなるんだよな、という人がいるが、それはカップに差し込んだスティックの先端が目に当たっているからで、カップからシナモンを取り出せば目は痛くなくなるというのは憶えておいた方が良い。
 話は変わって香菜だ。香菜(しゃんつぁい)は普通話で、廣東話だと芫茜(いむ↓さい→)。普通話と同様の漢字を書いて香菜(ひょん→ちょい→)と発音しても通じる。「ひょん」は香港の「ひょん」で、細かいことを言えば「ひょん」と「へん」の間を取ったような音で、「ほん」と仮名書きされることが多いけれどウムラウトっぽい発音ね。日本語にはない音だ。「ちょい」の発音は低く野太い声で下品に「ちょいー」と言うと通じやすい。台湾だと普通話でも通じるけれど河洛語のほうが良いかもしれず、延雖(いぇん↑すい↓)というのだそうだ(気になって知人に確かめた)。
 これをパクチーというのはタイ語。さいきんの日本では何の料理でもパクチーと呼んでいるようだ。古くからの日本の外来語ではポルトガル語由来の「コエンドロ」と言ったはずだが、今では遣う者がいない。ベトナム料理に入っているならrau thom(ザウトーム)と呼ぶべきなんだろうが知名度が足りず、やっぱり日本ではパクチーと呼ばれるようだ。
 英語圏だったらコリアンダーなんだろうが、米語ではサラントロって言う方が多いのか。どっちも総じて種実を乾燥させて粉にしたもので、英語圏の料理では葉や根を使わないのだろうか。植物としては同じ物だが、乾燥種子と生の根・茎・葉では匂いが全く違う。肉桂は根でも茎でも大きくは違わないのに。
 まあ、今回はシナモンパウダーの話で、以前は台所にひと瓶かならず常備していたが、今は買い置きがない。
 ←シナモンチャレンジ
 あの日は自宅で何かの書類を作っていて、ワイヤレスのキーボードをかたかた叩いていた。何のまえ触れもなく、ゴー、と低い音程の地鳴りが響き、「???」としか表記のしようがなく、思考停止していたら、その正体に思い当たる間もなく、とつぜんに、激しく床が上下した。タイの移動式遊園地のローラーコースターみたいに。
 縦揺れだった。
 どん、と落ちて、せり上がる繰り返し。
 こ、これは大きいんじゃないか、と思った途端、横揺れに切り替わって、冷蔵庫がいきなり60cmほど左に擦れ、また壁際の元の位置に戻り、そしてまた左に移動して右に戻り、なん度も往復するのを、おれも揺れながら見ているうちにベランダに通じる錠のかかった頑丈なアルミサッシの窓が、ばーん、と開き、一間×半間よりも大きな窓ガラスが左右に幾度も往復した。食器棚の陶器類も本棚の書物も、ばらばらと落下して、楽器も倒れるし、何よりも揺れが大きすぎて、どうしたら良いものか何も判断できず、ただ膝の上のキーボードを握りしめていた。
 それまで根拠なくサバイバルのスキルは高いと思い込んでいたが、その能力はあったとしても全く発揮されなかった。
 長かった。いつまでも揺れていた。
 若かった頃、全日空の機内で気流の悪い空域を通過のおり、エアポケットになん度も突入して、この恐怖はいつになったら終わるのかと絶望的な心持ちになったことがあったが、その長さに匹敵するような揺れで、恐怖はエアポケットの比ではなかった。地に足が着いているというのに。
 毛が逆立っていたような気がするのだが、鏡など見たわけもなく、気のせいかもしれない。
 やがて揺れが収まり、大きく息をして回りを見回した。
 酷い有様だった。
 床はいちめんに物が散らばり、重なり、壊れた物たちの破片が至るところで上を向いて尖っていたので、恐る恐る玄関に行ってサンダルを探した。部屋の中でサンダルを履けば足の裏を怪我をしないで済むからだ。
 まず、窓を閉めた。揺れが来るまえは晴天だったはずだが、外の空は掻き曇り、横殴りの吹雪だった。それも短時間で止み、嘘みたいにまた晴天に戻ったのだが、家の中の惨状が戻ることなどあろう筈もなく、はあ、と溜息を吐いたところ、鼻孔の奥にシナモンの香りが届いた。
 シナモン。
 地震で瓶が落ちて、割れたのだった。
 2011年3月11日のことだ。

 それ以来、シナモンの香りを感じると、気分が塞ぐ。
 なーに言ってんだよ。当時きみが居たのは太平洋から離れた郡山じゃないか。そりゃ揺れただろうが、津波に襲われた訳でもなく、大したことなかったんだろ、と言われたこともあって、たしかにそうだ。津波が届くようなことはなかった。
 古いビルの一部が崩れたりして、一階の範囲が崩壊して上の建物部分が落ちてきたという被害もあり、中に居たひとの命がどうなったかは想像がついたが、そんな被害は東北の至る所で見られたことで、見た目も津波などに比べたら地味だったから、そういった報道は見たことがない。

 3月下旬にはタイに逃げ帰っていた。知り合いのタイ人がみな、「大変だったでしょう」と食べ物をくれたのが、なんだかおかしかった。
「タイはいい。地面が揺れるということが、ない」
 うちの奥さんの友人が雑誌のライターで、インタビューにそう答えたら、ひどく困惑した顔で、地面が揺れるって、どんな感じなのかと訊く。地震の被害に遭ったことのあるタイ人なんて殆どいないから、その質問も尤もなんだろうが、そんなことを訊かれる日本人てのも珍しいだろう。おれにしても初めての質問で、答えを数秒の間考えた。なんて言ったらいいんだ?
「動きます。地面が」まんまじゃねぇか。「とても。とても」
 ……。依然と困惑顔。
「上と下に、なん度も」手を上下させた。「それから、横に。右と左。今回のは本当に大きくて、1mくらいかな」
 1m。そんなに大きくは揺れないのですね。
「……そうですかね」ばかを言うな。1mって大きいぞ。’95年の阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震で±50cmくらいで、往復1mだ。十勝沖地震で±20cmくらいか。東日本大震災は、阪神・淡路大震災よりも大きかっただろうが、おれの居た郡山は、震源地ほどの揺れじゃなかった筈だ。せいぜい往復で1mくらいかな。体感の当てずっぽうだが。「壊れる建物よりも壊れない建物の方が多い。กระเบื้องหลังคา(屋根のタイル – 瓦)が落ちてくるのが多いのです」そうして、壊れた建物の写真を見せると、絶句した。
 これは。人が死にましたか。
「存じませんが、おそらく」
 その写真のデータを貰ってもいいだろうか、と訊くので承知して、インタビューを終えたが、それが記事になることはなかった。おれは地震の事など詳しく思い出すのも嫌だったので質問に答えるだけで、とうぜん消極的だった。いっぽうでインタビュアーは地震というものをまるで理解していない。記事になったとしても、とてもつまらないものだっただろう。
 ←地震で1階部分が崩壊したビル
 震災と、その後のことは今でも思い出したくないので、今年も3月11日は地震関連の特集番組など見ずに一日過ごした。
 今から思っても僥倖だったのは震災の来るまえに、うちの奥さんが息子を連れてタイに里帰りしていたことで、放射線の被害については自分のことだけを心配すれば良かった。あのひとは郡山が好きで「ここに住み続けてもいいな」とまで言っていたが、あのとき日本に居たら、すっかり日本人が嫌いになってしまっていたのではないか。世紀末あたりからの日本の衰退は、東日本大震災を契機に一層加速したように思う。政治・経済だけでなく臣民遍く心が荒んだ。宗教も現世では見返りなどないと思い至り、方丈記など読まずとも、その趣旨を体感できた。文芸的な価値を言っているのではない。諦観の類だ。
 3月の後半にはタイに逃げ帰っていた。出発まえ、知人たちの多くに「逃げるのか」と訊かれた。非難がましい人もいた。おれは元気よく「はい。逃げます」と微笑んで日本を発った。
 タイでは、うちの奥さんが息子と待っていたからね。このひとたちがいなけりゃ、タイなんて暑くて臭くて汚くて、デタラメな人たちが嘘ばっかり言ってるだけの所だ。まあ一種のパラダイスだけれど、そういう所が嫌いな人も多いよね。

อบเชย - ปล่อยเธอคืนฟ้า【OFFICIAL MV】

 อบเชย(オプチューイ – シナモンのタイ語)というグループのปล่อยเธอคืนฟ้า(きみを夜空に返そう)という曲だ。ルクトゥンかと思ったら、そうじゃなくて一応ロックらしい。日本で言えば「もんた&ブラザーズ」みたいなもんで歌は本人がロックだと思い込んでいたとしても聴く者にとってはルクトゥンだ。なのにバックバンドはガチなロックのそれで、しかも間奏はリードギターが二人いるのにツインリードじゃなくて、往年のクラプトンみたいなウーマントーンのレスポールが8小節。今どき聞かないよ、ウーマントーン。フロントのピックアップだけでリアのピックアップは切っちゃう。そしてトーンをゼロに絞ると、この音になる。ふつうは「泣きのギター」ってやつに使う音色なんだけどね。そんで、次がストラトで8小節。こっちはストレートな音色で、二人ともギターは巧いんだからハモるとかオブリガート付けるとかできるはずなんだが、それをしない。タイ人のバンドなのに仲が悪いのか? つうか、このストラトキャスターもトレモロアームを抜いてあって、そういうギターって、たまに見るんだけど、まあ抜きたくなるキモチはわかる。すぐにチューニングが狂っちゃうからで、それがイヤで最初はアームのバネを半分抜いちゃったりするんだよね。だけど、それでも狂うからアームそのものを抜いてしまう。わかる。わかるよ。でも、それじゃストラト弾く意味がないと思うんだが、人それぞれなんで、大きなお世話か。
 大きなお世話といえば、若い頃「大きなオセアニア」って言ったら初対面の人に「うわあ、ばかだなぁ」って言われたのを思い出した。ひとつも間違ってないんで「そうなんすよ」って答えておいたけど、助走をつけたカウンターパンチを放つ人って、いるよね。いっぽう、別な人と大豆の話になったとき、「ああ。言いますよね、昔から。畑の大豆って」と言ったら、くすくす笑って「きみ、いつもそんなこと言ってんの?」って言われたから、「まあ、おおむね」って答えたこともあって、人それぞれだ。人はそれぞれ、個人情報は漏れ漏れ。先週はタコはイボイボって言ってたんだった。
 さて、歌詞の抄訳だ。

そうじゃない 難しく考えないで
なにか別の選択肢がないのかな
私たちの細いつながりも 今は微か
あなたに言ったよね 我慢しないでと
あなたが立っていた場所 あなたがいた場所
私が見上げてしまったけれど それは間違いだったと思う
ここであなたと別れるのは たぶん良いことだよね 
そんなに泣かないで
私たちは別れたけれど 私はまだあなたを愛している

でも私にはこの生活があるだけで 他には何もない
あなたは寒い高地にいて 降りてきた
私はあなたの手を握ってしまった 
いつか さよならを言わなければならなかったのに
いつか あなたを空に返さなくてはいけなかったのに
でもあなたは疲れてしまう そんな生活の変化に耐えられますか
聞いてください 何も言わずに わかってください
私の場所は疲れるし暑い あなたはそれを我慢できないでしょう
私よりも価値のある人のために あなたの人生と心を守ってください

 プロの作詞家ではないから歌詞がつまらない。ただシチュエーションの限定があって、妙にリアルだから、個人的な体験か、それともそういう話を聞いて感じるものがあったかして作った歌詞なんだろう。それでも歌詞の通りに山に住む人を愛してはいかんという解釈ではなくて、身分の違う人との愛は実らないね、という歌詞だ。MVの映像にある通りで、ここでは男が庶民で、豆乳を売ったかと思えばソイ・モーターサイクルの運転手もして、歌手活動もしている。楽しく幸せに暮らしていたら、娘の父が男を訪ねてきて手切れ金を渡すが、男はその金を断って姿を消す、という話に仕立ててあって、実はタイでこういう話はよくある。
 まえにおれがいた会社の旅行部門で、新卒の娘が入社してきた。娘は北部の地方都市のカネモチの娘で、おベンツの送り迎えで育ったようなお嬢様だった。当時のタイ国民の93%は非課税の家庭で、残り7%の家庭がカネモチといった割合で、だから学校でもクラスに一人はベンツ持ちの家の子供が居たことになる。北部出身の娘は予約と発券担当の仕事をよくこなし性格も愛想も良くて、「あの娘は当たりだったね」と思っていたら、3年目くらいだったか、とつぜん退職した。
 どうしたんだ? そう訊くと、娘は会社のメッセンジャー・ボーイ(バイクで書類などを届ける仕事の男)と同棲していたのが親にバレてしまい、田舎に強制送還という、わかりやすい話だった。
「えー!」驚いた。そういうことに目敏く気付くほうなんだけどな。ぜんぜんわからなかった。「そうだったの?」
「ไม่รู้เหมือนกัน(おれたちも知らなかったんすよ)」タイ人従業員も口々にそう言った。
「ความลับ?(秘密だって?)」うそだろ。「ทั้งๆที่คนไทย(タイ人なのに?)」
 タイ人なのに。思わず口に出た失礼この上ない物言いだったが、それを咎める者はいなかった。「そう。誰にも言わなかったんすよ。エーもプックも」
 なるほど。プックは親に連れ戻されたと。ではエーは?
「そんなの、家で泣いてるに決まってるでしょ」気の毒そうにタイ人従業員は溜息を吐いて涙を拭った。「エーは、ときどきマリ(ジャスミン)の花飾りを買っていたでしょ。あれ、プックちゃんに買ってたんでしょうね」そうだ。道端で20バーツで売ってるやつだ。あの刺すような花の香りが、おれは苦手だった。「しばらく休むと思いますよ。彼は」
 エーは南部の出身で、背の高いハンサムだった。背が高いのは、家がビンボーでその辺に生っているバナナばかり食べていたからだというのは聞いていたが、1年くらいまえから「勉強がしたい」と学校に通い出したのは、そういうことだったのかと思い至った。出は良くないが気が利くし、地頭も良く、性格も良いから、高校を卒業して事務の仕事もやってみて適性があれば事務職に、という話に奮闘していたのだ。
 エーは一週間ほど無断欠勤をし、げっそり痩せて出勤してきた。
 さすがにプックの故郷へ恋人奪還の旅に出るようなことはなかった。日本と違って、そんな暴挙に出たら撃ち殺されてしまう。
 半月ほど放心したエーは、人が変わったように勉学と仕事に打ち込み、事務職にはなったが、そんなに嬉しそうでもなかった。
 数ヶ月ほどで他社に転職して、エーはバイクでの通勤途上、交通事故で、あっけない最期を遂げた。
 エーの葬式に参列して、タイの葬式でいつも思うように、この日も思った。
 なんでタイ人って、すぐ死んでしまうんだ?
 思うだけで、タイ人には言ったことがない。
 ジャスミンの花の匂いも、それまで以上に嫌いになった。歳を取ると、嫌いな匂いが増えていくよね。
 
 アーモンド味の焼き菓子で、ベルギー大使館推奨というクッキーを食べたら微かにシナモンの香りがして、一気に震災の記憶が押し寄せてきて、それで、こんな話になった。旨い菓子だ。でも、もう食べないと思う。
この記事についてブログを書く
« タコはイボイボ | トップ | あずさ2号 »

タイ歌謡」カテゴリの最新記事