以前にも書いたことがある。
雑木林と杉林では全く感触が違う。
雑木林は落葉樹で杉林は常緑樹だ。
常緑樹は年々、枝が伸び葉が光を遮るので地面の滋味は乏しく、そこで伸びる草木も減ってくる。
子供の頃、山で山菜やあけびの実を取ったりしたのだか、杉林ではめっきり取れない。
人が歩いだ跡は踏みしめられて道になる。
山の木を伐ってもなかなかお金にならず、山の手入れをしてみようがないためらしい。
他方、雑木林は秋になると葉が落ち、日光がしっかり届く。落ち葉は堆積して腐葉土になる。
歩くと柔らかくてキモチがいい。
そんな足から伝わる感触を理屈でわかったのは、恥ずかしならが東京、京都と一回りして十日町に戻ってきてからだ。
家から車で20分ほどのところに「好きな雑木林」がある。
十日町だと松之山の美人林がよく知られているけれど、そんな立派なものではない。
国道からちょっと入った道路の脇に200坪に満たないほどのの雑木林。
すぐ横には土砂置き場や会社もある。
その場所だけ残ったのか、その場所を作ったのかさえもわかわない中途半端な大きさの雑木林。
秋で葉の落ちた林は日光が届いてキモチいい。
その先には以前、親戚の家があった。
父親の叔母。とても穏やかなな人で、子供の頃行くといつもサイダーやスイカをご馳走してくれた。
僕の祖母(叔母の姉だが)は働き者のキビシイ人で、なかなかサイダーやアイスクリームは出てこなかった。
中越地震の前までは叔母の子供夫婦(父親の従兄弟夫婦)も一緒にいた。
叔父がとても好きで、十日町に戻ってから、休みの日には用もないのに毎週その家に遊びに行った。
歓待される理由もないのに、いつも歓迎してくれた。
穏やかな豊かさに満たされた家だった。
その雑木林は親戚宅に行く途中で見つけた。
親戚一家は叔父の娘夫婦のいる横浜に転居した。
転居予定の日は中越地震の翌日だった。
地震の日の夜、叔父は車で十日町に来て、母親と家内と三人の子供を被害が少なかったその町の避難所へ連れて行った。
僕と親父は東京に出張で留守だった。
地震の翌日叔父達は予定通りに横浜に行き、空いた所に僕たち一家は地震がおさまるまでの一ヶ月そこで過ごした。
十日町市内よりもずっと被害が少なく、水もお湯も電気も全て使えた。近くの旅館で風呂を借りることができた。
一歳に満たない三男も僕も家内も両親も地震の翌日から暖かな布団で足を伸ばして眠れた。
地震から10年の間に親父の叔母は施設に入り〜痴呆はあるが100歳を越えてまだ元気だ。昔のように穏やかに笑う〜、叔父は亡くなり、
家を解体した。
それ以来、雑木林を通ることはすっかり減った。
「好きな雑木林」であったけれど、そこは叔父の家とセットだったのだ。
久しぶりに通ったその道も雑木林も変わることはなく〜ほんの何年かだ。変わるわけなんかない〜不義理をしていた僕を迎え入れてくれた。
誰のものか知らない小さな雑木林は林の摂理と僕のノスタルジアを深く吸い込んでいる。
雑木林と杉林では全く感触が違う。
雑木林は落葉樹で杉林は常緑樹だ。
常緑樹は年々、枝が伸び葉が光を遮るので地面の滋味は乏しく、そこで伸びる草木も減ってくる。
子供の頃、山で山菜やあけびの実を取ったりしたのだか、杉林ではめっきり取れない。
人が歩いだ跡は踏みしめられて道になる。
山の木を伐ってもなかなかお金にならず、山の手入れをしてみようがないためらしい。
他方、雑木林は秋になると葉が落ち、日光がしっかり届く。落ち葉は堆積して腐葉土になる。
歩くと柔らかくてキモチがいい。
そんな足から伝わる感触を理屈でわかったのは、恥ずかしならが東京、京都と一回りして十日町に戻ってきてからだ。
家から車で20分ほどのところに「好きな雑木林」がある。
十日町だと松之山の美人林がよく知られているけれど、そんな立派なものではない。
国道からちょっと入った道路の脇に200坪に満たないほどのの雑木林。
すぐ横には土砂置き場や会社もある。
その場所だけ残ったのか、その場所を作ったのかさえもわかわない中途半端な大きさの雑木林。
秋で葉の落ちた林は日光が届いてキモチいい。
その先には以前、親戚の家があった。
父親の叔母。とても穏やかなな人で、子供の頃行くといつもサイダーやスイカをご馳走してくれた。
僕の祖母(叔母の姉だが)は働き者のキビシイ人で、なかなかサイダーやアイスクリームは出てこなかった。
中越地震の前までは叔母の子供夫婦(父親の従兄弟夫婦)も一緒にいた。
叔父がとても好きで、十日町に戻ってから、休みの日には用もないのに毎週その家に遊びに行った。
歓待される理由もないのに、いつも歓迎してくれた。
穏やかな豊かさに満たされた家だった。
その雑木林は親戚宅に行く途中で見つけた。
親戚一家は叔父の娘夫婦のいる横浜に転居した。
転居予定の日は中越地震の翌日だった。
地震の日の夜、叔父は車で十日町に来て、母親と家内と三人の子供を被害が少なかったその町の避難所へ連れて行った。
僕と親父は東京に出張で留守だった。
地震の翌日叔父達は予定通りに横浜に行き、空いた所に僕たち一家は地震がおさまるまでの一ヶ月そこで過ごした。
十日町市内よりもずっと被害が少なく、水もお湯も電気も全て使えた。近くの旅館で風呂を借りることができた。
一歳に満たない三男も僕も家内も両親も地震の翌日から暖かな布団で足を伸ばして眠れた。
地震から10年の間に親父の叔母は施設に入り〜痴呆はあるが100歳を越えてまだ元気だ。昔のように穏やかに笑う〜、叔父は亡くなり、
家を解体した。
それ以来、雑木林を通ることはすっかり減った。
「好きな雑木林」であったけれど、そこは叔父の家とセットだったのだ。
久しぶりに通ったその道も雑木林も変わることはなく〜ほんの何年かだ。変わるわけなんかない〜不義理をしていた僕を迎え入れてくれた。
誰のものか知らない小さな雑木林は林の摂理と僕のノスタルジアを深く吸い込んでいる。