父のブログは2005年6月から2010年4月まで、息子のブログは2014年5月から、それぞれご覧いただけます。
今はもう、ボールを受け 返球してくれる相手もいないが、塀を相手に一人キャツチボールで楽しんでいる野球。
野球と出合ったのは小学校の4年生頃だろうか、当時は物資が乏しく、遊びの種類も少なかったこともあり、ボールひとつで何人もが楽しめる野球は、チョットした空き地ではいたる所で見られた。
家が空襲で全焼し、石川県に疎開したことは既に記述したが、終戦後 東京に戻り借家住まいとなるが、貸主である家が資産家で、三角ベースの野球ができるほどの庭があり、その敷地内には複数の借家世帯が住んでおり、メンバー、場所など、野球環境には恵まれ、学校から帰ると毎日のように、夕飯の呼び声が鰍ゥるまで、遊び耽っていたものである。
その頃は、満足なグローブはなく素手で捕球できるようにボールは、ゴムかソフトボールを用いていたが、社会人になってからは、軟球に変わり、対戦相手も徐々に、会社又はクラブの草野球チームと変わっていった。
併せて、その頃に焼け跡に念願の家が建ち、幼い頃からの野球仲間とも別れることになり、必然的に三角ベースは卒業する形となった。
社会人になってからの野球は、また別の機会に譲ることにするが、これまでの三角ベースで学んだことといえば、機敏性・協調性など常識的なことがあげられるが、ここで特に強調したいのが、「加減」ということである。
限られた敷地内で行うため、上手く振りぬけば塀を越すことはたやすかったが、ボール拾いに時間が鰍ゥったため、ルール上、越えたら即チェンジであり、如何に塀の内側近辺に造られた農園に打ち込めるかが、ャCントであった。
テクニックを身につけて行ったことは、当然であるが、物事を考えるうえでも この「程よく調節すること、即ち 中庸」が、その時分に身についたようである。
作品は、社会人になってから初めて購入し、既に40数年愛用しているグローブを写画にしたものである。
・・・何度振っても出る目は雀の目ばかり・・・
一時は、雀 気狂いと言われるほど、一週間に4~5日も浸り、且つ、休みの前日は徹夜と無茶なことを繰り返したが、今は、それも遠い若かりし頃のこと。
麻雀との付き合いは、小学校5年生の頃で、5/17 の「花札」の項で既述したが、4人兄弟であったため人数合わせもあり、強引に加えられ、覚えさせられた感がある。
花札同様、この遊びは賭け事の色彩が強く、出来るようになると幼いのに容赦なく、おやつ・おかず・お年玉で貯めた小銭・・・と、何かしら賭けていた記憶がある。
習いたての当時は雀牌が買えず、長兄がチョコレート色したベークライトを牌形状に成形し、それに彫刻刀とドリルで文字を入れ、手作りしたものを愛用していた。
新しい牌を購入してからも、暫くは実家にあったのだが・・・今残っていれば骨董扱いであろう。
そんなことで、麻雀は10歳頃から親しみ、今日まで長い期間付き合い、且つ、それが青春~壮年時代と人生の中で最も大事な時に、多くの時間を費やした遊びといえる。
今となっては、それで良かったかどうか・・・答えのでない問答を時々繰り返しているが、少なくとも麻雀という遊びを知らずにいたら、味気ない人生になったものをと・・・思うことで、人生に於ける 遊び「麻雀」を肯定している。
男ばかりの4人兄弟の末っ子の小生は、既に掲載済みの将棋は無論の他、この花札も含め殆どの遊びは、兄から教わる、または、その遊びを見て、小学校に入るまでに覚え、兄等、また 近所の遊び仲間と楽しんでいた。
ただ、この花札は小生にとっては、遊びというより「賭け事」の色合いが強く、「トランプの陽」に対して、「花札は陰」で、遊び相手も兄貴など、ごく限られた者だけであった。
花札は江戸時代に、貝覆・百人一首で知られる日本古来のカルタと、舶来の天正カルタが、組み合わさってできたとのことだが、中学校の頃までは「花札」という言葉は知らず、遊び方の名前で呼んでいたと記憶している。
即ち、
花見で一杯、月見で一杯の「こいこい」と、三・三 ロッャE見ずに引けの「おいちょかぶ」と、遊びの人数で決め、チップとしてマッチ棒を手元に熱中し、小遣いが増えたり、減ったりと一喜一憂したものである。
そんな遊びも、それぞれが社会人になってからは疎遠になり、正月に家族が集まった時に行う程度になったが、親が他界してからは、それも無くなり寂しいかぎりである。
「花札」からは,駆引き・度胸・勝負勘など多くを学んだが、今は極く偶にPCで「こいこい」を遊ぶ程度であるが、空しいものである。
「もう、いい加減に止めて少し頭でも冷やしたらどうですか」・・・と、コンピュータ(PC)から、そんなメッセージが発せられそうである。
今日も朝から十番以上指しているが、まだ2回しか勝てずイライラしている。そんな嫌な思いをしながらも、やっつけた時の爽快感を味わいたく、何時の間にか また PCの前に座り、将棋のアイコンをクリックしている自分を発見する。
3年前に大病を患い、思うように外出もできない時期が続き、定年後も通っていた、磯子の将棋クラブ行きもままならず、今では好きな時に、気兼ねなくできるPC将棋にはまり楽しんでいる。
因みに磯子将棋クラブでは、棋力初段で20年近く昇段しなかった。
そんなことで、小生にとって将棋とは、当然遊びとしての面白さはあるが、それに伴って、「物事の先を読むことを養って呉れ」また、これからは「頭の体操としてのボケ防止」にと、数多い遊びの中でも、我が生涯の伴侶といえるものである。
作品はPC将棋でも別売ソフトを相手に対戦中の画面を、グロウ(輪郭)効果を用い写画にしたものだが、この他 インターネットによる不特定多数の人と対戦するものなどあり、それぞれの趣がある。
今週から新たに、「我が人格を育んだ遊びの数々」をカテゴリに加え、写画の画像と共に、むしろ、エッセーに重点を置き随時挿入していくことにしたい。
小生が将棋を覚えたのは5・6才の頃であろうか・・・はっきりした記憶はないが、物心が付くようになって、母から「よく、縁台将棋で大人を相手に指し、見ている人を感心させていたよ!」と、何度か聞かされたことがあったからである。
ただ、遊びは将棋以外にも、花札・トランプ・麻雀・紙相撲・野球ゲームなど沢山あり、将棋もそんな遊びの中の一つに過ぎず、特に好きであったわけでもなかった。
そんなことで、長ずるにつれ新しい遊びも増え、将棋は年に数回指す程度の長い疎遠状態が続くことになる。
ところが、40を過ぎた頃であろうか、近くの団地に住む会社の同僚からの誘いで、偶々、そこの将棋同好会に参加し、プロ棋士による指導、会員同士の対局などを通じて、今まで使われていなかった脳の一部に強烈な刺激を受け、改めて深く付き合いたいと思うようになった。
そんなことがきっかけで、蒲田、大森、大船、磯子、横浜といろんな所の将棋クラブに顔を出したのもそんな頃である。・・・続きは次週に