連れ連れ気

心を連れて思いのままに自分らしく

実は私(3)

2013-11-27 | 実は私

《小学校の頃2》

 登校が辛い私に、転機が訪れました。
担任の先生が私に「手芸をやってみない」と提案をしてくれました。
小学校でも部活動があったのでしょう、私は先生に言われるまま放課後に手芸をはじめました。
フェルトで小さなマスコットや小物をつくったり、リリアンでわけもなくなが~い紐を作ったりと、
あの時の時間が私にとって、落ち着いて、女の子らしくいられるいい時間だった様な気がします。
又手芸が自分にあっていることも気が付きました。
 その先生に、手芸をしながら、自分の嫌なところや悩んでいることなど打ち明けてました。
先生は私をよく膝の上に乗せて、抱きしめてくれましたことなど、あの時のあの、暖かい懐を今でも思い出します。

 先生は「悩みや思いを、詩に書いてみたら、そして詩を書くにはなんでもいいから本を沢山読むといいよ。」と教えてくれました。
それからです私は、少ないお小遣いの中から、貸本屋に行きマンガ本はもちろんのこと、少女雑誌、童話、伝記、などなど読みあさりました。
幸いか、我が家にはまだTVのない時代でしたので、部屋に引きこもり本を読む時間はたっぷりありました。
母からは、「教科書もろくに開かないのに、そんな本ばかり読んでないで勉強しなさい」といつも怒られていました。

活字を読む事は脳に刺激を与えて、思考能力を高めてくれるようですね。
私の子供達の小学校の時は、本読み宿題があり、本読みを聞いてあげた親が認め印を押していたことがありましたが、
意外とこのシステムは、親としては気に入っておりました。
ですから、我が家のクリスマスプレゼントはいつも本でした。欲しいものをサンタさんに願っていた子供達には不評でしたがね。

 先生の提案で、本を読んだり詩を描いたりとそれだけでも自分の中では学校に行く楽しみが出来ました。
しかし、勉強の基礎をきちんと理解しない私でしたので相変わらず嫌いな授業は、ちんぷんかんぷんでした。
きっと成績が伸び悩んでいる人は、『十進法』とか『てにをは』などの基礎の部分を理解しないままどんどん進んでしまうので
益々理解できなくなっているのではないかなーと思いますね。
日本の教育システムが落ちこぼれを作るのではないかなーとも思いますね。

その時に出会った先生とは、卒業後も年賀はがきのやりとりをしておりました。
しかし、卒業後一度だけ会って以来その後一度も会うことがなく、先生は他界してしまいました。
亡くなる二・三年前に、電話にて会話して、「近々遊びに行こうと思います」といい
受話器をおいたのが先生との交流の最期でした。
 その先生の思い出を後に童話風に綴ったことがあります。
存命されている時に、読んでもらいたかったのが心残りでしょうがありません。

その綴った童話は以前のサイトで、アップしていたことがあります。『太陽の使者』
読んでくださった方もあるでしょうが、良かったら覗いてみてくださいませ。

☆昭和38年出来事

11/22 ケネディ米大統領 ダラスで暗殺される。


実は私(2)

2013-10-26 | 実は私

《小学校の頃1》

今の私の記憶は、方丈記の一節『行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びてしかもとどまるためしなし』のようになっています。
特にこの頃はとどまる時間が短くて、新しき記憶が泡のごとく消えてしまいます。
又古い記憶も川の流れに流されてしまい、かなり曖昧になってきています。

それでも印象的なことは、鮮明に情景や色合いまで覚えているから、不思議ですよね。
この驚異的なギャップに悩まされるのが現状ですので、宇宙からのメッセージのように
記憶のずれが生じることは日常茶飯事です。
だから、はっきり言って小学校の事は、曖昧なところが多いのが現状です。
その曖昧さの中で、小学校の時に起きた印象的な出来事は、鮮明に蘇ってくるんです。

小学校3・4年の頃だったと思います。
私は兄二人が居る末っ子で、兄達と男の子のように遊んでいました。
ですから、周りからは『男女』、『きかんこ』、『強情っぱり』『スピーカー』などなど、悪い印象で囃し立てられました。
また、その当時は、身体のことを取り上げて囃し立てたりは日常茶飯事でしたから、
内股である私の歩き格好を、『アヒルの行進』などど笑い立てたり、成績が悪かったので『アホ』とか『馬鹿』とか言われました。
勝ち気のイメージが有る私ですから、そんなことを言われるとかかって行ったりもしていました。
かかっていけば悪循環になり、余計囃し立てられる始末でした。
 親に話しても、「お前がきかないから、お前が悪いんだ。」と言って、聞く耳を持ってくれませんでした。
夜になると、布団をかぶり悔し泣きをしていました。
近年の状況ならいじめになるのでしょうが、あの当時はいじめなんて言葉も無い時代でしたからね。
自分が悪いと、ただただ我慢するしかなかったのです。

 そんなある日、クラスでも成績が優秀なA子さんと、口論になりました。
どんなことで口論になったかは、今では定かで無いのですが、
口論が最高潮に達して、取っ組み合いの喧嘩になってしまいました。
そんなさなか、私の歯がA子さんの顔にぶつかり、Aさんに傷を負わせてしまいました。
当然先生に叱られ、家に戻って母親を呼んでくるようにと言われ、学校を出されてしまいました。
家に母を迎えに行く途中の心境は定かでなかったです。
どんなふうに親に話したらいいか、親の怒る顔を想像すると足がすくみました。
このままどこかに、消えてしまいたくもなりました。
その後のことはよく覚えていないのですが、母にびんたを貰い、しこたま怒られたことは覚えています。
現在なら、いくら悪いことをしたからといって、一人で親を呼びに行かせないでしょうね。

その後私は、『狂犬』と言うあだ名を付けられ。益々皆から囃し立てられる始末でした。
子供心にさすがに自分が悪いと思ったのでしょう、かかっていくことはしませんでした。
悔しくて涙をこらえて、歯を食いしばって学校に行ってました。
だって学校に行かないというと、母がものさしを持って追いかけてくるから
行くしかなかったのです。

なんと非常な時代だったのでしょうね
そんな時代で、自分が悪いにせよ、よく私は生きていたなーと思いますね。
よくよく私の根性は強かったのか、場当たり的感覚だったのかその性格が今もなお続いているってことですかね。

 

《昭和37年の出来事》

07/07 九州・西日本に豪雨,死者・不明227人


実は私(1)

2013-10-03 | 実は私

 

《中学校三年の頃》

私は、勉強をすることが大嫌いでした。
授業中はノートの片隅に漫画を書いたり、先生の似顔絵を書いたりして、先生からゴツンされていましたね。
もちろん予習復習もせず、学校の教材に関係ない本ばかり読んでいました。
特に沢田研二が好きで、沢田研二のスクラップブックを作ったりもしていました。

夏休みの宿題は、いつも夏休みが終わる頃に渋々手がけるので、
結果ほとんど手つかずで提出して、いつも各教科の先生にそれぞれに、叱られていました。
夏休の宿題にかぎらず、普段の宿題もほとんどしていなかったから、
宿題を提出する時までの心理は、どんな言い訳をしようかなど、穏やかではありませんでした。
きっと宿題をした時よりも、宿題をしないほうが、エネルギーを要したのに、
どうしてしなかったのか、今思うとあの時の自分に、説教しに行きたい気分です。

そしてテストは、国語と理科を覗いてほとんど0点か、それに近い点数しか取れませんでした。
後に、ドラえもんのアニメを始めてみた時に、こんな子(のびた)が私以外にも居るんだとホッとしたことがありました。
どうして、国語と理科が良かったかというと、その時の先生がお気に入りだったのです。単純ですよね!!

そんな私が高校進学の時期に、高校に行きたくなくて、「美容師になりたい」と母親に談判したことがありました。
しかし、母は「いまどき高校ぐらい行きなさい。美容師は高校を、出てからも出来るから。」と言って
断固として私の思いを聞いてくれませんでした。あの時の母を随分恨みもしました。
きっと思い通りにならないことを、母のせいにして自分を正当化したかったのかもしれませんね。

そんな母に逆らえず、高校進学を受け入れてしまいました。
成績がいまいちの私でしたので当然、志望高校は限られてしまい、選択肢はない状態でしたね。
進学に向けて、多少勉強しましたが、いつも机と仲良しになり、ノートがよだれで地図を書く事の連続でしたね。
そんな私でも、なんとか高校に行けたのですから、笑っちゃいますよね。

実は私は、本当に美容師になりたかったわけではなく、勉強することから逃げたかっただけなのです。
あの時、母がすんなり私の思いを受けていたら、その後の私の人生はは随分変わっていたかもしれませんね。
その逃げることが、今まで幾度と無くありました。
逃げてきたことを後悔して悩んだことも多々ありましたが、結果逃げながら生きてきたのは事実です。

 そんな、過ぎてしまった事を言ってもしょうがないですが、
還暦を迎えた私の今までの人生を、ちょっと振り返ってみたくなりまして、
『実は私』のカテゴリーを設けることにしました。
極普通の人生を送ってきたと思いますが、そんな私の今ある事は、
きっと過去の思いが礎になってのことだと思います。

《昭和43年の出来事》

10/13 第19回オリンピック・メキシコ大会.日本は215人参加