・・・弾薬の供与・・・「くりすます・イヴぁのプレゼント」・・・デフレ脱却の後はインフレである・・・ナゼ、「高橋是清」は「高・橋・是・清」なのか?・・・
ーー↓ーーー
ウイッキペデアより参照、参考抜粋、少々改作添付・・・
高橋是清
1854年9月19日
嘉永七年閏七月二十七
~
1936年
昭和十一年二月二十六日
仙台藩士
立憲政友会第四代総裁
第二十代内閣総理大臣
在任
1921年
大正十年十一月十三日
~
1922年
大正十一年六月十二日
子爵
幼名は和喜次(わきじ)
幕府御用絵師
川村庄右衛門(四十七歳)手付きの
きん(十六歳)の子
「きん」は
江戸
芝中
門前町(東京都港区芝大門)に生れ
父は
芝白金の
代々の
魚屋の
三治郎
是清は生後
仙台藩の
足軽
高橋覚治の養子となった
↓
横浜のアメリカ人医師
ヘボンの私塾(明治学院大学)で学び、
1867年(慶応三年)
勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外留学
横浜に滞在のアメリカ人の貿易商、
ユージン・ヴァン・リードに
学費や渡航費を着服され、
ホームステイ先である彼の両親に騙され
年季奉公の契約書にサインし、
オークランドの
ブラウン家に売られ奴隷となる
1868年
明治元年
帰国
1873年
明治六年
森有礼の推薦で文部省に入省
十等出仕
共立学校(開成高校)の初代校長を一時務めた
教え子には
正岡子規
秋山真之(海軍中将)など
1884年
明治十七年
農商務省外局の
特許局、初代局長
1889年
明治二十二年
ペルーで銀鉱事業
失敗
1892年
明治二十五年
川田小一郎の推薦で
日本銀行に入行
日露戦争 (1904~1905)
日銀副総裁
秘書
役深井英五を伴い、
戦費調達の為に
戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった
交渉の結果、
ジェイコブ・シフなどが
外債を引き受け、公債募集は成功
1905年
明治三十八年
貴族院議員に勅選
1911年
明治四十四年
日銀総裁
1913年
大正二年
第一次
山本内閣の大蔵大臣に就任
立憲政友会に入党
政友会の
原敬が組閣した際にも大蔵大臣
原の暗殺直後、
第二十代内閣総理大臣
立憲政友会の第四代総裁
閣内不統一で瓦解
総理大臣となった憲政会総裁の
加藤高明は、高橋を農商務相に任命
第15回衆議院議員総選挙に盛岡から出馬し
49票差で当選
政友会総裁を
田中義一に譲り引退
1927年
昭和二年
昭和金融恐慌
第一次
若槻内閣に代わって
組閣した田中に請われ
三度目の蔵相就任
日銀総裁となった
井上準之助と
支払猶予措置(モラトリアム)を行い
片面だけ印刷した急造の
200円札を大量に発行し、
銀行の店頭に積み上げ、
預金者を安心させて金融恐慌を沈静化
1931年
昭和六年
政友会総裁・犬養毅が組閣で
四度目の蔵相就任
金輸出再禁止(十二月十三日)
日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、
世界恐慌により混乱する
日本経済を
デフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)
五・一五事件
犬養暗殺
総理大臣を臨時兼任
続いて
斎藤実が組閣した際も五度目の大蔵大臣就任
1934年
昭和九年
岡田啓介首班の内閣にて六度目の大蔵大臣就任
リフレーション政策は成功していたが、
これに伴い
高率のインフレーションの発生が予見されたため、
これを抑えるべく
軍事予算の縮小を図った
軍部の恨みを買い、
二・二六事件で
赤坂の自宅
二階で反乱軍の
青年将校らに胸を
6発撃たれ、暗殺
享年82歳
ーーーーー
・・・
・・・奥義(奥儀)→扇(おうぎ)は風(かぜ・フウ)を煽(あお・あふ)る・・・鱈(たら)も秋刀魚(さんま)も、鰯(いわし・鰮)、鰹(かつお)も、鯡(鰊・にしん)もサカナ(魚・肴・真魚・真名の差仮名)の類い(たぐい・比い)は七(漆)輪の火と煙りを団扇(うちわ・ダンセン)でアオり、内輪で呷る夏の暑さカナ・・・十二月二十三日・月曜日・・・壱拾弐解通・弐拾参(念参)爾知・・・尾張(おはり・ビチョウ)名古屋(なごや・メコヤ)は城(しろ・ジョウ)で持つ・・・天守閣には鯱(シャチ)=魚+虎(寅→イン)・・・
ーー
春の魚 夏の魚 秋の魚 冬の魚
あいなめ あなご あきあじ あんこう
あさり すずき あきさば あまだい
いさき さんま かき かれい
かじき たかべ かつお きんめだい
かわはぎ たこ くるまえび きんき
さくらえび まいわし すじこ さわら
ばかがい あゆ するめ しらこ
まあじ うなぎ たらこ なまこ
どじょう めんたいこ ぶり
ほうぼう
めばる
ーー
魚偏の漢字の音訓に同音異字漢字を当てヨンでミる・・・と、ドウなるのか・・・意味は魚偏の右の部首である・・・鮮やか=魚+羊(ひつじ・ヨウ)・・・羊=ひつじ=未・日辻・秘通字・比通字の如く、羊=ヨウ=要・用・楊・揚・葉の如く・・・である・・・
ーー↓
「通事(ツウジ)」とは江戸時代に外国貿易のために
平戸・長崎に置かれた「通訳兼商務官」で
「唐通事」、
「オランダ(阿蘭陀)通詞」がおかれ、
「通弁」とは
「民事訴訟で、言葉の通じない陳述人」のために「通訳を行う者」で、
「刑事訴訟」では「通訳人」といった
↓
「唐通事(とうつうじ)」とは、
江戸時代の
長崎や薩摩藩、
琉球王国などに置かれていた
「中国語」の
「通訳」のこと
長崎においては、
慶長九年(1604年)に
小笠原一庵は
ポルトガル船の到来時
慶長九年(1604年)に長崎に下り、
明国中国人の
「馮六官」を唐通事に任命、
馮六(ホウロク・ヒョウロク)官
この時期
糸割符仕法が開始
「馮六官」→・・・馮=よる・たのむ・ヒョウ・ビョウ
↓ 憑依は「死霊・精霊・生霊」が取り付くコト
↓
寛永十二年(1635年)には
長崎在住の有力唐人貿易商
欧陽雲台
何三官
江七官
江三官
何八官
陳奕山
の
六人を任命
以後
唐通事制度は
慶応三年(1867年)まで263年間つづき
唐通事は延べ1644人(実数826人?)を数えたらしい・・・
↓
オランダの
ロースドイネン号は、
寛文元年八月三十一日、
艦隊司令官
カーウの命を受けて日本へ向い
長崎で、
慶長九年(1604年)
「馮六官」が唐通事に任命され、通訳・・・?
↓↑
「唐通事」の初例
「つうじ(通事・通詞・通辞)」
ーー↓
魚偏の漢字
鮮=あざ(やか)・すくな(い)
鯏=あさり・うぐい→得愚意・有具意・有虞意
鯵=あじ→味・安治・庵治・蛙字
鰺=あじ
鮩=あみ→編み・阿見
鯇=あめのうお
鮎=あゆ→阿諛
鮑=あわび→泡美・沫美・粟美
安和・安房・阿波
鰒=あわび
ふぐ→不具・附具・赴愚・負虞
魷=いか→以下・異化・意化
魦=いさぎ→潔・意詐欺・伊詐欺
�皸=いさぎ
鱊=いさぎ
鯆=いるか→入鹿・海豚
鰛=いわし→磐示・違和詞・巌視
鰮=いわし→言わし・威鷲
鰯=いわし→異和紙・異倭史
鮇=いわな→岩魚・岩名・異話納
鯎=うぐい
鰻=うなぎ→得名義・雨薙ぎ・得那岐
鱗=うろこ→「雨露・迂路・烏鷺」呼
「うろ=虚・洞・空」拠
鱏=えい→英・洩・衛・頴娃
嬰・栄・重意
鱛=えそ→重遡・得蘇・恵訴
壊疽
�癸=えび→蝦・海老・江尾
鰕=えび→重備・柄尾
鰓=えら→恵良・江良・エ等
魞=えり→選り
鮖=かじか→カジカ
鰍=かじか
どじょう
・・・・以下はカッテごジュウに・・・メリー・クリスマス・・・
鯑=かずのこ
鰹=かつお
魳=かます
鱲=からすみ
魪=かれい
鰈=かれい
鮍=かわはぎ
鱚=きす
鱜=きょう
鯢=めくじら
鯨=おくじら
鯉=こい
鯒=こち
鮗=このしろ
鰶=このしろ
鱓=ごまめ
鱔=ごまめ
鮴=ごり
�皖=さけ
鮭=さけ
鯹=さけ
鮄=さば
鯖=さば
鮫=さめ
鱵=さより
鰆=さわら
鱪=しいら
鱰=しいら
鯱=しゃち
鱐=しゃちほこ
鮊=しらうお
鯳=すけとうだら
鮓=すし
鮨=すし
鱸=すずき
鯐=すばしり
鯣=するめ
鰑=するめ
鮬=せいご
鮉=たい
鯛=たい
鰖=たかべ
鮹=たこ
鱆=たこ
魛=たちうお・えつ
魣=たなご
鰱=たなご
鱮=たなご
鱈=たら
鰔=たら,かれい
鱅=ちちかぶり
鱘=ちょうざめ
魡=つ(る)
鰢=つくら
鯲=どじょう
鰌=どじょう
魹=とど
魸=なます
鱠=なます
鮀=なまず
鯰=なまず
鯡=にしん
鰊=にしん
鮸=にべ
鯁=のぎ
鰣=はす
鰰=はたはた
鱩=はたはた
魬=はまち・かれい
鱧=はも
鮋=はや
鮠=はや
鰷=はや・はえ
鰚=はらか
鰉=ひがい
鯷=ひしこ
鮃=ひらめ
鰭=ひれ
鰾=ふえ・うきぶくろ
鱶=ふか
鮐=ふぐ
鯸=ふぐ
鮒=ふな
鰤=ぶり
?=ぼら
鯔=ぼら・いな
鮪=まぐろ
鮅=ます
鱒=ます
鮲=まて・こち
鯧=まながつお
鯥=むつ
鱫=むつ
鰘=むろあじ
鱞=やもお
鰥=やもお・や(む)
鰙=わかさぎ・はや
鰐=わに
鱷=わに
魥=キョウ
魭=ゲン
魫=シン
魨=トン
魮=ヒ
魴=ホウ,ボウ
鮔=キョ
魿=レイ
鮟=アン
鮧=イ・テイ
鮰=カイ
鮚=キツ
鮞=ジ
鮦=ウ
鯀=コン
鮼=シン
鮾=ダイ
鮿=チョウ
鮷=テイ
鯝=コ
鯤=コン
鯯=セイ
鯫=ソウ
鯘=ダイ
鯟=トウ
鯪=リョウ
鰄=イ
鰋=エン
�皺=カン
鯺=ショ
鯽=ソク
鰂=ソク
鰏=ヒョク
鯿=ヘン
鰞=ウ
鰜=ケン
鰪=コウ
鰦=シ
鰨=チョウ
鰩=ヨウ
鰡=リュウ
鱇=コウ
鰽=シュウ
鱃=シュウ
鱄=セン・タン
鱁=チク
鱎=キョウ
鱖=ケイ
鱣=テン・セン
鱝=フン
鱨=ショウ
魚=うお・さかな
鮆=えつ
鰲=おおがめ
鰧=おこぜ
魯=おろ(か)
鱟=かぶとがに
鯊=はぜ
鯈=はや・はえ
鮝=ふか
鯗=ふか
鰵=ビン
鱉=ベツ
鱻=セン
漁=ギョ・リョウ・いさ(る)・あさ(る)
鷠=ギョ
・・・・魚(さかな)=真魚(まな→真名=漢字)=肴(さかな)を漁(アサル)・・・アサルとは「漢字」のコト・・・
ーーーーー
枕草子
(奥書)・・・オクショ・オウショ・おくがき・おくかき
枕草子は、
人ごとに持たれども、
まことによき本は世にありがたき物なり。
これもさまではなけれど、
能因が本と聞けば、
むげにはあらじと思ひて、
書き写してさぶろうぞ。
草子がらも手がらもわるけれど、
これはいたく人などに貸さでおかれさぶらふべし。
なべておほかる中に、
なのめなれど、
なほこの本もいと心よくもおぼえさぶらはず、
さきの一条院の一品(いっぽん)の宮の本とて見しこそ、
めでたかりしか、
と本に見えたり。
これを書きたる清少納言は、
あまり優(ゆう)にて、
並み並みなる人の、
まことしくうちたのみしつべきなどをば語らはず、
艶(えん)になまめきたる事をのみ思ひて過ぎにけり。
宮にも、
御世衰へにける後には、
常にも候はず、
さるほどに失せたまひにければ、
それを憂き事に思ひて、
またこと方(かた)ざまに身を思ひ立つ事もなくて過ぐしけるに、
さるべくしたしくたのむべき人も、
やうやう失せ果てて、
子などもすべて持たざりけるままに、
せんかたもなくて、
年老いにければ、
さま変へて、
乳母子(めのとご)のゆかりありて、
阿波の国に行きて、
あやしき萱屋(かやや)に住みける。
つづりといふ物をぼうしにして、
あをなといふ物乾しに、
外に出でて帰るとて、
「昔の直衣姿(なおしすがた)こそ思ひ出でらるれ」
と言ひけむいこそ、
なほ古き心の残れりけるにやと、
あはれにおぼゆれ。
されば、
人の終りの、
思ふやうなる事、
若くていみじきにもよらざりけるとこそおぼゆれ。
ーーーーー↓↑
・・・能因が本
能(能都)の因(因果・允餓)の本(元・誉・品)
濃(美濃)の胤(たね・イン)の我の翻(ひるがえし)
埜(記紀)の音の臥の本
納(オサメル)の寅の叛
之(獅子)の隠の賀の本
乃(砂窪地・埃及)の引く画の本
廼(邁志を廴=ひく・イン・巡る)の因果の本
ーー
・・・書き写して
ーー
・・・さぶろうぞ
作分労 蘇
叉部漏 訴
査歩蝋 組
乍附臘 遡
佐武賂有曾
(曽→會=あう・エ・カイ
会→合図・会津=層=ソウ→想)
サブ=sub・substitute
SUB=代理人・補欠選手 (sub-stitute)
潜水艦 (sub-marine)
クラブなどの会費 (sub-scription)
副題(sub-title)
サブ-タイトル
ーー
・・・艶
・・(えん)に
ーー
・・・なまめき
ーー
・・・たる
ーー
・・・事をのみ
ーー
・・・御
・・・世
・・・衰へ
・・・にける
・・・後
語
・・・には
ーー
・・・さる
サル
・・・ほどに
・・・失せ
・・・たま
・・・ひ
・・・に
・・・け
・・・れ
・・・ば
ーー
・・・子なども
音・根・値
ーー
・・・すべて
・・・持た
・・・ざり
・・・ける
・・・ままに、
・・・阿波の
・・・国に行きて、
・・・あやしき
・・・萱屋
・・・(かやや)に
・・・住みける
ーー
・・・あをな
亜於名
蛙尾名
ーー
・・・といふ
トイフ
問い附・土肥赴
ーー
・・・物
・・・乾
かわか
・・・し
・・・に
ーー
・・・昔の
シャクの
釈・石・借・尺・杓・酌・勺
癪
ーー
・・・直衣姿
・・(なおしすがた)→直し諏を臥し拿
直意示素臥他
ーー
・・・こそ
・・・思ひ
・・・出でらるれ
ーー
・・・なほ・猶・尚・奈緒
名保・納補・那浦
肴保→肴(な・さかな・コウ・ギョウ)
拿捕→ダホ
ーー
・・・古き
・・・心の
・・・残れり
・・・ける
・・・にやと
似也賭
ーー
・・・人の
ーー
・・・終りの
(おわり・尾張)之
ーー
・・・思ふ
・・・やう
・・・なる
・・・事
・・・若くて
(わか・もし・ジャク)
ーー
・・・いみ
意味
ーー
・・・じき
字記
直・敷き・事記
磁器・・・・・陶器→陶の邑(唐の村)
自記・自棄
時期・時機・時季
ーー
・・・にも
・・・よらざり
・・・けるとこそ
・・・おぼゆれ
ーーーーー
・・・おわり・オハリ・・・マクラのソウシ・・・
・・・「トウジ」ですか・・・「ゲシ」が恋しい・・・「UFO」凄かったけれど、隕石破壊が出来ても津波は無理だったのかなッ・・・他力本願の祈りだけでは救われない・・・「与えられた民主主義」の枠内では己の「自由」が削られていくコトに無自覚なのかも。そして「自由」がタダであると思っているヒトがいる・・・世の中には「平和」を望んでいない連中がワンサカいる。「戦争と平和」と言うバカバカしい小説も映画もあった。スパイ映画の英雄は殺し屋だが国家の英雄、そしてカネで動く「売国奴」・・・近頃「買弁(バイペン)」と云うコトバを聞かないが・・・
TVドラマのホトンドが恨みか、カネに絡んだ「市民社会の殺人事件」・・・「平和」とは国家間の休戦、停戦期間の「妥協」であるらしい・・・「妥協」にも色々あるが、国家のダレとダレの妥協なのか。「国民のダレ?」・・・「富国強兵」とはダレが望んでいるのか・・・周りには詐欺と泥棒ばかり。一族郎党は身内を護らなければならいが、カネをめぐっての身内のトラブルも多い・・・ホトケだ、キリストだなどとは云っていられない。「似非社会主義者」を供養だといって45億円も動かし、キンキラキンの袈裟を着て拉致問題の解決だと読経を派手にあげる坊主・・・ナンジの敵をアイせよ、と説く牧師、神父がナチスやマフィアと関係し、子供を奴隷のように扱い豪邸にフンづりかえってワインを呑んでいる・・・テキとはダレなのか・・・「臥薪嘗胆」とは戦いのその「時機」を望んで、妥協し、「我慢忍耐」をすると言う「支配者」と、その追従者の「待望論・待機論」である・・・「平和」を望むモノはナニをすればイイのか・・・
ーーーーー
枕草子
(三二三段)・・・「三百二十三・参佰弐拾参・参弐参・参陌仁足参・参陌念参」段
3+2+3=8=八=捌=??
3×2×3=18=十八=壱拾八=壱足捌=???
わが心
にも
めでたくも
思ふことを、
人に語り、
かやうにも
書き
つくれば、
君の
御ため
かるがる
しき
やう
なるも、
いと
かしこし。
されど、
この草子は、
目に
見え
心に
思ふことの、
よし
なく
あやしきも、
つれづれ
なる
をりに、
人やは
見むと
するに
思ひて
書き
あつめ
たるを、
あい・・・・アイ
なく
人の
ため
便・・・・・たより・ベン
(びん)
なき
言ひ
過ごし
つつべき
所々・・・・ショショ・とろどころ
あれば、
いと・・・・イト
意図・伊都・医徒・異塗
よく
隠し
おきたりと
思ひしを、
涙・・・・・なみだ・ルイ
せき・・・・セキ
あへず・・・アヘず
こそ
なりに
けれ。
宮の・・・・ミヤの・キュウの
御前に、・「オンゼン・みまい」に
内の・・・・ナイの・ウチの・ダイの
大殿・・・・ダイデン・タイデン
(おとど)・音度
の・・・・・之・廼・能・納・乃・埜・野
奉ら・・・・タテマツら・ホウら・ブら
せ・・・・・セ・施・世・背・脊
たまへり・・他真得理
ける・・・・化留
草子を、・・ソウシを
叢史・双示・宋誌・躁覗・創氏
「これに
何かを
書
か・・・・カ・掛
まし」・・マシ・馬史・真詞・馬示
増し・益し・磨詞・麻誌
と、
「うへの
御前には
史記
といふ・・・トイふ・トいふ・トイフ
文・・・・・ぶん・もん・あや
(ふみ)・・・フミ
を・・・・・ヲ・お・オ
なむ、・・・ナム
一部・・・・イチブ
書かせ・・・カかせ・かカセ
たまふ・・・タマウ
なり。・・・ナリ
古今・・・・フルイイマ・いにしえいま
(こきん)・コキン
をや・・・・ヲヤ・オヤ
書か・・・・・カか・かカ
まし」・・・マシ・馬史・真詞・馬示
増し・益し・磨詞・麻誌
など・・・・・ナド
のたま・・・・ノたま
は・・・・・・葉
せ・・・・・・施
し・・・・・・詞
を、・・・・・ヲ・オ・於・緒・嗚・尾
「これ給ひて、
枕・・・・・まくら・チン
に・・・・・爾
し・・・・・シ
はべら・・・葉部等(羅)
ばや」・・・バヤ・場也
と
啓・・・・・・もうす・ひらく・ケイ・ケ
せ・・・・・・施
し・・・・・・シ
か・・・・・・カ
ば、・・・・・バ
「さ・・・・・サ・作・差・叉
ら・・・・・ラ・等
ば・・・・・バ
得・・・・・え・う・とく
よ」・・・・ヨ
とて・・・・・トテ・トデ
給はせ・・・・タマはせ
たり・・・・・タリ
しを、・・・・シを
持ちて、・・・モちて・ジちて
里に・・・・・サトに・リに
まかり・・・・マカリ
出でて、・・・イでて
御前・・・・・オンゼン・みまい・オンさき
わたりの・・・ワタリの
恋しく・・・・コイしく・レンしく
思ひ・・・・・オモひ
出・・・・・・イ
で・・・・・・デ
ら・・・・・・ラ
るる・・・・・ルル
事・・・・・・ジ・こと・ず
あやしきを、・アヤシキを
こじ・・・・・コジ
や・・・・・・ヤ
何やと、・・・ナニやと
つき・・・・・ツキ
せず・・・・・セズ
おほ・・・・・オホ
かる・・・・・カル
料紙・・・・・はかるかみ
(りょうし)・リョウシ・漁史(詞)
を・・・・・・ヲ・オ
書き・・・・・カき・ショき
つくさむと・・尽くサムと
せし・・・・・セシ
ほど・・・・・ホド
に、・・・・・に
いとど・・・・意図度
物・・・・・・もの・ブツ
おぼえぬ・・・オボエヌ
事・・・・・・こと・ず・ジ
のみぞ・・・・ノミゾ
おほ・・・・・オホ
かる・・・・・カル
や。・・・・・ヤ・埜・哉・也
これは、・・・コレハ
また、・・・・マタ・又・亦・股・俣・叉・復
世の中に・・・ヨのナカに
をかしくも・・オカシクモ
めでたくも・・メデタクモ
人の
思ふべき事を
選(え)り
出でたるかは、
ただ
心一つに
思ふ事を
たはぶれに
書きつけたれば、
物に立ちまじり、
人・・・・・・ひと・ジン・ニン
並み
並み
なるべき
物
かはと
思ひたるに、
「はづかし」・・ハズカシ・葉事化史(詞)
など、
見る人の、
のたまふらむ
こそ
あやしけれ。
また、
それも
さる・・・・・サル
事・・・・・・こと・ず・ジ
ぞ・・・・・・ゾ・ソ
かし。・・・・カシ
人の、
物の
よし
あし
言ひ
たるは、
心の
ほどこそ
おしはからるれ。
ただ
人に
見え
そむる・・・・ソムル
のみぞ、
草木の
花より
はじめて
虫に
いたるまで、
ね・・・・・・ネ
たき・・・・・タキ
わざなる。・・ワザナル
何事も・・・・ナニゴトも・ナンジも
ただ
わが心に
つきて
おぼゆる事を、
人の語る
歌物語、
世のありさま、
雨・風・霜・雪の
上をも
言ひ
たるに、
をかしく
興・・・・・おこる・おこす・コウ
(きょう)
ある事も
ありなむ。
また、
「あやしく
かかる
事のみ
興あり、
をかしく
おぼゆ
ら
む」
と、
そのほどの
そしられば、・・・「謗られ・誹られ」場・葉
罪さり・・・・・・ツミさり・ザイさり
所なし。・・・・・ショなし・トコロなし
さて
人
並み並みに、
物に
立ち
まじらはせ、
見せ
ひろめ
かさむ・・・・カサム・カサむ
とは
思はぬ
もの
なれば、
えせ・・・・・エセ・似非
にも、・・・・ニモ
やさ・・・・・ヤサ
しくも、・・・シクモ
けし・・・・・ケシ
消し・芥子・毛詞・懸詞・怪し
嗾(けしかけ)
から・・・・・カラ
ずも、・・・・事模
心
づきなくも
ある
事ど
もも・・・・・モモ・百・桃・腿・股
模摸・喪母
あれど、
わざと
取り
立てて、
人々
しく
人の
そしる
べき
事も
あらず。
上手の
歌を
よみたる歌を、
物おぼえぬ人は、
そしらず・・・・ソシラズ
やは
ある。
かりのこ・・・・カリのコ
食はぬ人も
あンめり。
梅の花を・・・・ウメのハナを
バイのカを
すさまじと
思ふ
人も
ありなむ。
ざいけのこは、・・・ザイケのコは
在 家の子は
罪 家の子は
財 家の子は
材 家の子は
剤 家の子は
斉 家の子は
座位家の子は
西 家の子は
歳 懸の呼葉
あさがほ・・・・・・アサガホ
朝顔
阿佐臥保
痣臥保
字臥保
引き
捨てず
や
は
ありける。
さよう
に
こそ
は、
おし
はからめ、
げに・・・・・・・・解爾
なまね・・・・・・・生音
たく・・・・・・・・託
も・・・・・・・・・モ
おぼえぬ
べき
事
ぞ
かし。
されど
なほ
この
すずろ・・・・・・・スズロ
事の、
知らぬ
ばかり
好
ま
しくて
おかれぬ・・・・オかれヌ
おカレぬ
おかレぬ
をば・・・・・・ヲバ・オバ
いかが
せ・・・・・・・施
むず・・・・・・務事
る。・・・・・・留・婁・屡・流・琉・瑠
ーーーーー
アトはオクショで・・・オワリかな・・・
・・・「マクラのソウシ」の「322の段」は「纂の比訳の似を拾い、仁」、「惨を撚(念)じて似」を比べる目の「談」・・・「サルタ比古」の溺死・・・祀ったのは「サル女のクン=宇受女」・・・「白村江の戦い」・・・「日本帝国海軍」の「ミッドウエイ海戦」・・・
ーーーーー
枕草子
(三二二段)・・・「三百二十二・参佰弐拾弐・参弐貳・参陌貮拾弐」段
3+2+2=7=七=漆
3×2×2=12=十二=壱拾弐=壱足仁
左・・・・ひだり・サ
中・・・・なか・チュウ
将・・・・まさに・ショウ
の・・・・之
いまだ・・未だ・今だ・今田・居間拿
伊勢の・・イセの・「伊の勢い」の
ーー↓ 「伊」=イ・いさ・おさむ・これ・ただ・よし
かれ・かの・これ・この
あの、その、かの、あたな、
と代名詞に用いられる
これ=是・之・此れ
伊
神の意志を伝える聖職者
治める人の意
調和をさせる様
殷初期の伝説の宰相
伊尹(イイン)に因む嘉字
とされ、人名、地名に用いられる
殷の聖人
「阿衡(アコウ)」は
殷(いん)の大臣、「伊尹」の官名
「尹(イン)」は長官・次官・監督
伊藤博文
伊号潜水艦
伊太利亜
伊万里焼
伊賀
伊豆大島
↓ウイッキペデアから参考、参照抜粋
推古天皇二十八年(620年)八月条
掖玖(やく・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着
↓
・・・ナゼ「掖玖(ヤク)」なのか?
・・「掖」→わき=「腋・脇=わき)」
・・・和気・沸き・湧き・涌き→わけ・訳・約
別け・和気・分け・捌=八
・・・玖=九・9・IⅩ・ナイン=NINE
↓ 6(SIⅩ)の逆字
↓
天武天皇四年四月十八日条(675年5月20日)
麻績王の子、流刑
天武天皇六年四月十一日条(677年5月20日)
田史名倉などが伊豆島に流刑
(日本書紀)
神亀元年(724年)
伊豆国が
安房国、常陸国、佐渡国などとともに
遠流の地に定められた
文武天皇三年五月二十四日(699年6月29日)
「役小角」が「伊豆嶋」に流刑
↓
・・・ナゼ「役小角(エンのオズ)」なのか?
ヤクのショウカク→約=訳の章化句
厄の章較
薬の小核
エキのチイサイツノ→知意歳通埜(之)
↓
「扶桑略記」の同日条では
↓
フソウ→伏そう・臥そう・附そう
↓
「仍配伊豆大島」と記録
(続日本紀)
↓
仍配
↓
仍=ジョウ・ニョウ・よる(因)
もとのままに從ふ
なほ・かさぬ・かさなる(重)
しきりに(頻)
すなはち=乃
仍仍は志を得ざる貌・又、衆き貌
遠きち筋の子孫
説文解字=因るなり、人に従ふ、乃を聲とす
よって=因って・依って・仍って
理由を述べた文を受けて、
結論を述べる文へ導くのに用いる語
「そういうわけで」
よる・したがう・かさなる
もとの物事につけ加わる
かさねて・しきりに・しばしば・なお
仍世(ジョウセイ)=代々・累代
仍孫(ジョソン)=自分より
七代後の子孫
子・孫・曽孫・玄孫
来孫・昆孫(コンソン)の次
仍って(よって)
↓
「殿暦」
永久元年十月二十二日条(1113年12月9日)
醍醐寺の
仁寛(立川流の祖)が伊豆大島に流刑
琉球王国の正史
「中山世鑑」、「おもろさうし」、
「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、
源為朝は「保元の乱」に敗れて捕らえられ、
伊豆大島に配流された後に島々を掠領し
工藤茂光に攻められ、伊豆諸島の人々の助けで
沖縄の地に逃れ、その子が
琉球王家の
始祖
舜天になった記録が・・・あるそうだ
この話が
曲亭馬琴の
「椿説弓張月」の下敷きになった
大正十一年には沖縄県に為朝上陸の碑が建立
表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下に
東郷平八郎の名が刻まれている
応永三年七月二十三日(1396年9月3日)
伊豆守護・上杉憲定に伊豆国の所領が交付
この所領は
応永二年七月二四日に
父・上杉憲方の遺領として
安堵されたものだった
その後は
「八丈島年代記」には
金川(神奈川県横浜市神奈川区)の領主
奥山宗林が
八丈島、小島、青ヶ島、
三宅島、御蔵島の
代官となった記録があるらしい・・・
戦国時代
後北条氏が伊豆諸島全体を支配
天文二十一年九月十九日(1552年10月17日)
島は噴火
天正十八年(1590年)
北条氏の旧臣の支配が続いた後に
江戸幕府の代官が治めた
生類憐れみの令
鳶・鷹・雉子などが
宝永五年(1708年)まで
20年余り島に放鳥
寛文十年(1670年)に
代官の渡島禁止、
享保八年(1723年)には
手代の渡島禁止
新島村の
神主である
藤井氏が行政担当
地役人を世襲で助ける島の有力者を
島代官と称した
享保二年(1717年)の改革
島へ渡る役人と島の有力者を、
島役人、地役人と呼ぶようになった
元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)
元禄関東地震の
大津波で、
湖だった波浮港が外海とつながる
江戸時代にも流刑地とされ
「伊豆大島志考」に
慶長十二年(1607年)
岡部藤十郎
慶長十七年(1612年)
キリシタンの
ジュリアおたあ
天和二年(1682年)
越後騒動の
小栗兵庫
元禄十六年(1703年)
赤穂浪士の
間瀬正明の次男
間瀬定八が流刑
日蓮宗
不受不施派の僧などが流刑
寛政八年(1796年)
流刑地から除外され、
島開所が設けられた
1882年(明治十五年)
秋広平六が
西洋帆船を建造し、本土との往来
1897年(明治三十年)
相陽汽船が
伊東(静岡県伊東市)との間で開航路
翌年には同航路で
実業家・杉本が和船の運航
1900年(明治三十三年)
逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始
ーー↓「伊勢の」からのツヅキ
守と・・・「カミ・まもる・シュ」と
聞こえし・キこえし・「モン・ブン」こえし
とき、・・トキ
時・説き・解き・溶き・融き・梳き
土岐・怒気・退き・(風)土記
朱鷺・鴇
鬨・辰・穐
トキ・賭記・徒祈
渡記
里に・・・サトに・リに
おはし・・オハシ
たり・・・タリ
しに、・・シニ
端・・・・ばた・タン
(はし)
の・・・・之
方・・・・ホウ
(かた)
なりし・・ナリシ
畳を・・・タタミを・ジョウを
さし・・・サシ
出・・・・イ・スイ・で
で・・・・デ・テ・弟
し・・・・シ・・・子
物は、・・モノは
この・・・コノ
草子も・・ソウシも・クサコも
乗りて・・ノりて・ジョウりて
出・・・・イ
で・・・・デ・て・弟
に・・・・ニ
けり。・・ケリ
まどひ・・惑ひ・円居ひ・団居ひ
取り・・・トり
入れ・・・イれ
しか・・・シカ
ども、・・ドモ
やがて・・ヤガテ
持て・・・モて・ジて
お・・・・オ
はして、・ハシテ
いと・・・意図
久しく・・シサしく・キュウしく・クしく
ありて・・アリテ
ぞ・・・・ゾ・ソ
かへり・・カエリ・返り・孵り・還り・帰り
「変え・換え・代え・替え」り
「飼え・買え」り
蘇生・甦生
にし。・・ニシ
それ・・・ソレ
より・・・ヨリ
染め・・・ソめ・センめ
たる・・・タル
なめり・・ナメリ
とぞ。・・トゾ
ーーーーー
・・・ボクの妄想道理の企てがあったとしたら・・・荒唐無稽・・・
・・・「餃子」の「王将」の社長が拳銃で撃たれて殺された・・・九州でも漁業組合長が拳銃で撃たれて殺された・・・遵法(順法)の「善人」であっても、アウトロウーの「悪人」であっても殺される・・・この世の中・・・「ドクターⅩ」は「カネ」で「ネズミ」のヤマイも助けようとする・・・「ねずみ」は「鼠」で「子」、その移動は「移鼠=イエス」であった・・・「地名」の「・・・字(あざ)」は「宀+了+一」であった・・・
英語の
「アルファベット」の「26音」の
六番目は「F・f(エフ)」
七番目は「G・g(ジィ)」だが・・・
「あいうえお」の「50音」の
六番目は「か・カ」
七番目は「き・キ」だが・・・
「伊呂波」の
六番目は「へ」
七番目は「と・ト」だが・・・
「あめつちの歌」
↓
「あめ(天)つち(地)
↓↓ ↓↓
ほし(星)そら(空)
↓↓ ↓↓
やま(山)かは(川)
↓↓ ↓↓
みね(峰)たに(谷)
↓↓ ↓↓
くも(雲)きり(霧)
↓↓ ↓↓
むろ(室)こけ(苔)
↓↓ ↓↓
ひと(人)いぬ(犬)
↓↓ ↓↓
うへ(上)すゑ(末)
↓↓ ↓↓
ゆわ(硫黄)さる(猿)
↓↓ ↓↓
おふ(生ふ)せよ(せよ)
↓↓ ↓↓
えの(榎の)えを(枝を)
↓↓ ↓↓
なれ(慣れ)ゐて(居て)」の
六番目は「し・シ」
七番目は「そ・ソ」だが・・・
「ギリシャ(希臘)文字」
「ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ
αβγδεζηθικλμνξοπρστυφχψω」の
六番目は「Z・ζ(ヅゼータ・ゼータ・ジタ・ズィタ)」
七番目の「H・η」だが、
英語の
七番目の「G・g」が、
ギリシャ文字の
三番目が「G=Γ・γ(ガンマ)」・・・?
「天地(あめつち)」と訓じるなら「地」は「土(つち・ド)=十+一」の文字である・・・ココでの漢字、「上・末(下・終・了・端)」は「物」ではない。「うえ=植え・飢え・餓え」、「すえ=据え・陶・吸え」かも・・・ならば、次の「硫黄(ゆおう)・猿(さる)」は「物」ではなく、「結おう・言(ゆ・云・謂)おう・申(去る・然る)=もうす」だろう・・・「硫黄(ゆおう・イオウ・リュウオウ」の発音の説明が「ユワ=硫黄」・・・「日本語」には本来、「語頭にラ行の音」を持つ言葉が存在せず、「古代日本」において漢語(文字)「硫黄」が入ってきたとき、リウ、ワウと発音することができずに変化したもので、現在でもこの語を「いおう」と読むのはその名残で、「源順」が編纂した『和名類聚抄』には「硫黄」の項目にその注として、「硫黄」を俗に「ユワウ」と呼ぶと記されている、とあったが・・・?・・・であるな。
硫黄(イオウ・sulfur・sulphur=サルファ・ラテン=羅典語もsulphur)は原子番号16の元素・元素記号は「S」・酸素族元素の一つ・多くの同素体や結晶多形が存在し、融点、密度はそれぞれ異なる・沸点444.674°C・硫黄の英名sulphurは、ラテン語で「燃える石」・・・「硫黄島」は太平洋戦争の日米の激戦地だった・・・
↓
硫黄島
1543年
ベルナルド・デ・ラ・トーレ (Bernardo de la Torre) 船長のスペイン船サン・ファン・デ・レトラン (San Juan de Letran) が発見
1779年
ジェームズ・クック率いるレゾリューションおよびディスカヴァリーにより、「サルファーアイランド」と命名
1887年
東京府による探査
1889年6月
父島の住民
田中栄次郎が、
帆船、南洋丸にて十余名とともに、
鮫漁と
硫黄採取を目的として入植
1891年9月9日
勅令により日本領土に編入
島名を「硫黄島」とし、
東京府
小笠原島庁所属とした
1892年
本格的に硫黄採掘事業開始
1923年
島嶼町村制が施行
東京府
小笠原支庁
硫黄島村となった
ーー↓
ダイタイカラして「源順」なる人物が「?」である・・・「臈闌ける=ラフたける」は「洗練された美しさ・気品・年功を積む・経験を重ねる・洗練される・上品である」という意味・・・「ラリルレロ」の語頭のコトバが無かったとし、「ゆおう・さる」がモノなら「湯・油」の「覆うサル」かも・・・そして、
おふせよ→御布施よ→「於伏せ・措臥せ・置附せ」よ
オブせよ
えのえを→柄の絵を→「得の画・重の枝・会(魁)の回」を
エのエを
なれゐて→生れ意て→「鳴れ・為れ・成れ・慣れ
ナレヰて 熟れ・狎れ・名零(例)」
亥(ゐ・ヰ・入)て
イの同音異字漢字のスベテ
である・・・四文字を並べて一文字を縦にヨメば、どうなるか・・・
↓
いくらなんでも、ミエミエではないか・・・「アメ、ツチのウタ」・・・
最古の出自、出典が「みなもと」の「したがおう」である、とは・・・
ーー↓
源 順・・・・・(911年~983年)の
(みなもと したがおう)・九百壱拾壱~九百八拾参
↓ 九百十一 ~九百八十三
↓ 順=川+頁 玖飛躍足壱~句秘訳捌足纂
私家集 順の類字は「須」=彡+頁
「順集」であるらしい・・
「あめつち」の詞の
仮名を始めと終りに置いて詠んだ・・・
八首、合わせて四十八首が収められている・・・
↓
あらさじと・うちかへすらし・をやまだの・なはしろみづに・ぬれてつくるあ
↓ ・・・末尾の「あ」とは「畔(あぜ)」で、「あぜ」の古語
めもはるに・ゆきまもあをく・なりにけり・いまこそのべに・わかなつみてめ
↓ ・・・今こそ述べ爾、和仮名積み出目
つくばやま・さけるさくらの・にほひをぞ・いりてをらねど・よそながらみつ
↓ ・・・
ちぐさにも・ほころぶはなの・しげきかな・いづらあをやぎ・ぬひしいとすぢ
↓↑
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
・・・冒頭から「さる」までは、二音一文字漢字
「天・地・星・空
山・川・峰・谷
雲・霧・室・苔
人・犬・上・末
硫黄(ユワウ)・猿」
という言葉を並べたモノ・・・
「おふせよ・えのえを・なれゐて」は意味不明で?・・・「形式的にも破綻」している?・・・その理由については不明・・・であるらしい・・・?
「天地(あめつち)」と訓じるなら「地」は「土(つち・ド)=十+一」の文字である・・・ココでの漢字、「上・末(下・終・了・端)」は「物」ではない。「うえ=植え・飢え・餓え」、「すえ=据え・陶・吸え」かも・・・ならば、次の「硫黄(ゆおう)・猿(さる)」は「物」ではなく、「結おう・申(去る・然る)」だろう・・・「硫黄(ゆおう・イオウ・リュウオウ」の発音の説明が「ユワ=硫黄」・・・日本語には本来、「語頭にラ行の音」を持つ言葉が存在せず、「古代日本」において漢語(文字)「硫黄」が入ってきたとき、リウ、ワウと発音することができずに変化したもので、現在でもこの語を「いおう」と読むのはその名残で、「源順」が編纂した『和名類聚抄』には「硫黄」の項目にその注として、「硫黄」を俗に「ユワウ」と呼ぶと記されている、とあったが・・・?・・・であるな。ダイタイカラして「源順」なる人物が「?」である・・・「臈闌ける=ラフたける」は「洗練された美しさ・気品・年功を積む・経験を重ねる・洗練される・上品である」という意味・・・「ラリルレロ」の語頭のコトバが無かったとし、「ゆおう・さる」がモノなら「湯・油」の「覆うサル」かも・・・そして、
おふせよ→御布施よ→「於伏せ・措臥せ・置附せ」よ
オブせよ
えのえを→柄の絵を→「得の画・重の枝・会(魁)の回」を
エのエを
なれゐて→生れ意て→「鳴れ・為れ・成れ・慣れ
ナレヰて 熟れ・狎れ・名零(例)」
亥(ゐ・ヰ・入)て
イの同音異字漢字のスベテ
である・・・四文字を並べて一文字を縦にヨメば、どうなるか・・・
あめ つち
ほし そら
やま かは
みね たに
くも きり
むろ こけ
ひと いぬ
うへ すゑ
ゆわ さる
おふ せよ
えの えを
なれ ゐて
↓
アホやみくむひうゆおえな
めしまねもろとへわふのれ
つそかたきこいすさせえゐ
ちらはにりけぬゑるよをて
・・・ニホンゴ一音に対する同音異字漢字は多数あり、仮名一文字に漢字を選択するには意味が通らねば、句、文章とはならないが、ボク的にはホトンドが意味の通るモノとなってしまう・・・やってみる・・・「百人一首」も同じようなパズルらしいから・・・
↓
源 順(みなもと の したごう)
延喜十一年(911年)
~
永観元年(983年)
嵯峨源氏の一族
大納言
源定の孫
左馬允
源挙(みなもと の こぞる)の
次男
子に貞
下総権守・和泉守等を歴任
極官は従五位上、能登守
↓従語彙、咽喉守る
・・・源(みなもと)を挙(あげる)、
源(みなもと)に順(したごう)・・・
・・「延す期」の壱拾壱から
「永く観る」の贋を撚(よ)る・・・
ーーーーー
枕草子
(三二一段)・・・「三百二十一・参佰弐拾壱・参弐壱・参陌仁足壱」段
3+2+1=6=六=陸→V?→F(エフ)
3×2×1=6=六=陸→V?→F(エフ)
もの
くらう
なりて、
文字も
かかれず
なりたり。
筆も
使ひ
はてて、
これを
書き
はて
ばや。
この
草紙は、
目に見え、
心に思ふ事を、
人やは
見んずると
思ひて、
徒然なる
里居の
ほどに、
書き
集め
たるを、
あいなく、
人の
ため
便なき
いひ
過し
など
しつべき
所々も
あれば、
きよう
かくし
たりと
思ふを、
涙
せき
あへず
こそ
なり
に
けれ。
宮の
御前に、
内大臣の
奉り
給へり
けるを、
「これに
何を
書かまし。
うへの
御前には、
史記と
いふ・・・といふ
文を
書かせ
給へる」
など
の給は
せしを、
「枕に
こそ
はし
侍ら
め」
と
申し
しかば、
「さば
得よ」
とて
賜
はせ
たり
しを、
あやしきを、
こよや
何やと、
つき
せず
おほかる・・・オホかる・オオかる
紙の・・・・・カミの
數を、・・・・シキを・シクを
書き
つく
さんと
せし
に、
いと
物
おぼえぬ
こと
ぞ
おほ
かる
や。
大かた
これは
世の中に
をかしき
事を、
人の
めでたし
など
思ふ
べき事、
なほ
選り
出でて、
歌など
をも、
木、
草、
鳥、
蟲
をも
いひ
出した
らば
こそ、
思ふ
ほど
よりは
わろし、
心・・・・・ココロ
見え
なり
とも
そしられめ。・・・謗られめ・誹られめ
ソシラレ目
ただ
心
ひとつに、
おのづから
思ふことを、
たはぶれに・・・・戯れに
タハブレに
書き
つけ
たれば、
物に
立ち
まじり、
人
なみなみなるべき・・・ナミナミナルベキ
な
みな
みな
る
べき
耳を
も
聞く
べき
もの
かはと
思ひしに、
はづか
しき
なども、
見る
人は
の給ふ
なれば、
いと・・・・・意図
あやしく・・・アヤシク
ぞ
あるや。
實に
それも
ことわり、・・・理屈
人の
憎む
をも
よし
といひ、
譽むる
をも
あし
とい
ふは、
心の
程
こそ
おし
はからるれ。
ただ
人に
見え
けん
ぞ
ねた・・・・ネタ
き・・・・・キ
や。・・・・也
ーーーーー
人の憎むをも、よし、とい、ひ、譽むるをも、あし、とい、ふ、は・・・心の程こそ、おしはからるれ・・・