もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

恐山銀糸四重奏団

2021年06月18日 21時02分26秒 | タイ歌謡
 つま先で床を鳴らす。固い草履が床に触れ、乾いた音が響く。
 こつ、こつ。ノックで誰かを呼び出すように一、二拍目をカウントした。三、四拍目は必要ない。メンバーのイメージの中で鳴っているからだ。
 テナーサックスを振り上げる。そして振り下ろされたと同時に、いっせいに音が炸裂した。
 サックスの音。バスドラムとハイハット。ベースのうねり。そして、半拍遅れてウラに回ったピアノのブロックコード。
 演奏の始まりだ。
 半端な音じゃない。
 凶暴なサウンド。でも、その中には、ひとの持つ感情が、ほぼ盛り込まれているように思えた。たとえば悲しみ。たとえば怒り。たとえば喜び。嘘も真実もあった。そして愛も。
 ジョン・コルトレーンばり、なんてもんじゃない。
 コルトレーンよりも、すごいサックスなんじゃないのか。
 ドラムスなんて、大変だ。エルヴィン・ジョーンズそのものだ。
 太いベースの音も、ジミー・ギャリスンと同じじゃないか。
 そして、こんなピアノを弾く人間がマッコイ・タイナーの他にいるなんて。
 青森県のはずれ。ちょっと辺鄙な土地で、超一級の演奏が繰り広げられている。
 バンドのメンバーは、四人とも老女だった。
 全員が七十歳くらいだろうか。
 失礼を承知で言えば、見た目はヘンな老婆だった。四人とも、真っ黒のサングラスをかけている。けっしてオシャレではない。むしろ、野暮ったいと言っていい。
 それなのに、こんな高度なモード手法の音解釈で、空腹の野獣のように暴れ回るドラミングに乗せて、宝石や爆弾みたいな音をちりばめていく。
 信じられないような演奏。
 でも、嘘じゃない。じっさいに、ここにはその音がある。聴けば、わかる。
 この楽団の老婆たちの本業は、バンドマンなんかじゃない。それどころか、楽器を触ったのも、四人ともさいきんのことだった。
 彼女たちの本業は、イタコだ。口寄せという降霊術みたいなことを行う。下北半島の恐山に行けば、彼女たちに会える。
  イタコは、死んだひとの霊魂を呼び寄せ、じぶんの中に取り込み、そして彼岸からのメッセージを伝える。インチキなイタコは、「寒い。暗い。苦しい」みたいなことばかり言って生計を立てているのだが、ホンモノのイタコだと、当事者しか知らないようなことまで言い当てて、亡くなったひとのことばを伝えるという。

 去年の十月のことだ。恐山秋詣りの最終日、ひとりの若い男がオートバイに乗って現れた。首にはペイズリー柄のバンダナを巻き、背中にはテナーサックスのケースを背負っていた。昭和が憑依したような時代錯誤の大学生だった。
 恐山に来て、評判どおりの口寄せを目の当たりにし、もうすぐ自分の番が近づいてきたところで、はたと気がついた。
 誰を呼び出せば良いんだ? 
 家族は全員、生きている。そういえば、生まれてこのかた葬式に参列したこともないのだった。だけれども、せっかくここまで来て引き返すのも業腹というか、もったいないじゃんか。
 そうだ。コルトレーンだ。ジョン・コルトレーンを呼び出してもらおう。いちばん好きなジャズマンだもの。
 これは良い考えだ。
 イタコと対面して、高らかに答えた。「名前はジョン・ウイリアム・コルトレーン。命日は一九六七年七月十七日。関係? えーと、非常に尊敬してるひとです」
 イタコは小さく頷いて桃の木を握りしめ、コルトレーンのタマシイを呼び寄せた。
「はい。コルトレーンっす」
 訛ってんじゃん。ガイジンなのに。男の後ろに並んでいた女子大生が心の中で思ったけれど、彼は不思議に思う余裕がなかった。老婆の顔が、心なしかコルトレーンに似てきたからだ。
「あのう」男はコルトレーンに訊いた。「どうですか、そっちの世界は。満ち足りていますか。何か足りないものとか、ないですか」
「んー」コルトレーンは言った。「そう、ないっす」
 うわあ。So nice.だって。そうだよな。英語だよな。アメリカ人だもの。まいったな。おれ、英語苦手なんだよな。困っちゃったな。訊きたいことも考えてなかったし。
 あ。そうだ。
 ケースから楽器を取り出した。
「これ」テナーサックスを差し出した。「これを吹いてください。今のメッセージ。プリーズ テル ミー」
 イタコは桃の木を傍らに立てかけると、静かに下唇を巻き込んでマウスピースを咥え、素早く息を吸い込み、ロングトーンを絞り出した。
 ぎぼーっ、というフラジオレット音。単音ではなく、倍音を同時に鳴らす奏法だ。
 うわあ! コルトレーンだ。コルトレーンの音だ。
 ぱらららたぱらぱ、たいぱらぱらた、ぱたらいたぱたらいた、ぱらたいぱ、ぱらたいら。
 すげえ! 指が目まぐるしく動き回り、音の絨毯と呼ばれたコルトレーンのカデンツァが始まった。
 たぱらぱたいやぱらぱ、ぱらりぱられぱいやたらりり、さぱたいぱら、たいぱさらぱら……。
 言い足りなかったんだ。生きている間に言い残したことが、たくさんあったんだ。
 さぱたいぱさぱたいぱ、ぱらさいたぱらぴら、すぱらいぱたぱらいぱ、すぴぱらぷりぱー。
 ジャズが、生きていた。いや、生きていたころのジャズってことか。よくわからない。どっちでもいい。とにかく、音は生きている。死んだひとの、生きている音。
 ぱーぱらぷるぱり、ぴたらぷぅぱらぱらぽー。んぱらさいぱら、とりさぱらたいぱぁー。
 男は、泣いた。感動のあまり、そこに居合わせたひとびとのすべてが泣いた。森の木々たちも立ったまま泣いた。狸も泣いた。口寄せ料として支払った三千円の紙幣に描かれた三人の野口英世も泣いた。木漏れ日も風も泣いた。バス停の斜め向かいの雑貨屋で丸くなっていた猫も泣いた。
   んとっとぴ。ばららすぱびらぱ、すぅぱらさいやぱらぼ、ぶららびららばいたぶら、ぶぅばらばびぼー。
 長い長いカデンツァだった。最後の音をB♭のロングトーンで、息の続く限り吹いた。音は消滅したが、十本の指はまだ力を抜いてはいなかった。
 誰もが、老婆を見つめていた。
 そして、老婆はマウスピースを口から離し、ゆっくりと楽器を膝の上にのせて、静かにお辞儀をした。
 みんながいっせいに、それまで詰めていた息をふうぅー、と吐き出すのだった。誰かが拍手をすると、直流の電撃に触れたように、すべてのひとたちが力を込めて拍手する。とても長い拍手。
 おー、いえー。
 おー、いやー。
「すごい」男は、コルトレーンの手を取って、握りしめた。「素晴らしい演奏でしたよ」
「済いねが、兄っちゃ」男の手を握り返して、イタコが言った。「こい、けろじゃ」
「はい?」意味がわからない。男は訊き返した。
「わいー、めわぐだのー」老婆は微笑んで、素早くサックスをしまった。「うだであずましい音するはんで」
「……!」おいおいおいおい。持ってっちゃうのかよ。それ、高かったんだよぉ。んー。でも、凄い音だったしな。俺が持ってるより、この婆さんが持ってるほうが、楽器もシアワセかもしれないな。そうだよな。サックス、おれ、向いてないみたいだし。こんなに凄い演奏を聴かせてもらって三千円ってのも違うよな。とてもじゃないが値段をつけられるような演奏じゃなかったもんな。うん。サックスは、もういい。バイトしてトランペット買おう。これからは、マイルズだ。「これ、楽器のケース。これもあげます。あと、ストラップ。これで楽器を首から下げると、ラクだから」

 その夜、老婆はイタコ仲間を集め、もういちどコルトレーンを呼び寄せてサックスを吹いた。イタコ仲間たちは、手を叩いて喜んだ。
 コルトレーンは言った。「I need some playmates.(仲間が必要なんだよ)」
「わんつかばし待ってけろ」イタコのひとりが言った。「通訳ば呼ばってはぁ、話ば聞かすばってら」通訳だった者を降霊する。
 なるほどなるほど。ジャズをやるのに、ドラムスとベースと、ピアノのメンバーが欲しいわけだ。ドラムスにはエルヴィン・ジョーンズ。ベースにはジミー・ギャリスン。どちらも故人だ。呼び出すのに訳はない。
「したばって」コルトレーンは言う。「ピアノんマッゴイ・タイナーな。あいづ、まんだ生ぎでらのせ」
 イタコたちは、ふふふと笑った。彼女たちが呼び寄せるのは、故人の霊だけじゃない。生きているひとだってオーケーだ。そのひとが眠っている時間なら、もっとかんたん。
「おー、いえー」コルトレーンは指を鳴らした。「あれぁニューヨーグさ住んでらのでねが。こっちのばげ(夜)は、向ごうの昼間だべぉん。間違いなぐ寝でら。昼間さ起ぎでらジャズ屋なんて、イモが鯖だじゃ」
「せば」いちばん背の高いイタコが言った。「さんじゃらっと見でくるはんでろ」
 ぐったりと、静かになった。と思ったのも束の間。
「おんろー」戻ってきた。「マッゴイさんだば、いっつが亡ぐなっでたんず。2020年だど」
「わいー。死んでらのだが」
「んだ。もう、ずっぱど。去年がら」
「朝からばげまで?」
「ずーっぱど」
「わわわわ」
「ほんだば」痩せたイタコが手を打った。「なぁんも問題ねじゃ」
 メンバーは、そろった。楽器はどうするんだ。
「そっだこと」もの識りで有名な男の霊を呼びだした。「むつ市内のライヴハウスに行げば楽器だばあんだびょん」
 んだんずか。
「んだば」コルトレーンが立ち上がった。
「へば」他のメンバーも、立ち上がった。

 深夜。ライヴハウスのマスターの驚きようは尋常ではなかった。「わいは。どんだんず。婆ちゃ、どしたんずや」とにかく、驚いたのね。だって、四人の盲目のイタコたちが勇ましく闖入してきたのだ。
 和服の帯にドラム・スティックとブラシやマレットを何本も差している老婆にも驚いたが、他のひとりは首のストラップから金色に輝くテナーサックスを吊していた。しかもオクターヴ・キーにはSの文字が。
「おおお。セルマーでねが」したけど、なして婆ちゃがセルマーば持っでらべが。ばって、そっだごとより、どってんしだんは、はぁ、婆ちゃが四人そろってまんず英語がめぇんだ。スラングつうんだべが、なもかも流暢で笑わさっでまねじゃ。したって婆ちゃだよぉ。なして英語だべか。まんずわがんねべぉん。
  マスターの混乱をよそに、老婆たちは店の音響機器を調べだした。やはり英語で。ただ、少し時代遅れのスラングではあった。
「Hey! It's slammin' man」「Kick ass!」「Oh! That bitches caked up for real」「Damn!」
 常連客たちも驚いた。おいおい。英語の達者なイタコさんだよ。それに、なんでドラム・スティックやらサックスなんか持ってるんだ。
 週末ではないので、ステージにはバンドの出演がなく、インターネットのストリーミングで低くジャズが流れていた。老婆たちは構うことなくステージに上がり、てきぱきとセッティングをはじめるのだった。
「済みねが」老婆のひとりが、マスターに言った。「音ば消してけろじゃ」
「あ。はい」少し冷静になって標準語に戻っていたマスターは、ききわけが良かった。アンプのボリュームを絞り、スイッチを切る。
「Give me A(ラの音をちょうだい)」「Sure(あいよ)」ピアノの音。四百四十ヘルツ。チューニングが短時間で行われた。
 店の明かりが落ちて、ステージにスポットが当たった。
 はじまりだ。

 ど、どん、と草履を滑らせバスドラムを鳴らすのと同時に、スネアドラムが、ずだだん、と叩かれた。すぐにハイハットとシンバルが、しきちん、ちんちきちきちん、しゅちーん、と追いかける。
 すげえな、おい。マスターも、常連客も息を飲んだ。
 ドラムに張られた皮の表面だけが鳴っている音ではなかった。太鼓の中の空気が押しつけられ、そして暴れている。そしてシンバルが切り裂く金属音。
「エルヴィン・ジョーンズ」サックスを下げた老婆が、マイクを口にあてた。「オン・ドラムス」ずどどん、しゅきちん、だん。ずだん。細分化されたパルスが押し寄せる。フォービート。
 へぇーっへっへ。くぐもった声で笑いながら、ベースが音を滑り込ませる。ぼぼんばんばーぼん、ずぅーどぅーばぼぼん、ずびどぅん、ぼーばぼ、ばーばーずばぼん。うねってる。音が太く、乾いて、正確なリズムで、うねってる。左手は手袋、軍手に包まれていたが、違和感はなかった。老婆に軍手は、よく似合うかというと、必ずしもそうではないのだが、この老婆は軍手が似合うタイプの老婆だった。なぜそんなことをしているかというと、左手の指先の保護だ。さすがにウッドベースに触れたことのない者が、これを演奏しようとすると、たちまち血豆だらけになってしまう。呼び出した魂はベースに慣れていても、老婆の身体はベースに慣れていない。ただ、野良仕事で基礎体力はあるから、握力もあって掌が厚く、弦を押さえたりするのは問題なく、その指先から導かれたのは密度の濃い、太い音だった。四人の中でも、図抜けて背の高い老婆がいて、彼女がベース担当だ。ひどく背が低かったり、背骨が曲がっていたりするとベースは構えられない。フォービートの4拍目の音の選び方に知性のあるベースだった。4拍目の音は、次のコードに繋がる経過音だが、無難な経過音よりも、はっきりとした主張と断定があって、何ていうか目的地に向かって胸を張っているような音で、気持ちがいい。
「ジミー・ギャリスン」ばがーん、ばがーん。単音ではなく、複数の弦を5度和音で掻き鳴らした。「オン・ベース」
 そして、もうひとり増える。左手でシングルトーンを放り、右手の指でメロディーを奏でる。「マッコイ・タイナー。オン・ピアノ」
 ぽろぱろーん。んたぴらころぽろーん。
 リズムセクションがそろった。ひとコーラス終わったところで、ドラムスがフィルインして、サックスを誘う。しかし、乗ってこない。ピアノが美しい旋律を乗せ、ピアノのソロに入るのだと思ったときだ。サビの部分から小節のアタマを食い気味に、サックスが躍り込んできた。
 ぷわぁー、ぱら、ぴーらら、ぱーららぱ。
 うおぉー。総毛立った。こんな演奏、聴いたことがないぞ。
 次々と音が生まれていく。その数だけ、音が消えていく。
 なんて贅沢なんだ。
 青森の下北半島じゃ、いま、こんなことになってるんだよ。
 早く行って、聴いてごらん。


 と、まあ、ぜんぶ作り話です。
 津軽弁が書きたかったので、書いてみた。
 おれの津軽弁は、北海道弁が元になっている。北海道弁の殆どは津軽弁が元になっていて、それを逆に辿って津軽弁に行けないかと思って始めた手法だから、当然違うこともある。
 北海道民もが信じて疑わないことが多いのだが、「しばれる(凍る・冷える)」「はんかくさい(愚かな)」「あずましくない(快適でない)」などは純正北海道弁だと思い込まれがちだ。元は津軽弁だと言うと驚くし、少し嫌がる。「あずましい」は北海道では否定形で使われることが多いが津軽弁では肯定的に使われるのも面白い。
 たとえば「とても驚く」を、「たんげ、とくらがる」と言うのは知識では知っているが、おれの北海道弁にはそんな言い方は反映されてない。「とても」は、「わや、がっぱど、うだで」あたりのほうがしっくりくるし、「驚く」は「どってん」以外に何があるというのか。
ところで、「とても」の意味で使う「わや」は上方で使う「わややがな」の「わや(ダメ・めちゃくちゃ)」とはニュアンスが違い、アクセントも上方方言が「わ」にあるところを、津軽・北海道弁では平坦あるいは「や」にアクセントが付く。「ダメ・めちゃくちゃ」の意味もあり、「わやにわやだ」と言えば「とてもダメだ」という意味になる。
 上方の言葉と共通する言い回しには「なんぼ」もあって、意味も「幾ら」と上方と同じで値段を訊くときや「なんぼ何でも」みたいに使う。これは最近になって関西から伝わった言い方というわけではなく、中国地方や九州でも使われるから、全国的に生き残ったんだろう。
 罵倒語の「ほんじなし」あるいは「ほんずなす」「へでなし」は「臍(ほぞ)なし」から来たもので、北東北で多く使われるが、遥か遠く飛んで熊本や宮崎でも使われる。これは京都を中心に(ちょっと昔までは京都が日本の中心だったでしょ)同心円状に語彙が伝播していく法則にも適っている。近畿や関東では廃れてしまった言い方なのだ。また、津軽弁の「うだで」は古語の「うたて」に濁音がついたもので、古今和歌集の「散ると見て あるべきものを 梅の花 うたて匂ひの 袖にとまれる」の「うたて」と同じだ。何故この語が津軽だけに生き残ったのか。これも不思議なことではある。「りんごっコだばうだでいいかまりだじゃ(林檎はとても良い香りです)」みたいに使う。美しい言葉だよなあ。
 津軽弁を学習したのは、ここ十数年まえからで、タイ語を元にラオ語を判読し、イサーン語やラーンナー語と言われる北タイ語を類推しながら覚えた経験から、「津軽弁も行けるんじゃない?」と思ったからだ。ただ、北海道民なら誰でもオーケーかというと、そうでもなくて、北海道沿岸部の「浜弁」と呼ばれる訛りのキツイ北海道弁を理解できないと、津軽弁を引っ張り出すことはできない。じっさい、もう若い者だと沿岸部でもそう訛っていないし、浜弁を操るのは老人だけだから、この方法もおれが最後の世代かもしれない。もっとも、以前青森のガソリンスタンドで「あんぶら満タンに、へでけ(ガソリンを満タンに入れてください)」って言ったら、おれのクルマのナンバープレート見て「あー北海道か。いまどぎ、そっだに訛るふとは、いねはんで」って苦笑いされたから、津軽弁じたいが絶滅の危機にさらされているのかもしれない。
 そういえば十和田だったか、どこかの峠を走っていたら、峠の店で瓶詰めの蛭(ヒル)を売っていて、店の人に「これがあの、イボ痔に食らいつかせてイボ痔治療させるという蛭ですか!」と訊いたら、店主がすっごく嬉しそうに「んだっきゃ!」って答えてくれて、そうかー、これが、と写真撮ったりしたんだが、あとから人に訊いたら「なに言っでら。あれは肩こりなんかの悪い血を吸わせる民間療法で、蛭の持つ抗凝血物質の分泌が血行を改善するとか言うんだばって、やめといた方がいいでば」と言われて、なんだそうだったのかと納得した。店主は「蛭、いらない」と言うと残念そうで、安くするが、どうか、と食い下がっていた。蛭は嫌いだ。ネパールは木の上からバラバラ落ちてくる蛭と、トラが怖い、と言ったら、「そんな所行ってんじゃねえよ」って怒られたんだが、なるほど行かなきゃいいのかと思った次第だ。そりゃ尤もだ。イボ痔は、いち度なったことがあって、でも、なんとか舌下錠ってのを薬局で買って舐めたら一発で治った。あれは凄い。

津軽弁でジャズ
 日本ジャズヴォーカルの至宝、伊藤君子さんだ。スイングジャーナル誌の人気投票では1988〜96年の女性ヴォーカリスト部門第1位を獲得。米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門の16位にチャート・インしたのが最高記録で、どうもアメリカンな人々には君子さんの良さがわからないみたいだ。ジャズ歌手としてデビューしたのが36歳のとき。もともとは演歌歌手だったはずなんだが、プロフィールからは消えている。売出しの邪魔だったかもしれんが、もう74歳だからね。べつにいいと思う。たしかジャズ界のサマジイ達からは「ペコ」って呼ばれて可愛がられていたけど、もう、そう呼ばれてはいないのかもしれない。
 聴けばわかるね。歌がおそろしく巧い。
 しかし何で津軽弁なんだ? キワモノかな。そう思って聴いてみたら、これが凄い。
 どってんしたじゃ。
 いや、ちょっと待て。そもそも伊藤君子さんは津軽の女だっけ? あー。小豆島か。オリーブが有名だったな。温暖な西の女じゃねえか。
 まあアレだ。この人の耳の良さをナメてはいけないってことだ。津軽の女かと思うくらいに習得して熟達してる。でもそれだけじゃない。「津軽弁じょんずだじゃ」って褒められて終わりの話じゃない。
 これは、制約に飛び込んだな。
 俳句に17文字、って制限があるでしょ。おまけに季語を入れろとか。やってられっかよ。おれは自由律に行くぞ、いやもう散文行っちゃう、ってのもアリなんだけど、制約を守って、その中で「いや、もっと自由になれるだろ」って戦うひとがいて、それは壮絶なわけです。それなのに季語は「へちま」だったりして、ヘチマだのチョーチンだの、そんなものを武器に壮絶に戦うこともできるのだった。いや提灯は知らんが。
 伊藤君子さんは長いこと英語で歌ってて、それはもちろんネイティヴではないから、とうぜん制約に縛られる。はずだった。しかし長年歌っていると、その中でどんどん自由になってしまう。自由になることは悪いことではなく、それは円熟と言っていいんだろうが、制約と戦うスリルに似たものは薄くなる。そこで津軽弁だ。新たな制約。それなのに自家薬籠中の物にしていまう。だから伊藤君子さんが津軽の女ではないほうがいいのだ。
 津軽のひとが津軽弁で歌うのは、これは当然のことなので何の問題もない。三上寛や伊奈かっぺいが津軽弁で歌ったら、良いよね。ただネイティヴでない伊藤君子さんが歌うとなれば、アプローチが違う。津軽弁の持つ制約も攻撃力も理解してるし、そのうえそれを使いこなす実力もある。稀代の勇者が伝説の秘剣を手に入れたようなもので、向かうところ敵なしだ。矢野顕子さんが鹿児島弁で歌うくらいじゃないと対抗できないのではないか。
 さて、曲はミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の中の曲で「My favorite things」だ。リチャード・ロジャースの作曲したワルツなんだが、映画では雷を怖がる子どもたちが家庭教師の部屋に逃げ込んできたときに元気づけに歌って聴かせるものだが、これがいきなりマイナー楽曲だ。キーはEm。最初の4小節がE。次にCm7を4小節。A7→D7→Gm7→Cm7と、順調に来るんだが、15小節目でいきなりG♭7(♭5)という荒業を放り込んでくる。マイナーノートではあっても素直に好きなものを積み重ねていたと思いきや、一気に不穏当な音になるせいで、これまでの積み重ねまでが凄みを帯びてしまう。コルトレーンなんかは、この曲をモード解釈でエオリアン(ラシドレミファソ)の旋法とし、中東風のモードを与えて凶暴な狂気を引き出してしまった。それというのもリチャード・ロジャースが15小節目で放った減5度のテンションのせいだ。
 まったくリチャード・ロジャースってのは天才で、このミュージカルもそうだが、オスカー・ハマースタイン2世とのコンビで、34のトニー賞、1つのアカデミー賞を獲得している。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」と「ブルームーン」も、この人の作曲だ。
 で、津軽弁の歌詞は英語の詩にけっこう忠実で、シュニッツェル(薄い牛のカツ)の付け合せのヌードルが「カツレツとスパゲチ」になったりしていて、まあ上手い訳だと思う。
 このアルバム(ジャズだが? ジャズだじゃ! ~津軽弁ジャズ~)が発売されたのは2009年のことで、大手レーベルと契約していなかった頃だ。ググったら、EPIC / SONY (1989年〜1991年) One Voice (1992年〜2004年) 日本コロムビア (2015年〜)ということで、2004年から2015年までは空白だ。このときにインディーズ(ビデオアーツ・ミュージック)で作られて、現在は廃盤になっている。おれも、このアルバムについては知らなかった時期が長く、手に入れた時は廃盤直後だったのか、定価よりも安く買えたんだが、現在amazonでは5000~9000円で取引されている。こういうときに小さなレーベルだと再販は難しいのかもしれない。いやしかし、大手レーベルだったら、伊藤君子さんが津軽弁でジャズを歌うなんて企画が通ったかどうか。どれだけ敏腕のプロデューサーかと思ったら、伊奈かっぺいが、「伊藤さん。津軽弁でジャズを歌ってみませんか?」と提案したのがきっかけだそうで、このときの実績と評価があるんで、2015年には日本コロンビアから第2弾(津軽弁ジャズ ・ジャズだべ!ジャズださ! https://open.spotify.com/album/3a2CTFgbZHbLyAeg2LJI8t が作成・発売されていて、これも素晴らしいので機会があったらお聴きいただきたい。

 いまさら気が付いたんだが、ここまでタイ歌謡じゃないな。これまでもタイ歌謡じゃない回があって、それでも申し訳程度にタイ歌謡を一曲紹介して辻褄を合わせてきた。
 まあ、そんなことは、おれは気にしない、と言って、タイ歌謡の紹介をぶっちぎってもいいんだが、遠慮というものがないのはいかん。取って付けよう。タイ歌謡を。まるで取って付けたように、取って付けよう。
ສາວຜູ້ໄທ สาวภูไท - Jo Laotai x Akoy (ອາກອຍ) Official MV
  曲は「プータイの少女(สาวภูไท - サオ・プータイ)」といって、このプータイってのが民族とか語族として認識されている。なお、プータイってのは直訳だと「独立した人」みたいな意味だ。場所はタイの東北部です。ああ、それならイサーンだ。イサーン語でイサーン人だね。と思いそうだが、ちょっと違う。プータイの人々に言わせると「イサーン語ってのはプータイ語からの借用が多く、イサーン語を話す者がプータイ語を話すことはできないが、プータイ語を話す者の殆どはイサーン語も話すことができる」と言う。
 プータイの人々は1500年くらいまえにタイダムの民と別れたという。元は同じ民族で同じ語族だったが、何らかの理由で別れていたという。今度はタイダムとか、何だそれ。
  ラーマ3世統治のとき、1825年チャオアヌウォンの反乱(ラオスの反乱とも)があり、これに雲南省の西双版納(シーサンパンナ。タイ語ではสิบสองปันนา - シップソンパンナー。12000面の田という意味)からウィエンチィァン周辺に連れて来られた。このときメコン川の右岸に住んだ2648人がプータイの人々の始まりで、現在およそ866,000人のプータイ人がいるという。
  メコン川の左岸に住んだのはタイダムの民ということで、このへん、よくわからないのだが、何にでも専門家というのはいて、タイダムの民についてはアメリカの言語学者「マーク・ミヤケ(日本名ミヤケヒデオ)」が詳しい。ラオスの反乱からしばらく経ってタイダムの民はラオスからはいなくなり、今では雲南省に20,000人程が暮らしているそうだ。
 で、プータイの人々はイサーン地方に定着したんだろうが、イサーンの中の位置づけが、日本語の東北弁の中の津軽弁に似てないこともないかな、とそんなわけで選んだ曲です。
 歌詞は、ガチのプータイ語で正直わからない。タイ語に翻訳したものも見つけたが、歌詞じたいは大したことないので割愛する。ただのラヴソングだった。MVはタイ語とラオ語の二本立てで書いてあって、出てくる少女が垢抜けなくていいね。タイのしまむらで売ってるような299バーツくらいの服だろうか。ペラッペラに感じるのは裏地がないからで、そんなことしたら暑いからだ。プータイの人々は、これをプータイ語です、と言うだろうが、普通のタイ人は「あ。イサーン語だね」と思う。イサーン語とかプータイ語とか、そんなの同じようなもので、違いには、そもそも興味なんてないと思う。
 青森には津軽弁と南部弁と呼ばれる2つの方言があって、まったくの別物だ。それでも馴染みのない者がこれを聞くと「ああ、東北弁か」と思う。何を言うのだ。東北弁には秋田弁も宮城弁も福島弁もあって、福島弁と津軽弁ではかなり違う。いちおう東北全体で通じるものもあって「しょんべんむぐす(小便を漏らす)」なんかは福島から北海道までの老人になら通じる。若いものには通じないが。それでもひとくくりに東北弁と言われると、随分だなとは思うが、これは北の人が神戸弁を聞いても京都弁を聞いても三重弁を聞いても、その区別がつかずに「あー。大阪弁か」と言うのと同じことだ。日本の方言はテレビなどに殺されかかっているが、タイの方言は、まだ健在だ。これも数十年経つと、消えていくのだろうか。
 あともうひとつ。謎なのは津軽弁と北海道弁は似ているのに、発音というか発声が全く違うせいで似た感じがしない。これは東北の言葉が北に行くに従って徐々に口の開きが少なくなって発音も不明瞭になった。寒さのせいだと言われるが、たぶんそうだろう。青森の寒さだば、たんだでねはんで口開けるのは、まねじゃ。
 ところが、津軽海峡を渡ると、発音・発声ともにしっかりと明瞭になる。これは、冬の暖房事情によるのではないかと思った。もうね、津軽海峡を超えるとそりゃもう寒さがただ事ではないので、囲炉裏なんかじゃ物足りない。初期の北海道開拓民の住まいは囲炉裏であっても、それに対する小屋の広さが狭い。天井も低い。やがて時を待たずに諸外国から寒さへの対応を輸入・学習したから、暖房器具は言うに及ばず、建築の断熱法を取り入れ、壁には断熱材を、窓は二重窓にした。これによって口の周りの筋肉が強ばるということもなく、また建築も堅固になったせいで大声でよく通る発声でないと隣の部屋にいる家人に要件を伝えられなくなった。これによりぼそぼそとした濁音混じりの濁音が消えたのではないか。
「このたぐらんげだば、どもこもねぇじゃ(この愚か者は、どうにもなりません)」と至近距離でぐずぐず言っていたのが、「このタクランケ。もっとけっぱんな!(この愚か者。もっと頑張れ)」と大声で叱り飛ばす。北海道民が無駄にスコーンと抜けて明るいのは、そういった背景もあるのではないか。それは、それまでの蓄積を捨ててしまったってことでもあって、北海道の文化が薄っぺらいのは、そのせいだろう。北海道に伝統文化なんてものはなくて、せいぜいソーラン節だろうか。あれも、民謡と言うには即興が重視されていて、当時の歌詞を忠実に録音したものは一般には発売されていない。あまりにも卑猥でどうしようもないからだ。だから全国で唯一「子供盆踊り歌」というものがある。
第62回さっぽろ夏まつり 子供盆踊り 6日目 HD3
  北海道出身の者で、これを知らない者はいない。全道どこの町でも村でも、子供が起きている時分は、これが街中に流れているのだが、遅くなって子供が寝静まった頃になると、大人はソーラン節で盛り上がった。もうこれが、ひたすら下品で卑猥で、これにゲハゲハと笑ったり、頬染めたりしたわけですね。まあ、最近は娯楽も増えているんで、深夜に卑猥な歌詞を競うってこともない。あれはいつごろまであったのだろうか。高校を卒業して以来、長いこと北海道にいなかったので、この辺の事情は知らないのだった。
この記事についてブログを書く
« 私はロボットではありません | トップ | ジジイの魔力も万能だぜ »

タイ歌謡」カテゴリの最新記事