映画「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞受賞し、人気沸騰している。
納棺夫(納棺士)という仕事もスポットライトを浴びている。
もしかしたら、人気の職業になるかもしれない。
また、一昨日のテレビでは、警察官を辞めてまでこの仕事に転職した若者の仕事ぶりが紹介されていた。厳しい上下管理社会の職業より、究極のホスピタリティー・マインドの職業に転じた若者の気持ちが分かる気がする。
さて、私たちの仕事も介護保険の施行時に脚光を浴びた。
違う意味で、こちらも「おくりびと」であろう。
アカデミー賞ももらえず、賞与も沢山もらえず人気の職業にはならなかった。
一生懸命働いても、功労賞ももらえない。
一生懸命働いても、厚労省からも評価されず、行政からイジメられてしまう。
朝、出勤すれば併設の赤字事業として煙たがれるのも無理はない。
なぜなら介護保険制度の中では、単体で黒字事業にすることは難しいからである。
人件費率を下げれば、黒字にはできるかもしれない。でも就労者にとっては辛い。
映画やニュースでは、納棺夫が過大評価されているかもしれない。
この仕事も、ケアマネジャーと同じシャドーワークである。
戦後の最近までは、家族が故人の身体を清めながら拭き、白装束を着させながら辛い別れ、悲しい別れを担っていた。この永遠の別れの儀式の中に参加する子供・孫がいて家族の絆や故人への供養する心があり、死の重みを感じていた。
介護においても、つい最近までは家族の誰かの犠牲がありながらも、家族が行っていた。たいへん大きな犠牲が伴っていたが、家族の役割が決まっていた時代があった。
今では、どちらの仕事も産業として成り立っている。
家族のたいへん大きな負担を、社会という構造の中で事業者が担うようになった。つまり対価いただいて、一生懸命に奉仕するということである。
今の時代の大きな特徴は、「当事者が不在」であることであろう。
当事者が不在と言うことは、「当事者でない」ということである。
お金を出せば、当事者にならなくて済む世の中になっている。
政治を振り返ってみると、政治家や官僚は弱者や庶民の味方であってほしい。
これらの代表者が当事者の代表者であれば良いのだが、選ばれる側の人は二世議員であったり、地元有力者であったりで弱者や庶民とは掛け離れている。
政治家や高級官僚は、私たちの当事者ではないので、私たちの現実問題を後回しにする。年金・少子高齢・教育・雇用・医療など。
当事者でない人は、自分たちの優遇されたルールで十分にその生活を維持できるし、維持しなければならないと考えている。数パーセントの富裕層が庶民を食わせていると言う論調がある。実は底辺が頂点を養っている(労働力を搾取されている)し、口八丁手八丁の議員を投票で選んでいる。
アカデミー賞の国アメリカは、それに気づき偉大な大統領を選んだかもしれない。
庶民を働かせて稼いだ富裕層に増税をし、庶民向けには国民皆保険制度を創設する。しかし富裕層は自己保険(保険不要)だし、保険制度を作って無保険者の面倒まで見たくないのである。(ちなみに日本の介護保険前後を考えると、特養措置時代は応能負担から応益負担で喜んだ富裕層がいるし、タダに近い人が7~8万円で入所しづらい。)
国防においては、イラク派遣の14万人のうち、約10万人を帰還させる。
でもアフガニスタンへ振り替える。
これら兵士も貧しい人が多い。彼らがアメリカの利権を守らされている。
当事者から離れていたら、違う代行当事者にぼったくられる。
葬儀屋が一生懸命やるのは、ずばり儲かるからであろう。
悲しそうに「導師、ご入場でございます」と抑揚無く言うのである。
ボクシングの入場時リングアナは、過大に抑揚を付けるのは、興奮が必要だから。
どちらも、ショーを演じているだけであろう。
NHKの体操のお兄さんも、スタジオで録画が終われば、休憩室でタバコを吸い舌打ちをしながら、「疲れたぜ~。やってられねぇよ~」とか「今日、飲みに行こうぜ!」と想像してしまう。葬儀屋も同じだろう。
学校の先生も、小グループの職員旅行に出掛ける。石和や箱根あたりの温泉旅館の宴会でコンパニオンと一緒に弾けていた。
公立中学校の先生夫婦が、安定しているからと公務員として教師をしている。
でも自分の子供は私立の中学校に行かせている。
そのまんま東もビートたけしも、無理があるだろう。
でも、笑わせてくれるものがある。彼らのお笑いは過去というイチ芸。
麻生も中川も笑っちゃうくらい呆れる。彼らも芸人。
でも、しっくりしないのは小泉。次男坊へバトンタッチはお笑いで呆れる。
ポスト麻生の石原坊ちゃんや厚生労働省大臣の添え吉も、しっくりしない。
本当にしっくりしない作られた栄光が多いような気がする。
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納棺夫(納棺士)という仕事もスポットライトを浴びている。
もしかしたら、人気の職業になるかもしれない。
また、一昨日のテレビでは、警察官を辞めてまでこの仕事に転職した若者の仕事ぶりが紹介されていた。厳しい上下管理社会の職業より、究極のホスピタリティー・マインドの職業に転じた若者の気持ちが分かる気がする。
さて、私たちの仕事も介護保険の施行時に脚光を浴びた。
違う意味で、こちらも「おくりびと」であろう。
アカデミー賞ももらえず、賞与も沢山もらえず人気の職業にはならなかった。
一生懸命働いても、功労賞ももらえない。
一生懸命働いても、厚労省からも評価されず、行政からイジメられてしまう。
朝、出勤すれば併設の赤字事業として煙たがれるのも無理はない。
なぜなら介護保険制度の中では、単体で黒字事業にすることは難しいからである。
人件費率を下げれば、黒字にはできるかもしれない。でも就労者にとっては辛い。
映画やニュースでは、納棺夫が過大評価されているかもしれない。
この仕事も、ケアマネジャーと同じシャドーワークである。
戦後の最近までは、家族が故人の身体を清めながら拭き、白装束を着させながら辛い別れ、悲しい別れを担っていた。この永遠の別れの儀式の中に参加する子供・孫がいて家族の絆や故人への供養する心があり、死の重みを感じていた。
介護においても、つい最近までは家族の誰かの犠牲がありながらも、家族が行っていた。たいへん大きな犠牲が伴っていたが、家族の役割が決まっていた時代があった。
今では、どちらの仕事も産業として成り立っている。
家族のたいへん大きな負担を、社会という構造の中で事業者が担うようになった。つまり対価いただいて、一生懸命に奉仕するということである。
今の時代の大きな特徴は、「当事者が不在」であることであろう。
当事者が不在と言うことは、「当事者でない」ということである。
お金を出せば、当事者にならなくて済む世の中になっている。
政治を振り返ってみると、政治家や官僚は弱者や庶民の味方であってほしい。
これらの代表者が当事者の代表者であれば良いのだが、選ばれる側の人は二世議員であったり、地元有力者であったりで弱者や庶民とは掛け離れている。
政治家や高級官僚は、私たちの当事者ではないので、私たちの現実問題を後回しにする。年金・少子高齢・教育・雇用・医療など。
当事者でない人は、自分たちの優遇されたルールで十分にその生活を維持できるし、維持しなければならないと考えている。数パーセントの富裕層が庶民を食わせていると言う論調がある。実は底辺が頂点を養っている(労働力を搾取されている)し、口八丁手八丁の議員を投票で選んでいる。
アカデミー賞の国アメリカは、それに気づき偉大な大統領を選んだかもしれない。
庶民を働かせて稼いだ富裕層に増税をし、庶民向けには国民皆保険制度を創設する。しかし富裕層は自己保険(保険不要)だし、保険制度を作って無保険者の面倒まで見たくないのである。(ちなみに日本の介護保険前後を考えると、特養措置時代は応能負担から応益負担で喜んだ富裕層がいるし、タダに近い人が7~8万円で入所しづらい。)
国防においては、イラク派遣の14万人のうち、約10万人を帰還させる。
でもアフガニスタンへ振り替える。
これら兵士も貧しい人が多い。彼らがアメリカの利権を守らされている。
当事者から離れていたら、違う代行当事者にぼったくられる。
葬儀屋が一生懸命やるのは、ずばり儲かるからであろう。
悲しそうに「導師、ご入場でございます」と抑揚無く言うのである。
ボクシングの入場時リングアナは、過大に抑揚を付けるのは、興奮が必要だから。
どちらも、ショーを演じているだけであろう。
NHKの体操のお兄さんも、スタジオで録画が終われば、休憩室でタバコを吸い舌打ちをしながら、「疲れたぜ~。やってられねぇよ~」とか「今日、飲みに行こうぜ!」と想像してしまう。葬儀屋も同じだろう。
学校の先生も、小グループの職員旅行に出掛ける。石和や箱根あたりの温泉旅館の宴会でコンパニオンと一緒に弾けていた。
公立中学校の先生夫婦が、安定しているからと公務員として教師をしている。
でも自分の子供は私立の中学校に行かせている。
そのまんま東もビートたけしも、無理があるだろう。
でも、笑わせてくれるものがある。彼らのお笑いは過去というイチ芸。
麻生も中川も笑っちゃうくらい呆れる。彼らも芸人。
でも、しっくりしないのは小泉。次男坊へバトンタッチはお笑いで呆れる。
ポスト麻生の石原坊ちゃんや厚生労働省大臣の添え吉も、しっくりしない。
本当にしっくりしない作られた栄光が多いような気がする。
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