戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

板垣退助のこと 【1】 管理人の勝手な独り言

2005年03月23日 | 管理人の勝手な独り言

管理人の勝手な独り言

このブログを開設して以来、戊辰戦争開始から板垣退助の動向をつぶさに【?】
お伝えしてきたつもりですが、
ようやく、板垣退助ら迅衝隊は江戸に入ってきたのですが、肝心の板垣退助の顔がなかなか見えなくて、イライラさせているかと?思いっています。【わたしもそう感じています_(_^_)_】


迅衝隊が土佐から出て、江戸に入府するまで結局板垣退助は直接戦闘には加わっていないし、
彼について語るエピソードは板垣退助の明治期に比べて極端に少ないと感じています。

それよりか、谷干城の活躍のほうが注目される。
鳥羽伏見の戦い直前におこった江戸での薩摩藩の焼き討ちの第一報を知らせたのは谷干城であり、
迅衝隊の援兵の奔走や、東山道の総督府軍から離れて迅衝隊単独で甲府への進軍を主張したり、
江戸に入ると情報収集に奔走するなど、なかなか目立つ活動をしているのに気づきます。

板垣退助は総督という立場だったのか、隊の運営に重点を置いていたのか、あまり対外的な活動が目立ちません。

板垣退助が谷干城より目立たない【?】のは、板垣退助が出てくるほど迅衝隊に対して強力な敵がいないという現状があるのでしょう。

しかし、板垣退助ら新政府軍が江戸に入府してからは、これまでのように無人の野を行くかのような敵無し進軍というわけにはいきません。

江戸以外の地域は支配下していない実態や、新政府軍に恭順や江戸無血開城に対して難色を示している旧幕府兵たちも、関東に多く点在しています。

予告めいた言い方になりますが、板垣退助の活躍もしくはその真価が問われるのは、四月以降になります。

以上、板垣退助のこと 【1】というこで、管理人の勝手な独り言でした





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