もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

麺の道

2021年05月20日 18時38分55秒 | タイ歌謡
 昔からのタイのことわざで「饂飩一尺、蕎麦八寸」というのがあったような気がしたんだが、もしかしたら思い違いで、日本の都々逸か何かだったかもしれない。意味は書いてある通りで、たんに麺の長さのことだ。
 なんで饂飩のほうが長いのか。これは蕎麦粉を練ったものは小麦粉(饂飩)に比べて粘度が低くて折れやすいとか、いや、そうじゃなくて饂飩をよく食う西日本と蕎麦をよく食う東日本では鍋の大きさが違ったとか、いやいや、そうじゃなくて麺の喉越しの良さによる摩擦係数の問題で、摩擦係数の高いものは麺を短くしないと一息で啜りきれずに窒息してしまうとか、幾つも理由をでっち上げられるが、本当のところは知らない。
 そういえばカップヌードルの麺の長さは発売国によって違うというのは有名で、米国や欧州などへの製品は麺が短めになっているんだそうだ。これは「欧米では麺を啜る習慣がないから」との説明だったが、麺を啜るのは日本以外にどこかあるんだろうか。おれの知る限り、中国人もタイ人もラオス人もビルマ人も、基本的に麺なんか啜らない。たまーに啜る者がいないではないが、それはどう見ても教養とか社会的地位に大いに問題がありそうな者か、そういった家庭に育った者であって、ごく少数だった。いっぱんには麺を口に含み、全部は口に収まらないので、噛み切っている。
 おれも昔はふつうの日本人ぽく、ずるずると啜っていたのかもしれないが、あんまり記憶がない。ただ、うちの奥さんと食事をするようになってからは、音をたてないように食べている。
 タイの人も音をたてて麺を啜る音が不快だってのは知っていたから、そりゃ静かに食います。まだ煙草を吸っていた頃も、奥さんの前はもちろん、知らない人の前でも煙の匂いがする状況なら吸わなかった。ベランダとかテラスで独り吸った。これはあたりまえで、「バレーボールのオカマチームの試合後の靴下の芳醇な香りを再現しました。カプサイシンもたっぷりで、羆も撃退!」っていう強力な防犯スプレーを持ってても人前でシュー! って噴霧しないのと同じで、ふつうは迷惑だから、やらない。そんなことしてたら、なけなしのトモダチが散り散りに逃げてしまう。ましてや、こっちはビジターだった。頼まれもしないのにタイに来て、「おうおう。なーにをモソモソ食ってやがる。麺てのは啜るもんだ。べらぼうめ。ずるずる。ずるずると音がせり上がる程、豪快なんだよ。これが日本の侘び寂びってやつだ。悔改めよ」って啓蒙のつもりで大音量とともに麺を吸い込んだら、「何この野蛮で下品なひとは」って、タイ人たちを不快にさせるに決まってる。でも、臭いにしても音にしても、迷惑をかけぬ道を極めると家から出られなくなっちゃいそうだから、ほどほどにした方がいいんだろう。
 タイ料理を作るときも、料理によっては調理中にすんごい悪臭が立ち込めるものがある。出来上がった料理じたいは臭くないんだけどね。過程で凄いことになる料理が存在する。ナムプラーを使った料理なんかも加熱調理中は結構エゲツない臭いがするんだが、ガピと呼ばれる海老を発酵させた味噌状の調味料の比ではない。あれを使って中華鍋で炒めたのは凄いです。タイ人でさえも「ウワァーイ」とか「オォーイ」って逃げ惑う。タイ人って自分で料理する人は滅多にいないから、この悪臭を知らない人が多い。つうか、東南アジアの国々と同様にタイの家の中には台所がない場合が多いのだが、台所がある場合は外(ベランダなど)に台所があって、稀に室内に台所があるときは必ずと言っていいほど外にももう一つ台所がある。「何で2つ?」と思うんだが、これが理由だ。ガピを炒めると、臭いも凄いが煙もモウモウとすっごくて、それが数日間、壁や床や天井に染み付く。家具と衣服にも染み付く。誰かが歩いた拍子に、むはぁーと蘇る悪臭。外の台所で蚊に刺されてマラリアだのデング熱だのに冒されたくないばかりに不用意に中の台所を使ったらエライことになっちゃう。
 だから日本にあるタイ料理の店なんかも換気の具合で、近所から怒鳴り込まれることはよくある。某ホテルでも期間限定でタイ人シェフ呼んでタイ料理作らせたら、宿泊客から「くっさい!」ってクレーム続出だったとか。ただ、料理人はこれをそんなに臭いと思ってないから、悪臭を指摘されると「え? それはおれじゃないよ。おれの作る料理が臭いわけがなかろうもん」とデタラメな九州言葉で狼狽するかどうかは知らないが、多少は心当たりがあるもので、シドロモドロになる。そりゃそうだ。日本で臭い食い物といえば「くさや」なんだろうが、あれが食べたくても入手できないとき、アジの干物を買ってきて、それにナムプラーを塗ったものを乾かすということを2・3度繰り返すと、くさやの代替品になる。くさや好きの人に食べさせても気が付かないか、「ああ。こういうくさやなのね」と思うくらいだそうで、室内で焼くとエライことになると思う。
 話は、麺のずるずる音問題だった。おれは音をたてずに食うんだが、口に入りきらない麺を噛み切るのも、なんかみっともないような気がして、残りの麺は2~3回に分けて、手繰り込む。ひょいひょいと麺を口中に収納してると、うちの奥さんは、「あなたの麺の食べ方は綺麗だな」と感心しているから、これでいいんだろう。

「うるせー。日本人は音をたてて麺を食うんだよ。それが日本の文化なの」と、お嘆きの貴兄は、なるべく日本から出ないで麺を啜っていて欲しい。といっても、ずるずると麺を啜るのが日本の文化ってのは、あながち間違いでもないようだ。江戸時代に、麺と一緒に空気を啜ると香りが立つと、ワインのテイスティングみたいなことを言う文献もあるという。いや、戦国時代にはもうあります、などと「江戸ソバリエ石臼の会」なんて所が言っているというんだが、戦国時代は蕎麦切りと呼ばれる麺状に形成することは一般的ではなく、蕎麦掻きといって餅状のカタマリだったはずだ。ただ、江戸時代にはずるずると啜っていたという文献があっても、日本中全員がそうだったかどうか。
  あれは割と新しい作法というか手法で、昔の日本人は麺を食うにあたって音なんてたてない者が多かったのではないか。
 まえに書いたことのある父方の祖父だが、無免許医に成り果てたとはいえ、いちおうそれなりの育ちで教養もあったひとで、この爺様が苦々しげに「昔のひとは、そんな音をたてて麺を啜るような真似はしなかった」と言い、じっさいに音をたてずに麺を食っていたんだが、確かに、おれが若かった頃の日本の年寄りは、音をたてずに麺を食うひとが多かった。
 ラジオの落語が、ずるずる食いのきっかけだというのは、本で読んだ知識だ。なん度か、そういう記述を読んだことがあって、でも覚えているのは小林信彦の著作だってことだけだ。本のタイトルは憶えてない。小林信彦さんの本はだいたい殆ど読んでいるので、どれがどれやら見当もつかない。あと他の人の記述は、永六輔とか小沢昭一とか、あのへんの人だと思うんだが、確証がない。
 なるほど、ずるずる食いの拡大は、ラジオの落語で間違いあるまい。ラジオ以前の落語で寄席で麺を食う場面を演じるには仕草だけで伝わったがラジオでは、そうはいかない。なにか音声で伝えなければいけないのだが、ここで「ずるずる」が登場したのだろう。
 落語、とりわけ江戸前では「粋」ということにこだわる向きがあるにも関わらず、ずるずる。まあしょうがない。「おまえさんてぇものはアレだよ。蕎麦を本当に旨そうに食うねぇ。音をたてずに食うのも粋だねぇ」ってまどろっこしいし、伝わらない。それよりも「ずるずる」を選んじゃうのは想像に難くない。ただ、麺をつゆにどっぷり浸けるのは粋じゃない(蕎麦の香りが飛んじゃうから)とか「いっぺんにガサッと摘むんじゃねえ。蕎麦てぇのは一摘み二・三本でいいんだよ」とか言ってるんだから、音をたてるのは下品だってのも言ってほしかった。
 ただ、蕎麦についての粋ってのも、よくわからないことが多くて、たとえば「もり」なんかに山葵がついてくる。あれは蕎麦つゆの鰹出汁の生臭さを消すためだと思われる。で、「山葵はつゆに溶いちゃいけねぇ。つゆが濁っちまうだろ。蕎麦の麺に、ちょいと載せるんだ」てぇことを言ったりするんだけれど、そんなことしちゃ蕎麦の香りが飛んじゃうだろうが。つゆに溶いても溶かなくてもだ。だからおれは一味唐辛子で食ってるんだけど、もう、わかんない。それともアレか。「麺なんてのはオマケなの。あんなの蕎麦の香りなんて飛ばしちゃえばいいんだよ。つゆが命。山葵どぉーん。これよ」ってことか。ぜんぜんわかんない。それから、「もり」と「ざる」の違いが刻み海苔の有無だったりすることもあって、海苔があったほうが値段が高かったりして、わざわざ値段を高くして海苔で蕎麦の香りを消そうって料簡も謎だ。ごま蕎麦なんかもそうだね。

 ついては、十年くらいまえにもずるずる問題に思い当たり、インターネットを隈なく探したんだけど、日本でも昔は麺類を食うのに音をたてなかったっていうような記述は、どこにもなかった。だから、昔の日本人は静かに麺を食ったって話に「ソースは?」って訊かれたら、「おれだ」と言うしかなくて、ウィキペディアに載せるとき、参考文献として「もっとましな嘘をついてくれ」と明記しても情報源としては認められずに「要出典」をクリックされてしまうだろう。
 今回改めて探してみたら、ウィキペディアの「ヌードルハラスメント」の項で、ほんの少し触れられており、あ。おれだけじゃなかったんだと胸を撫で下ろした。
 あやふやではあるが、ここに書いておかないと、「日本人は麺をずるずると啜るもの」ということになってしまいそうなので、そうではない、ということをここに記して、電脳の海に流したいと思いました。
 まあ結論としては、日本国内に於いては好きなようにしろってことだ。ただ国外ではやらないほうが良い。「うっせー。おれはニホンジンなんだ。ずるずる啜らせろ」って言いたい人もいるだろうが、首狩り族の存在みたいなもので、首狩り族が楽しく首を狩っている日常にズカズカ踏み込んできて「悔い改めよ」って十字架見せられても大きなお世話なんだが、その首狩り族がよその国に出張って「首は狩るもんだ。ばーか」って主張しながら道行く人々の首を狩ったら、そりゃ逮捕されちゃう。わかり合えない問題ってのは、あるよね。

 あと、ついでに北海道弁だ。北海道弁というと、「なまら」ってのが代表的な北海道弁だと言われることがあって、ドラマなんかでも「とても」という意味で、なまらと言っているんだが、あれも生粋の北海道弁ではない、ということを申し添えておきたい。
 根本的に、生粋の北海道弁なんてものがあるのか、ということになると、その大半は津軽弁がベースになっているものが多いので、あんまり細かいことを言ってると、「そんなものは、ない」ということになってしまうんだが、じっさい今、普通に北海道弁として使われている方言というものはあって、それは津軽弁に比べて濁音の消滅とか、滑舌の良さが顕著で、とても類似の方言とは思えないんだが、文字に起こすと非常によく似たものであることがわかる。まあ、あんまりぐずぐず言ってると「うっせえ随筆老人だな」と言われてしまうだろうが、こないだ昭和三十年代の設定のドラマで「なまら」と言っていたのを見て「それは違うんでないかい」と思ったので、ついでに書いておく。
「なまら」は1970年代後半に、突如として北海道の高校・大学生に流行った当時の若者言葉で、元々は新潟の巻とか三条あたりで局地的に使われていた方言だ。「とても暑いですね」を、「なーまら、あっちぇれねー」という具合に言う。だから、たぶん新潟のあの辺りから入植してきた家のひとが「とても」の意味で「なまら」と言ったのが、「なんだそれ」って友人にでも受けて広まったんじゃないかと推測する。じっさい団塊のお年頃で、高校を卒業して東京あたりに定住した者は「なまら? そったら北海道弁、聞いたことないでや」って言う。
 ちょうど「なまら」が北海道の若者に広まった頃、同時に北海道の若者に流行ったものに、トレーナーの裏返し着、というものがあった。トレーナーって言い方もアレで、今はスェットと言ったほうが通じるんだろうが、それの裏返しだ。説明の必要はなく、文字通りトレーナーを裏返しに着るのだ。いったい、どういう理由かというと、「それがオシャレだべさ」ってことだったんだが、ほんとうに田舎者の考えることはわからない。「それに、裏返しに着ると、温かいもね」って言われて、その通りにしてみて「おー。ほんとだでや」とか言って、もう何がなんだか。オシャレはどこ行った。これは、コドモが「わかった! 手をグーにして走るよりも、こう、手をパーにしたほうが速く走れるぞ!」「おお! ほんとだ!」って言って全員掌を開いて走ってんのと同じ水準で、簡潔に言うと、ばかだ。
 あの部位はヨークといったか、つまり襟足の下の辺りだ。そこの内側に付いてるタグやネームは切り離してしまうんだが、理由は、裏返しに着たとき、そんなものが付いてるとオシャレじゃないからです。大学に入ってすぐにトレーナーを裏返しに着ている男がいて、北海道の出身ですかと訊くと、「なしてわかるのさ?」と質問に質問で訊き返されたんだが、半年経ってまた寒くなると、もうそんな奴は見かけなくなるだろうと思っていた。ところが、ばかというものは伝染るもので、爆発的ではなかったにせよ、東京でもトレーナーの裏返し着というのが一部の者たちに支持されて、1980年頃から東京でも一定数見られるようになった。東京で流行った頃には、タグを切らないのが良いということになり、ボートハウスというブランドのトレーナーを裏返すのがオシャレとか、もうどこまでも混迷の限りを尽くす勢いだった。

 東京でのトレーナー裏返しムーブメントと反比例するように北海道でのトレーナー裏返しは落ち着きを見せ、80年代に入ると、北海道ではそれまでトレーナーを裏返しに着なかった地味な若者が着始めるくらいで、大方の北海道の若者は「いや。これ、じつはカッコ良くないんでないかい」と気づき始め、徐々に「なかったこと」になっていった。夏には「E.YAZAWA」と書かれたTシャツを着るのが流行った頃だ。「なまら」と同様に、ヤザワのオトーサンのTシャツもまだ需要があるのは凄い。そういえば、あれは1979年だったか1980年だったか、新宿にパンツ(ズボンのほう)を買いに行ったとき、チャラい店員に「Tシャツもあるよ。ほら、どう? E.YAZAWA」と勧められ、いや、それは……と断ると、「わあ。きみ、音楽キライなんだぁ」と言われて暗澹というのは、こういう気分なのだなと思い至ったことがある。こういう人に「いや、おれバヨリンとか弾いちゃうし。しかも白く塗ってあるやつだぞ」とか言っても、もうムダだ。「えー、だってヤザワさんに興味ないとか」って半笑いでカテゴライズされちゃった時点で、もう一方的に勝負はついている。
 因みに矢沢永吉さんの歌はキライではないが、聴きたいと思う時は、あまりない。ただ、あのTシャツを着てタオルを首に掛けている人々は敵に近いと思っている。YOSAKOI関係者と同じ位置付けで、後ろから襲いかかったりはしないが、どうにかなってしまえばいいのに、くらいは思っている。

 麺の話に戻ろう。久しぶりにヤムママー(ยำมาม่า)という下世話なタイ料理を作ったら旨くて、ついでにタイの麺の事を考えたからだ。ヤムママーってのは、ママ-に代表されるタイのインスタントラーメン(この場合はトムヤム味)を使ったヤム(酸っぱ辛いサラダ)のことで、ラーメンスープの素は半量だけ使う。それに一人前あたりナムプラー大さじ1、ライム汁(レモン汁でも)大さじ1、砂糖少々を足し、唐辛子とパクチーを好みの量だけ投入。そこに茹でた挽肉、海老、イカ、ソーセージ(スライス)を和え、玉ねぎのスライス、レタス、トマト、セロリの葉など、そして茹でた麺を加えて和えたものだ。いち度に二人前は作るから、作る毎にラーメンスープの素が溜まっていく。この素をメルカリで売るのも面倒(冗談ではなくメルカリでは使わなかった焼きそばの粉ソースや納豆のタレ、カラシの小袋等が売られていて、その購買層の底知れなさに気圧される)なので、普通の北海道ラーメンの茹で麺で作ってみたら、これがまた旨い。もういち度言うが、とても下世話な料理だ。レストランでは、まずお目にかかれない。屋台料理だ。興味のある方は「ヤムママー」で検索されたし。日本語でレシピが、ぞろぞろ出てくる。あんまり詳しく説明してもね。男のくせに料理の細かいことを言う奴はキライなんだ。おれはもう散々言ってるけど。
 で、タイのインスタント麺なんだが、基本は中華麺で、細麺でコシの強いものが多い。日本の麺に比べて、伸びるのが遅いというのは、タイに住む日本人にはよく言われることだった。
 ところでタイにはバミーっていうラーメンに似た麺料理があって、タイで日本人がラーメンを作りたくなったら、この麺を買ってくればラーメンに近いものができる。
 バミー。潮州語で肉麺と書いてバミーと読むのだ、とヤワラーッ(中華街)の老人に聞いたことがある。ググったら、福建語だとか広東語で肉麺のことなどと書いてあって、いや広東語なら「じゅっみん」だろうと思うので、福建語とか潮州語なんだろう。そういえばマレー・インドネシア語圏でも中華麺の料理をバミーと呼ぶね。あの辺も潮州人が多いから。あ。いや。福建風なら、わざわざ別の呼び方してるな。マレー・インドネシア語圏なら「ホッケンミー(福建麺)」って言うし、タイ語でも「バミー・ホッキャン(บะหมี่ฮกเกี้ยน - 福建麺)」だ。てことは、やっぱりバミーってのは潮州のものなのかもしれない。
 タイのバミーってのは、細めの玉子麺です。卵を別にすると、成分は日本のラーメンの麺に酷似している。
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 この動画が基本のタイの中華麺と言っていい。
素材は:万能小麦粉(薄力粉)250g
ベーキングソーダ(重曹)小さじ1/4
食塩小さじ1/4
鶏卵1個+水(合わせて115g)
小麦粉(打ち粉として)適宜
 といったところだ。北海道のサッポロラーメンなんかに使われる玉子麺に近い。重曹はベーキングパウダーの「ふくらし粉」としての目的ではなく、「かん水」としてアルカリ性のものを入れてコシを出すわけだ。かん水が中華麺の決め手で、かん水がないと、単なるうどん類だ。だから中華文化圏ではない国に住んで中華麺が恋しくなったら、素麺やカッペリーニ、バーミセリ辺りを茹でる時に重曹を溶かした湯で茹でると鹹水使用独特のコシとヌメリが出て、中華麺ぽくなる。
 中華麺のレシピに戻ろう。ここでは薄力粉を使っているけれど、細かいことを言えば、普通は中力粉や強力粉を使うことのほうが多い。まあ手打ちでグルテンの多い粉を使うと疲れちゃうから薄力粉でいいか、ってことなんだろうが、本職は機械で練ってるんで薄力粉なんか使わない。それどころかタイの中華麺にはタピオカ粉を添加することが多い。タピオカ粉はグルテンを含まないけれど、独特の歯ごたえとモチモチした食感が出るので、タイの中華麺には高確率で含まれる。そういえば日本の「丸亀製麺」の饂飩にもタピオカが練り込まれているのは周知の事実。冷凍うどんのコシの正体もタピオカ澱粉だったね。讃岐饂飩原理主義者に言わせると、タピオカを使うのは邪道だそうだが、どうでもいいじゃねぇか。そんなこと。
 あとは好みで全粒粉を混ぜたり、法蓮草なんかをミキサーにかけた水で練り込んだりすると翡翠麺という緑の麺(バミーヨック - บะหมี่หยก)になる。中国南部で見かける麺で、肉麺同様にタイでも見られるけど、タイに渡るとどういうわけかタイスキの店の家鴨のローストの付け合せとして出てくることが多くて、これの汁麺を出す店は滅多にない。旨いんだけどね。

 タイの中華麺は、インスタントラーメンの揚げ麺でもタピオカ含有してます。だから伸び難いのかな。加水率も35%前後と、中華麺の標準で練ったあとに揚げて水分を飛ばす。タイは中華麺をどこでもタダみたいに安く売ってるから、自分で打とうなんて思わなくていい。
  タイのバミーのスープは簡単なのが多くて、日本のラーメンに比べると淡白だ。豚骨のスープか鶏肉のスープが一般的かな。豚骨といっても九州なんかの白濁した豚骨じゃなくて、サッポロラーメンが発祥と聞くが、豚骨から煮出した澄んだスープです。スープ作りの基本だが、蓋をせずに弱火で煮ると澄んだスープになる。九州風が良いなら、強火で蓋をして煮込めばいい。圧力鍋で煮込む店もあるくらいで、こうすると濃厚だけれど、臭いが凄い。中華にしても和食にしても、蓋をして煮込むってのは、やっちゃいけないスープの取り方なんだが、ラーメン屋をやる人はきちんとした料理の基礎がない人が多いんで、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。あ。あとタイのバミーのスープを取るのに「豚の皮」を使うこともよくあって、これは日本人の知らない方法だ。たしかに三枚肉なんかでも豚の皮がついていたほうが遥かに旨い(コラーゲンとか?)んだが、三枚肉の皮付きは毛が生えたままで、グロいです。調理まえの下拵えで毛抜きで毛を抜いてると、なんか悲しい気持ちになるんだよね。いち度うちの奥さんに頼んだら「えー。やだ。気持ち悪いから」って断られた。あー。そういえばタイでは豚の皮をひと口大に切って揚げたのをよく売ってて、バミーのトッピングにしたり、おやつでそのままポリポリ食ったりしてる。あれは出し殻の豚皮かもしれない。どうしたらあんなに柔らかくなるのか不思議だったんだけど、出し殻なら柔らかい筈だ。
 スープを取るのに豚肉を使わないのは日本と同じで、臭いからだと思う。豚の角煮のとき、豚をじっくり茹でた汁なんだけど、「これ旨いんじゃないかな」って思いながら捨てるでしょ。あんなものケモノ臭くてスープになんかできない。

 鶏のスープの場合、鶏ガラを使うことよりも、胸肉なんかを水から茹でることのほうが多い。肉は切って使えるから骨に比べてムダがないってことなのか。鶏ベースでも豚骨ベースでも共通するのは、野菜。玉ねぎやニンニクの他に白菜もクタクタに煮込むんだけど、日本と決定的に違うのは、セロリとパクチーの根も煮込まれることかな。これに、砂糖が入る。あと、マギーなんかのスープの素で味を整えてる。スープにスープの素? と思うんだが、プロの店でも高い確率でスープの素や味の素を躊躇も億面もなく使ってます。
「だって美味しくなるんだよ。使うだろ」ってことらしい。
 で、これを食べるとタイ料理なのに淡白だけど、旨い。ガイドブックなんかにも淡白って書いてあるのを読んだことがあるんだが、ちょっと周りを見渡してほしい。バミー屋の客で、そのまま食べてる奴なんかいないことに気付く。そう。テーブルの上にはナムプラーやよくわからない調味料が置かれていて、片仮名ではクルアンポンと表記されることが多いんだがタイ文字だとเครื่องปรุง。タイ人はそれをけっこう豪快にドバドバ投入している。

 一般にバミー屋に置いてある調味料は①ナムプラー、②唐辛子、③砂糖、④酢漬け唐辛子、⑤砕いたピーナツ、なんかで、見様見真似で適当に入れてみたことがあるが、旨くない。だから、あれに関しては諦めていたというか、関係ないものとして意識にも上らなかったのだが、タイ人と暮らすようになって、「これ、わかんないんだよね。使い方が」って言ったら、「えー。簡単だよ」って、てきぱきと調合してくれたんだけど、あれはタイ人にやってもらうと旨い。びっくりした。
 あの調味料の調合は、自宅でタイのインスタントラーメンを食べるときにも発動されて、これも奥さんにやってもらうと旨い。が、味が濃すぎる。身体に悪そうなジャンク感がたまらないんだが、あれは野菜を入れたり味玉をあしらったりしたくなっても、余計なことをしないほうが良い。プレーンで食べたほうが旨いように思う。加えるとしたら調味料だけのほうが良いんじゃないか、と言うと、うちの奥さんがにやり、と笑って「あなたタイ人みたいなことを言うのね」と褒められた。タイ人も、そう思ってるのか。
 いや、でもCMでは野菜を入れたりしてるから、うちの奥さんの周辺のタイ人限定かもしれない。まあ好きに食えってことだよな。

[ PERFORMANCE CLIP ] HIDDEN TRACK - TRINITY | RETRO COVER BY INC + BAMEE PRETZELLE
 さて、今回の曲は歌っているのがバミー・プレッツェルというふざけた名前の女の子で、だから選んでみただけです。まあイマ風でいいんじゃないか。歌詞はどうってことないみたいだから訳さない。面倒くさいからね。

 それよりも最近聴いて唸ったのが筒美京平先生の曲で、1972年の作品だ。筒美先生の初期の作品だけど、先生のデビューは1966年。いしだあゆみの歌うブルーライトヨコハマは1968年末のリリースで、やっぱり天才だ。
 この曲は当時夫婦だった「つなき&みどり」の歌で、田代みどりさんの歌が当時で言う「パンチの効いた」歌だ。しばたはつみさんなんかも「パンチの効いた」系の歌手で、あのひとはデビューが早くて、この頃だと「はつみかんな」名義で歌っていたのではないか。はつみかんなでググると、名曲「恋のタッチ・アンド・ゴー」なんて動画も見られるんだが、これも橋本淳・筒美京平コンビであるにも関わらずWikipediaの筒美京平先生の作品リストに漏れてますね。まあ、あんまりヒットしてないから、しょうがないか。
 で、この「愛の挽歌」も大ヒットとは言い難く、最高順位で15位だから、そこそこです。それでも当時、この歌を聴いて、小学6年生のおれは、「うっはー! かっこいい!」と思ったのをよく覚えている。テーマの7小節目の「声かけられて」の歌詞の後に2度放り込まれるラの音が、すっげえカッコいい。キーはDmで、だから一瞬5度のテンションか? と思うんだが、これが違う。そんな小細工じゃなかった。Amです。サブドミナントコードをこんな所で放ってくるってどうなのよ。サブドミナントって言われてもアレかもしれないが、たとえば12小節ブルーズって、起承転結の結が後回しで、「起・承・転・起・承・転……」と際限なく繰り返すんだが、その「転」の部分に使われる和音です。それを、それを、こんな所に持ってくる! 今聴いても新しい。もう50年もまえの曲なのかぁ。歳取るわけだな。
Ai No Banka
 あ。でも、これぜんぜんタイ歌謡じゃないな。まあ気にしないが。
 歌詞だって、「安い真珠の指輪を 愛の証に贈られ いまさら あとへは引けない 夢が夢が夢がある」って所なんか、もうどっぷり昭和の歌謡曲だね。心情とストーリーが交差する感じ。あの頃ならでは。編曲も良い。感心したのはドラムスで、かなり巧い。そうとう巧い。たぶん田中清司さんの演奏じゃないかと思うんだが、クレジットが残ってなくて不明です。
 この頃の昭和歌謡には侮れない名曲が多いんだが、理由は簡単で、筒美京平・橋本淳コンビと、都倉俊一・阿久悠コンビがいて、馬飼野康二がいたからだ。1970-80年代を生きた日本人は、この点に関しては良い時代を過ごしたと思う。
←なぜローマ字表記なのか。意味がわからん。
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