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日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

鬼に笑われそう?

2018-01-16 20:37:33 | 神様等について
こんばんは。
朝はかなり霧が深く、これから晴れるのかどんよりのままなのか判りかねるようなお天気でした。
次第にその霧も晴れ、昼ごろからは一時期良いお天気となったのですが、その後はまた段々と下り坂のように曇って来ました。
とはいえかなり気温も上がり、寒さは相当緩んだようで過ごしやすくはありましたがこれから先はまたどうなのかわかりませんね。
そんな日の朝はご覧のように見通しの悪い空が広がっておりました。




                                   


                                  


                                   






その後、これは10時頃、この後位から青空も広がり気持ちよいお天気となったのですが、結局は保ちませんでしたね。




                                   




賀状というものをここ何年か書いていないと自慢にもならぬことを申しておりましたけれど、今日やっとこさでぼちぼちと一枚一枚、下手な文字を
綴りながら書かせて頂いております。
賀状ではなく寒中見舞いで書いておりますよ。
今年頂戴したものだけでもお出しさせて頂かねばと思いながら、どうにも手をつけておりませんでしたがいい加減書いとかないとじきに節分だわ;
と思い直し、せっせと書いておるところです;。
そう、その節分の準備も始めないと遅いくらいなのですけれどね;。
毎年同じことをさせて頂いておるわけですが、その時期が来ると、ああ一年経つのって本当に早いもんだなぁ、とつくづく感じます。
神道では、この節分を過ぎて初めて新年を迎えるとも考えられておりますので重要な日ともされておりますね。
そうしてこの日を境に春を思う頃となるようですけれど、実際にはこれから後しばらくが一年でも最も寒い時期とも言われておりますので、春は
まだ遠い風に感じられるのかもしれません。
とはいえ、昨今はそんな四季の移ろいもどことなくデジタルのようでもあり、または昨日と今日とでまるで季節が違えたかのような気候も珍しく
なく、段々とそれに伴う情緒も薄れていくようにも感じられます。
季節の移ろいは案外スーパー等の催し物で知る機会が増えていくのかもしれません。





                                  




今日も落ち着いて神殿にて祝詞奏上させて頂きました。
その折に頭に入ってきたのは大神の言葉であったようです。




  〝  そなた 己れの本来を忘れておるまいな?

     そなたの致すべきこと 人と人との縁(えにし)を結ぶことである

     白龍を遣わしたのはそのため

     そなたの思い 心が濁れば 龍もまた(体色は)濁る

     心せよ

     そうして地に足を着け 根を張れ

    
     大社へ参れ 

     龍音を聞け なるようになる

     思うことを 発信して参れ

     人はついてくるもの  良いな?   〟 


 その時の想念の中の龍 勢いが凄まじいほど ここ二、三日の龍ではなく(つい先ほどまでの軽いキャラクターではなく)精悍な顔つき
 口から火を吹かんばかりにして 目まぐるしく 駆巡っているよう
 やがて身を翻し 数多の龍と一つとなり 天空高くある眩い光へ向かって翔け昇って行く
 迫力ある映像として感じられる



今日感じられたのは上記のような事でした。
大神の言葉、確かにそうであるなと改めて感じておるところです。
なかなか最近は人と接することが少なくなり、「自称 走る神主」と自らを定義付け;?どこへでも赴いておりましたけれど昨今はそのような
事も少なくなってきております。
呼ばれれば、はい、直ちに!と二つ返事でどこへでも馳せ参じるのを旨としておりましたのがどうにも開店休業な状況となっておりますね;。
そんな事とも相まってこのブログを立ち上げたというのが、ある意味実際のところでもありました。
このブログを通して少しでも訪れる方に神様や神道の事を知って頂きたい、それも普通の神社さんとはかなり毛色の違う;オバサン神主が書いて
おる怪しげではあるけれど親しみやすさを感じて頂けたならば、と思ってのことでした。
どうも続けてきているうちにだんだんと横道へ反れてしまい、何が主体やら我ながら分からなくなってきておる今日この頃ですけれど;。
それでも日々こうして神様や多くの存在らの声、あるいは傍らにおります龍の有り様を感じ取って頂ければと思っておる次第です。
これから先、ますますどこへ向かうのか皆目検討もつかないところではありますが、努めて参りたいと思うところですね。

大社へ参れ、はことある毎に、いわば口すっぱく?いわれておる言葉でもあります;。
曰く、力を授くということに尽きるのでしょう。
確かに何事があっても無くても、参らせて頂くだけでお力を賜る思いが致すところです。
ただし今は雪の季節、この時期を少し過ぎて春の声が聞こえるようになるまでしばしお預けとさせて頂ければと感じております。

龍音というのは先だってもご紹介致しましたかと思いますけれど、てんごく。さんとおっしゃる方がシンギングボウルを用いての演奏をなさいます。
今回、その演奏を出雲大社の拝殿にて奉納なさるとのことで、出来るものなら参らせて頂きたいなぁと考えておったのでした。
とは申せ、これは自分自身がある意味大社側の人間となりますので一般の方を募っておられますのに、内部の者が果たして拝殿でご一緒させて
頂いてもよいものやら、と懸念しておるのも事実です。
一度大社側へ聞いてみようと思いつつも、このところの忙しさにかまけて未だに聞けておりません;。
この話題が出たことですし、明日にでもどのようであるのか聞いてみたいと思います。
よしんば参加が認められずとも、拝殿近くにて奏でられる調べを聴かせて頂ければ幸いかも、とも考えております。
また今ですと、この奉納演奏の参加者を募っておられるかと思います。
一泊二日の宿泊型のツアーは締め切られましたけれど、当日参加の方はまだ空きがあるようです。
詳しくは氏の「てんごく。さんのリアルアセンションワールド」のブログをご覧になられて下さい。




 
                                    



夕方歩いた時は、まだ雲の隙間から青い空が覗いておりましたが、今は外は雨の音がしております。
この季節には珍しい雨、本来ならば雪になるところでしょうから果たして良いのかどうかわかりませんね。
それでも湿度が高くなればインフルエンザも流行り難くなるでしょうし、潤いも出てきて丁度良いのかもしれません。

さて明日からは節分の用意を時間のあるときにしていこうかと考えております。 
早くしないと、それこそ鬼に笑われそうです;。                                   




                    
                                   



本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。   
                                
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花の香り

2018-01-09 20:31:42 | 神様等について
こんばんは。
今朝は揺れで目が覚めました;。
といっても大した事はなかったのですけれどなんせ寝てるのが相当に古い家屋、少し揺れただけでもうわっ;;と感じてしまう位です。
そしてまたああいう時は一瞬で起きてしまうものですね。
いつ何があるかわからない昨今、気をつけると共に持ち出しようの非常用バッグ、真剣に備えておかなければと思っております(すみません;
いつまで経っても何とかなるさ;が根底にあるもので)
そんな日はこれが揺れの原因だったの?と思うくらいの強風も吹いておりました。
学校も今日から始まりましたが、初日にしてはちょっと厳しい天候からの始まりとなったようです。
そんなわけで6時台から7時台にかけての空の様子を写してみました(単なる趣味;です)



                                   




                                   




                           
                                   





                                   




 
                                  





                                  




お天気の話題をもう少し続けると、風がかなり強く時たま突風が吹く時があり、また雪起こしの風かもと考えておりますと、雨かなと感じていた
ものが次第に霙となり、とうとう最後は本当に雪に変わってきておりました。
あらら、このまま積もるの?という感じでしたけれど、時折曇ったかと思うと一転晴れ渡ってみたりと目まぐるしく変わるお天気となった
ようです。
明日朝から立て続けで会社の新年祭から始まり北方面に向けてのお祓いが入っており、道路は大丈夫だろうけど、でも降らないでね、と思って
おるところですね。
広島は沿岸部はそうでもありませんけれど、広島市内でも安佐北区(あさきたく)といわれる区は、ともすれば島根県の天気予報を見たほうが早
いとその地域の方がいわれるほど、お天気は島根寄りのようです。
自分の住まう安佐南区も旧市内と比べれば遥かに雪になる確率は高く、このあたりでも冬場はよく走る方などはシーズン初めにはスタッドレスタ
イアに履き替えるくらいです。
まぁ大抵そこまで酷い積雪にはならないでしょうから、大丈夫かと思います。




                                  



懸念していた喉の痛みも大分治まってきました。
今回手持ちの市販薬も何もなかったので全く何もせず、その代わり声を極力出さないようにして過ごしました;(いつもとおんなじだな;)
普通に喋るのは何ともありませんが、祝詞をあげようとして声を出すとそれなりに喉に負担が来るようです。
ですので今朝の奏上もどことなく棒読みな祝詞奏上となっておりました。
もっとも祝詞を上げるのに、こうしなくてはならないという決まりがあるわけではありません。
よく耳にされる独特の節回しを持った祝詞の奏上のように感じられるかと思いますけれど、その人各人がご自分にあったような奏上の仕方を
身に付けておられるのだろうと思います。
本来は人間の願いを間に立つ仲取り持ちとしての神主が神様に申し上げる言葉が祝詞であると言われておりますので、人間に聞いてもらうのが
主体なのではなく、あくまで神様へ奏上致すのがその目的とされておりますので、どのように奏上しても構わないとされていたようです。

祝詞奏上の仕方?について話が出ましたので、もう少し話をしてみることと致しますね、
主人と一緒になった頃、大社へよく参拝致しておりましたけれど、その中に大國(おおぐに)先生という方がおられました。
今の出雲大社の国造のお父上、いわば前国造とほぼ年代か同じ位であられたと聞いておりました。(その当時でかなりの年齢であられました)
参拝致しますと何故かよくこの先生に祝詞奏上して頂くことが多かったように思います。
他の神官方はそうでもないのに、この先生が上げる祝詞はどう聴いても決して上手いとは思えず、まるで小学生の本読みのようにとつとつとして
おられました。
その頃殆ど知識のない自分は、どうしてあのような方が神官としておられるのだろうかとその疑問を主人にぶつけると、この先生ご自身、祝詞を
上げながら依頼者の方の背景が自ずと頭に入って来られるらしく、祝詞の途中でも何回も詰まることがある、と話してくれました。
確かに奏上なさりながらもふとその言葉が途切れ、え;、と此方が心配するほど間が空くことが多々ありました。
頭の中に入る情報を片方で処理しながら?祝詞を上げるので、知らず知らずに途切れてしまうこともあるようでした。
主人の言葉で言えば、ある意味霊感のある人、霊能者であられたとのことでした。
ひと様に聴かせるための祝詞奏上ではなく、あくまで神様に対して申し上げる奏上であられたのだと思います。

その意味では前述の前国造もそのようなお方であられましたね。
祝詞奏上のお声は今でこそ祭りの折にはマイクを通して我々の耳にも届いて参りますが、前国造の頃はよしんばそれがあったとしてもほとんど
声が聞こえず、国造ご本人と神様との間でなされる、まさに秘めた神事であられたように思います。
本来は祭りとはそのようなものである、というお考えであられたのかもしれません。
凡人の自分には推し量ることの出来ない世界です。

とはいえ祝詞奏上はその殆どが朗々とした声で上げておられるのが実際かと思います。
神社へお越しになった際には神主さんの上げる祝詞の声に耳を澄ませてみられればと思います。
 



                                  



そんな声が出にくい祝詞奏上でしたけれど、頭には変わらず言葉が入って来ました。


 〝   そなた 影(陰)のある方 気になるか? そちらへ目を向けると 一層強調される

     ならば光の当たる 明るい方へこそ 目を向けよ

     そうすることで より日の当たる面が広がり 影の部分も 日が照ることになる

     日の当たる方を 見よ   〟


 続いて瀬織津姫?

 
 “   我は 瀬織津 我はどこへでも 清らかなせせらぎや 湧き水のような処でも

     どこでも 遍くおります

     鈴張(すずはり)の(あの水神の)社へ 来て下さい

     春の頃 待っております    ” 

 
 頭で聴きながら蝋梅の良い香りがふわ~っと時折漂ってくる 不思議
 後で蝋梅に鼻を近づけて香ってみると なんとなく香りが違うよう やはり不思議

 瀬織津姫が出てくる前? 水中の映像 最初流れの中 魚も泳いでいる 澄んだ流れ 色々な水の中 流れの中が見えている
 時たま外(空)の青さが鮮やかになったりする 日本ではなく 海外とか?(ハワイ?) 心地よい

 外はごうっという風の音 風のエレメント?とも感じる
                                                

上の部分はこれはいつもの大神の言葉のようです。
これも昨日の言葉の補足のようでもありますね。
元々大神の話す言葉はそれほど長くなく、一言だけということも少なくありません。
このように長く話されるということ自体、これまでには無かったかと感じております。
というよりも、このように話しておられたとしても今までは自分の頭の中だけで受け答えをし、後で書き出して文章化するということはしており
ませんでしたので、こうして改めて書いてみると案外長いものであったということがわかったのかもしれません。
それにしても、話の内容自体、自分自身が普段は案外ネガティブ;であるのが分かるかと思います。
一人でいる時間が長いと、うちに籠る感じになるので余計かもしれませんけれど。
しゃべる相手がそばにおれば、うるさいほど話しておるオバサンではありますよ;。
それとは関係なく、言われたように陰の部分を考えると余計にそちらへ引き寄せられてしまう、ならばいっそ明るい部分に着目せよということな
のだと感じております。
考えれば考えるほどドツボにはまるという時がありますが、まさにそのようなもので暗い方へ目を向けるとなお一層そうなってしまうということ
だと思います。
笑うくらい明るいことばかりを考えておれば、暗い部分も吹き飛ぶように明るさがその大半を占めてくるのだと考えます。
一人で居ても、何かワハハと笑えることを敢えて見つけて明るくしておくこと、それが一番なのかもしれませんね。

次に頭に浮かんだのが瀬織津姫でした。
その声が響く前に、頭の中に水中の映像が浮かんで来ました。
流れの中を見ているようです。
その中には小魚も見えます、少し視線を上に向けると空も感じられるようです。
その空の色も、また水の中の感じも刻々と変わり、最初は日本の小川の流れの中であったものが次第に明るい陽光の射す南国の水中にいるよう
でした。
そのようなことを感じながら聴こえてきた言葉でした。

鈴張というのは、地名でして以前うちの講社(広島敬神講社)があったところでもあります。
以前にも話しましたけれど、かなり以前に主人の下へおられた方が独立する形となりましたので、そこからはうちの講社は退きました。
それはともかく、その以前に講社の近くに古い祠(ほこら)があり、どうやらそこへは随分昔に岡山の最上稲荷よりお札を頂戴してこられた水神
様が祀られておられたようでした。
主人が鈴張へ講社を開いた際に、屋根の瓦も落ちかかっていたその祠を地元の方にどうにかしてほしいと話しを持ちかけられ、有志の方のご尽力
によりその祠も立派に整備され、今一度水神様を祀るお祭りを春に致すようになった経緯がありました。
自分らがその鈴張へ参っておりました頃は毎年、春にお祭りをかかさず致しておりましたが、その後は跡を継いだ方にお任せ致しましたので現在は
どのようであられるのか、よく存じません。
ともあれお呼びが掛かりましたのは瀬織津姫からですので、言われたように春の頃、参らせて頂こうかと思います。
祠のすぐ下には細い流れが今でもあるところです。

またそれとは別に瀬織津姫が坐しますとされる処も自ら語って下さったようですね。
姫の坐します場所そのものを頭の中で再現して下さったのが自分が映像として捉えた景色だったのかもしれません。

瀬織津姫が坐しますということは龍もその場におるのかもしれません。
以前はそこまで感じておりませんでしたけれど、次回参ります折には、これもまた感じ取ってみたいと思います。

姫の言葉を聴きながら、時折ふと神殿のすぐ傍に活けてある蝋梅の花の香りが鼻をくすぐるようでした。
とはいえいつもはそこまで香ることも少ないけどなとも頭の半分で感じながら、後にその蝋梅に近づいて香ってみましたけれど、先ほどの香り
とは似てはいるものの、少し違うように思えました。
良く瀬織津姫が登場?する際には香りがすると聞いておりますけれどその香りだったのでしょうか、なんとも不思議な感覚でした。




                                   




久々で女神様の登場であられたようです。
大体自分自身が大雑把でサバサバした感じですので;、たおやかな女性の神様はお越しになりにくいのかも?しれません;。
それでもこのようにお越し頂けたことはこの上ない喜びと感じております。
今年はこれまで以上に多くの神々、存在とも繋がりが持てればと考えております。
どのような展開になっていくのか、自分でも楽しみですね。



本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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燻っていた龍

2017-12-18 22:09:40 | 神様等について
こんばんは。
今日も今日とて、日中冷え込みました。
とはいえ朝方は雲が多かったものの昼間は大分晴れ間も覗きましたので、日の当たる時は結構ましだったように思います。
毎日、うちのすぐそばで立っておられる警備員さん、日が照る随分楽よとか言われますけれど空気そのものが冷えてるようで、お世辞にも楽とは
言いがたいのでは、と感じておりました。
そんな日の朝は雲で覆われ、きんとするような冷たさはないものの寒いのには変わりなかったようですね。


                           

                                




                                





                                



三枚目のはバスで車屋さんに行く途中で撮ったものです。
天使のはしごと言われる、とても綺麗な日の射し方だったのですけれど、写真だと今一つのようですね。



昨日申しておりましたように、今日は井戸の埋め戻しのお祓いに参らせて頂きました。
どこでもそうなのでしょうけれど、最近は古い井戸や畑に撒くようにと作られていた井戸等も段々と使われなくなり、全て更地にしてその上に
新たな建物を建てるようになってきておるようです。
これもまた申しましたけれど、井戸を掘るのは相当な労力とそれに伴う金銭的なものもかなり発生致します。
飲み水として使わなくても、夏場の水やりとか洗車等に使うのであれば十分賄えると思うのですけれど、なんとも勿体無い話だなぁ、とつい
考えてしまいます。 
埋め戻した上で今度は新たに水道管を引き込んでくる、ついなんだかね;と感じるのは古い人間の証拠ですね;。
とは申せ、これも仕事として承りましたので、井戸におられました神々に失礼のないようお帰りして頂くお祭りをさせて頂きました。




                                



お祭りを始めたのはちょうど正午頃でこれくらいの時間ですと陽射しもかなりあり、空気は冷たいものの寒くてかなわないというほどではあり
ませんでした。
雪等も当然降っておらず、その意味ではお天気に恵まれ良い日に外祭(がいさい)、読んで字の如し、外でのお祭が出来て良かったと感じてお
ります。
ご依頼して頂いた方はお互い馴染みとなった俗に言う土建屋さん(ちょっと言葉悪いですけれど;)の社長さんです。
これもまた以前に申したかと思いますけれど、昨今工事に入る前にお祓い等のご依頼を受けるのはこの土建屋さんが主でして不動産関係という
のか上もの、いわば家を建てる段階に入る時の業者さんといわれる方々からはどうしてか、あまりお声が掛かりません。
もっとも、うちのような零細なところではなく、より大きな神社さん等へご依頼されるからかもしれませんけれど;。
そうだとしても、地鎮祭やそのようなお祭り自体が減ってきておりますのは事実です。(それもうちだけかもしれませんけれど;)
その土地に坐します諸々の神々、そのような存在に対して敬意を表す意味に於いても古より自分たち日本人がごく当然のように致してきた一種の
儀式ではありますけれど、これはやはりなされて然りかと考えます。
自分たち人間だけが住まっておるわけではありません。
元々、誰のものでもない土地を人間が後であれこれと理由をつけて己が物としたのならば、せめてそこに住まわせて頂くのだからという敬虔な心
をもって致すべきなのではとも考えます。
一番最初に工事を行うこのような土建屋さん方は、やはり直接に土地を触る(という言い方しか思いつかなかったのですけれど)わけですので
特に井戸等は後々何かあっては困るとお考えの方が殆どらしく、ちゃんとお祓いしてほしいと言ってこられます。
何かあるとはどういうことか、と具体的に説明は出来ずとも、やはり長年使ってきておられた井戸にはそれなりの神様等がおられるであろうから
こそ、その神々に対して失礼のないよう、もっと言えば要するに祟り障りのないように、ということなのだと思います。
このことは以前にも同じようにお話したかと思います。
それだけ水というのは大事なものだということなのでしょうね。

今日はその土建屋さんの従業員の方と、そこへ新たに住居を建てる側の建築屋さんの双方の方がお祭りに参加されました。
その祭りに入る前にどれくらいの深さの井戸なんでしょうね、とコンクリの蓋をずらして中を覗き込んでみますと、大よそ6メートル強程の
深さがありました。
上から覗き込みながら話をすると、井戸の壁に声が反響して響くくらいでした。
底にはまだ水が見えており、昨日も申しましたようになんとはなしにそこへずっと佇んでおるような龍の姿を感じるのでした。

祭りを始めて祝詞を奏上し井戸そのもののお清めを致す際、先ほど感じた龍にもどこかで詫びる思いを抱きながら井戸の中へ塩やお酒等を撒いて
いきました。
祭りの最後、昇神(しょうしん)と申しまして、此処へ坐しました神々、また気持ちの中ではその龍をも元の神倉(みくら)へお帰り下さいと警蹕
(けいひつ)のおーーーという声をあげさせて頂きました。
神々は祀られておられるであろう社、或いは水の源流でしょうか、お帰りになられたかと存じます。
龍は、これはいつも申しておりますようにあくまでも自分の想念の中でのものですけれど、その身体を翻すかの如く、水底深くから駆け上がって来
太陽の光にその鱗の一枚ずつを煌かせながら、それまでは灰色に燻っていたかのような体色を鮮やかな青とも緑とも取れる色に塗り替えるように
して輝きながら飛び立っていったように感じられました。
それまで井戸の底で、曲がりなりにも自分の役目を果たしていたやもしれませんが、今はそれも忘れられ、己が存在すら覚束ない様であったかの
ような龍でしたけれど、ひとたび自由を得た身は龍本来の姿へと今一度生まれ変わり、果てない空へと駆け去って行ったようでした。

実際には井戸をお祓い致すことで、これまで水を頂いてきたことへの感謝とこれからそこを普通の土地として使えるようにするという事を申し
上げるお祭りですけれど、今回は古井戸におりました(と勝手に感じていた;)龍をそこの場所から解放させて頂けたのかもしれません。

野生の鳥獣類、時として手負いとなり図らずも人の手により治療等を施され然る後にまた自然へとかえされることがありますけれど、この度の
この龍も、後になり思ったのはそのような感じでした。
井戸へ捕らえられていたというわけではありませんけれど、先にも述べたように己が役目も果たせなくなった龍は自分が居ることすら虚しく感じ
ておったのでは、と思えたのでした。
今回、井戸を廃すという事から、これもまた思いがけず龍自身がそこから解放されるという運びになったのかとも感じております。
どこへ翔けて行ったのか、それこそ龍に尋ねなければわかるはずもありませんけれど、どうぞ自由を存分に味わった後は己が持てる才能を十分に
果たしてもらえれば、と考えます。


 
                                 




                                 




今日は井戸のお祓いについて書かせて頂きました。
たまには;?神主らしいことしないと、ですね;。


お祭りの後はどうしたか、また気が向けば明日にでも綴ってみたいと思います。



                                




                                



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祈るということ

2017-12-14 20:54:32 | 神様等について
こんばんは。
雪こそ降りませんが、寒い毎日です。
今朝、神殿で一体何度くらいなんだろうと室温測ると3.9度;。
そりゃあ寒いわな、と感じた次第。
暖房位入れなさいよと言われそうですけれどね。
いや、ストーブはあるのですけれど、いつも殆ど自分一人ですので拝礼する間だけ付けてもなぁと思い、そのまま拝んでおります。
もちろん人がお越しになればちゃんと部屋は暖かくしておりますのでご安心の程を。
そんな日の朝はこんな感じ、曇っていた空が綺麗な朝焼けに変わりました。



                                



                                




                                




                                



ふたご座流星群というのが見られるとニュース等でも言われておりましたね。
それでかどうか、昨夜わずか1個だけですけれど、スーッと流れて行くのをたまたま見上げた空に見つけました。
3,4日前にも、これは相当に大きな光と感じられた流れ星が垂直に落ちるように流れるのを見ました。
ああいうのを見ると思わず、おおっと感じますね。
昨夜のそれは、本当にたまたま心の中であることが良くなればいいと思っていたところへ流れたので、余計うわっすごい、と思ってしまいました。
よく流れ星が流れる最中に願い事をすれば叶うと言いますけれど、見たときには遅いですよね;。
タイミング良く流れるというのは、そうしてみるとかなりの確率なのかもしれませんね。




                                



そんな昨夜の星に願いを、な事は実は身内のことでして;。
身内ネタって、どうよ;な思いではあるのですけれど。
先だってから話しておりますけれど、息子がどうにもお腹の調子が直らず、未だに下痢が続くようです(尾篭な話題ですみません;;)
大丈夫よ、と仰って下さる方もおられるのですけれど、あの辛さはどうにもねぇ;と感じております。
自分自身、主人が倒れた後、夏場にそのような酷い下痢の症状がふた月程も続いたことがあり、忙しいのに力が入らず暑いのにお腹だけ冷えると
いう何とも情けない状態だったことがあります。
いつも行くホームドクターに診てもらってもあまり変わらず、セカンドオピニオンではありませんが他の病院へ行き薬を飲みつつ仕事していた
時期がありました。
息子も今回話しておりましたが、朝お腹が痛くて目が覚める状況で、常に痛さを感じておりました。
お腹は空くんだけれど、食べると下すので思いっきり食べられないし、かと言って食べねば体力持たないし、とで相当しんどかったのを覚えて
おります。
自分の場合は、病名付けるとすれば過敏性腸症候群だろうね、ということでしたけれど。
息子が昨夜も、まだ直らん;;とかなり辛そうに連絡して来ましたので、今朝は息子に病気平癒の御祈願を致しました。
普通は御祈願と言いますとご本人なりがお越しにならなければ致さないのですが、こと病気に関しましては代理の方なりがお越しになられ代わりに
ご祈祷させて頂くという場合も結構ございます。
今回は実の息子でもありますので、僭越ながら自分がさせて頂きました。 
大げさと思われるかもしれませんけれど、離れておる分だけどのようなのかわかりませんし、申すようにあの痛みや辛さが分かるだけに自分が
出来ることだけでもしてやろうと考えたからでした。
いつもは簡易に烏帽子(えぼし)と杓(しゃく)、それに上に格衣(かくい)という衣装を羽織る格好で祝詞をあげておりますけれど、今回は
きちんと正式な衣装を身に着け拝ませて頂きました。
実際、この病気平癒のようなご祈祷などですと、自分にも結構身体に堪えることが無きにしも非ずで、心して拝ませて頂いた次第です。
とはいえ今回は息子のことですので、自分に来ても息子が楽になるならそれでも構わないがな、とも考えておりました。
拝み終えて奉幣(ほうへい)を振りながら、治りますように、と一心に唱えておりました。
御祈願後、頭の中で大神との対話を致しました。


 病気でしょうかと問うと

    〝   病には 非ず  心配致すな  そちが子であろう

        足元からの冷えに 気をつけさせよ    〟 

 このような言葉が響いてきた

 続いて 木花咲耶姫

    “   お待ちしておりますよ  お越しになるのを
 
        今(すぐに)とは 申しません   ”


    “   子には 青龍がついておりますよ 大丈夫です   ”




 次には大神の声か

    〝   一人で行くも良し  人と共に参るも良し

        人々といけば それだけ 多くのことも 出てこよう    〟



                                    



このような感じで今日は頭の中に入って来ました。
病気平癒のご祈祷というのは、祝詞奏上の中でもとりわけきつい部類に属するかと思います。
先にも述べたように生半可な思いで奏上致せば、自分に跳ね返るほどのものだと考えております。
それ故、出雲大社の御本社におきましても、信者さんなどがすがるような思いでこの御祈願を申し出てこられた際には、受ける側の神主もそれ
相応の覚悟で祝詞奏上致しておると伺っております。
自分は今回、身内、息子でもありつい余計になんとかしてやらねばという思いが強かったのかもしれません。
ですがそれ故に、これもまたお伺いさせて頂いた言葉が本当にそうであるのか、自分よりになっておらないか、自分で自分に懸念致すところもある
次第です。
身内が身内にこのようなことをしてはいけないと言われる所以でもあるでしょうね。
確かにそうであったとしても今回、このように酷い病ではないと言葉を頂戴出来たのは嬉しく、また非常に安心する思いでした。
後は本人が少しでも早く回復してくれることを願うばかりです。




                                     




病気平癒のご祈祷、これは自分自身も主人が倒れた折にやはり相当な覚悟を持って出雲大社へ参り、御本社にてご祈祷して頂いたことがあります。
自分でも日々自宅の神殿で拝みながら、やはり参らねばという焦るような思いに駆られて、参拝致したのを覚えております。
ご祈祷の前には当然どのような病気であるのか伝えねばなりませんが、その際大社側もよく存じておるうちの主人のことですので、余計に向こうと
しても考えられたのでしょう。
神楽殿にて待つのはゆうに一時間を越えていたかと思います。
夏の暑い盛りだったかとも思いますけれど、かなり記憶の彼方であり、拝まれる側もさぞかし大変であられただろうな、とその時に感じたのを今
思い出しました。
一時期はその生命すら危ぶまれた状態の頃でもありましたけれど、なんとかそのような状況も脱せられたのは、その折のお蔭様と言えるかもしれ
ません。
ここいら辺を話すと、これまた多くが出てきますけれど、その話はまたに譲ると致します。


大神の言葉の後にほんの少し、常連(と申しますとバチあたりそうですけどね;)とでもいうような木花咲耶姫が登場されました。
ずっと待っておられるようですね。
有難いことです。
参らせて頂けるよう精進せねば、ですね。 
またこの神様からも、息子の事を案じて下さったのかこのようなお言葉を頂戴したようです。
真であるのかどうか、これもまたわかりませんけれど、心配することはないと念押しされたようでもありますね。
有難いことと感じます。
さぁて、どうやって参らせて頂くか考えないと、ということろですね;。



                                     



書いてみますと、どうやら病気平癒の御祈願についての話題が専らとなったようです。
苦しい時の神頼みと申しますけれど、祝詞の中にはその全てを神様に委ねなさいとは書かれておりません。
確かにどうしようもなく参り越したのであろうとも記されておりますけれど、やはり信頼出来る医師(くすし)の手技(てわざ)持ちて、この
病を治さしめよとも書かれております。
神に祈念致しつつも、人間の叡智を結集したその手法にも信頼を置きなさいということなのかもしれません。
とは言えこうして御祈願したからといって、それが必ず、あるいは全てが治るとは言い切れないのも事実ではあります。
しなしながら古より人々は祈ることの大事さに重きを置き、その力を信じてやまなかったのではとも考えます。


こうして書かせて頂きながら、祈ることの大切さを改めて感じさせて頂くことが出来たように思えます。
不甲斐無い自分ではありますけれど、一層努めて参りたいとこれもまた改めて感じておる次第です。




                                     




本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
                                       

                                      
                                   
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龍 は 流

2017-12-02 21:17:02 | 神様等について
こんばんは。
日中はお天気もよく割りに暖かかったですけれど、朝晩は結構冷えてきております。
先ほど歩いてきましたが、大きな月が昇ってきておりました。
この四日はスーパームーンだとか。
確かに出たばかりで大きく見えるのもあるのでしょうが、それでも結構な大きさに思えました。
満月だとより大きく見えるのでしょうね。
そんな日の朝はこんな風でした。
朝日がちょうど差して来る時に撮れたようで、美しく感じられましたよ。

                                    



                                    


                                                     
                                    




                                     



昨日、新しい?龍が傍らに来たと話しておりましたけれど、いつもいつもその存在を感じておるわけではありません。
感じ取れる方ならそうなのかもしれませんけれど、案外鈍い;自分はそこまででは無いようでして。
普通に生活している分には、殆ど考えてもいないのが実のところです;。
まぁ言ってしまえばペットではなく(当然;)、あくまでも神の遣いなのでしょうから必要な時にその存在を感じ取れればよいのだろうと
勝手に解釈しております。
そんな龍のことについてなのか、大神より言葉を受けましたので綴ってみたいと思います。
これも昨日申しましたように三十日、また一日とお伺い致したことを書いて参ります。
というよりも書いておかないと段々、たまってくる感じですので;。


 
                                    



まずは三十日の事から。


 祝詞奏上後

      〝   まずは大儀であった  

          その方 人と多く交われ 交わることにより 多くが 流れる

          『龍』  即ち  『流』 であるぞ   〟
                                 

 あ、そうかと思う りゅう は りゅう
 流れるからこそ 龍
 カタカムナではないけれど 確かにそうだ
 龍だからこそ エネルギーが廻る
 流れるということか
 なんだか 目から 鱗

  
      〝   そなた 既に 多くのこと出来るように なっておる

          多くの人と より多く接し (輪を)拡げて参れ  〟


 その後 目を閉じていても 非常に明るい
 穏やかに下から上へエネルギーが通る感じ
 有難い 感謝の念
 既に自分がそうなっているよう波動を上げること
 心配を心に抱かぬこと

 

このように頭に入って来た言葉で、確かに、まさに龍は流、同じ「りゅう」という言葉、流れるということなのではと思いつきました。
つまり龍とは、これもよく言われているようにエネルギーの流れのことなのではないのか、と。
何を今更、ですけれど、エネルギーはたとえ勢いがあったとしても一つところへ留まっていてはその行き場を失い、かえって悪くなると
聞きます。
だからこそ、流さねばならないとも。
これはお金でも同様なことを言われておりますよね。
大事だからとそれを掴んで離さなければお金そのもののエネルギーも廻らないので滞ってしまい、余計お金廻りも悪くなるとも。
(尤も自分の場合、廻すそのお金もあやしいところではありますけれど;)
全ては流すこと、そういうことなのでしょうね。
お金に例えられるお水も然り。
新鮮なお水も長い間その場所へずっと置いておけば、よほどでない限りやはり流れが無い分、良くなくなるのかもしれません。
じっとしておれば、そこではエネルギーが発生しませんので動きようがないということにもなるのでしょう。
自分達でも寒い時、じっとしていればそれこそ寒いばかりですけれど身体を動かすことで中から温もってきますね。
それを自分だけではなく、より大勢の方と身体を動かすことをすれば、それだけでエネルギーも発生し、ともすればお互いのそのエネルギーの
交換ということになるのでしょうね。
なんだ、そういうことか、とこれもまたこうして綴りながら、これまたいつもの如く一人合点しておるところです;。
それでも、『龍』は『流』 これには本当に目から鱗な思いでした。
龍が坐しますとされておる神社等はそのようなエネルギーが流れる場所でもある、だから人間がそこへ参ると何かしら目に見えないパワーを
頂戴するということなのかもしれませんね。
風水的にそのような場所を古から人々は感じ取り、そのような場所へ社寺を設けたのでしょう。
このことは同じように以前にも述べた覚えがありますけれど。
そのような場所で感覚の鋭い方が写真を撮ると、そこへあたかも龍のような光が映り込むというのはこういうことなのかもしれない、そうも
感じます。 
いやぁ、『龍』は『流』 なんだか凄いなとますます感じておる自分です;。

大神からの、人と多く交われはこれも同じ事を繰り返し伝えられます。
いつもそうですけれど、おんなじことを聞かせとかないとこいつ(自分のことですよ;)はいくら言っても聞かないからな、と思われているの
でしょう。
聞くほうも、これまたどうしてか、これ前も聞いたとは思わずにその度、ああそうなんだと感じておるわけです。
どっちもどっち、ということでしょうか。
それでも繰り返して言われることにより自分の中へじんわりと浸透していくように感じます。
お、浸透、これも神道と同じ言葉、しんとう。
どちらも申すようにまさにじんわりと「しんとう」していく感じですね。(自分で書いてどうする;)



                                   


続いて一日の言葉。

 祝詞奏上後 大神の言葉。

      〝   大儀であった(祭のこと)

          そなたに遣わしし 白龍 これより後 そなたと共に 動け(働け)

          そなたが致すこと 人々に 気づきを 与えること それが務めぞ

          宙(くう)は 一つ そなたらは その一部でもある(宇宙が見える)

          不安は 安からず である そう思うことが それに繋がる
 
          安心は 安らかなる心 その心で おるべし  〟


       
      〝   (祭で見た 感じた)神の姿 形 感じ方は 人それぞれである
  
          そのように感じておるなら そうであろう
 
          いずれにしても 数多の神々(存在)が来ておったことに 違いはない  〟


      〝   月読尊(つくよみのみこと) 何故そなたに 姿を現していたか

          それは 闇の大事さを教えるため

          月の光の大事さを 伝えるためである

          今 人間は 夜の闇をも 人々の光で 照らし続けておる

          本来は 無かったことである

          元々 月の光で照らし出されていた世界じゃ
      
          植物も 太陽の光だけではなく 

          柔らかい月の光を浴びて 育つようになっておった

          また 人間も生き物も暗闇の中では 休めよということ
 
          その大切さを 知らせるために 闇はある

          未だ人間は 食べて 寝て 生活をしておる

          休まねば ならない

          それを知らせる為に 闇は 存在しておる

          しかし今は その闇をも自らの作り出した光で 明るくしてしまっておる

          これでは 休めぬ

          殊に 植物は 人口の光を浴びせられておることにより かえって弱ってしまう

          休む時には しっかり休ませよ

          人間の勝手だけで 照らすようなことは あってはならぬ  〟


        
      〝   また月読(尊)は この暗い部分こそが これから大事になってくることを

          知らせておる
    
          目に見えぬ部分の働きが大事である しかと心せよ  〟
 
 雲に浮かぶキリストの姿 チラッと出てくる
       



自分でノートに書いておりましたのをこうして再度此方へ書き写しておるわけですけれど、結構同じことを繰り返しいわれているようですね。
特に月読尊のこと、またそれに関する月の明かり、あるいは暗闇等、昨日もお伝えしたように大極図のあの黒い部分が大事であるといわれた
事と同じかと思います。
明るいだけでは植物は育たない、また月の淡い光も併せ持って育っていくということなのでしょうか。
同じように取り上げられておりますけれど、それぞれの効用というものがあるということなのかもしれませんね。

不安と安心という言葉、それぞれまるで文字の読み下し文?のように言われておりますけれど、言われてみれば、これも然りだなと感じること
ではあります。
安らかでないから不安なのだし、安らかな心でいるからこそ安心、言葉そのままですけれど今一度意味を考えてみることでその言葉の響きが
わかるように感じられます。
そう思うと、日々やはり安心しておりたいものだな、と思うところですね。

祭の際での神の感じ方、受け取り方、これは確かに人それぞれですね。
自分のように賑やかしい神々を感じた者もおれば、なんだかわからないけれど有難さを覚えたという方もおられるでしょう。
目に見えぬ存在ですので、その感じ方はそれぞれあって当然かと思います。
あの場で何かを感じ取った、そのことが大事なのではと、これもまた思っております。



                                   

                                     



                                    




                                    



                                    


ようやっと書き留めておりました言葉、大神のみくじが追いついてきた感じです;。
今日のは無いのかといわれそうですけれど、すみません、今日は御座いません;。
午前中、えっちらおっちら下界まで買出し作業に行っておりましたので、神様のお言葉、みくじを下ろすこともおやすみとさせて頂きました。
また明日は再開致したいと思います。
                                    



                                    
                                    

自分でも読み返して、長いよなぁ、長ったらしいよなぁ、と感じております当ブログで御座います;。
そのようなブログ、相も変わらずのお付き合い頂きますこと、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。
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