戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

 勝沼の戦い始末

2005年03月10日 | 管理人の勝手な独り言
慶応四年三月六日に勝沼の戦いで破れた新撰組を主体とした
甲陽鎮撫隊は板垣退助らと一日違いの差で甲府の椅子取りゲー
ムに敗れた印象があるが、甲陽鎮撫隊の江戸出発が三月一日で
ある。この日に板垣退助らは下諏訪を発して甲府を目指してい
た。
勝沼の戦いで板垣退助は部隊の一部しか派遣させておらず、
戦力的にも板垣退助のほうが圧倒的に優位であったとろう。
板垣退助は三月十五日の江戸城攻撃を目指しており、甲陽鎮
撫隊は眼中になかったし、
板垣らか甲府を通って江戸へ目指すルートが決定されたのは
土佐の大軍監谷干城の提案らより、二月二十八日のことだから、
甲陽鎮撫隊の派遣を決めた勝海舟も知らなかっただろうし、
甲陽鎮撫隊も板垣らか甲府を目指しているのも知らなかったろう。

一日の差で遅れた甲陽鎮撫隊も仮に板垣退助より早く甲府に
入場できたとしても、板垣退助のことも良く知らない近藤勇ら
は火力に勝る板垣らに勝てる勝算は低いかったでしょう。