戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

美正貫一朗

2005年03月15日 | 戊辰戦争人物小伝
建臣ともいう。土佐藩の高知城下南奉公人町の出身である。板垣退助が甲斐で武田信玄の家臣板垣信形の
子孫を宣伝して、甲斐の領民を集めて断金隊を結成させ、美正貫一朗を隊長となり、板垣退助の別働隊となる。
その後北関東や南奥羽を渡り戦うが、慶応四年七月二十七日の本営にて兵を率いて阿武隈川を渡ろうとしているさいに敵の砲弾に当たり戦死する。二十五歳。


迅衝隊の服装 板垣退助こぼれ話

2005年03月12日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が戊辰戦争のあとに語った談によれば、服装は急こしらえだった部隊であるとことを示す内容である。
「フランス革命時代の義勇兵の状況をきくと全くよく似ている。上下の別もなく、将卒たがいに撹乱し
服装に至ってはまちまちで一定せず、「フロックコート」「セビロ」の如きものをきるのもあれば、伊賀袴をうがちて陣羽織を帰するあり、鳥打帽あり、韮山笠あり、
多くのものは三尺の長刀を腰に横たえていた」
板垣退助が引きつれた迅衝隊は高松城に接収したが、高松藩とは交戦することはなく、また鳥羽伏見の戦いに参戦できないままに京都に入ってから、東征への命令が出ていたころの迅衝隊の様子を語るエピソードである。服装容姿で戦うへきものではないが、板垣退助がその詳細を詳しくかたるほどであったから、
本人には前途多難であったという印象が頭によぎったのではないか。


 勝沼の戦い始末

2005年03月10日 | 管理人の勝手な独り言
慶応四年三月六日に勝沼の戦いで破れた新撰組を主体とした
甲陽鎮撫隊は板垣退助らと一日違いの差で甲府の椅子取りゲー
ムに敗れた印象があるが、甲陽鎮撫隊の江戸出発が三月一日で
ある。この日に板垣退助らは下諏訪を発して甲府を目指してい
た。
勝沼の戦いで板垣退助は部隊の一部しか派遣させておらず、
戦力的にも板垣退助のほうが圧倒的に優位であったとろう。
板垣退助は三月十五日の江戸城攻撃を目指しており、甲陽鎮
撫隊は眼中になかったし、
板垣らか甲府を通って江戸へ目指すルートが決定されたのは
土佐の大軍監谷干城の提案らより、二月二十八日のことだから、
甲陽鎮撫隊の派遣を決めた勝海舟も知らなかっただろうし、
甲陽鎮撫隊も板垣らか甲府を目指しているのも知らなかったろう。

一日の差で遅れた甲陽鎮撫隊も仮に板垣退助より早く甲府に
入場できたとしても、板垣退助のことも良く知らない近藤勇ら
は火力に勝る板垣らに勝てる勝算は低いかったでしょう。



慶応四年【1868】三月六日 迅衝隊ら別働隊、甲陽鎮撫隊を破る 板垣退助日誌

2005年03月06日 | 板垣退助日誌
板垣退助は甲府にて占領処置に当たる一方、迅衝隊、鳥取藩の
別働隊に未明に石和に到着し、午後二時に勝沼に到着する。
小笠原謙吉の第三番隊と谷神兵衛の第四番隊、北村長兵衛の砲隊、鳥取藩の三小隊はそれぞれの部署に配置する。
第三番隊の隊長小笠原謙吉は奮戦して敵将池田七三朗を斬り、谷神兵衛の第四番隊は新選組の加々爪勝太郎を射殺し、
土佐藩は首四級、砲一門、小銃十挺、長持十荷等を捕獲する。鳥取藩兵は大砲四門、小銃六挺を獲得する。
被害状況、土佐藩は三番隊、今村和助、砲隊、小川粥太郎が負傷、鳥取藩は戦死、一名、負傷一名である。

駿府城内の大総督府で東海道先鋒正副総督や参謀たちが軍議を開き、三月十五日を江戸城総攻撃の日とすると決定される。

お知らせ

2005年03月05日 | 板垣退助日誌
板垣退助のブログをアクセスしている皆様へ
毎度ありがとうございます_(_^_)_
さて、四月の更新の件でお知らせです。

戊辰戦争が起きた慶応四年【1868】は
まだ旧暦というか和暦を採用されていたため、
四月の次は閏四月となり、現在にはない月が存在します。
現在の暦と平行して更新していくため、閏月の更新に無理が生じますので、
四月は旧暦の四月と閏四月の同時に更新していきます。
たとえば、四月一日だと、慶応四年四月一日、慶応四年閏四月一日の両方に起きた出来事を
掲載するという形です。

ちょっと混乱するかもしれせんが、よろしくお願いします。

できるだけ、板垣退助が戊辰戦争で活躍している間だけは、
毎日更新していきますので、今後ともよろしくお願いします_(_^_)_

慶応四年【1868】三月三日 板垣退助日誌

2005年03月03日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら迅衝隊は鳥取藩兵とともに上諏訪を出発するが、夜中大雪に遭い行軍に苦労する。

近藤勇ら甲陽鎮撫隊は、先陣が猿橋宿が宿陣する。永倉新八が馬を走らせ、鶴瀬宿に到着して板垣退助らが甲府を目指していたことに知る。

相楽総三らが偽官軍として東山道軍の手によって処刑される。