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コジキジゲン

木を切り倒してモノを造りたかった・・・道具はイシで石を砕くコトから始まった

2017-12-26 22:45:08 | 古事記字源

 ・・・「イド・イト・ヒド・ヒト」・・・「日詰」、「二九日」、「ひづめ」・・・?「蹄(ひづめ・テイ)=足(あし・口ト人=クチウラナウヒト)+帝(みかど・亠〃冖巾・亠丷冖巾=オトハワハバ)」・・・「ひづめ=日(ひ・か・ニチ・ジツ)詰(言+吉・詰め込む)・比(くらべる・ヒ)詰・樋(とい・ヒ)詰・樋爪(つめ・ソウ・ショウ・手足の指のツメ・ネール=Nehru)・飛(とぶ・ヒ)詰」・・・「イだ・イぢ(じ)・イづ(ず)・イぜ・イぞ」、「ヒだ・ヒぢ(じ)・ヒづ(ず)・ヒぜ・ヒぞ」・・・
 「イド」・・・


ーーーーー
 秋田県
 男鹿市
 北緯39度52分
 東経139度51分
 ↓↑
 秋田県・・・アキタにカカル・シュウデン
 男鹿市・・・おじか・ダンロク
 船川港・・・ふねかわみなと・センセンコウ
 船川
 字・・・・・あざ・ジ
 泉台66-1・・いずみだい・センダイ
 北緯39度53分
 東経139度50分
 ↓↑


 比詰=寒風山の南西
    羽立の北
    日枝神社の東
    戸賀加茂-青砂の東・・・青の砂
   「きららか」の北東・・・記等等化・吉良等化
 ↓↑
 岩手県
 久慈市・・・籤・九字・句字
 二十八日町(にじゅうはちにちまち)
 岩手県
 久慈市
 川崎町1番1号
 北緯40度11分
 東経141度46分
 ↓↑
 「廿九日=ひづめ=日詰」・・・29日
 石川県
 鹿島郡・・・・しかじま
 中能登町・・・なかのと
 廿九日(ひづめ)
 廿九日(ひづめ)=晦日(みそか)とも書く・・・
 由来は
 樋詰の転化
 古代の
 越蘇郷・・・越蘇駅
       8世紀
       中央と地方の中継基地の駅(馬+尺)の一
       能登郡に
       越蘇(えそ)駅
       撰オ(よき)駅
       が作られた
 院内住人
 の
 馬場の
 蹄跡が多い故
 旧暦で
 大の月は30日
 小の月は29日
 が月末で
 それぞれ
 「日が詰まった日」
 「日詰」の他
 「比詰・樋詰・樋爪・飛詰」
 などの当て字があり
 いずれも「ひづめ」と読む
 ↓↑ 
 秋田県男鹿市船川港    比詰(ひづめ)
    男鹿、船川港を比較(皮革・非核)しツメル
 ↓↑
 秋田県大館市比内町独鈷  日詰(ひづめ)
    大館の比較の内の独鈷(獨古)のヒヅメ
 ↓↑
 岩手県紫波郡紫波町    日詰(ひづめ)
    紫波の紫葉(斯波・司馬・芝・標葉・榛葉・鳥羽)
              の日詰
 ↓↑
 富山県氷見市(ひみし)  日詰(ひづめ)
       大境洞窟住居に日詰
       蝦夷防備の狼煙監視所で日詰
       海をへだてた
       立山連峰の万年雪、氷の日詰
       漁り火の見張り番所の日詰
       海が干し陸地になって
       干海(ひみ)番所の日詰
 ↓↑
 富山県高岡市       樋詰(ひづめ)
    加賀藩主
    前田利長が築いた高岡城の城下町の樋詰
1609年入城
   「鳳凰鳴矣于彼高岡
   (鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」に由来
    746年
    国司として
    大伴家持が赴任
    五年間在任
桜谷古墳・・・伊弥頭国造の大河音足尼一族の墓
    出土品
    内行花文鏡・管玉・石釧・紡錘車・青琅・金環・小玉
 ↓↑
 京都府向日市(むこうし)
       上植野町   樋爪(ひづめ)
    向日の上の植野の樋爪
    山城国
    乙訓郡に属し
    長岡京が設置
    向日市
    鶏冠井町に
    1470年(文明二年)
    日成が
    石塔を建立
    石塔寺(セキトウジ)の樋(とい)の爪(つめ)
 ↓↑
 兵庫県川辺郡猪名川町広根 飛詰(ひづめ)
    川の辺、猪の名の川の広の根、訳葉詞摘め・・・
 ↓↑
 石川県金沢市に
 「蚊爪町(かがつめまち)」の地名由来に
 「蚊爪(かがつめ)=日々詰で、日詰と同じ
月末に市がたつこと」
 「樋詰(ひづめ)=月末の29日を「ひづめ」と呼び
          定期市などを開くこと
 ↓↑
 「四十日(しとか)」、「四十物(あいもの)」
 新潟県
 南
 魚沼市
 「四十日(しとか)」
 毎月4と10の日に開市
 新潟県
 佐渡市
 相川
 「四十物町(あいものまち)」
 慶長年間
 四十物(あいもの)商人が集まって住んだ
 四十物(あいもの)=魚の塩漬け
           鮮魚と干物との間のモノ
           四十種に及び
           「四十物」という表記になった
 ↓↑
 男鹿石=江戸時代中期頃
     石川忠右衛門氏・・・・・石川
    (久保田町亀の丁出身
     佐竹家の石工大棟梁)・・石工
     男鹿石の採掘・加工・販売
     石川忠右衛門が好んで口にした
    「面白や 石にも苔の 花衣も」
     霊祭之碑が残っている・・・
 ↓↑
 新潟県
 十日町市
 ブナの美人林・・・?
 ブナ=学名Fagus crenata
    別名は
    シロブナ、ホンブナ、ソバグリ、ソバグルミ
    ソバ、 ソバノキ、コハブナ
 橅=木+無
   落葉高木
   役に立たない木として
   木偏に無でブナと読ませた・・・国字
   ソバの名があるのは
   実が蕎麦の実に似ているため
   ブナ=山毛欅・橅・椈・桕・Fagus crenata Blume
      落葉高木広葉樹
      温帯性落葉広葉樹林の構成種
      小名のcrenataは
     「円鋸歯状の」を意味

 羊蹄=ギシギシ・・・ノコギリの発明・・・

      中国語で「山毛欅」とは
      本種ではなく中国ブナの一種
     「橅(ぶな)」は日本造作の文字
     「椈=十八匊」は
      中国語でブナの意味は無く
     「檜(ひのき・桧)の意味
   鮒=魚+付→「まな+イ+寸」=ぶな=部納・分名・伏名
   ブナの古名
   蕎麦の木
   ブナの果実
   蕎麦栗
   果実にソバ(稜角の古語)がある木
   ブナは生長しながら「根から毒素を出す」
   ブナの木は重く川を流して搬出が困難で
   商取引には向かない資材で
   腐りやすい上
  「加工後に曲がって狂いやすい」性質・・・改竄文章も?
   歌才(うたさい)ブナ
   渡島半島のみに分布
   自生北限地帯
   北海道寿都郡
     黒松内町、分布の北限
   和泉葛城山ブナ林
   大阪府貝塚市蕎原
     岸和田市塔原
   比婆山のブナ純林
   広島県庄原市
     西城町
     比和町
   高さ30mほどに達する落葉高木
   樹皮は灰白色できめが細い
   地衣類(苔・蘚)などが着いて
   独特の模様
   若い枝は褐色で光沢
   葉は互生し楕円形(長さ4-9cm、幅2-4 cm)
   薄くてやや固め
   縁は波打って、
  「鋸歯」・・・「ノコギリのハ」・・・
   ↓↑
   イヌブナ Fagus japonica
   岩手県以南の本州・四国・九州に分布
   一般にブナよりも温暖で雪の少ない土地を好む
   ブナの樹皮は白く
   イヌブナの樹皮は暗褐色
   樹皮の色から
   クロブナとも
   葉序は互生
   葉の形は楕円形
   先端は尖り
   縁は針のように尖って
  「ギザギザ」
   イボ状の皮目
   イヌブナの殻斗=短い鱗片に被われる
   材質がブナより劣り「イヌブナ」となった・・・?
   葉の裏面に毛があるので「イヌ」がつく・・・?
   葉は互生
   卵状楕円形、長楕円形
   やや薄い
   裏面に
   白くて長い絹毛
   縁には
   波状鋸歯があり
   ブナと同様に
   側脈が
   鋸歯の凹部に至る
   側脈は10~14対で
   ブナの「7~11対」より多い・・・七~十一
   ブナと同様に
   イヌブナにも
   虫瘤(こぶ)が多くつく・・・
 ↓↑ ↓↑
 葛巻町(くずまきまち)
 北限のイヌブナ・町の天然記念物
 岩手県
 岩手郡
 葛巻町
 葛巻・・・・・・葛(かずら)の巻(まき)
 第16地割1番地1
 北緯40度2分
 東経141度26分
 ↓↑


 新潟県
 糸魚川市
 一の宮 一丁目2番5号
 北緯37度2分
 東経137度51分
 ↓↑
 姫(ひめ・キ)川
 暴れ川として厭われ
 「厭(いと)い川」が
 「糸魚川」の名の由来・・・?
 ↓↑   ↓↑
 翡翠=翡翠輝石+オンファス輝石?
    omphacite=オンファサイト=ケイ酸塩鉱物
    カルシウムとナトリウムを含む単斜輝石
    オンファス=未熟なブドウという意
 ↓↑ ↓↑


 翡翠=奴(ぬ)の玉・・・奴国の玉・瓊の玉?
    奴国(なこく・なのくに)・・・奴=女+又・女の右手
   「後漢書・東夷伝」
   「魏志倭人伝」
    に記録されている国、「奴国」
    大和時代の儺県(ナ or ヌのあがた)・・・?
            漢(氵+艹+口+夫)⇔難⇔儺
              水+艹+央+二
              水+艹+史+二・・・水+英+二?
              水+艹+中+人+二
            漢=氵(水)+𦰩(動物を火で炙る)
               「𦰩=火で炙るの意」
               「𦰩=火矢」
            ・・・水で炙りモノを冷やす?
            ・・・水で火矢を消す?
            ・・・水の中に火のモノを浸ける?
            ・・・焼き入れ
            高温熱の金属を急冷させる熱処理?
      漢=氵+𦰩・・・𦰩=動物の革を火で炙る・燃やす
                乾いた・渇いた
                𦰩=日照り神
                𦰩=巫祝を焼く字
         熯・暵・艱・嘆・歎・難・灘・儺
      𪅀=難=かたい・むずかしい・なやむ・なじる
          ナン・ダン・ダ
        難=𦰩+隹
     異体字は「難・難・𨿻」・・・𦰩=𡶦=山+丘
        阿毎王朝         嶽=岴=𡶦
        鷄・鶏・雞
       「隋書・卷八十一列傳第四十六 東夷 俀國」
       「阿輩雞彌(あはケイミ・おほきみ)」
      「王妻號雞彌」
        鷄・雞・鶏・・・源字は「雞=奚+隹」
       「俀国王 阿毎多利思北孤」
      漢=カン=暵・艱・漢
        タン=灘・嘆・歎
         ナ=儺
        ナン=難 
    福岡市付近に存在・・・
    西暦57年に後漢から
   「漢委奴国王」の印を贈られた・・・「委奴=イヌ」?
 邇邇藝命=ににぎミコト=瓊瓊杵尊・・・「ア+イヌ」の瓊瓊杵?
   邇=瓊
   藝=杵・・・「きね(杵=十八ノ一十)」
   ↓↑     の形は
         「尸」、「中」
         「7・7・丅・丁・十・卩・P」
         「匚+l」
      ・・・当然にも「鉞・戉・斧・大斧」の
         形体でもあるカナ・・・
         「蘇因高=小野妹子」?
   ↓↑    「斧=八+乂+斤」=葉を刈る斤?
   命=尊
ーー↓↑ーー


 ・・・???・・・翡翠の原産地の糸魚川
          姫川=ひめがわ=女川
          璧=たま=玉=霊=珠・多摩・太万
            玉+α=たま
          瓊(たま・に・ケイ)=赤玉・紅玉・珠
 「八坂(やさか)瓊の
  五百箇 (いほつ) の
  御統(みすまる)
  日本書紀・神代上訓」
 瓊=ギョウ(ギャゥ)・ケイ(ケィ)・たま・に(ぬ)
   瓊英(ケイエイ)
   水滸伝・第97回~110回まで登場
   田虎配下の女将軍・・・・・・・・田虎(伝虎=天武)
   十六歳の美少女
   石礫(つぶて・飛礫)の名手で・・通部弖(氐=氏一)
   綽名は
   瓊矢鏃(ケイシゾク)・・・・・・雞氏族?
   汾陽府介休県出身・・・・・・・・分与得符甲斐求懸?
   国舅・鄔梨(ウリ)の養女・・・・田虎の妻の兄
   父は仇申・・・・・・・・・・・・申(猨・猿)の仇
   母は宋氏の娘
   二人は
   田虎に殺された
   瓊英は
   番頭の
   葉清、安氏夫妻・・・・・・・・・葉が清い・宀の女
   によって助けられ成長
ーー↓↑ーーー
 フォッサマグナ
 (Fossa magna・大溝)
 東北日本
 と
 西南日本
 の境目の地帯
 中央地溝帯=大地溝帯
 古い地層でできた本州の中央を
 U字型の溝が南北に走り
 その溝に
 新しい地層が溜まっている地域
 本州中央部、
 中部地方から関東地方にかけての地域を
 縦断位置
 糸魚川-静岡 構造線(糸静線)
 新発田-小出 構造線
 及び
 柏 崎-千葉 構造線
 ↓↑
 フォッサマグナの
 糸静線は
 フォッサマグナの西端で
 地図の上でも
 フォッサマグナが「面」で
 糸静線は
 その一方の境界を成す「線」
ーー↓↑ーー
 富山県富山市
 新総
 曲輪 1番7号・曲輪(くるわ)
        城の内外を土塁、石垣、堀などで
        区画した区域の名称
        郭(くる わ)とも
        主要な曲輪内には
        曲輪の出入り口である
        虎口を封鎖する門
        最前線の塀
        物見や攻撃の櫓を建て
        主郭は城主の居所
        兵糧備蓄の蔵
        台所などの建造物が建てられ
        戦時、曲輪に守備兵たちが駐屯した
        曲輪=城壁や堀、自然の崖や川などで
           仕切った城館内の区画
           仕切られた堀、壁の敷地に
           遊女屋が集まっていた
           遊郭・遊里・さと
        曲=よこしま=横島・邪・冒・犯・頗・漢
 北緯36度41分
 東経137度12分
 ↓↑
 石川県金沢市
 鞍月一丁目1番地
 北緯36度35分
 東経136度37分
 ↓↑
 蹄=ひづめ=比詰=ひづめ=二九日
 「比 詰」の由来は?・・・比較して詰(言十一口・つ)めれ?
 「二九日」の由来は?・・・貮×玖=十八日?・・・拾う葉の比
 ↓↑
 地理的位置の地名比較
 ↓↑
 能登半島
    七尾ー
 大槻/
 日靈神社・・靈=霊の旧字体・レイ・リョウ
 ひめ    初めの鎮座地
       神明ヶ谷内で
       社号は
       神明社
       明治八年
       大日霊神社と改号
       神饌 幣帛料供進神社に指定
       珠洲市宝立町馬渡68-50
 大槻
 日靈神社
   \↖   七尾
  大割   /
    \↖ /
    廿九日→徳田
    /↙
  能登二宮
  羽坂
 ↓↑
 大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)
 秋田県
 鹿角市
 八幡平にある神社
 大日堂
 「孁」の代わりに
 「霊」や「霎」が用いられるコトも
 霎=雨+立+女・・・・・雨に立つ女(おんな)
 孁=雨+口口口+女・・・三ツ口はウサギ⇔月女神
 靈=雨+口口口+巫
 ↓↑
 稚日霊尊 八幡大神
 鎮座地
 金沢市
 稚日野町南1
 金沢市
 稚日野町
 由緒
 創立年月
 文正年間
 ↓↑ 文正(ブンショウ)
 ↓↑ 寛正の後、応仁の前
    1466年~1457年の期間
    後土御門天皇
    室町幕府将軍は
    足利義政
    文正の政変
   (ぶんしょうのせいへん)
    文正元年(1466年)九月六日
    室町幕府八代将軍
    足利義政の側近
    伊勢貞親
    季瓊真蘂・・・「瓊(ケイ・ニ)」???
            邇
    らが諸大名の反発で
    追放された事件・・・
   「応仁の乱」端緒
    ↓↑
    季瓊 真蘂・・・・・・理経真髄(神髄・心髄)
   (キケイシンズイ)・・・「季の瓊の真の蘂」?
    応永八年(1401年)
     ~
    文明元年八月十一日
   (1469年9月16日)
    室町時代の臨済宗の僧
    相国寺塔頭鹿苑院内の
    蔭涼軒主(蔭涼職)
    蔭涼軒真蘂とも・・・蔭の涼の軒の真蘂
    播磨の
    赤松氏の支族にあたる
    上月氏の生まれ
    父母は不明
    雲頂院の叔英宗播に師事
    永享七年(1435年)
    将軍と鹿苑院の連絡役である
    蔭涼軒主となり
 ↓↑ 将軍近侍の側近となる
 ↓↑ ↓↑  ↓↑
 ↓↑長禄の変
   長禄元年十二月二日(1457年12月18日)
   赤松氏の遺臣らが
   後南朝の行宮を襲い
   南朝の皇胤である
   自天王
   忠義王(後南朝の征夷大将軍)
   の兄弟を討って
   神璽を持ち去った事件
   嘉吉三年(1443年)九月
   禁闕の変
   三種の神器の一つ
  「神璽」
   は後南朝に持ち去られ
   嘉吉の乱で取り潰された
   守護大名赤松氏の再興を目指す
   赤松氏の遺臣達
   上月満吉
   石見太郎
   丹生谷帯刀左衛門
      四郎左衛門
   兄弟など
   落ちぶれて浪人となっており
   赤松氏再興は悲願で
   朝廷や幕府とは
   神璽を
   後南朝から取り戻すことを条件とし
   成功すれば
   赤松氏再興を約していた
   吉野(南朝)朝廷に参上し
   ともに京を奪還したい
   との申し入れに
   後南朝は赤松遺臣らを受け入れ
   康正二年(1456年)十二月二十日
   赤松遺臣らは吉野に入った
   彼らは神璽のありかをさぐり
   およそ1年の歳月を要し
   神璽は後南朝が行宮を置いていた
   奥吉野の北山(三之公)
   にあると判明
 ↓↑ ↓↑
   長禄元年(1457年)十二月二日
   子の刻(午前0時頃)
   赤松遺臣らは二手に分かれ
   南朝の皇胤である
   自天王(北山宮、一の宮とも)
   忠義王(河野宮、二の宮とも)
   の兄弟を襲撃
   丹生谷兄弟の兄によって討たれ
   神璽を強奪
   河野郷にいた
   忠義王も
   上月満吉によって討たれた
   後南朝に仕えていた
   野長瀬盛高
      盛実
   兄弟
   楠木正理
   らは
   尊雅王(南天皇)
   を擁して
   奥吉野の山中を逃走
   十津川にて討たれた
 ↓↑ ↓↑


   赤松遺臣らは
   神璽を持ち去ることに成功
   後南朝の吉野の民に襲撃を察知され
   吉野の民の反撃によって
   神璽を持っていた
   丹生谷兄弟は
   伯母谷で殺害され
   神璽は・・・・・・・勾玉
   自天王の首とともに
   奪還され
   赤松遺臣らは
   吉野から一旦引き上げた
 ↓↑ ↓↑
   翌年の長禄二年(1458年)三月末
   赤松遺臣らは
   大和の豪族
   小川弘光
   越智家栄
   の協力を得
   神璽がある自天王の母の屋敷を襲い
   再度神璽を持ち去った
   同年八月三十日
   神璽は京へと戻り
   朝廷へ返還
 ↓↑ ↓↑
   室町幕府は
   後南朝によって
   約15年間
   持ち去られていた
   神璽の奪還成功の功績を認め
   赤松氏の再興を許し
   赤松政則に家督相続
   勲功として
   加賀北半国の
   守護職
   備前新田荘
   伊勢高宮保が与えられた
   赤松氏再興と所領の付与には
   細川勝元が関与
   赤松氏を取り立てる事で
 ↓↑山名宗全に対抗・・・
 稚日霊尊 八幡大神   
 創建・・・
 昭和20年
 稚日霊社を
 稚日霊神社と改称
ーー↓↑ーー
 義圓
 還俗して
 義宣(よしのぶ)
 従五位下左馬頭に叙任
 4月14日
 従四位に昇任
 将軍宣下はなかった
 鎌倉公方
 足利持氏が将軍となるという流言が走り
 京都は不穏
 同年の
 正長元年(4月27日に改元)7月6日
 称光天皇が危篤
 義宣は密かに
 伏見宮貞成親王の皇子
 彦仁王を伏見宮御所から京都に移し
 後小松上皇に後継者を決めるよう要請
 上皇が彦仁王を後継とする意向を伝えると
 義宣は彦仁王が京都にいることを伝えた
 上皇は喜び
 20日の称光天皇崩御後に
 彦仁王は即位(後花園天皇)
 ↓↑
 正長二年(1429年)三月十五日
 義宣は
 義教(よしのり)と改名
 参議近衛中将に昇った上で
 征夷大将軍となった
 改名の理由は
 「義宣(よしのぶ)」が
 「世忍ぶ」に通じるという
 俗難(噂)
 当初は公家が協議して新たな名に
 「義敏」(よしとし)を決定
 「教」(「?」)の字の方が優れている
 と
 摂政二条持基(もちもと、二条家)
 を通じてこれを訂正
 ↓↑
 生誕 応永元年6月14日(1394年7月12日)
 死没 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)
 改名 春寅(幼名)→義圓(法名)
    →足利義宣→義教(義?)・・・ギシギシギシ
 別名 籤引き将軍、籤将軍、悪御所、万人恐怖
 戒名 普広院殿善山道恵禅定門
 ↓↑
 三代将軍の足利義満が大臣となって以降
 将軍は大臣を兼ねる(没後に贈官)場合が多
 京都を追われた将軍が
 七人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)
 幕府所在地以外の地で没した将軍が
 六人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)
 暗殺された将軍が
 二人(義教・義輝)
 更迭された将軍が
 三人四回(尊氏・義稙が二回・義澄)
 幕府所在地に入れなかった将軍が
 一人(義栄)
 ↓↑
 代数
 十五代(15人)
 が、
 第十代(10人目)の
 足利義材(足利義稙)が
 一度将軍職を追われた後
 再び将軍職に就任(任命)
ーーーーー
 ・・・「季瓊真蘂」の「瓊」の漢字と、吉野南朝から「赤松一族郎党」が「神璽=勾玉」を掠奪・強奪・・・
 強奪(ゴウダツ)・争奪(ソウダツ)・剝奪(ハクダツ)・与奪(ヨダツ)・略奪(リャクダツ)・・・
 奪衣婆(ダツエバ)・奪回(ダッカイ)・奪還(ダッカン)・奪取(ダッシュ)・奪掠(ダツリャク)・奪略(ダツリャク)・・・
 「盗む」と云うコトの意味は・・・?・・・
 「他人の労働を盗む」って?・・・
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 ・・・

コメント
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