原作は読んだことは無いのですが、おそらくは壮大な長編の物語中の、ほんの一部分を映画化したのでしょう。
表面には出て来ない、裏話、隠されたエピソードがたくさんありそうな予感を覚える映画であります。
壮大な展開の物語をわずか約2時間の映画にする、この難事業に挑んだ新人監督は、あえて自分の描きたかった映像にとことんこだわり抜き、多少の展開のぎこちなさ、強引さは承知の上で、まるで宝の山から自分の欲する物だけをざっくりと掘り出すかのように、大胆に作品を構築して行きます。
新人監督の、この映画にかける、並々ならぬ意欲のようなものは、伝わって来ました。
テルーが草原で一人歌を歌っているシーンなどは、これがやりたかったんだ!・・・というような思いが、ひしひしと感じられました。
また、いくつかのシーンにも、とても緊張感あふれる所がありました。
登場人物からは哲学的とも言えるセリフが話され、荘重流麗な音楽と共に、スケールの大きなストーリーが展開して行きます。
冒頭部、海には突如龍が現れ、国中には疫病が蔓延し、主人公アレンはとにかく不安に苛まれたために(?)父を殺し、ハイタカ(ゲド)は「これは世界の均衡が崩れている」と言う。
いくつかのエピソードは、しかし、予定調和的にそれぞれが関連しあいながら解決に向かって進むのではなく、それぞれがよくわからないまま、いわば宙づり状態のまま進行し、細部のつながりは、あえてバッサリと切り捨てられます。
主人公アレンには、もう一人の自分である「影」というものがいるらしいという事はわかるが、そいつが何者かはわからない。
ただ、なぜかそいつは突如危機的状況の時に出現し、テルーの道案内をする。
これは一例ですが、つまりは観客はただストーリーに付いて行くしかない。
そのストーリー展開の根拠のようなものは不明なまま、映画は進行して行くのです。
何だかよく分からないが、結果オーライなんだな、という感じ。
クライマックスのシーンで、悪の魔法使い・クモが、どーんと倒れてしまいます。
そのとき、私はクモという登場人物のみならず、この作品そのものがガラガラと崩れる思いを感じずにはいられませんでした。
この映画のストーリーは、一人の悪を倒して終わりという、単純な図式で収まるものではなかった筈のものと思えます。
冒頭部のストーリーからして、重層的な構造になっており、一筋縄ではいかない、奥の深さを予感させるものであった筈です。
音楽や映像等の「仕掛け」が、より重厚で壮大な演出を施されていた為に、「大山鳴動して鼠一匹」的なクライマックスに、クモ同様の、作品自体の構造的な脆さを感じずにはいられなかったのです。
私はアニメーション映画の現場というものを全く知りませんが、おそらくは驚くほど多くのスタッフが関わっているのだと思います。
そういう意味では、一大プロジェクトであり、監督はその指揮官であります。
私は「ゲド戦記」を観て、映画という一大事業のダイナミックさというものを、感じさせられました。
監督がどのような指示を出そうとも、プロジェクトは進行する。船は出航する。
その事実には、ただ圧倒されるしかない。
そんな感想を持ちました。
表面には出て来ない、裏話、隠されたエピソードがたくさんありそうな予感を覚える映画であります。
壮大な展開の物語をわずか約2時間の映画にする、この難事業に挑んだ新人監督は、あえて自分の描きたかった映像にとことんこだわり抜き、多少の展開のぎこちなさ、強引さは承知の上で、まるで宝の山から自分の欲する物だけをざっくりと掘り出すかのように、大胆に作品を構築して行きます。
新人監督の、この映画にかける、並々ならぬ意欲のようなものは、伝わって来ました。
テルーが草原で一人歌を歌っているシーンなどは、これがやりたかったんだ!・・・というような思いが、ひしひしと感じられました。
また、いくつかのシーンにも、とても緊張感あふれる所がありました。
登場人物からは哲学的とも言えるセリフが話され、荘重流麗な音楽と共に、スケールの大きなストーリーが展開して行きます。
冒頭部、海には突如龍が現れ、国中には疫病が蔓延し、主人公アレンはとにかく不安に苛まれたために(?)父を殺し、ハイタカ(ゲド)は「これは世界の均衡が崩れている」と言う。
いくつかのエピソードは、しかし、予定調和的にそれぞれが関連しあいながら解決に向かって進むのではなく、それぞれがよくわからないまま、いわば宙づり状態のまま進行し、細部のつながりは、あえてバッサリと切り捨てられます。
主人公アレンには、もう一人の自分である「影」というものがいるらしいという事はわかるが、そいつが何者かはわからない。
ただ、なぜかそいつは突如危機的状況の時に出現し、テルーの道案内をする。
これは一例ですが、つまりは観客はただストーリーに付いて行くしかない。
そのストーリー展開の根拠のようなものは不明なまま、映画は進行して行くのです。
何だかよく分からないが、結果オーライなんだな、という感じ。
クライマックスのシーンで、悪の魔法使い・クモが、どーんと倒れてしまいます。
そのとき、私はクモという登場人物のみならず、この作品そのものがガラガラと崩れる思いを感じずにはいられませんでした。
この映画のストーリーは、一人の悪を倒して終わりという、単純な図式で収まるものではなかった筈のものと思えます。
冒頭部のストーリーからして、重層的な構造になっており、一筋縄ではいかない、奥の深さを予感させるものであった筈です。
音楽や映像等の「仕掛け」が、より重厚で壮大な演出を施されていた為に、「大山鳴動して鼠一匹」的なクライマックスに、クモ同様の、作品自体の構造的な脆さを感じずにはいられなかったのです。
私はアニメーション映画の現場というものを全く知りませんが、おそらくは驚くほど多くのスタッフが関わっているのだと思います。
そういう意味では、一大プロジェクトであり、監督はその指揮官であります。
私は「ゲド戦記」を観て、映画という一大事業のダイナミックさというものを、感じさせられました。
監督がどのような指示を出そうとも、プロジェクトは進行する。船は出航する。
その事実には、ただ圧倒されるしかない。
そんな感想を持ちました。