飯舘村は4月、放射線量が年間で20ミリシーベルトに達する可能性があるとして避難区域に指定された。国は全村民の避難を5月中に終えるよう求めたが、住民の説得に時間がかかったことなどから大幅に遅れた。
村は「体調を崩す危険がある」として、ホームを避難対象から外すよう求め、国が認めた。家族が希望すれば引き取れるが、入所者数は107人で震災前とほとんど変わらない。
福島市内の仮設住宅に暮らす佐々木市郎さん(88)。妻のマサ子さん(81)が昨年5月から入所する。以前は週の半分はホームに通ったが、スクーターで1時間かかる今の場所からは、週に1度がやっとになった。「『あまり来られなくなるから』と言うと、寂しそうだった」と語る。
事故の直後は、一緒に避難したほうがいいと考え、マサ子さんを連れて埼玉県に住む長男の自宅近くに避難した。だが、環境の変化がこたえたのか、すぐに体調を崩して入院。ホームに戻した。
事故前は、5月になったらマサ子さんを退所させ、長男の家族を呼び寄せて飯舘で一緒に暮らす計画だった。それも白紙になった。「本当は一緒がいい。けど、この状況じゃしょうがない」
福島市内の別の仮設住宅に住む鴫原(しぎはら)忠夫さん(81)も、妻の幾世子(きよこ)さん(77)が入所する。ホームへ通うたび、隣の村役場の敷地に設置された放射線量計が気になる。最近でも毎時3マイクロシーベルト前後。福島市と比べても2・5倍ほどの高い値だ。「影響がないわけはない」と妻の身を案じる。
職員の減少も気掛かりだ。「もしもの時に手当てや連絡が遅れたら」と不安に思う。
介護する職員は、4月の65人から52人に減った。避難先からの通勤の難しさや放射線量への不安が理由だ。
ホームの調理場で働いていた赤石沢知恵さん(25)は5月初めに退職した。「できることなら続けたい」と思っていたが、震災前に村内で同居していた夫の両親とは、一緒に住めるほど広い空き住宅がなく離れ離れに。4歳と3歳になる子供の世話を頼めなくなった。勤務中に浴びる放射線量も気になった。
入所者一人一人の誕生日ケーキを作ったことが思い出だ。「本当に喜んでくれた。腕を上げて、もっといろんなものを食べてもらいたかった」。そして「『取り残されている』と思う人もいるはず。こんな時だからこそ、いつも以上のケアが必要なのに」と涙ぐんだ。
三瓶政美施設長は「職員の負担はぎりぎりの状態。今後も辞める人が続くと、業務に支障が出かねない」と心配する。
【毎日新聞】