戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

薩土同盟②

2005年03月28日 | 板垣退助こぼれ話
さて、この会談の二日後、中岡慎太郎は薩摩藩の西郷隆盛と連絡をとり、薩摩藩家老小松帯刀の寓居に集まり、会談を持つこととなる。
中岡慎太郎は毛利恭助、谷干城そして、板垣退助を連れてきた。一方は西郷隆盛は薩摩側を代表する人物として小松帯刀、吉井幸輔をもって迎える。

板垣退助は薩摩側の藩士たちに「あなだ方が、僕らの微衷(本心)を諒解するなら、ともに盟約を立てて事に当たりたい。一ヶ月の間に土佐で同志を糾合し、
飛激のいたるを持ってただちに上京する覚悟だ」と告げる。
中岡慎太郎はこれに飛びついて、「板垣退助がもし約束にそむくよう事があれば、僕は割腹する」と誓う。

西郷隆盛はこれには膝をうって喜ぶ。「大丈夫の言、近頃めずらしい快事だ。どうかともに盟約を固めてほしい」と応じる。

いわゆるこの会談がのちに薩土同盟といわれる所以となる。
薩土同盟で中心的な役割を果たした中岡慎太郎は「時勢論」を著したり、陸援隊を組織するなど、板垣退助以上に倒幕運動の中心にいた人物である。

坂本龍馬とともに見廻組に襲撃して落命しなければ、土佐の倒幕部隊を率いた指揮官は板垣退助でなく、中岡慎太郎であったことは疑う余地がないのでは。

そうなれば、板垣退助の運命も大きく変わっていたことだろう。

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