・・・朝、9:20のバスで隣の町の病院へ・・・診察が終わったのが13:00過ぎ・・・長い待ち時間だった・・・帰宅したのは16:00過ぎ・・・「遠山が目玉にうつるとんぼかな(小林一茶)」・・・本当はトンボはナニを観ていたんだろう。そのトンボの眼に映るモノを「一茶さん(1763年6月15日生まれ)」は観ていた?「遠山=とおやま=通山・東山・陶山・藤山」、「とうやま=問う山=当山・頭山・樋山」、「唐簒(纂)=トウサン=等算・倒産・父さん」・・・「簒=竹+目+一+人+ハ+ム=サン・うばう・うばいとる・横取りする・簒奪・簒立」で「編纂」の「纂(あつめる・つぐ・くみひも・まとめる・纂修・つぐ・受け継ぐ・纂承)=竹+目+一+糸(幺亅八)」ではない・・・「遠山金四郎(禁止賂得)が目玉に写る(遷る・移る・映る・暎・うつる)蜻蛉(とんぼ)仮名(小林一茶)」・・・遠山金四郎=(寛政五年八月二十三日(1793年9月27日)~安政二年二月二十九日(1855年4月15日)通之進(幼名)、名は景元・金四郎は通称・左衛門尉・帰雲(法名)・1840年江戸北町奉行、1845年南町奉」・・・ボクは「姓名・名前」と「生年月日」や、単純な「記録された数字」に興味があるのだが、「1763&1793」・・・で、NHK「総合診療医ドクターG」では「詐病(自己利益を目的として病気であるかのように偽り、周囲の目をあざむく詐偽行為・仮病)」・「身体症状症(ミュンヒハウゼン症候群=虚偽性障害の疲労感や、頭痛、不眠、動機、震えなどの身体的症状で身体症状による苦痛を感じており、詐病や仮病とは異なる・身体症状症=自覚症状ほどの身体的異常や検査結果がないにもかかわらず、痛みや吐き気、痺(しび)れなど多くの身体的な症状が長い期間にわたって続く病気」・・・らしい・・・直接、「脳ミソ」の脳神経に末端の神経が正常に繋がっているとは限らないのは当然である・・・当然、末端がどの様に感じているかは無視して、「異常にな感覚」として「脳ミソ」は判断し、反応する・・・物理的に痛いハズが無いのに、脳ミソは末端の痛みを感じるのは当然である・・・
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小林 一茶
宝暦十三年五月五日(1763年6月15日)生まれ
↓↑ ↓↑
↓↑ 干支年=癸未(ひつじ=羊)
皇紀2423年
中国=清・乾隆二十八年
朝鮮=李氏朝鮮・英祖三十九年
イスラム暦=1176年~1177年
1763年
2月10日英仏間でパリ条約の締結
↓↑ 七年戦争終結
2月15日プロイセンとオーストリアなどが
↓↑ 七年戦争の講和条約の
フベルトゥスブルク条約締結
↓↑ 本居宣長、賀茂真淵に出会い
↓↑ 「古事記」研究の決意
(松阪の一夜)・・・???
「古事記伝(こじきでん
ふることふみのつたえ)の
註釈書・本居宣長
全四十四巻」?
版本刊行は
1790年(寛政二年)から・・・?
宣長没後の
1822年(文政五年)・・・?
「青の洞門」が貫通
↓↑ 青の洞門貫通
1750年(寛延三年)に第1期工事完成
1763年(宝暦十三年)最終的貫通
「禅海」和尚が、
断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で
通行人が命を落とすのを見、
トンネルを掘り安全な道を造ろうと、
托鉢勧進によって掘削の資金を集め、
石工たちを雇ってノミと槌だけで
30年かけて掘り抜いた・・・
当時
「樋田の刳抜(ひだのくりぬき)」
と呼ばれ、
江戸時代末期~大正時代にかけて、
「樋田のトンネル」
「青の洞門」
と呼ばれるようになった・・・
1906年(明治三十九年)
『耶馬渓案内記・天下第一の名勝(観光案内書)』
では
「山陰鑿道(さんいんさくどう)
又
洞門と呼ぶ」と紹介
青地区については
「靑(あを)、又、靑生(あをふ)と云ふ」
「頼翁再遊の帰途即臘月十二日
含公と共に一宿せし地
(記文 阿保村(あほむら))
なれども今其宿舎詳ならず」と
頼山陽
が訪問したときの故事を紹介
1913年(大正二年)
観光案内書
『耶馬渓案内記』では
「之より桟道を
樋田の刳貫(ひだのくりぬき)と称し
交通、
頗=皮+頁=(すこぶ・よこしま・ハ)る
る =傾(かたむ)く・偏(かたよ)る
↓↑ 公平でない・偏頗・頗側
↓↑ 邪(よこしま)・不正な事
便となった」
と記し、
「耶馬渓
靑洞門 Aonodo-mon at Yabakei.」
と書かれたトンネル入り口の写真を紹介
1914年(大正三年)の
『山水随縁記』には
「進んて
耶馬渓の入口たる
靑の洞門に至れは、
今尚ほ有名なる
樋田の隧道を見む」
とある。
「青の洞門」
が用いられた他の初期の例としては、
1923年(大正十二年)の
『尋常小学国語読本 巻十二』
や、
1942年(昭和十七年)の
↓↑ 大分県の史跡指定がある・・・
↓↑ 1919年(大正八年)
↓↑ 菊池寛の小説・・・「恩讐の彼方 に」
↓↑ 規矩知換・・・・・・音拾之仮名他似・・・?
↓↑
「小林一茶」だった・・・
宝暦十三年 五月 五日(1763年6月15日)
~
文政 十年十一月十九日(1828年1月5日)
↓↑
俳諧師
本名は小林弥太郎、信之
別号は圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺
信濃国柏原生まれ
安永六年(1777年)
14歳の時、江戸へ奉公に出
俳諧を葛飾派の
二六庵竹阿
に学び
夏目成美
の庇護を受ける
俳号「一茶」の由来
「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。
旦には上総に喰ひ、
夕にハ武蔵にやどりて、
白(しら)波のよるべをしらず、
たつ泡(あわ・あは)の
きえやすき物から、
名を一茶房といふ
(寛政三年紀行の巻頭)」
と一茶自身が記している・・・?・・・「イッサ」はインドで
↓↑ 「イエス・キリスト」?
↓↑
夏目成美(なつめ-せいび)
寛延二年一月十日(1749年2月26日)
~
文化十三年十一月十九日(1817年1月6日)
↓↑ ↓↑ ↓↑
文政十 年十一月十九日(1828年1月5日)=小林一茶の死亡?
↓↑
夏目成美
俳人
幼名は泉太郎
諱は包嘉
初号は八郎治
別号に修行庵、随斎、不随斎、法林庵、贅亭、無辺法界排士、
卍齢坊、大必山人、四三山道人、風雲社
通称、井筒屋-八郎右衛門
字は万齢
号は修業庵、四山道人
本業は札差
札差(ふださし)=江戸時代に幕府から旗本・御家人に
支給される米の仲介を業とした者
浅草の蔵前に店を出し、
米の受け取り
運搬、売却による
手数料を取り、
蔵米を担保に
高利貸しで利益を得た業者
札差の「札=米の支給手形のこと」
蔵米取 (蔵米)の旗本や御家人の代理として
幕府の米蔵から扶持米 (扶持)を受取り
換金を請負った商人
札差料は100俵につき「金二分」
蔵元=藩から蔵物(商品)を問屋に売るのが「蔵元」
その代金を藩に渡すのが「掛屋」
その二つは蔵屋敷に属し
大坂・江戸両方に存在
札差は江戸だけにあり
天領農村から幕府から旗本・御家人に
渡った蔵米を問屋に売るのが「札差」
↓↑
夏目八郎右衛門-宗成の五男
江戸浅草生
父に俳諧を学ぶ
江戸四大家の一人
俳風は清雅
本業は札差業
六代目
井筒屋八郎右衛門
隠居後、
儀右衛門
寛政十年(1798年)に
江戸に出て
本所
相生町
五丁目の
裏長屋に住んでいた
小林一茶の朝食を賄う一方、
留守番や仏画の手入れを手伝わせた・・・
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・・・マグロ・・・「古事記・万葉集」に「しび=シビ=志毘=鮪」の名で記録され、「大魚(おふを)よし」は、「鮪」の枕詞・・・「トロ」は「腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも云われた・・・マグロの幼魚には体側に10~20条ほどの「淡色の横帯」があるので「ヨコワ」ともいい,若魚を「メジ」,老成は「シビ」と云う・・・
「平群真鳥」の大臣は武烈朝で国政をもっぱらにし天皇の位を奪おう企て、真鳥の子の「鮪(しび)」は海柘榴市(つばいち)の歌垣で「物部影媛」をめぐり武烈と争い、「真鳥と鮪」は武烈天皇の配下の「大伴金村」によって滅亡・・・
ーー↓↑ーー
「影媛」は「物部麤鹿火(あらかひ)」の娘
↓↑
仁賢天皇十一年
小泊瀬稚鷦鷯尊=第25代武烈天皇=小長谷若雀
大和の泊瀬列城
(はつせのみなき) 宮に都した
(おはつせの わかさざきのみこと)
は影媛に求婚し
海柘榴市(つばきいち・奈良県桜井市金屋)
であう約束をするが
影媛が
平群鮪(へぐりの-しび)と
既に愛人関係と知り
武烈天皇は
鮪(志毘)を
乃楽(なら)山で
大伴金村に(焼き)殺させた
影媛は悲しんで歌った
↓↑
「あをによし、
乃楽(なら)の谷(はさま)に
鹿(しし)じもの
水漬(みづ)く
辺隠(へごも)り
水灌(みなそそ)く
鮪の若子を
漁(あさ)り
出(づ)な猪(い)の子
(「日本書紀」)
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歌垣・・・・簗の罠から魚(志毘・鮪)の跳びはねる様?・・・「跳梁(簗・やな)跋扈」・・・
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