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みんなのマンション

輪番制で、マンション管理組合の理事になった一素人(現在理事長)が、あれこれ考えた事、見た事、調べた事。その他諸々。

「ゲド戦記」

2006年09月16日 | 映画
原作は読んだことは無いのですが、おそらくは壮大な長編の物語中の、ほんの一部分を映画化したのでしょう。
表面には出て来ない、裏話、隠されたエピソードがたくさんありそうな予感を覚える映画であります。

壮大な展開の物語をわずか約2時間の映画にする、この難事業に挑んだ新人監督は、あえて自分の描きたかった映像にとことんこだわり抜き、多少の展開のぎこちなさ、強引さは承知の上で、まるで宝の山から自分の欲する物だけをざっくりと掘り出すかのように、大胆に作品を構築して行きます。

新人監督の、この映画にかける、並々ならぬ意欲のようなものは、伝わって来ました。
テルーが草原で一人歌を歌っているシーンなどは、これがやりたかったんだ!・・・というような思いが、ひしひしと感じられました。
また、いくつかのシーンにも、とても緊張感あふれる所がありました。

登場人物からは哲学的とも言えるセリフが話され、荘重流麗な音楽と共に、スケールの大きなストーリーが展開して行きます。
冒頭部、海には突如龍が現れ、国中には疫病が蔓延し、主人公アレンはとにかく不安に苛まれたために(?)父を殺し、ハイタカ(ゲド)は「これは世界の均衡が崩れている」と言う。
いくつかのエピソードは、しかし、予定調和的にそれぞれが関連しあいながら解決に向かって進むのではなく、それぞれがよくわからないまま、いわば宙づり状態のまま進行し、細部のつながりは、あえてバッサリと切り捨てられます。

主人公アレンには、もう一人の自分である「影」というものがいるらしいという事はわかるが、そいつが何者かはわからない。
ただ、なぜかそいつは突如危機的状況の時に出現し、テルーの道案内をする。
これは一例ですが、つまりは観客はただストーリーに付いて行くしかない。
そのストーリー展開の根拠のようなものは不明なまま、映画は進行して行くのです。
何だかよく分からないが、結果オーライなんだな、という感じ。

クライマックスのシーンで、悪の魔法使い・クモが、どーんと倒れてしまいます。
そのとき、私はクモという登場人物のみならず、この作品そのものがガラガラと崩れる思いを感じずにはいられませんでした。
この映画のストーリーは、一人の悪を倒して終わりという、単純な図式で収まるものではなかった筈のものと思えます。
冒頭部のストーリーからして、重層的な構造になっており、一筋縄ではいかない、奥の深さを予感させるものであった筈です。

音楽や映像等の「仕掛け」が、より重厚で壮大な演出を施されていた為に、「大山鳴動して鼠一匹」的なクライマックスに、クモ同様の、作品自体の構造的な脆さを感じずにはいられなかったのです。

私はアニメーション映画の現場というものを全く知りませんが、おそらくは驚くほど多くのスタッフが関わっているのだと思います。
そういう意味では、一大プロジェクトであり、監督はその指揮官であります。
私は「ゲド戦記」を観て、映画という一大事業のダイナミックさというものを、感じさせられました。
監督がどのような指示を出そうとも、プロジェクトは進行する。船は出航する。
その事実には、ただ圧倒されるしかない。
そんな感想を持ちました。

「かもめ食堂」

2006年08月17日 | 映画
最近はなかなか観られないのですが、映画が大好きです。
家でビデオやDVDも良いのですが、やはり何と言っても、映画館で観るのが好きです。
昔から日本映画が特に好きで、よく観に行きます。

久々に妻と観に行って来た映画を、今日はご紹介したいと思います。
かもめ食堂」です。

(ストーリーの説明が少しありますので、これから観ようと思っている方は、以下ご了承ください。)

フィンランドで、日本人の女性・サチエさん(小林聡美)が開店したばかりの、「かもめ食堂」を舞台にした、どこかユーモラスで味わい深い、日常的なようで、でもどこか不思議な感じもある、他にちょっと類を見ない感覚の映画です。

妻と二人で観に行ったのですが、妻の隣に座っていた女性グループは、観終わった後、「何が言いたいのか、よくわからなかった・・・」と言っていたそうです。
そう。たしかに、観る人によっては、どこか捕らえどころのない映画と思われるかもしれません。

サチエさんが何故フィンランドにお店を出したのか、そこに至るまでの背景、経緯、心情といったものが、ほとんど描かれる事はありません。
ひょんな事から、お店を手伝う事になる、日本人の女性・ミドリさん(片桐はいり)、マサコさん(もたいまさこ)にしても、彼女たちが何故フィンランドに来たのか、等といった事は、セリフの中でごく断片的に描かれるだけで、それ以外には謎のままです。

あえて背景を描かない、という映画は特に珍しいとは言えないと思いますが、背景を想像させるようなキーポイントとなるシーンも特には存在しません。
「かもめ食堂」にあるのは、あくまで現在形でフィンランドを流れる空気と時間、そこにいる人たち、そして美味しそうなお食事。飲み物。
・・・といったものだけです。

かといって、現実だけを描いたリアルな映画、といったものでもありません。
マサコさんが、フィンランドに居着いてしまうきっかけとなるのが、空港で自分の荷物がなくなってしまうという事件なのですが、それを聞いたサチエさんは、マサコさんに「大事なものも入ってたでしょう・・・」と言うのですが、マサコさんは「そうねぇ・・・。私の大事なもの・・・。何か入ってたかしら・・・?」などとまるで他人事のように呟くのです。
そもそも、マサコさんは本当に荷物を持っていたのか、マサコさんがなくした荷物とは何なのか・・・、といった事すら、よくわからないのです。

でも、映画はいたって軽やかに進みます。
そんな背景なんて野暮な事、聞きなさんな、とでも言われているかのように。

「かもめ食堂」のメインメニューは、おにぎりです。
普通の定食屋さんのような日本食のメニューが、次々と出て来ます。
豚の生姜焼き、とんかつ、鮭の網焼き・・・。
これがまた美味しそうなんだ。
空腹で観なくて良かった。

サチエさんとミドリさんは、映画の中で、こんな会話をします。
「明日この世が終わるとしたら、何がしたい?」
「おいしいものを食べたい!」

そう。明日この世が終わるとしても、いや、終わるのなら尚のこと、その時にこそ、お腹いっぱい美味しいものを食べたい。
ひとりひとりには、いろんな事がある。
人知れず、背負っていたり、抱えていたり、引きずっていたりするものもあるだろう。
でも、そんなものは、ここでは関係ない。
ここで、みんなで美味しいものを食べ、美味しいお茶を飲む。
それがとても大切で貴重な事なんだ。
そんな事を語りかけられているような、何とも言えない幸福感に包まれた映画だったと思います。

かと言って、これは、ある種のユートピアを描いた映画でもありません。
サチエさんが、「人間は変わるものですからねぇ」などと、ドキッとするようなセリフを言うシーンがあります。
表面的な所を掬い取った映画ではなく、生きるという事、食べるという事の「深さ」を教えられるような映画なのです。

そして、それを描き出す舞台は、やはりフィンランドでなければならなかったのでしょう。
これは原作自体がフィンランドのお話になっているのかと思いますが、舞台の設定のみならず、脚本や演出の「勘所」とでも言うべきものが、冴えていました。
演出には、現実的というよりはむしろファンタジックと言っても良い所もありましたが、それがかえって作品の奥深さとなっていたと思います。

この映画の監督さん(荻上直子)の事は、経歴、過去の作品等、全く知らないのですが、センスの良さが随所に光っていると感じました。
妻は調理器具や洋服のセンスの良さに感心していました。
私はというと、そんな妙な所でと言われると思いますが、「かもめ食堂」の最初の客である、日本かぶれの若者が、最初に登場するシーンで着ているTシャツが、「ニャロメ」のTシャツだった所に、「あ、この監督、センスがある」と感じました。
何故「ニャロメ」だとそう思うのか、と言われても説明不能なのですが、あれは「ドラえもん」でも「鉄腕アトム」でも「ガンダム」でも「ウルトラマン」でも、ダメだったと思うのです。
あれが「ニャロメ」だった所に「ドンピシャ!」というのを感じました。

サチエさんは、お店の帰りに、プールで一人泳ぐのが日課になっているのですが、ときどき出て来る水泳のシーンも、印象的でした。

小林聡美さんは、さりげない所作やセリフが、ことごとく決まっていて、好演でした。
片桐はいりさん、もたいまさこさんも、それぞれの個性がうまくはまっていて、さすがと思えるものでした。

これから、ときどき映画の話題も書きたいと思います。