京都・㐂むら(きむら)呉服店公式blog〜受け継ぐ着物

創業87年。2013年に家業を継ぐため異業種から転身。2021年に主人も加わりました。お得な商品の紹介や日常を綴ります。

第4話 初めての海外旅行でのショック

2022-10-15 09:00:00 | 父の走馬灯

第4話 初めての海外旅行でのショック!

 第3話でも話しましたが、初めての海外旅行は1978年夏に取引先の会社からタイへ連れて頂きました。

初めての大型飛行機への搭乗です。伊丹から香港経由バンコクでした。飛行ルートを調べていると当時ベトナム戦争でベトナムを横断する飛行が出来ず、大きく半島を南へ下がり南シナ海の上を飛びバンコクへ着くルートでした。機内の雑誌の中の地図にもそのような飛行ルートが載っていたように思います。

香港を飛び立ち海の上を飛行していましたが、暫くすると陸の上を飛んでいました。「あれっ」と思い窓から下を見ると、緑で覆われたジャングルに大きな穴が沢山あいている地域が眼に入りました。ひよっとしてベトナム戦争で飛行機から落とした爆弾の跡ではないかと気がつきました。大変な姿になっている下界の光景が眼に焼き付きました。

後から聞いた話ですが、ベトナム戦争が終わり、機内の座席の前に置いて有る本の内容を変更する間もない極最近に、ベトナムの上空を民間機が飛行できるようになったとの事でした。

初めての海外旅行は、見るもの聞くもの大変なショックを受けました。例えば見たものの一つに日本に有る多くの仏教寺院の建物は木造で暗い感じですが、黄金に輝く多くの仏教寺院の建物と仏像。その時のガイドさんの話で、一般の人々が暮らしている建物は板を張り付けた粗末な住居ですが、そこに住んでおられる国民の殆どの方々は熱心な仏教徒です。昔からの教えで、生きている間に寺院にお金を寄附すると、寄附が多い人程来世は幸せになれるとの教えが有り、寺院にお参りする時に金箔を買い、その金箔を自分で仏像に張り付けお祈りをされるそうです。上から上から張られる金箔で黄金の仏像が出来上るのです。

又、果物でドリアンという名を初めて知りました。カボチャ位の大きさです。現地の方の大好物の果物との事です。確かガイドさんが見本でドリアンを観光バスのなかに説明がてら持って来られました。一個のドリアンで観光バス内が騒然となりました。私もその何とも言えない臭気で愕然となり黙り込んでしまいました。直ぐに外へ持って出られたと思いますが初めて経験したいやな臭気でした。ドリアンを食べてビールを飲むと胃の中でガスが溜まり大変なそうです。

後日、日本のスーパーマーケットでその果物を見つけましたが、強烈な臭気は有りませんでした。輸出用に品種改良をされたらしいと聞きましたが、未だに真意の程は分かりません。

バンコック市内の観光では大きな川を船で移動しました。両岸にはバラックが立ち並び川を行きかう人々に色々な食糧が売られていました。小さな子供達が裸で川に飛び込んで遊んでいました。驚いた事は川の水が汚かったという事です。ガイドさんの話では、生活用水が流れ込みごみが浮かんでいますが、子供たちは病気にかかりませんとの事でした。一番にトラホーム等目の病気はと思いましたが、抵抗力が有り何ともないとの事を聞き驚きました。44年まえの事ですから、今は随分タイの生活全般が変わっている事と思います。(第5話はホロ・ロマーノの思い出話です)

 


第3話 地球儀のプレゼント!

2022-10-08 12:59:01 | 父の走馬灯

遅れまして申し訳ございません。

 

第3話 地球儀のプレゼント!

今から43年前(1979年1月)の事です。

「お誕生日のプレゼントに何が欲しい」と3人の子供に聞かれ即座に地球儀が欲しいと答えました。

丁度1年前に取引先の会社から初めての海外旅行に招待され行く事が出来ました。

秘かに思い続けてきた事は、折角地球に生まれてきたのだから、自分が見てみたい地球の各地の風景。又人間の力によってつくられた建造物やその遺跡。中学校の美術の授業時に教科書の写真だけで習った有名絵画・彫刻等の実物を是非この目で見てみたいという好奇心でした。

初めての海外旅行先はタイでした。日本から飛行機で数時間離れた国ですが、見るもの聞くもの大きなショック(第4話で書きます)を受けました。

初めての海外旅行の体験で、地球の各地を見たい好奇心が一層強くなりました。

当時私にとって海外旅行は夢の夢でした。せめて地球儀を眺めて行きたい国を見つけて満足したかったのでしょう。

子供達に貰った地球儀は直径30cmを超す大きな品です。今でも残っています。地球儀の台の裏に「38歳、お誕生日。お父さんおめでとう」と当時9歳・5歳・2歳の子供の字と名前が書いてあります。夢を抱かせてくれた子供から貰った大切な宝物です。

お陰様で2019年迄の間、行きたかった諸外国へ58回訪れる事が出来ました。今はコロナで渡航禁止。元気な内にあと数か所訪れたい地域が有ります。コロナの終息を願いつつ、身体から好奇心の情熱が失せないうちにとの望を抱いて生きている毎日です。

2日前、テレビから行きたいと思っていたイースタ島の観光が再開されたとのニュース画面を偶然に見ました。まさかと目を疑いました。2023年が楽しみです。

 


第2話 先生も目を開けていた

2022-06-22 14:11:09 | 父の走馬灯

第2話のブログが大変に遅くなり申し訳ありません。頑張って続けますので宜しくお願い致します。

第2話 先生も目を開けていた!

昭和21年(今から75年程前の話)、5歳頃の近所にある幼稚園時の思い出です。通っていた幼稚園は1910年代創立の歴史あるクリスチャン系の幼稚園です。

お祈りの時間が有ります。小さな椅子に腰かけ20人位が円くなって座ります。

先生も円の中には入り小さな椅子に腰かけお祈りの言葉を語られます。

内容は忘れましたが、先生のお祈りの短い言葉が有り、最後の「アーメン」と言い終わる迄は手を合わせ、目を閉じて居なければなりませんでした。

ある時、私は皆がどの様な顔でお祈りをしているのかと好奇心が有ったのでしょう。うっすらと目を開けてキョロキョロと見たのでしょう。

お祈りの後で「エッチャン(私の名前)は目を開けていたでしょう」と言われて私は椅子を下げられました。悪い事をしたと思いましたが、

その時先生も目を開けて居られたから私を見られたのにと思い未だに腑に落ちません。

可愛がって頂いたその先生はすでに居られず、次の世でお会いしてしゃべりたく思っています。

 


四分の堅気と六分の好奇心の人生

2022-03-01 22:51:34 | 父の走馬灯

2月も終わりの土曜日の何時もの昼食時の何気なく「最近お客さんがネットで店の事など見ておられる方が来られるね」と娘と話していました。

「それブログというもんや。お父さんもブログに書いてみたら」と言われました。

「そうやな・・。長いようで短い人生、いろいろな中で81年間生きてきたんやし・・。今更恥もないし・・。四分(よんぶ)の堅気と六分(ろくぶ)の好奇心で過ごしてきた人生・・。」と思い。

「何か書くは・・」と娘に伝えました。

(昨年1月から娘夫婦に店を任せました。少し時間が出来たので、これ迄の人生を振り返ろうと1941年(昭和16年)1月の誕生から(私の走・馬・灯の風)と題し、慣れないパソコンにその時々の写真をアルバムから探し出し、A4用紙に文章と共に書き記しています。現在110ページ。進行中です。)

人生振り返って、人より強かった好奇心が良くも悪くも禍したのかもと思う今日この頃です。

 

【第1話 3~4歳頃の思い出】

隣の畑の大きな防空壕

昭和19年~20年の思い出です。新町北大路上る東側、今の店の1軒おいた隣に100坪余りの畑が有りました。そこに通りに沿って巾1.50m、深さ1m、長さ10m位の防空壕が掘って有りました。上側は畳を被せて有りました。所々に出入り口が開いていました。空襲警報が鳴るとその防空壕へ入りに行きました。

ある昼間に防空壕に入った時に西空の上空を編隊を組んだ数機の飛行機を見た事が有りました。それを狙って地上から砲弾を撃っているのでしょうか。飛んでいる飛行機の遥か下で破裂した弾の白い煙を見た時が有りました。弾が届かない高い所を飛んでいる飛行機に見とれていた思い出が有ります。

又ある夜に空襲警報が鳴り防空壕に入った時の事です。真っ黒な西空にサーチライトの青白い光が何本も南北左右に動き、爆音が響く上空を照らしていました。飛行機を探しているのかと思いました。爆音が小さくなって消え去る迄と暗闇の中の青白い光に怖さを感じ乍らも好奇心で顔を向けていた思い出も有ります。

 

母親に連れられて板切れ拾い

新町紫明通りの北側。当時は師範学校(現在は附属小・中学校建立)の塀の南側に細い道が有りその道にそって疎水が流れていました。疎水の南側は道路に沿って家が立ち並んでいました。そこが戦火の時の緩衝帯として強制疎開になったのでしょう。大きな家が順次壊されていきました。その壊された建物の塀の部分の板切れを拾い、煮炊きものの燃料として使っていました。母親に乳母車に乗せられ板切れを持って帰る為に何回か行った記憶が有ります。

疎水の北側から見ていると大きな2階建ての建物が屋根瓦と柱だけ残し、その家の主な柱に綱を括り付け大勢の大人の人が掛け声をかけ引っ張っている光景でした。家がだんだん傾き大きな音と土煙と共に崩されていきました。そのすざましい光景に乳母車の中にしゃがみ込み乍らこわごわ目を向けていた様子(好奇心)が未だに忘れられません。  

その疎水も昭和28年頃の工事で地中に埋められ、現在は加茂川から堀川通り迄、せせらぎの流れる美しい紫明通りになっています。