昨日は好天の新潟市に。
少し時間があったので新潟市美術館に。
設計は新潟が生んだ巨匠前川國男(幼少の頃、新潟にいたのですが、小学校は東京で出ているので、新潟が生んだと言っていいかどうかも気が引けますがまあ、よいのです。)
深緑色のタイルが重厚な雰囲気を醸し出します。でもこの緑が建物を取り巻く木々の回廊と実に馴染みがよいのです。
(冬も鈍色の空に対して重たい緑も実にバランスがよいです)
目新しいこともなく、装飾も装飾もない建物ですが、「美術館っていうのはこれでいいんだよ」と言われているような気がします。
外を歩く人はいませんが、実に穏やかな場所です。
展示室へのアプローチが微妙に上りになっているのが好きなのです。
今回は企画展「無言館」を観てきました。
無言館の詳しい説明は省きますが、上田市にある美術館です。美術を学びながらも第二次大戦で亡くなった人たちの作品を集めてあります。
入り口にあった挨拶文に惹かれてしまいます。
「ここは戦没者の慰霊施設ではなく美術館なのだ」とあるいは「戦争が我らの記憶から薄れていくこんにち、無言館の存在意義が問われている」と。
知っている画家の名前は一人もありません。もしかしたら戦後の巨匠になり得たひともいたのかも知れません。
画家の名前も知らないのに、絵のキャプションの方に先に目が行きます。
名前、出身地、出身校(多くは東京美術学校洋画科)、軍歴と死因、終焉の地、享年(満州であったり、沖縄であったり、南洋であったり、そして多くは20歳代)絵よりも先にキャプションを追っていました。
絵と軍歴はリンクをしていないはずなのですがそれは切り離されるものではなく、それが美術館のみでなく慰霊施設であるように。
それほど大きな絵はないのですが、どれも重たい色調でどんよりと暗い感じです。戦前の絵の具は茶しかないのかとおもう程。
別に戦時中に描かれたわけではないのですが、どれも重たい筆致です。〜あるいは当時の流行なのかもしれません。
多くは洋画でしたが、数点の日本画の透明感がやけに清々しく見えるほどです。
どれも黒い簡素な額に収まっています。
所々に戦地からの手紙や遺品、使っていた絵の具箱があります。
絵でない何かを語りかけられている、言葉にするのが難しい微妙な感情を生んだ展示でした。
建物を出てから、もう一度、館の外構を歩きます。
軍事郵便もルソン島も銃撃戦も黒い簡素な額も初夏の光が溶かしていくようでした。
少し時間があったので新潟市美術館に。
設計は新潟が生んだ巨匠前川國男(幼少の頃、新潟にいたのですが、小学校は東京で出ているので、新潟が生んだと言っていいかどうかも気が引けますがまあ、よいのです。)
深緑色のタイルが重厚な雰囲気を醸し出します。でもこの緑が建物を取り巻く木々の回廊と実に馴染みがよいのです。
(冬も鈍色の空に対して重たい緑も実にバランスがよいです)
目新しいこともなく、装飾も装飾もない建物ですが、「美術館っていうのはこれでいいんだよ」と言われているような気がします。
外を歩く人はいませんが、実に穏やかな場所です。
展示室へのアプローチが微妙に上りになっているのが好きなのです。
今回は企画展「無言館」を観てきました。
無言館の詳しい説明は省きますが、上田市にある美術館です。美術を学びながらも第二次大戦で亡くなった人たちの作品を集めてあります。
入り口にあった挨拶文に惹かれてしまいます。
「ここは戦没者の慰霊施設ではなく美術館なのだ」とあるいは「戦争が我らの記憶から薄れていくこんにち、無言館の存在意義が問われている」と。
知っている画家の名前は一人もありません。もしかしたら戦後の巨匠になり得たひともいたのかも知れません。
画家の名前も知らないのに、絵のキャプションの方に先に目が行きます。
名前、出身地、出身校(多くは東京美術学校洋画科)、軍歴と死因、終焉の地、享年(満州であったり、沖縄であったり、南洋であったり、そして多くは20歳代)絵よりも先にキャプションを追っていました。
絵と軍歴はリンクをしていないはずなのですがそれは切り離されるものではなく、それが美術館のみでなく慰霊施設であるように。
それほど大きな絵はないのですが、どれも重たい色調でどんよりと暗い感じです。戦前の絵の具は茶しかないのかとおもう程。
別に戦時中に描かれたわけではないのですが、どれも重たい筆致です。〜あるいは当時の流行なのかもしれません。
多くは洋画でしたが、数点の日本画の透明感がやけに清々しく見えるほどです。
どれも黒い簡素な額に収まっています。
所々に戦地からの手紙や遺品、使っていた絵の具箱があります。
絵でない何かを語りかけられている、言葉にするのが難しい微妙な感情を生んだ展示でした。
建物を出てから、もう一度、館の外構を歩きます。
軍事郵便もルソン島も銃撃戦も黒い簡素な額も初夏の光が溶かしていくようでした。