もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

私はロボットではありません

2021年05月25日 19時41分39秒 | タイ歌謡
 ラオスを歩くということは、土埃の中を歩くということで、少し風の強い日は細かい砂がぴしぴしと顔に当たり、目を開けていられないほどだった。ラオスの土は、メコン川流域を外れると肥沃な要素が抜け、ラテライトと呼ばれる赤土だ。ラテライトの分布は広く、地球の陸地の1/3がそうだという。タイ北部の山岳地帯の土性がそうで、カンボジアのアンコール遺跡では乾いたラテライトの塊や砂岩といった脆い素材が石材に使われていて、たしかに加工は容易いが耐久性には劣る。とはいえ古い物だと千年は経っているわけで、まあ充分といえば充分か。ちょいと乾かせば石材になっちゃうような土だから、農作物の収穫は大して期待できない。とても枯れた土壌なのだ。そんなの、土を耕して何か養分をくれてやれば良いんじゃないの、と思うが、ラテライトは養分が土に染み込み難く、その養分も雨で流れてしまう。昔は化学肥料なんてないから、焼畑で養分を与えた。焼畑の灰で養分を与えても、連作には限度があり、数年で休耕して畑を移らないと土地が枯れてダメになってしまうのだそうで、この文化圏の農民にとって土地への愛着が薄いのは、そういうことも理由のひとつなんだろう。
 そんな地方の耕作地でない土地では、植物も申し訳程度にしか根を張らないので、少しの風で土埃が舞う。だから、ひとびとは何かしらの布を巻いて出歩く。ラオスではストール状の布を首に巻いたり、袈裟掛けにしたり、腰に巻いているのをよく見かけるし、カンボジアではクロマーと呼ばれる布を首に巻く。暑い日だと腰に巻いたりもするが、これも乳児のおぶい紐になったり、風呂敷のように物を包んだりして日常に欠かせない物だが、土埃が舞う時は口と鼻を塞ぎ、ときには目も護る。この手の布は薄いものが多く、これを土産に買った日本人が「なんか生地が薄くて、あんまり暖かくないの。実用的じゃないのね」とか言うんだが、それは日本で使うことなんか想定してないからで、現地では実用しか考慮してない。そういえば千鳥格子柄のアフガン・ストールもそうだな。あれは砂漠の砂から呼吸と視覚を確保するのに役立つものだ。

「うん。嘘」
 ラオスの首都、ウィエンチィァンのサムロー(オート三輪)の運転手のフーは屈託なく答えた。
 年回りは、おれより10歳くらい若い。つまり1970年前後の生まれだろう。適当ではあるが英単語を並べて外国人との意思疎通を図る。それよりもタイ語のほうが細かい話もつうじるので、おれはタイ語で話しかけた。
 ウィエンチィァンの人の大半はメコン川の向こうから来る電波を頼りにタイのテレビ番組を見る。当時ラオスには国営放送局が一局あるきりで(2008年に民放が1局増えた)、番組もつまらないうえに再放送も多く、どうかすると昼間から放送が休止することもあった。おれが見たときは、あれは教育番組だったのか、まるで環境映像みたいに蜘蛛が巣を張る様子を延々と映し出していた。それに比べ、タイのテレビはドラマも面白いし、音楽もカッコいい。そのうえタイ語とラオ語は兄弟みたいなもので、スペイン語とポルトガル語の違いよりも近い。特に学習せずともテレビをひと月も見ていれば、言っていることはほぼ理解できるようになると言う。文字も似ていて、その癖を憶えれば、すぐに読めるようにはなる。だから、タイ語で話しかけても、問題なくウィエンチィァンの人は理解した。ただ、帰ってくるのはラオ語が殆どだから、たまに言っていることがまるでわからないこともある。
 ウドンタニの空港からバスでノンカイへ。ノンカイからウィエンチィァンまでのバスに乗り換えて入国審査を経て外に出ると、サムローの運転手さんたちが、わらわらと寄ってくる。
 その中に一人、「ジャパニーズ?」と訊いてくる者がいて、頷くと「マイファザー、ジャパニーズ・ソルジャーな」と言った。これは面倒くさいのが来たぞ。ぼったくりに違いないと思いつつ「街まで幾ら?」と訊くと、驚いたことに普通の値段を言った。「ユー、ジャパニーズ。アイムジャパニーズ50パーセント。セームな。ノー、トゥーマッチ」ホントかよ。でも人相は悪くないし、面白そうなので彼に決めた。
「マイネームイズ、フー」運転手さんが振り向いた。
「フー?」おれは耳を指差した。
「イエス」ルームミラー越しに答える。「スピーク、ラオ?」驚いている。
「いや。タイ語」おれがタイ語で答えた。
「ああ。ラオ語もタイ語も同じだもんね。どっちもフーだ」
 文字が少し違うだけだ。ラオ語ではຫູと書く。タイ語ならหูだ。どっちでも耳という意味だ。
「それでは」おれは身を乗り出した。「アヌーホテル(現在は Anou Paradise Hotel )まで行ってください」
「へえ」感心していた。「あそこは普通のツーリストは泊まらないよね。仕事かい?」
「いや。ただのツーリストだよ」
 5年ぶりくらいに来たアヌーホテルは改装済だった。
「5年まえにもいらっしゃったのですか」支配人が英語で言った。「綺麗になったでしょう。一昨年リノベーションしたのです。あちらの」左掌で指し示した。「リフト(エレベーター)がラオスで初めてのマシーンです。大臣も乗りに来られたのですよ」自慢げに胸を張った。
 5年まえも暑い日で、窓に取り付けられたエアコンと思しき機械には雪の結晶の模様とロシア語の表示のスイッチが並んでいて、どう操作しても「ぐおぉぉー」という轟音だけが響くだけの装置だった。エアコンではない何かの機器だったのかもしれない。風鈴的な意味で。そんなことを思い出しながら部屋に入ると、見事に冷房が利いていてラオスの発展を実感した。一般家庭に冷房が入るのも時間の問題だと思った。
 しかし、当時のラオスの財政は厳しく、ラオス航空は2機あるうちの1機の機体の故障が直せず、1機だけでバンコク=ウィエンチィァン間を運行していた。ルアンプラバンに行く便が毎日欠航になっていて、じゃあ陸路で行くか、と言うと、「ダメだ。山賊だの追い剥ぎだのが、てんこ盛り出るからやめろ。マジで殺されるぞ」と言う。じゃあウィエンチィァンまでの往復だけだなと思ったら、それもやめたほうがいいと言う。国際線は飛んではいるが整備する金がなくて無整備だぞ、と信じられないことを言った。だからタイ国際航空の国内線でウドンタニの空港へ行き、後は陸路で入国したほうが安全ということだった。そんな時代があったのだ。

 フーは、仕事がなくなるとアヌーホテルの前で所在なげに佇んでいた。
「どこかに行かない?」昼食を摂りに行こうと外に出たら声をかけられた。
「昼食だ」残念だったな。おれは向かいの中華料理店を指差した。5年まえ、あそこは広東語がつうじた。まだタイ語の挨拶に毛の生えた程度しかできなかった頃で、まさかラオスでタイ語が通じるなんて思いもしなかった頃だ。「一緒に行くかい?」
「じゃあ川沿いに良い店がある」満面に笑み。「鳥が旨いんだ。そこへ行こう」
 まんまとサムローに乗せられ、メコン川沿いの店に来た。注文はフーに任せ、ビールを頼むと、フーは当然のようにグラスをおれに向け、催促した。「ラオスでは運転手がビールを飲んでも良いのか?」
「ボーペンヤン(ラオ語でマイペンライの意)」
 運ばれて来た料理は、言った通りの紛う方なき鳥料理で、ムクドリだか雀みたいな小鳥の姿焼きがぎっしり二十羽ほど山盛りになっていた。なぜ。そんなに頼むのだ。
 あー、これはアレだ。頭から全身ばりばり齧るやつだ。こういうのは苦手なんだけどな。いちおう一羽齧りついてみたが、思った通りの味だったので、ぜんぶフーに進呈した。
 ビアラオの生ビールを頼むと付いてくる半孵化の鶏の有精卵を茹でたものが、グロテスクではあったがプリプリとした食感で馬鹿に旨かった。小さな籠で供された3つの卵を立て続けに食うほど旨かった。籠が空になると、店の少年が音もなく後方からまた3つの卵を籠に置いた。これもサービスなのだろうか。いずれにせよ茹で卵は、そんなに食えるものではない。

 川の流れを眺めながら、思った。
 フーの父は日本兵だと言っていたよな。終戦の年に25歳だったとして、フーが生まれたのはその25年後くらいだから、当時でおよそ50歳か。ありえない話ではないが、旧日本兵が25年間もラオスに居続けるものだろうか。それとも、その後にあったラオス内戦に日本から義勇兵としてラオス王国軍か、反対にパテトラオに加わったとか。そこで知り合ったラオス女性兵士と恋に落ちて……。それならもっと若いかもしれないが、そんな荒唐無稽な冒険譚は尚のことありえない。普通に考えて「そんな奴、いるものか」て話だ。
「きみの父が日本人」おれは言った。「それ、嘘だよね」
「うん」フーは即答した。「嘘」
「やっぱり(อย่างที่คิด)」おれは微笑んだ。「だよね(นะครับ)」
 日本人観光客が来たとき、日本人の血が流れていると言えば、チップがたくさん貰えることがあったから、とフーは言った。「子供の頃、日本人みたいな顔だって言われたことがあるんだ」何をどう勘違いしたのか、フーの手を握って高額なチップをくれた初老の男もいたと言う。「まあ、あんたみたいにタイ語もできて、この辺の歴史も知ってるんじゃ、わかっちゃうよね」小さな悪戯がバレた子供みたいな笑顔。
 食後、売春置屋へ行かないかと誘われた。
「やだよ(ไม่เอา)」おれは断った。
「違うんだ。女を買いに行くんじゃない」フーは声を潜めた。「最近、ヘンな性病があるんだ。それに罹ると、チンコがロウソクみたいになっちゃうんだ。見たくないか? 50バーツも払えば見せてくれるぞ」
「ロウソクみたいなチンコを?」おれは笑った。「やだよ(ไม่ไหวแล้ว)。見たくない」
 そうかい、と簡単にフーは引き下がった。食べ残しの鳥を袋に詰めて貰っていた。奥さんに? と訊くと、顎をくい、と上げて微笑んだ。それは良かった。料理が無駄にならずに済んだ。ところでおれは食い足りない。あとで中華屋に行って油菜(やぅちょいー)と炒飯でも食うかとサムローの後部座席で考えたのを憶えている。たぶん行ったんだろうが、店で中華を食った記憶がない。
 
 最終日、イミグレーションまで送ってもらった。
「そのカメラ」おれが持っていたミノルタのポケットカメラのことだ。「くれないかな。おれに」フーは言う。
「悪いが」おれは断った。「これは、おれの奥さんの物なんだ」
「じゃ、駄目だな」あっさりと引き下がって、手帳を取り出した。「川で二人で写真を撮ったよね。あの写真を送ってくれないだろうか」さらさらと何事かを書く。「これが住所だ」
「わかった」
「あんたの奥さんは」フーは紙切れをおれに渡した。「日本人なんだな」
「いや。タイの人だよ」
「えっ。タイの女は性格が凶暴(นิสัยรุนแรง)だろ」
「ぜんぜん。そんなことないよ」
「え。タイの女だぞ」
「うん。タイの女だよ」
「性格が良い(นิสัยดี)のか?」
「良いね」
「タイの女なのに?」
「うん」
「へぇー」とても意外そうだ。ラオスではサムロー運転手のタイ女性に対する思い込みは、どうなってやがるのだろうか。

 バンコクに戻って、フーの話をすると、うちの奥さんは「あら。カメラあげても良かったのに」と言った。さすがタイ人だ。気前が良い。たしかにフィルムのカメラを使ったのは、この時が最後だったかもしれない。うちの奥さんにはデジタルカメラをプレゼントしたので、ミノルタのポケットカメラはもう使うことが少なかったのだ。ただ、当時のデジタルはまだ画像が荒く、100万画素あったかどうかといった時期だったから、ラオスにはフィルムのカメラを持っていったのか、それともデジタルカメラは盗まれそうだからやめたのか、まあそんなところだろう。
 ちょうど20世紀も終わろうという頃だった。
 ウインドウズ98を使っていた。まさか二十数年後にはマシーンに向かって「私はロボットではありません」と答えようとは夢にも思わなかった。さらに今からあと二十年も経ったら、がしーん、ってジェット噴射装置と合体しながら「私はロボットです」の方をクリックしているのだろうか。ともあれ20世紀末には、CovidはおろかSarsもMersも登場していない。放射能を気にして雨に濡れるのを躊躇うこともなかった。そんな時代があったのだ。

On Your Side-OST (LAOS) Season 2/ເພງຮັກແຕ່ບໍ່ກ້າບອກ - รักแต่ไม่กล้าบอก ເພງປະກອບຊີລີ້ ຮັກນີ້ສີບົວ2
 今回のMVはラオスのラブソングだ。タイトルは「愛してはいるけれど、あえて言わない」みたいな意味。歌詞もそんな内容をウダウダと言ってるだけで、大したことはないように思う。ただ、ラオ語なので細かいニュアンスは伝えられないんで、翻訳は勘弁してほしい。字幕の設定を日本語に変えたら、だいたいの雰囲気は掴めるかもしれない。とにかく、驚いたのは、ラオスのMVにしては、とても垢抜けてるってことだ。「えー。なんかイマイチ田舎臭くないすか」という声が聞こえてくるようだが、ラオスのMVにしては、と言ったでしょ。たぶん、このMVの制作はラオスの人ではないと思う。Sunsilkが協賛ていうか、イッチョカミしてるんでタイ人あたりが監督と撮影してるんじゃないか。そのくらいこのMVは凄いのだ。
これを見るまでは、この下のMVで「おー。ラオスのMVも垢抜けてきたな」と思っていたのだ。ちょっと見てほしい。
ຮັກເຄິ່ງທາງ - (ພົມມະຈັນ) Mélissa Phommachan
 だっせー、と思うだろうが、これでも良い方なんだってば。タイの高校生のほうが上手な映像を撮るよね。まあタイはハリウッドの映画配給会社が東南アジアを舞台に撮影するときにタイでスタッフ集めてロケ隊を作ることが多いから、腕利きの映画人がゴロゴロ居るんです。裾野が広いから素人でも水準が高い。
 いっぽうラオスに映画産業がないわけではないが、内戦時代のプロパガンダニュース映画をべつにすればラオス初の映画は実質1988年まで待たねばならないし、その20年後の2008年、タイとの合作映画までは作品が作られることはなかった。今でもラオスの映画業界は、とても盛んとは言い難い。映画館も少ないし、ラオス国民はケーブルテレビでタイのドラマや映画を観ている。たまにラオスの映画が上映されても「タイのほうが面白い」との評判だ。そりゃそうだ。ラオスでは人材が育つ下地も余地もない。
 そしてタイ人はラオスを、なんとなく軽んじながら、温かい目で見守る。遠い昔、何かのきっかけで離れてしまった遠縁だってのは、わかっている。垢抜けず、粗野だと軽んじる者もいるが、「なんだか昔のタイみたい」とも言う。そうだ。昔はタイも、もっとのんびりしていたし、もっとおおらかだった。昔が良くて、今がダメだって話じゃない。そういう時代があったって話だ。

 そういえば昔のタイ映画を観ていると「憤死」というのが頻繁に出てくる。悪役の策略に乗せられ、大切なものを失ったりし、「うぐぐぐ……」と失意のまま、がっくりと息絶える。それでも我慢に我慢を重ねた主人公が堪忍袋の緒をぶち切らせる事件が勃発、一気に逆転。復讐を果たす、というのが当時のティピカルなタイのドラマツルギーだ。まあ、タイ特有のものではなく、昭和30年代なんかの日本のプログラムピクチャーも似たようなもんだ。さすがに憤死は出てこないが。
 で、憤死なんだが、日本で憤死といえばこれはもう早良親王(さわらしんのう)で、古の皇族は憤死が多いようだ。あと中国なら三国志だ。三国志、憤死が多いです。日本とかタイの憤死が怒りのあまりに身体が衰弱して、蝋燭の炎が静かに燃え尽きる感じなんだが、三国志の憤死は、怒りのあまり身体から血を吹き出して「うおおおお!」って絶命しちゃったりしてアクティブだ。日本とタイのはパッシブスキルとでも言うべきか。そこで思ったのは、映画で描かれた当時、タイでは本当に憤死が存在していたんじゃないか、ってことだ。
 だって、なんかタイ人て、すぐに死んじゃうんだもん。

 うちの奥さんと婚約してすぐに、「従姉妹のお姉さんが具合が悪いから、お見舞いに行きませんか」と誘われて断る理由もないし、一緒に行った。従姉妹の家に行って、驚いたんだが、この人が見たこともない美人だった。うちの奥さんよりも綺麗なタイ人を見たのは、それが最初で最後かもしれない。病気のせいか儚げな人で、いち度に、こんなに薬を飲むんです、と掌に山盛りの薬を見せてくれて、「うわあ、薬でおなかいっぱいになっちゃうね」と言うと、伏し目がちに笑っていた。
 それから一週間も経たずに「お葬式に行きましょう。こないだお見舞いに行ったお姉さんが亡くなりました」と言われ、ああ……、と自然に納得したのを憶えている。すぐに亡くなるほどの重篤な感じではなかったのに、そうか、消え入ってしまったのだな、と思わせた。
 ぜんぜん憤死とは無縁の葬儀だったが、タイの人は、この世と冥土の垣根が低いように思う。ほんの寝返りひとつで、向こうに行ってしまう人がいる。ついでに、関係ないが従姉妹のお姉さんには愛人を拵えて出奔した父親がいたのだが、娘の訃報に駆けつけ、そのまま前妻とヨリを戻したりして、「あの娘は父と母を再度結びつけるために亡くなったのだ」と言われていて、なんだかおかしかった。父も母も老人というべき歳なのに、どちらも美男美女だったのも、どういうものか本筋を外れたように逸脱していて、娘の葬式なのに、父母の再出発を寿ぐような珍妙なズレ。あるべき着地点に乗せた板が少しズレて、その上に乗せた板々がまた少しずつズレていき、気がつくと、まるで違う町に居るような歪み。どういうわけか、亡くなった娘の父は、おれとばかり喋っているのだった。たぶん昔の経緯を知らなくて、タイ人ではない遠い国の男だけは一緒にいて居心地が悪くなかったのかもしれない。2ヶ月経っても、父親は我が家にじぶんの魂を落ち着かせる場所を見つけることができず、愛人の許に戻った。魂も儚いが、生きている人の営みも儚いのだった。
 また、うちの奥さんの実家の斜め向かいに住むベンの母は、バス停でバスを待っているとき、暑さに気を失った運転手のバスがブレーキを踏むことなく激突して、あっけなく絶命した。この人が生きているとき、おれはペットボトル入りの日本茶をなん度かご馳走になっている。「日本人はお茶が好きなのよね」そう言って砂糖入りの日本茶をくれたのだ。
 タイ人は、かんたんに死んでしまう。
 うちの奥さんには、ゲイの弟の他に、もうひとり弟がいた。ある日、頭が痛いと言って病院に行き、鎮痛剤を処方してもらって帰って来たのだが、この錠剤を飲んですぐ、「きゅう」というような小さな声を出して死んでしまったという。
「弟は、ちょっと変わった人で、タイ人には珍しく独りで居るのが好きな人だったの。本を読むのが好きで、歌のない音楽を聴くのも好きでした。あなたと同じ種類の人だったのです。家族とも、あまり話すことのない人で、話し相手はわたしだけだったのです。弟が亡くなってから、あなたとお付き合いをするようになったけれど、もう少し長く生きていてくれれば、弟はあなたのことを好きになっていたと思います」
 他のタイ人と同様に、この弟にも墓がない。命日になると、読経とともに、弟の名を書いた紙に火を点けて燃やす。会ったこともない義弟のために祈り、線香の煙が立ち上るのを見届けて、家路につく。

 そうだ。昔の歌だが、エノケンの歌に「知らない間に生まれ出て 知らない間に生きていて 知らない間に死んじゃった」てのがあったな、と思っていた。すげえ。知らない間に生まれ出て、いろいろあっても、知らない間に死んじゃうんだ。身も蓋もない。たしか風来坊とか、そんなタイトルだった筈だ。子供の頃からの記憶だ。間違うわけがない。だが、いろいろ検索してみても、そんな歌はなかった。
 ありそうな単語を矢鱈に打ち込んで、やっと出てきたのが、これだ。
 なんか思ってたのと違うな。もっとナンセンスな歌だと思っていたのに。記憶は、自分が望むように窯変していってしまう。
 
これが自由というものか〈とかくこの世は〉 榎本健一 + 歌詞

 どうもエノケンってのは過大評価されているような気がしてならない。ていうか作詞は三木鶏郎か。野坂昭如の師匠だった時期もあった人だね。知らない間に死んでないじゃん。まあ流行歌としてのナンセンスソングだから、重くならないようにしたってことか。会社の方針で削られたのかもしれないね。惜しいなあ。踏み込めよなぁ。遠慮せずに言い切らなくちゃ。
 しかし。身も蓋もないということなら、もっと遡って蜀山人がいたのだった。この人の辞世の歌が、凄い。さすが山東京伝を見いだして世に送り出した人だ。カミソリみたいな切れ味なんて目指してない。ナタか斧だ。
「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
 すげえ。これだよ。蜀山人先生、すげえわ。


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