きつねゆりセカンドハウス

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コラム

2016-08-03 13:13:45 | ぺ・ヨンジュン


<コラム>44歳になるペ・ヨンジュンはどこへ向かうのか

結婚1周年を祝ったばかりのペ・ヨンジュン。ことし中には父親になりそうだが、
8月29日には満で44歳の誕生日を迎える。
最新作がなくてファンはとても寂しい思いをしているだろう。
本来は俳優であった彼が、なぜビジネスにのめりこんでいるのか。

■苦難の時代に生まれた
ペ・ヨンジュンが生まれたのは1972年である。
1972年という年を振り返ると、日本と韓国では、
一衣帯水の隣国同士と思えないほどの違いがある。
玄界灘を一つ越えるだけで、二つの国はなぜこれほど違うのか。
そんな驚きを率直に感じる。
日本の1972年……。
高度経済成長が一段落したとはいえ、繁栄の成果を手にしていた頃である。
1970年に開かれた大阪万国博は未曾有の観客を集めて大成功に終わり、
日本が世界に冠たる国になったことを内外に知らしめた。
その余韻がまだ1972年には残っていた。
けれど、韓国はまるで違った。
まだ貧しかったし、その日の食事に困る人も多かった。
しかも、1961年の軍事クーデターで政権を掌握した朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は、
1970年代になると国内体制を引き締めるという名目で民主化の弾圧を強化していた。
韓国は長い苦難の途上にあった。
そんな時代にペ・ヨンジュンは生まれた。
もちろん、幼い彼に当時の世相を理解することはできない。
両親の愛情を受けてスクスクと育っていったのだろうが、
いくら子供でも世の中を覆う暗い雲というものを見ないわけにはいかない。

■波瀾万丈の中で育った
ペ・ヨンジュンをずっと見ていて、私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)がつくづく思うのは、
こうと決めたときの覚悟が揺るぎないということだ。
一度決めたら絶対に信念を曲げない。
なぜ、そこまで徹底できるのか。
無理に答えを探す必要もないが、1970年代前半の韓国で生まれ育ったから、
ということも一つの理由になるかもしれない。
ペ・ヨンジュンが小学校に入った頃に、国を揺るがす大事件が起きた。
1979年10月、長く軍事独裁政権を率いていた朴正熙大統領が部下に射殺されたのである。
まわりの大人たちの様子を見ていたら、
世の中が引っ繰り返ったかのように驚いたことだろう。
民主化を弾圧してきた張本人の死去。韓国に自由な風が吹くか、
という期待がふくらんだが、1980年5月には
一般市民を軍が虐殺するという光州事件が起き、韓国は再び暗い時代に入った。
1980年代、ペ・ヨンジュンの小学校と中学校の時代に韓国では軍事政権が続いた。
子供たちにも軍への忠誠を誓う教育が施された。
とはいえ、韓国の経済成長はめざましいものがあり、
貧しさを脱して1年ごとに輸出が急増する状況は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれた。
1988年のソウル・オリンピックの開催も決まり、
韓国は民主化を抑圧しながら経済と軍事を優先させて国家の体制づくりを進めていった。
そして、迎えたのが1987年である。
この年は、韓国の現代史を語るうえで、最も重要な転機だった。

■進学断念という挫折
ソウル大学の学生が警察で拷問死する事件をきっかけに、
全土で民主化を要求する運動が起き、韓国の世情は騒然となった。
翌年にソウル・オリンピックを控えていたが、
その開催が危ぶまれる事態になるほど、国内は揺れに揺れた。
ときの全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領はデモの鎮圧に軍隊を導入する決断をしかけた。
そうなっていれば、韓国の悲劇に終わりはなかった。けれど、
国際社会が注視する中で、全斗煥大統領は最後になって方針を転換し、
民主化を受け入れた。これによって、
大統領の直接選挙制、集会・言論の自由などが実現した。
まさに、民主化運動が軍事政権を倒したという意味で、
現代史でも稀なほどの市民革命が成就したのであった。
このとき、ペ・ヨンジュンは15歳になる頃である。
一番多感な時期に、最も劇的な社会変革を目の当たりにしたのだ。
彼ほど利発な少年が影響されないわけがない。
韓国にとっても、また、ペ・ヨンジュンにとっても、
希望が持てる新しい時代が始まった。
1988年にはソウル・オリンピックが成功し、
国外渡航も自由化されて多くの若者たちが海外に飛び出していった。
こうした変化は本当に大きかった。
後に1990年代の後半から韓国の映画やドラマの制作環境が飛躍的に向上するが、
その際に大きな力となったのが、
国外渡航自由化のあとに欧米で映像制作を学んだ人たちだった。
ペ・ヨンジュンの世代もその後に続いた。
積極的に外国の情報を収集して、自らの知性を輝かせていった。
しかし、ペ・ヨンジュンは大学受験に2年続けて失敗した。
世界一の大学進学率を持つ韓国で、進学断念という事実はあまりにつらい。
ペ・ヨンジュンの挫折感は誰も想像できないほどであったことだろう。

■いずれ変化の時がくる
自信喪失……。
暗闇の中で自分が進むべき道を見つけられなかった。
けれど、彼にはまだ一つの希望が残っていた。それが向上心だった。
座しているより無我夢中で前に進もうとしたとき、
最後になってようやく薄日がさした場所を見つけた。
それが、俳優という舞台だった。
その後の活躍は誰もが知るとおりだが、私たちが忘れてならないのは、
ペ・ヨンジュンが韓国で生まれ育った生粋の韓国人であるということだ。
たとえば、ビジネスに関わる彼について「俳優なのになぜそこまで……」と考えたとしたら、
そこに「韓国」という言葉を当てはめると、一つの理由が浮かんでくる。
朝鮮王朝時代の儒教社会は本来、「文」を尊び「商」を蔑んだが、
現代韓国では「商」を尊ぶ風潮がますます強まっている。
統計によると、韓国は全職業の中で自営業の割合が世界で最も高い国の一つであるという。
誰もが社長になりたがり、勤め人より自営を選びたがるのだ。
ここで思い出すことがある。
ペ・ヨンジュンが小学生のとき、彼の父は会社勤めをやめて牧場経営に乗り出したが、
その転身は失敗に終わった。その一部始終をペ・ヨンジュンも間近で見ていた。
そのときの記憶は、その後も折にふれて甦ってきたことだろう。
どんな子供も、父親の仕事の影響から逃れられないものである。
今、ペ・ヨンジュンが俳優を休業して実業家になっているのは、
自営業が多い韓国で父親の事業の失敗を目の当たりにしてきたことも無縁ではないだろう。
もはやペ・ヨンジュンの本業は「俳優」とは言えない状況になっているが、
自分が父親になったときに心に変化が生まれるかもしれない。
「我が子にぜひ新しい主演作を見せたい! 」
もしペ・ヨンジュンがそういう心境になったら、
毎年ペ・ヨンジュンの誕生日を欠かさず祝っていた人たちは、
「待ち続けた甲斐があった」と心から思えるのであろう。


文=康 熙奉(カン ヒボン)